2006.11.21

読売のカニンガム・インタビュー

ウチは勧誘の関係で、朝日新聞と読売新聞を交互に購読している。ということで、幸いに読売をとっているときに、初来日のマイケル・カニンガムへのインタビュー記事が載った(11月20日付朝刊文化面)。『星々の生まれるところ』に関する内容だから、基本的には先日の講演会と同じだが、カニンガムは現在、小説の第3部にあたる「美しさのような」映画化のための脚本(ナディア人!)やら、D・ボウイとミュージカルをつくる計画(!)だのを抱えているとのこと。ぼうっと聞いていて肝心なところを聞き飛ばしたらしい、講演での(好きな数字である11を使った)「11章から構成される新作」の執筆は、現在抱える仕事の後になるけれど、千年の時を越えるラブストーリーなのだそう。ちゃんと写真も載ってます。

と書いたら、YOMIURI ONLINEに全く同じWeb記事が出ていました→「米が見た「夢」と「現実」~「星々の生まれるところ」のカニンガム氏」(写真も拡大がききます(笑))。講演会に行けなかった方、すごく簡単になっていますが、話の内容はこんな感じでしたよ。

◆おまけ◆11月5日(日)の朝日新聞読書面に掲載された『星々の生まれるところ』の書評。あまり面白くはない書評です。

2006.11.12

年末の大物

日本での紹介の際には必ず、「侯孝賢(ホウ・シャオシェン)作品の脚本家&姉妹(妹は朱天心)で著名な作家」などという言葉で修飾されてしまう作家、朱天文の長編小説『荒人手記』は、白先勇『孽子 げっし』の台湾での出版からおよそ10年の後に上梓され、第1回の時報文學百萬小説奨(首奨)を獲得した(1994年?)。台湾の同性愛文学というと『孽子 げっし』と共に書名の挙がる『荒人手記』。もちろん日本の朱天文研究の第一人者で、『台北ストーリー』中の朱天文の短編『エデンはもはや』なども訳しておられる池上貞子氏の翻訳で、いよいよ12月に発売とのこと。『孽子 げっし』同様に、「いつかは日本語で読める日が来るのだろうか」と、かねてから漠然と「その日」を待ち望んできた作品の1つである。こちらは『孽子 げっし』よりも、かなりハイブロウな様相。手に取る日が楽しみだ。

検索するとすぐに出てくる、『荒人手記』を英訳された方へのインタビュー(翻訳の傑作『荒人手記』の訳者にうかがう)も、技術的な話だけではなく、作品をどう読んだかなどとと尋ねている部分があり、面白い。

国書刊行会のサイトの「これから出る本」では、「親友をエイズでなくした40歳の男が、みずからの無軌道な半生を振り返り、現代に生きる人間の孤独を独白していく。レヴィ・ストロース、毛沢東、蒋介石、フェデリコ・フェリーニ、小津安二郎、成瀬巳喜男……、さまざまなジャンルのテキストを引用しつつ繰り広げられる、家族や性に関する省察。第二次大戦後大陸から台湾へ移住した父を持ち、侯孝賢監督の脚本家として日本でも知られている女性作家・朱天文が1996年に発表し、台湾最大の文学賞を受賞した長篇小説」と紹介されている。

国書刊行会 【新しい台湾の文学】 
荒人手記 朱天文/池上貞子訳 予価2400円(ISBN4-336-04532-1)
12月刊行予定

2006.11.09

遭遇報告

「近況」(右サイドバー)に書いていたのだけれど、思い出すまま書いていたら長くなってしまったので、中央に移動。

マイケル・カニンガムの講演会には開演後40分遅れで到着。半分諦めて行ってみたけれど、入場させてくれて感謝。でも、前半の本人の講演部分は残り15~20分程度しか聞けなかった。

作家の印象は、あの、いつも本の扉に印刷されている結構濃い目の写真と全く違い、とても柔らかで知的な雰囲気で、大学の先生のよう(実際にどこかで教鞭はとっているのか、作家専業なのかは自分には不明。どこかで教えているという情報は見たことはないが……)。席が遠かったので顔までは余りよく見えなかったが、落ち着いた年齢なりの全体的な印象とは裏腹に、表情などは、非常に若々しいように思えた。声も穏やで優しい。顔が似ているわけではないけれども、ダラス・ロバーツのジョナサンが年齢を重ねて精神状態が安定した……みたい(笑)な感じだ。

作家観や作品に対する考え方は、自分が思っていたころに近かったので、とても納得がいった。『星々の生まれるところ』で、ホイットマンの詩句を登場人物に語らせた意図というのが、とても面白かった(講演会がらみの、この辺の話については、核心に迫れるかどうか全く自信はないけれど、本の感想と合わせて改めてきちんと書きたいと思う)。

ナディア人の外見をトカゲにしたのは、「エイリアン」を登場させたかったことと、3章(「美しさのような」)を執筆していたイタリアの投宿先にトカゲがいて、書きながら日々関心を持って観察していたからだと、本当か嘘かわからないが、楽しそうに語っていた。

作品が3部構成だったり、主要登場人物が3人だったりするのは、3が好きだから。3は2よりも広がりがあって落ち着きが良い、というようなことを言っていた。11も好きだと……(笑)。

対談相手の(というよりもインタビュアーに近い感じだった)山本容子氏も、『星々……』について、読み返すと「初めて読むような」素晴らしい輝きを放っている部分に出会うと言っていたが、それは彼の過去の作品で、自分も都度感じてきたこと。ゴツゴツと消化しにくく、けれどしなやかな今度のこの小説は、その「ゴツゴツ」故に、もしかしたら読めば読むほど、多様で、鮮やかな展望をもらたしてくれるのではないかなと、そんな感じはしている。

『星々……』の文体については、3つの章でかなり意識して変えているのだそうで、1章は話の舞台(ホイットマンの生きた産業革命直後)に合わせた古い言葉を使い、2章はいわゆる探偵物の文体で、3章は飾らない平易な言葉でストレートに書いたそうだ。そのあたりを意識して読み返してみると、また面白いだろう。2章のミステリのような文体というのは、邦訳からも感じられた(もちろん、内容がミステリあるいはサスペンス系の話なので、文体以前のことなのかもしれないが……)。

文章を書く上で、カニンガムの師にあたる人から教えられた方法は、書いた文章を読み直し1行1行評価する、というやり方だそうだ。評価はAとB。自分で良く書けたと思うA評価の部文は全て削除し、「悪くない」程度のBの方を残せと……。Aの文は、物語にとっては、これみよがしな作家の自信過剰・自意識過剰部分でしかない。文章はあくまでも物語のしもべでなければならない、と……。でも、詩を愛し、本当は詩人になりたかったというカニンガムの小説の魅力は、単なる物語のしもべではなく、もしかしたら平凡すぎる物語に輝きを与える言葉の連なりとしての文章に寄るところは大きいと思う。もちろんそれは、「つくりすぎ」た言葉を削ぎ落とし磨き上げるからこそ生まれる「輝き」なのかもしれない。

9日に東大で行われる講演のタイトルでもわかるとおり、カニンガムは「過去のどんな偉大な文明も滅びたように、現在のアメリカの繁栄が先々まで続くことは有り得ない」と言う。9・11以降のアメリカ(を中心とした世界)は確かに変わったけれども、体制とか文明とか国というものは、時の流れの中で栄え滅びゆくものであり、そして個である人々は日々を生き、常に前(未来)に向かって進んでいることに変わりはないと……。

【追記】
傍流点景さん(←「さん」付けというのも何だか可笑しいが……)のレポートと合わせると、もう少し良く、当日の雰囲気が伝わるかと思いますのでリンクさせていただきます。
蜥蜴の紳士

『星々の生まれるところ』のショート・インタビュー(英語)→"Man of THE HOURS"

2006.09.25

額面以上

カズオ・イシグロの『わたしを離さないで』について、感想を書くつもりはなかった(今も書くつもりはない)。面白いものが書けると思えないからだ。

この小説は特に、いろいろなモチーフを含んでおり、それをどう受け取るかは自由なのだが、エンタテイメントではなく「文学」として提示され、それを読む「一般読者」が存在する以上、「特殊な世界」が非常にリアルに細やかに描かれているとはいえ、それは「私たちのこと」を書いているとは考えられないだろうか?

だから、読後の感想は変わったものでは全くなくて、どんな話でも、結局自分は「人間(自分)とは何か」とか、「人生とは何か」とか、「登場人物は自分と同じじゃないか」という受けとめ方になってしまうのだなと、自分の毎度おなじみな感じ方にうんざりすることの方が、この小説の内容についてどうの、というようなことよりも大きかった。最近何を見ても何を読んでも同じ感想になるのは、年齢とともに頭が固くなってきた(=頑固になってきた)証拠かもしれない、などと思っていたのだった。

でも、みんながみんなそうではなかった。だから、こんなことを書いてみたのだが……。

「文芸書」のくくりのなかで売れ続けているこの本の、日本でのヒットの理由は、(ミステリではないが)ミステリの仕立てで、本の中で与えられている謎が徐々に明かされていくところにあるのではないかと思う。アマゾンのレビューなどを読んでも、「特殊な世界を見事に描き出した胸をしめつけられる小説」なんかじゃなくて、「オレらみんなのことを書いた小説」だというとらえ方をしている人は、3人に1人ぐらいである。それ以外の人々は、あの異世界をそのまま受け入れ、主人公に感情移入したり、反発したりしながら、額面どおりの物語に感動しているかのようだ。

この本を読んだ後で頭に浮かんだのは、五木寛之の『人生の目的』(←読んでないけど)という本のタイトルだった。たぶん、新聞広告のキャッチだったかもしれない。

「人生に目的などない」

自分もそう思っている。人の生は、海に浮かぶ泡のように、生まれては消えるはかないもので、ひとたび生れ落ちた人間は、必ず無に帰す人生の虚無感と戦いながら生きる。そして、生きることこそが尊い。我々と、『わたしを離さないで』の登場人物たちと、一体どこが違うというのだろう。

芸術は、上梓されたところから作者の手を離れる。その解釈に正解などない。けれど、どんな「作品」であれ、それが人間を描いているなら、「ある別世界の出来事」として受けとめるのは片手落ちではないのか。『ブロークバック・マウンテン』を、20年の愛の物語だなどと括ってしまう無神経同様に……。エンタテイメントだって、優れたものは、エンタテイメントがつくりだす世界の外にまで、考えを及ばせる力がある。(日本人だけなのかどうかは知らないけれど)、表現されたものをそっくりそのまま受け容れがちなのは、やはり、テレビ放送50年の人間の日々の訓練の賜物?

2006.09.18

星々の生まれるところ・続報

10月5日『星々の生まれるところ』(集英社)の刊行記念ということで、著者マイケル・カニンガムの講演会があるもよう(9月17日朝日新聞朝刊掲載の集英社の広告より)。

11月8日(水)18:30~
時事通信ホール(東銀座)
特別ゲストは銅板画家の山本容子氏

ウエブでの申し込み先は
http://www.shueisha.co.jp/hoshi

てことは、来日するってことは、きっとどこかの書店でサイン会とかやるんだろうなあ。

2006.08.29

星々の生まれるところ

以前、雑記事の中で書いたことのある、「酷評されていた」マイケル・カニンガムの新作 "Specimen Days"が、『星々の生まれるところ』というタイトルで集英社から10月に発行される。南條竹則訳。

日本語での内容紹介は、「本やタウン」の予約ページが最も詳しいようだ。3部構成でこんな感じっていうのは知っていたけれど、日本語で改めて紹介されると、こりゃまたほとんど『めぐりあう時間たち』と同じようなつくり。ホイットマンが3パートをつなぐ、「SF版めぐりあう時間たち(ゲイバージョン??)」という感じ?

Specimendays

画像は原書表紙→amazon

2006.06.19

エディンバラもしくは狐の祝言

亡くなった人の魂が別の人に乗り移って何かの形でよみがえる話とか、難病や事故で記憶を失っていく話とか、映画でも小説でも、最近うんざりするほど見かけるそんなストーリーには、よほどのことがない限りまず興味は持たない。まあ、ブランドン・ラウスのようなスペシャルな美形俳優が出演するとか(←お前のスーパーマン新作への興味はそこだけなのか)、別次元のおまけがつけば話は別だが……(笑)。

Edinburgh2エディンバラ・埋められた魂』(アレグザンダー・チー著、村井智之訳/扶桑社刊)は、まさにそのあたりの理想をかなえた小説である。つまり、死んだ人がよみがえるような超常的なことは起きないし、主人公の苦悩と悲しみが全編を覆いつつも、唐突な交通事故にあったり病気になったりはしない。少年時代の失恋と、ある悲惨な事件で傷ついたゲイの若者の、迷える半生(10代前半から30代にかかろうという期間)を、淡々と一人称(一部二人称)で描いた青春小説で、登場するのはほとんど美形の男の子たちばかりだ。

しかし、「美形の男の子たちがぞろぞろ」というのは、どう考えても嘘臭い。「初見」の印象が、一時よく見かけたラッセンの絵のような商業アート的な、何か薄っぺらな美しさを伴うものだったのは、主人公を含めて出る人出る人きれいな若者ばかりであったことと、何よりもこの小説の核である前半の少年時代が、少年合唱団を舞台とし、ソプラノの少年が同じパートの少年に恋をするという、昔の少女漫画まがいの設定(と感じるのは、「24年組」以降の少女漫画を読んで育った日本人特有の病弊だが……)であることによる部分が大きいと思う。

主人公は、韓国移民の両親の元に生まれた父と、スコットランド系の母を持つ、アフィアス・ツェー(通称フィー/名字は、チェ・ミンシクやチェ・ジウと同じ「崔」だろうか?)という米国人少年で、平ったく言えば、彼の初恋から始まる男性遍歴を追った話に過ぎない。彼の「初恋」は実らず、その青春期は悲しみと死に彩られているのだが、そもそも本人も「コサック人のようにエキゾチックな黒髪の男前」だからして、本意はどうあれ、定番の「実らない初恋」以外は、だいたいのところ「思うとおり」のラブアフェアーが展開し、その登場人物たちの美少年ぶりハンサムぶりとあいまって、アニー・プルーの爪のあかでも煎じて飲ませたくなるぐらい、嘘臭い。そして甘い。

ところがこれが不思議な小説で、いやそれは自分の読み方がいい加減なだけのことなのだが、読めば読むほど、比喩の相似や対照を発見したり、書かれた言葉の裏にある意味の深さに気付いたり、表現の美しさと新鮮さに目を見張ったり、それはまるで『この世の果ての家』のように、何度も読み返しているのに、その都度初めて出会う部分に引きつけられ、本を手放せなくなってしまうのである。

時系列に並んだ出来事の羅列――そんな一見単純な世界の狭間や裏面に、本作が処女作である作者が力いっぱいに仕掛けた、重層的な小説世界を形づくるための様々な描写が息づいている。ストーリーだけを追いかけてしまえば、それっきりで気付かずに終わってしまうほどさり気なく自然に……。そして読めば読むほど、良質の小説を読んだときに必ず感じる、響き合い重なり合い反発し合う、いくつもの言葉のイメージの織物が頭の中に織り上がっていく、そんな感じが強くなる。

中国だったか、東南アジアだったか忘れたが、1枚の布の表と裏とに全く異なった図案を刺繍する高度な工芸技術がある。この小説の魅力は、傷ついた若者の青春の物語という表の図案の裏側に、いくつかの寓話的な挿話や、金色やブルーといった色彩、そして火、水、光といった自然界の物質のイメージによって主人公アフィアスの心象風景の抽象画が描かれており、悲しみのトーンに統べられながら、その表と裏とがはためき翻り、読者の前に交互に顕現するところにある。

小説のタイトル『エディンバラ・埋められた魂』は、高校生になったアフィアスがアルバイトで手伝っていた歴史研究家の所有していた14世紀の書簡から名づけられたもので、それは、欧州全土をペストが覆った時代に、それ以上の流行を防ぐために街ごと埋められたエディンバラの地下でまだ生きていた男が、残り少ないろうそくの火を頼りに当てどなくつづった手紙である。手紙を読んだアフィアスは、遠い時を越え彼の元に届いた魂の声に感応し、自らもまた自分の住む米国メイン州ケープ・エリザベスの街の丘に、埋められた地下の街とその中で命の叫びをあげた男を思いながら、穴を掘る。このエディンバラからの書簡は、主人公の内面を表す重要な挿話の1つである。

そしてもう1つ、この小説を支える重要なエピソードが、日本でも伝説や謡曲として有名な「玉藻の前(玉藻前)」の話である。玉藻の前は、九尾のキツネの妖怪が変化(へんげ)した美女で、日本では最後は殺生石になったことになっているが、韓国でも九尾狐(クミホ)の伝説として存在する。この九尾狐(きゅうびこ)は、元々中国(を発祥とし)、インドで広がり、韓国や日本にまで伝播したものだという。小説の中でこの伝説は、妖怪として人に対立する魔物であった玉藻の前が、韓国と日本の間にある島に渡り、そこで人間の男を愛し、人間の子どもを産み、夫の死とともに自らも生きたまま火の中で焼かれ、永遠の命を絶った話として紹介される。

人に姿を変えた玉藻の前が、唯一自分の中に残していた、妖怪(キツネ)としての名残りの赤い髪。アフィアスが父からこの物語を聞くのは、彼の黒髪の中に1本の赤毛が見つかったといった、誰にでもあるような、ちょっとしたきっかけからだった。「人間の男を愛した悲しい魔物」――だが彼は、セクシュアリティや自分の中に存在する2つの大きく異なる民族の遺伝子のために、外側から強制的に感じさせられてしまう自身の特異性によって、自分を「玉藻の前」に重ねていく。もちろんそれは、彼ら韓国人の血を引く男の子たちが皆、玉藻の前の忘れ形見の、妖術を教わらずに人間になってしまった子どもたちの末裔なのだという、父から聞いた話に基づいてもいる。

東洋のキツネの伝説でも、何百年も前の欧州の話でもなく、アフィアスの祖父の時代、太平洋戦争の時代の、日本人には辛いエピソードも、冒頭から登場する。後に米国へ渡り韓国系アメリカ人1世となった祖父の6人の姉たちは、戦時中、日本軍に略奪され戻ることはなかった。祖父自身も、日本語を国語として教育された世代である。古い家族写真にしか残っていない、美しい6人の姉たちに対する祖父の想いや、押し付けられた言語によって生じた自己表現への口ごもりは、アフィアスの、失った親友への想い、自分の中の半分のルーツへの不思議な懐かしさやもどかしさと重なり、物語の通奏低音の1つとなっている。

Edinburgh1これらの裏面から小説に厚みを与えるエピソードのほかに、表側のアフィアス自身の物語として最も重い出来事が、少年合唱団の時代の悲惨な事件(事実)である。その事件(事実)は、初恋の相手である親友を失う原因となっただけではなく、アフィアス自身被害者であったにもかかわらず、被害者としての心の傷の上に加害者側の罪悪感をももたらす、彼の苦悩の生の源でもある。

小説の中には、引用して紹介したいような表現が沢山あるのだが、どれもがほかの部分と繊細にからみあっているので、なかなか一部だけを切り離して取り上げることができない。合唱団で歌う少年アフィアスの音楽と声への思いをつづった部分は素晴らしい。「偉大な芸術なら、僕は音楽を通して充分に味わい尽くしていた」と後に回想するほどに、歌うことの何たるかが精魂込めて表現されている。それでも敢えて1つだけ、好きな1節を取り上げるなら、それはアフィアスが「一生の仕事」と出会ったときの1文になる。

声変わりとともに音楽から離れたアフィアスは、美術の道に進む。デッサンの提出課題として、彼と同じボート部のメンバー5人をモデルに、各々の裸体デッサンを描いた。彼にとってそれは、かつての歌のように「この心の中にあるものを表に出すこと」だったが、作品は「ポルノだ」と教授に切り捨てられてしまう。その提出課題を燃やしたのは、陶芸専攻の学生たちが、窯から取り出した作品を一時的に置く、熱さましのための紙くずを入れた缶の中だった。ふらりと訪れたその場所で、彼は陶芸と出会う。親友だった初恋の相手を火の中で失った喪失感と自責の念で、死にとりつかれ、夢遊病者のように生きる日々。成形した土を火に入れ、窯の前でひたすら待つだけの、陶芸専攻の学生たちを見つめながら、彼は思う。

「この世の中には、火の中から戻ってくるものもあるのだと」。(本より引用)


そして彼自身も、とりつかれ続けた死の「炎」の中から生還する。「水」の中からやってきた恋人とともに生きることを選ぶことで……。


【本筋に関係があるかもしれない、ないかもしれないポイント】

●アフィアスの育ったメイン州。メイン州といえば、レフコートの『ニ遊間の恋』で恋人たちが、「どこにあるかも知らないけれど、行ってみたい」からというだけで逃亡先に選んだ場所だったりするのが記憶に残る。米国の東海岸で、カナダと国境を接する最北部の州である。

●アフィアスは、1967年生まれの作者アレグザンダー・チーとほぼ同じ年齢設定。12歳の夏、合唱団の仲間と見にいくのが、オリビア・ニュートンジョンとジーン・ケリーの出演した『ザナドゥ』(1980年作品)。韓国系アメリカ人であるということも同じで、主人公はあくまでも創作されたキャラクターではあるだろうが、作者自身を投影した部分もあると想像する。映画の題名では、後に『アナザー・カントリー』(1984年作品)が登場する。

●ここまでの説明では、芸術至上主義か耽美主義の小説のように思えてしまうかもしれないが、人権運動(から主人公が遠ざかった理由)、エイズ、電話相談、新しい家族の形といったゲイ文学の柱であるテーマも、さりげなく、あるいはきっちりと押さえられている。アフィアスには、10代のころ、自分の性的指向をどうしたらいいかわからず、銃で頭を撃ち抜いて死んでいった友人がいた。その10数年後、アフィアスの教え子は、恋愛の対象が同性であることを、悩み相談のホットラインに打ち明ける。もちろん個人差が大きいだろう。現にアフィアスは生き残った。だが、80年代前半と90年代後半の状況の違いが、そのあたりからもうかがえる。

●合唱団の指揮者であり、小説のキーパーソンの1人であるビッグ・エリック(成人男性)に勧められ、アフィアスが読むのが、メアリ・ルノーの" Fire from Heaven (天からの火)"。アフィアスは、「どうしてビッグ・エリックがその本を読ませたかったのかすぐに理解した。それはアレキサンダー大王がまだ十代の頃の話で、年上で大人の教師と関係を持つという内容だった」。(本より引用) ビッグ・エリックは、次は『アレクサンドロスと少年バゴアス』(小説の中では原題の「ペルシャの少年」になっている)を読めと言う。青年期に入り混迷の中にいるアフィアスが、図書館で手に取り、読まずに戻すのもまた、『アレクサンドロスと少年バゴアス』だ。

●ずっと、主人公として語り続けてきた一人称のアフィアスが、語り手を交代する章がある。1つは、同じ一人称だが別の登場人物が語る章で、そこではアフィアスは登場人物の想いの対象となって描かれる。また、終盤のアフィアスの一人称語りの章の中に、3箇所ほど、二人称の語り手が、「君」としてのアフィアスの行動を、神の視点から物語る短章が挿入されている。この、アフィアスを「君」と呼ぶ語り手は誰なのか。3つの短章は、どちらも前章でアフィアスの初恋の親友(ピーター)の写真が取り出された後に挿入されているので、ピーターなのかとも思う。でも、ピーターはアフィアスを「お前」と呼んでいて、「君」などとは決して言わなかった。

その二人称語りの短章の内の2つに、全く同じように書かれているアフィアスの自問の言葉がある。「なあ、教えてくれよ、俺がしたことを。俺はどうやってここにたどり着いたんだろう」(本より引用)。それは、絶望と虚無に飲み込まれそうになりながら、おぼつかない足取りではあるものの、何とか自分の人生を歩もうともがく、主人公のはかなげな足音のように聞こえないだろうか。

●ラストで、登場人物たちが交わす挨拶の「よう」。原語では何と言っているのだろう。「よう」は既に、韓国語のキツネを表す言葉として説明されている。実はキツネというのは、日本では「ずる賢い」などといったマイナスのイメージで比喩に使われたりすることが多いが、韓国では「賢く美しい」プラスイメージの動物なのだそうだ。ラスト直前で触れられた玉藻の前についての一節が、結びの台詞である「よう」を、何だかキツネの挨拶のように思わせる。

「狐がべつの狐と結婚すると、そのわざわいは丸一日、影を潜めるという。日本人はそれを狐の嫁入りと呼び、その日は太陽が照るかたわらで雨が降ったりする。それが幸運のしるし」。(本より引用)

「よう」と挨拶を交わした登場人物たちが、朝の光の中に落とした影には、ふんわりと、ろうそくの炎のような形をしたしっぽがついていたかもしれない。


※原題は"EDINBURGH"。「埋められた魂」は邦訳版につけられたサブタイトル。上記の中で引用したすべての文章は、扶桑社発刊の『エディンバラ・埋められた魂』(アレグザンダー・チー著、村井智之訳)による。

2006.05.22

ホリングハースト TVドラマ化

いつも読ませていただいている「見てから読む?映画の原作 」に、先週出ていた情報。

スイミングプール・ライブラリー』(早川書房刊)の著者アラン・ホリングハーストの、2004年のブッカー賞受賞作"The Line of Beauty"が英BBCでドラマ化され放映が始まったそう(脚本はアンドリュー・デイヴィス!)。

"The Line of Beauty"は邦訳では出ていないので未読だが、『スイミングプール・ライブラリー』はとても厳しく辛い話だった。

BBCのドラマのホームページはやたらときらびやかなのだが、これもまたきつい話なのだろうか。DVDにでもならない限り、見られなさそうだ。せめて日本語訳の本が出てくれれば……。

2006.04.18

文庫本とチョコレート

中高生のころは、辛いことがあると500円持って本屋に行き文庫本を選び、帰りに(コンビニなど存在しなかったので)お菓子屋でチョコレートを買った。好きなチョコレートを食べながら好きな本を読んで、嫌な出来事を忘れようとしたのである。10代のころには、薄手の文庫本には、まだ200円前後の価格のものが存在した。だから500円あると、下手をすると文庫本が2冊買えるようなこともあったのだ。そのときはチョコレートにまでは予算が届かなかったかもしれないが……。

そんな古の習慣を思い出す商品が発売された。

キットカット・クリスピーに短編小説が!? 文庫本パックが発売!

キットカット・クリスピーのサイト

「文庫本パック」の作品には、残念ながら文学の香気が漂ったりはしていないが、まあそんなことはどうでもいい。本とチョコレートというのは、どちらも実生活には直接的には無用のもので、「愉しみ」の極地である(この2点を携えて「テツ」(右サイドバー参照)に乗っていたら言うことなし)。さらに酒の類が加われば、それはもう天国なのだが、どうも自分はアルコールが入った状態で文字に向かうと白河夜船になってしまうため、残念ながら、酒と本という取り合わせは有り得ない。というわけで、チョコレートと文庫本というのは、自分にとって昔からとても特別な、別世界へ行くためのツールなのである。

このチョコレートの本体である「キットカット・クリスピー」については、大好きで楽しみに読んでいる甘い物系ブログ「男、甘道マッシグラァ」さんに、非常にツボな紹介エントリがあった。ここの書き手の方の「夢のキットカットCM」(七人の侍バージョン)というの、自分も見たいぞ。

2006.01.14

集英社文庫『ブロークバック・マウンテン』2月17日発売

E・アニー・プルーの原作が、集英社文庫にて『ブロークバック・マウンテン』というタイトルで2006年2月17日に発売予定(集英社のサイトより)。ああ、ハードカバーじゃなくてよかった(通勤読書にハードカバーはつらい)。訳は、プルーの『オールド・エース』の訳者でもある米塚真治氏。

でも、まさか、よもやまさか、1編だけじゃないだろうな、これ……。「短編集」だろうな~。"Close Range"の短編全部収録されているんだろうな~。されてなかったら、怒るよ。といいつつ、実はこの400円という価格とタイトルに、「短編集」ではない匂いを感じ、かなり諦め気分の自分である。ワイオミングの11の物語を全て日本語にしてくれるのは金原さんだけなのか!(笑)→自分の記事

まあとにかく、彼女のほかの作品を読んでいない方、ぜひこの機会に『ブロークバック・マウンテン』で、その独特の文章世界を味わってください! もちろん、映画を見てからでもいいでしょうが……。


通勤読書といえば、電車やバスの中で、側に来た人が読んでいる本のタイトルを予想するのは、ちょっとした楽しみでもある。中がちらっとでも見えればその字面から、中が見えなければ装丁などから……。

先日は、大好きな『ドクトル・ジバゴ』のジュリー・クリスティのような髪型をした若いお嬢さんが、自分の立っている前の座席に座って、それは熱心にひざの上のハードカバーに視線を注いでいた。彼女の髪型だけでも自分的には好感度大なのだが、ハードカバーを真剣に読んでいるとなれば、さらに興味が湧く。本の上の文字に目をこらしてみる。するとそこには「オカン」の文字。ええ゛ーー。リリー・フランキーかよ~。

幸運にも、彼女はラストページを読んでいたらしく、その場で自分の予想の当たり外れを確認するチャンスを得た。奥付の文字はもちろんあの大ベストセラー。読んではいないが、別に『東京タワー』に恨みはない。ただ、せっかくの「知的な美女風」も、ベストセラー本を読んでちゃ台無しだと、偏屈な自分はがっかりしたのであった(笑)。え、大きなお世話?