2006.12.24

正月らしく

地上波で放映予定、『アレキサンダー』。1月1日24:50~(TBS)。深夜枠……。

で、たまたまそれとは全く関係なく、『運命ではなく』(ハンガリー系ユダヤ人ノーベル賞作家イムレ・ケルテースの原作小説の映画化)という映画の情報を探していたら、見つけたコダックの日本語サイトの中に、『アレキサンダー』の撮影についてロドリゴ・プリエトが専門的な話をしている記事を発見。
『アレキサンダー』(アメリカ)
壮大なスケールで描くアレキサンダー大王の生涯

少なくとも、ここでプリエトが言っている「観客は熱と汗とほこりを感じ、映画を通して場所と時間を経験するべきなんだ。単なる伝説上のアレキサンダーだけでなく、彼の考え方も共有する必要がある」という点は、かなり良いところまで行っていたと思うが……。

「ガウガメラの戦いについてはオリヴァーがずっと黄色い砂ぼこりのことを話していたんだ。そのシーンをモロッコで白色光の下で撮影したときには、砂ぼこりと太陽両方の感じを伝えるために、タバコ色のフィルターを使った。暖色の映像なのに何となく攻撃的で、見ていて不安になる感じなんだ」

「アレキサンダーの死の直前に行われた戦いの重要な場面で、プリエトはストーンに、史実的な表現からシュールレアリズムに転換することを提案した。「この場面の現実感には別の方法でアプローチできると感じたので、赤外カラーで撮影した。結果は奇妙な幻覚みたいになった。植物がピンクやマゼンタに、血が黄色になり、突然映像ががらりと変わって現実と完全なファンタジーが一体になる」

映像処理が映画の物語表現においてどれほど大きな意味を持っているか、頭に焼き付いている具体的なシーンを挙げて語られると、素人にもいくらかは理解ができる。クリストファー・ドイルの本などでもよくこんなことが書かれているけれど……。

撮影中、プリエトが悪夢に悩まされたというのが、どんな悪夢なのかを考えると(失礼だが)面白い。

ちなみに探していた映画『運命ではなく』は、原題は"Sorstalanság "(英題"Fateless")という2005年のハンガリー/ドイツ/イギリス合作映画。『アレキサンダー』と同じコダックのサイトの記事はこれ。撮影のギュラ・パドスは、この作品でヨーロッパ映画賞の撮影賞を受賞している(エンニオ・モリコーネが作曲賞を受賞)。ベルリン国際映画祭(2005年)でも上映されている、いわゆるホロコーストものだが、いつも(一方的に)お世話になっている、すみ&にえさんのすみ&にえ「ほんやく本のススメ」では原作について面白い紹介がされている→「不届きにもアウシュヴィッツの脱神話化に成功した」一筋縄ではいかないホロコースト小説。これならば、読んでみたいと思う。

で、何でこの映画を探していたと言えば、アノ人がイギリスの軍人役で(多分ちょっぴり)顔を出しているからで……(笑)。そうそう、同じギュラ・パドスが撮った『ホテル・スプレンディッド』も、出演作だっけ。

大王つながりといえば、ほんの主観的なものだが、『レイヤー・ケーキ』の後半に、まるでコリン・ファレルとジャレッド・レトのような麻薬中毒者が並んで登場する。もちろん本人たちより多少見場は悪い。役柄も笑えない(笑)。

このところは、"Infamaous"の、ボンド兄貴とは程遠い、下の「どことなく気色悪い犯人」像に魅入られている。(そうそう、きょう本棚をかきまわしていたら、大昔に見た『名探偵登場』のパンフレットを発見。何とこの映画には、トルーマン・カポーティ本人がメインキャストで登場していたのか。全然記憶になかった)

Infamous1Infamous2

では、画像とともにメリー・クリスマス。

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2006.09.13

オリバー・ストーン版 第3バージョン?

"Director Oliver Stone is planning to release a third version of his failed "Alexander" epic released in 2004"

えええ~~! 本当?

まだ詳しく読んでいないのでわかりません→ソース

ところで、『ワールドトレードセンター』ってどうなんですかね?


【追記】
"Alexander 3rd version by Oliver Stone" は、リリース日程こそ未定のようですが、信憑性はありそうですね。監督が言っているんだから、間違いないか? 3時間40分バージョン。がんばって編集してくれ、監督。

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2006.08.15

赤像式ふくろう

Fukurou
2週間前に出かけて、余りの混雑に入場する気になれず、『ゲルマニウムの夜』でお茶を濁した「ルーヴル美術館展~古代ギリシア芸術・神々の遺産」。今回も大混雑だったが、もう公開日が残り少ないので覚悟を決めて芸大美術館まで行ってきた。ルーヴルなどという大メジャー美術館の名を冠した展覧会など、行くものではないことはよ~くわかっているのだが、最も有名なあの大王の像を、初めて間近かに見るチャンスを逃すわけにはいかないということで、とても芸術と対峙するような環境ではない夏休みの大混雑の館内を、とはいえ芸術がわかるのかお前に……と言われてしまえば返す言葉もないけれど、とにかく耳を塞ぎ目を瞑りながら、歩いてきた。

幸いなことに、芸大美術館であるのでさほど大規模ではなく、思ったほど疲れず飽きず、なかなか楽しく見られたのだった。しかもバリバリのギリシャである。大理石の、完璧な美しさを持った人型のオンパレード。美神たちや、神々しいばかりの肉体美の青年像、はるか昔の市井の人々の暮らしが見えてくる様々な年代の人々の墓碑、ユーモラスな演劇用の仮面、有名なあの哲学者、あの詩人、あの劇作家たちの頭部像(ソクラテス、プラトン、アリストテレスが並んでいるところは、その「顔」の違いに性格の違いを想像したりして妙に面白かったし)、最後には、ルーヴル美術館の宣伝を兼ねた、2つのヴィーナス像(今回は来なかったミロのヴィーナスと、展示されていたアルルのヴィーナス)の様式の違いを解説した短い3D映像も上映されていて、非常に面白かった。

中でも特に気に入ったのが、上に貼った画像の壺。「赤像式オイコノエ ふくろう」。

この赤像式の陶器は、「ベルリンの至宝」展でも登場していたが、日本人にはこの色彩は、どう見ても漆器である。手で触れてみないことには、陶器だとは信じがたいのだが、とにかく黒地の陶器に赤い彩色の図案を描いたものが赤像式というものらしい。逆に赤地の陶器に黒で図案を描いたものは黒像式で、こちらの方が赤像式よりも先に歴史に登場する。そんな、神話の場面や、人々の生活風景、芝居の1シーンなど様々な図柄の赤像式や黒像式の陶器が、いくつも展示されていた。

オイコノエとは、大きな酒器から小さな酒器へワインなどを注ぎ分ける容れ物のこと。容器は、用途と大きさによって皆、名前が異なっていて、それがいくつもいくつも展示されているものだから、しまいには、しばしば登場する容器の名前を覚えてしまった(←すぐ忘れました)。映画『アレキサンダー』で、大王が酒を飲むのに使っていたいくつかの器は、何と言う名前なのかなどと考えたりもした。道具つながりでは、陶器ではないけれど、スポーツのあとに汗と垢をこそげ落とす器具というのも、不思議に印象的だった。

さて問題はふくろう。ふくろうは、アテナ女神(ミネルヴァ)の象徴で、このオイノコエに描かれたふくろうは、甲冑を身につけ、縦と槍で武装している。両脇に見える細長いものは、オリーブの木で、これもアテナの聖木だそう。丸い目玉に小さなくちばしで、とぼけた表情をしているのに、足のつめは鋭く、槍を持つ腕は筋肉質である。そして、あんな丸い頭に、無理矢理のように兜をかぶっているのが、どうしようもなくかわいい。槍を持たせたためか、身体が少し前傾しているところも、図案としてかわいい。ほかに展示されていた赤像式の陶器は、壺のたぐいも、杯も、割合大きなものが多かったのだが、これは非常に小さく、その大きさも、武装したふくろうが、ぎりぎりの線で不気味ではなく、かわいいものになっている理由かと思われる。

図録に書かれた解説にも、「このオイノコエは、一見稚拙のように見えて実は意外に達者な、ある程度の技量を持った画工が余技に手がけたような運筆で、いかにも子供が喜びよそうなユーモラスな表現で、オリーヴの木と武装したふくろうが描かれている」とある。すみません、子供程度の脳のおばさんも喜びました……(汗)。

大王と対面した感想はというと、これはやはり凄い存在感だった。隣に、重厚なデモステネス像(←渋くて素敵な親父だ)などもあったのだが、彼らの人間的な表情に比べ、アレクサンドロス像はむしろ神像に近いような圧倒的なパワーを感じた。だが、あくまでもイデアの発現である神々たちの像よりは、元が本人をモデルにしているだけあって、完璧な顔立ちではないところに、また別の意味でリアルな力が加わっていると思う。この人の目がこちらを見つめたら、本当に怖そうだ。

ミュージアム・ショップではこんなものも発売されていた。このインフォメーションにあるような重厚感など、全然なかったけど……。海洋堂制作の食玩あたりで、ギリシャの神々シリーズでもやるほうが余程良いんじゃないか(って、全部大理石風じゃ、色味がなくてつまらないか……)。

→展覧会は8月20日まで(9:00~17:00)。

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2005.12.13

ヒンズークシ山脈でM6.7

これをこんなカテゴリに入れていいかどうか……。

アフガニスタン、ヒンズークシ山脈の一帯でM6.7の強い地震(ロイター)。

"大地動乱の時代"に入ったのは、日本だけじゃないのか。

そして、大王だったコリン・ファレルもこんなことに……(こちらは日本語記事)。大丈夫?(微妙に後期アレキサンダー入ってきてる?)。《Miami Vice》の公式サイトができて、トレイラーも発表されたし、15日には《The New World》のプレミアもあり年末には一般公開、しかも作品はオスカー参戦(?)というところなんだろうに。公開作が好評を持って迎えられれば、彼の力になるだろう。良い作品であることを祈ろう。

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2005.08.11

大倉山へ行こう

衆議院総選挙の結果を思うと、ますます嫌~な予感しかしないのだが……。首相が言っているとおりに、郵政民営化に対する賛否を問われている、などと素直~に思って選挙しちゃうパターンが多いんじゃないかなあ。そしてこの国の政党は、本質的に自民党のみになってしまうんだろうなあ。郵政民営化反対派自民党議員が新党を作ったとしても、それもまた第2自民党だし、民主党だって半分は自民党みたいなものだ。それなのに、その民主党にすら政権を移すことをしない国民だし。すごく暗い気分だが、がんばって選挙行くか。


alx13さて、左の画像は8月9日付の台湾自由時報のコリン・ファレル記事より(大王スタイルの人形をながめる本人)。この前日、香港紙に掲載された記事を発端に、翌日の台湾の芸能マスコミ記事は、『アレキサンダー』ディレクターズ・カット版の画像に関するコリン・ファレルの下ネタで持ち切りだった。わざわざ紹介するようなものでもないのだが……。こんな話題が飛び出したのも、劇場版より明るく見やすいディレクターズ・カット版の映像のせいらしい。

このところ大王つながりで久しぶりに思い出したのが、以前一度見にいったことのある「日本のギリシャ」。とはいえ、淡路島など本来の意味でのギリシャではなく、商店街振興のために、商店街に立ち並ぶ店舗の外装をギリシャ建築風に統一してしまったという駅前商店街のことである。普段出かけるエリアではないのだが、3年ほど前にわざわざ見にいった。それは、東急東横線大倉山駅(神奈川県横浜市港北区)の駅の周りに広がる大倉山商店街だ。

okurayama実はこの商店街は、いわれなくギリシャ建築風ディスプレイをほどこしたわけではなく、大倉山にある大倉山記念館にちなんだものだ。リンクした記念館の公式サイトをご覧いただければわかるが、この建物は昭和7年に大倉精神文化研究所として建てられた「紀元前ギリシャのクレタ・ミケーネ時代の建築様式によるギリシャ神殿風建築」で、映画『スパイ・ゾルゲ』や『裁判員』のロケも行われた。昭和7年というのが非常にキナくさい感じもするが、昭和初期の堂々たる西洋建築の1つと言えるようだ。

この大倉山記念館と、大倉山商店街の建物について詳しく紹介したページがある。「建築マップ」という、建築ファンの方々の手により共同で作成されている面白いサイトで、トップページには「世界各地の建物を紹介する参加型共同作成サイト」と謳われている。最初にリンクした大倉山に関するページも、大倉山記念館の建築に関する解説や建築家に関する考察など、短いながらも非常に面白い文章が並んでいる。こちらによれば、この大倉山記念館も商店街もプレ・ヘレニズム様式といわれる建築様式なのだそうだ。

本格派の大倉山記念館も興味深いのだが、さきほどの「建築マップ」の大倉山ページの下半分に載っている商店街の写真をぜひご覧いただきたい。これが大倉山商店街の魅力的なところで、和菓子屋さんも予備校も写真屋さんも自転車屋さんも、カラフルな看板やら日よけやら暖簾やらのあるごくごく普通の店先でありながら、その両脇に白亜の列柱が立ち、上には神殿風の屋根が乗っているのだ。

いつも利用されている方には今さら何の面白みもないだろうが、見慣れない人間には本当に新鮮な商店街である。ちなみに「大倉山商店街の「エルム通り」は、アテネ市のエルム通りと姉妹提携を結んでいます」とのこと。おふざけなんかじゃありません。凄いです(笑)。

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2005.08.10

男の子の名前はみんなアレックスっていうの

2005年8月30日から9月9日にかけて、東京都写真美術館にて「2005 チェコ映画祭」が開かれる。1日ぐらい足を運んでみたいなあと考えているのだが、上映作品を見ていたら、作品紹介に「サロニキ映画祭 アレクサンダー銀賞」という受賞歴を持つ映画があった。

相変わらず小ネタですが。

テッサロニキ国際映画祭(=サロニカ映画祭)は、文字どおりギリシャのテッサロニキで毎年11月に開催される国際映画祭である。で、ベネチアだったら金獅子賞、ベルリンだったら金熊賞(香港だったら金像奨、台湾だったら金馬奨、大陸だったら金鶏奨(って違うか?))にあたるメインの賞が"Golden Alexander"=金アレクサンダー賞(アレクサンダー金賞)なのだ。熊やら獅子やらにあたるのがアレクサンダーというわけだ。さすがギリシャ。もちろん銀のアレクサンダー賞("Silver Alexander")もある。2002年には、この最高賞(アレクサンダー金賞)を、日本の杉森秀則監督の『Woman of Water/水の女』と、タイのアピチャッポン・ウェラーセタクン監督の『ブリスフリー・ユアーズ』が同時に受賞している。

ウィキペディアによれば、テッサロニキはカッサンドロスの妻の名(テサロニケ)にちなんだ地名で、彼女はアレクサンドロスの姉(フィリッポス2世の娘)であるという。

一方、現マケドニア共和国の映画祭としては、スコピエ映画祭がある。今年はもう終了しているようだが、英語サイトがないので、上映作品ぐらいしか理解できない。

日本で上映されたマケドニアの映画を調べてみると、最も気になるのはカルト・ムービーと紹介される『グッバイ20世紀』(1998年 マケドニア)である。これは相当ヘンそうで面白そう。近年で最も名高いのは『ビフォア・ザ・レイン』(1996年 イギリス・フランス・マケドニア)。合作だがマケドニアが舞台の作品で見ている方も多いと思う。『ダスト』(2001年 イギリス・ドイツ・イタリア・マケドニア)は『ビフォア・ザ・レイン』のミルチョ・マンチェフスキー監督の2作目で、前作とはまったく違うとんでもないシノプシスがそそる作品だ。バルカン半島を舞台にした西部劇って何だよ!?(笑) そして最も新しそうなところでは、昨年の東京国際映画祭のコンペティションで上映された『ミラージュ』(2004年 マケドニア)があった。こちらはリアルで重厚な内容の映画のようだが、検索しても東京国際映画祭の公式サイトの作品紹介ページはリンク切れ。ほとんどの国際映画祭サイトに存在する前年以前のアーカイブページが東京国際映画祭のサイトに常時ないっていうのは、どう考えてもみっともないやね。

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2005.08.07

足本導演版(っていうのか?)

部屋にエアコンがないため、毎晩PCの前で死んでいる。暑いと寝苦しいなんてことはまったくなく、暑いとぼーっとして、ひたすら眠い。そしてそのまま蒲団にたどり着けずに眠る。

現在発売中のキネマ旬報の巻頭特集はアジアン・スター。表紙は何とジェイ・チョウだ(が、綺麗な割りに非常に格好悪い写真だと感じる)。でも今号で印象に残ったのは、戦後60年企画の映画監督や批評家の文章だった。新藤兼人監督があたためている広島の映画、ぜひ撮ってほしいと思う……。

今日(きのう)は大王ディレクターズ・カットがAmazon.comから届く。ざっと1回見た感想は、ブラウンソース入りの紅茶を飲んだレイフ@ダブリン上等!の台詞。売らんかなで作られたなどという噂もあったので、あまり期待していなかったからかもしれないが、「悪くねぇ」。

何せ、そんなに分量が多いわけではないが、メイキングでも削除シーンでもなく、監督が再び作品として世に出した映像として、今までに見ていないシーンが見られるんである。うーん、日本でも出してくれ。

フィリッポスが少年アレキサンダーに神々のことを語る洞窟シーンを最後に子役がコリン・ファレルに交代して以降、フィリッポスが暗殺されるまでの場面は、すべて回想シーンとして物語の途中に置かれている。つまり、洞窟シーンのあと、老プトレマイオスのアレキサンドリア図書館シーンが入って、すぐにガウガメラの戦場だ。初めて見る人には少しわかりにくくなった面もあるかもしれないが、回想シーンが増えたことで、クレイトス刺殺事件のあと、それまで時系列に進んできた物語の中にいきなり現れるフィリッポス暗殺事件のフラッシュバックの唐突感は打ち消されているし、逆に、3時間の長丁場をほとんど時間に沿って進行していた物語の冗長さが、少しコンパクトな印象に変わったかもしれない。

アリストテレスの講義の場面は、節度と徳のある男性間の愛を肯定され少年アレキサンダーがにっこり……の後に今までになかったアレキサンダーとアリストテレスのやりとりがある。ファンが大好きなガウガメラ前夜の場面と、クレイトス事件の後の王の閉じこもりシーンはそっくりカットされたが、それ以外はバビロンのラブシーンも(首を傾ける癖がある云々の台詞のやりとりを除いて)きっちり残っているし、婚礼の夜の指輪のシーンもそのままだ(死のシーンで指輪がメインに映る以上、あれを削除するわけにはいかないだろうが)。

少年アレキサンダーとフィリッポスの洞窟シーンの後にあった19歳のアレキサンダーとオリンピアスの場面は、ロクサネとの初夜(←これもかなりカットされ、未見の映像がほんの少し加えられた)とフィロタス事件の間に回想として挿入された。しかもシーンの後半には今までになかった部分が追加されている。

ああ、インドからの帰還の前に神様の像を建立して皆で祈祷する場面もチラっと増えていたし、ゲドロシア砂漠の帰還シーンもほんの少し、見たことのない映像が加わっていた。

テレビ視聴用に画面サイズを変えているので、異常にクリアで、今までに見えなかったものが細々と見えたり、人の顔が細部まで見えるのが興味深い。他にもまだいろいろ違う部分があると思うけれど、とりあえずこの辺で。もう1回見てきます。

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2005.07.30

ピクチャーディスク?

ap01

『アレキサンダー』日本盤DVD発売おめでとう(?)。購入してきたのはいいが、1度見たのを幸いにその後2度と媒体がPCに認識されなくなってしまっている『ヴェロニカ・ゲリン』や『昭和残侠伝 死んで貰います』同様、ピクチャーディスクの色(赤系・黒系)のせいなのか何なのか、今のところ『アレキサンダー』の本編を読み込めず(特典ディスクは白いので読める)。これからちょっとドライブの掃除をしてみようと思うけれど、はたして見られるかどうか。いや~、PCで別の作業をしながら、"Hephaistion loves me as I am" という台詞を日本語吹き替えで聴いてみよう♪なんて考えたのがいけなかったか(笑)。コリン・ファレルの日本語吹き替えは、ロード・オブ・ザ・リングの主役の小さな人(名前知らず)の声をやっている人(でしたよね?)。

さて、GAGA USENの来年以降のラインナップ発表に、《 Ask the Dust 》が2006年ロードショー予定として出てきた。《 A Home at the End of the World 》は2005年公開予定としてComing Soon情報にあるけれど、こっちは一体いつなんだ~?(でも、公開は冬が似合うと思う)→Nifty Cinema Topics Onlineの紹介ページ。

今朝方ずっと起きていたので、また魔がさして、大王US盤を発注してしまった馬鹿である。もうこれ以上びた一文、大王には献上するまい。

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2005.07.20

さいごのひとはな

DVDclub200508MCプレス『DVDclub』8月号表紙。6ページにわたり『アレキサンダー』とオリバー・ストーンの有難~い特集がある上に、この表紙なので、(表紙になるのも最後と思い)思わず買ってしまったが、いや~記事が荒っぽい、荒っぽい。間違いも結構ある。まあ、映画秘宝的指向のソン・ガンホ特集もあり、まあいいか、と(笑)。そろそろ発売しはじめる海外のDVD情報誌にも、発売にからんで大王記事とか表紙になっているものがちょこちょこあるようだ。

C・ファレルの本番ビデオ流出ニュースは、きょうあたりは、ついに台湾大陸などの芸能ニュース欄をもにぎわしている。ビデオを見たいかどうかは別として、あの男がどんなことをしようが何があろうが、こと、そちら方面に関しては、今さら誰も驚かないんじゃないか?


SSs01SSs02さて、作品の出来は特に期待したりしていないのだが(←失礼)、お久しぶりの徐克監督『七剣』の美しい公式サイトの、エキサイティングな孫紅雷と、大変キュートな周群達(Duncanさん)の画像が嬉しい今日このごろです。ポスターも主要キャラ全部それぞれ別にちゃんとある。この孫紅雷は、完全に蕭遠山はいってますね。(画像はポスター、スチールともに公式サイトより)

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2005.06.30

『この世の果ての家』胡言乱語 拾遺

▼小説の語り手である4人は、分量こそ違うものの、男女2名ずつジョナサンを中心に、彼の同性の親友(ボビー)、母(アリス)、彼の異性の親友(クレア)というふうに上手いことバランスがとられていて、セクシュアリティですら、4人全員が異なっている(厳密には、セクシュアリティは人間が100人いれば100種類あると考えるべきだろうから、当然のことなのだが)。英語にも「男性」的な言い回し、「女性」的な言い回しというものが存在するかもしれないが、よく考えてみると興味深いのは、もし翻訳していない状態であれば、章の語り手が誰であるかは、冒頭の個々の名前がなければ、すぐには区別がつかないだろうということだ。現代の日本語の文章では、ボビーやアリスといった個としての人格以前に、性別の匂いが漂ってしまうのは、一人称や直接話法が書かれる限り、言語特性としてどうしようもないことだ(もっとも、日本語の会話文の「性別」は、近代になって「作られた」ものだそうだが)。しかし英語の原文は、日本語よりもっとニュートラルに、登場人物そのものを描き出しているのではないか。3人の語り手全員が女性である、同じカニンガムの『めぐりあう時間たち』を、日本語の訳文で読んだときの印象に近いのではないかと想像する。

▼住む場所や出身地は人間の価値を決定するものなどではありえない。だが記号としての地域名は、登場人物の外見や言動とともに小説を修飾し、イメージを膨らませる1つの要素ではある。そういう意味で、アメリカの土地を日本に置き換えて読んでみると、彼らのキャラクターと物語の空気がより具体的でわかりやすく感じられて面白い。クリーヴランドは、首都に近い自然の残る工業都市という感じだろうか……静岡か茨城あたりの。アリスは南部の伝統ある街ニューオーリンズの人だから、京都とか金沢のような古都の出身で、今住んでいる町に埋もれてしまいたくないといつも心のどこかで思っている。クレアは都会生まれ。ニューヨークでの彼らのアパート(ダウンタウン、「東3丁目のA通りとB通りにはさまれた区域」)は、例えば東京のどのあたりにあたるのかはよくわからないが、第3章の家は、やはり三多摩エリアに建っていると考えようか。都市のイメージ、自信ナシ。

▼余談だが、「この世の果てまで」(原題:The End of the World)というポップスがあった。「どうして太陽はいつもと変わりなく輝いているの、どうして波は何もなかったかのように打ち寄せるの、全ては終わりだというのに(私の恋は終わってしまったのに)」という失恋の歌。どうして邦題は「この世の果て"まで"」なの、と、今にして思えば、そっちの方が不思議だが(笑)。

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2005.06.26

ヨーロッパは難しい

以前、映画『アレキサンダー』のガウガメラの戦闘の前の演説で、大王はマケドニアの王なのにどうして、戦う目的を「(自由と)ギリシャのために」(for the freedom and the glory of Greece)と言っているのか、と書いた。それはペルシャへの遠征以前の、ギリシャとペルシャの関係や、ペルシャ遠征の大儀名分を踏まえてのことではないかと想像し、それなりに納得しつつあった。

しかし、"History of Macedonia.org "という民族独立色の濃いマケドニア人による英語サイト中に、オリバー・ストーン版『アレキサンダー』の「ギリシャ」と「マケドニア」の扱いについて強烈に異をとなえているページを発見し、かなり面白く読んだ。こちらのサイト、1ページをまるまる映画のために割いている(!)。冒頭から、取り上げられているのはやはり、ガウガメラの戦い前の演説の「ギリシャのために」のところ。そして「マケドニア軍は、マケドニアのために戦ったのであって、ギリシャのために戦ったのではない」と繰り返す。

古代史の解釈など、歴史家の数だけあるはずだし、たとえ地元マケドニア人であろうとも、後の世に生きる者には真実(なんていうものがあるとすれば、それ)を知るよしもない。マケドニアとギリシャが別のものなのは事実だが、アレクサンドロス軍が何のために戦ったか、その答えは、2300年前の当時であってすら、ただ1つの単純なものではないかもしれない。まして今さら、「正解」を得るすべがあろうか。

当該サイトでは、「オリバー・ストーンの『アレキサンダー』はミスしてるよ、映画じや、ギリシャもマケドニアもごちゃごちゃじゃん」と言っているのだが、やはりこれは、映画の台詞を表面的にとらえて怒っている感じはする。

ギリシャとマケドニアの関係を考えずに、アレキサンダーの生涯など語れるはずはない。映画の脚本は、思い入れの深い監督自身によって、10数年かけて練られたものだ。映画中で使われる「ギリシャ」という言葉の裏にも、それなりの歴史考証があるはずで、何の予備知識もない自分にもわかるほど単純な間違いがそうそうあるとは思えない。

だが映画は不親切で、1度や2度見たのでは「間違っているよ」と思えてしまうような唐突さで、何の事前説明もなく、鍵となる言葉やアイコンが表れる。

ご存知のとおり、マケドニア問題というのは東欧の民族紛争の巨大な火種の1つで、いまだに国名ですらギリシャとの間でガタガタしている。実は自分は恥ずかしいことに、今の今まで、このあたりの問題の中身を良く知らなかった。"History of Macedonia.org "に見られるマケドニアのギリシャへの敵愾心は、フィクション(映画)や過去の物事(歴史)に対するものではなく、今の現実に対するものなのだ。

alexander_poster vergina macedonia

ということで、上の画像は、左端が映画のポスターの図柄の1つ。ポスターにある大きな旗は、マケドニアのシンボルの太陽(「ヴェルギナの星」)である。真ん中は、大王の父フィリッポスⅡ世の墓からの出土品で、上部に、映画ポスターの旗に描かれている太陽(「ヴェルギナの星」)が刻印されている。右端は現在の国旗で、やはりこの太陽を元にデザインされたもの。

古代マケドニア王国の象徴である太陽を取り入れた新しいマケドニア共和国(マケドニア旧ユーゴスラビア共和国)の国旗は、古代マケドニア王国の後継を自認するギリシャからクレームをつけられた。現マケドニアのスラブ系の人々と古代マケドニア王国の人々は民族的には違うというが、いずれにしても、マケドニアとギリシャは今まさに対立関係にある。"History of Macedonia.org "というマケドニアのサイトの映画への異議は、そのような政治的、民族闘争的立場からの申し立てであるわけで、台詞の「言葉尻」すら、ことマケドニアとギリシャに関しては厳密に追及したい、というのはよく理解できる。

それでも、アレクサンドロス大王がマケドニアの誇りであることには変わりはなく、「映画間違ってるよ」ページ以外のところに、マケドニアの旗バージョンの映画のポスターが誇らしげにしっかり載せてくれてある(笑)。

やっぱりオリバー・ストーン監督の作風というのは、誤解されやすいのだなあと思う。パレスチナなどと同様、長い間デリケートな状況が続く地域の歴史を描くというのに、考え抜いてあってもその説明がされていないから、つまらないところで本家本元にの一見さんにダメ出しされちゃって、「社会派」形無しである。登場人物たちは、民族によって英語の訛りにまで変化がつけられているというのに……。ギリシャでは、さんざん同性愛描写が取り沙汰された上に最終的に「取るに足らないつまらない映画」として片付けられ(←ひどいよ)、マケドニアでは、ギリシャとマケドニアの区別もつかない「間違った映画」だと思われ(←これは映画の方にも落ち度がある)、甚だかわいそうな作品である。

それにしても、東欧の問題は難しい。(調べてもなかなか頭に入らない←単なるバカだ)

そういえば、随分と気に入ったドイツ映画祭のドイツ映画も、それぞれの映画の中に、旧東独側の出身か西独側の出身かがキャラクターや人生に影響を与えていることが表現されているとか、近隣諸国からの外国人の存在がドイツ人の個々の生活の中にまで様々なかたちで「流入」してきていることが描かれているとか、そういったことが、後からパンフレットの解説などを読んで初めてわかった。むろん社会背景を理解できていなくても、ドラマ自体、十分に見応えのある作品が多く、頭が空っぽな自分でも楽しめたのであるが……。ヨーロッパ圏外の人間には、映画の中で台詞として出てこない限り、登場人物がロシアから来ている人か、ポーランド人か、ユダヤ人か、旧東独の人かはわかりにくい。よしんばどこの国の人かがわかったとしても、その国の政情や民族についてを知らないと、エピソードや台詞の意味がわからない場合もある。ましてや歴史物など、きちんと理解するには、前知識として必要なものがもっと多いはずだ。

いや本当に、いくつもの国(民族)が地続きでひしめくヨーロッパってのは難しい。

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2005.06.17

相変わらず

こりもせずにまた、大王関連書籍を読んでいる。なぜか頭の中では、大王の顔はC・ファレルではなく、ルーブル美術館所蔵のアレクサンドロスの胸像の顔なのだが、他の登場人物の顔は映画のキャストどおりである。何だかだんだんごっちゃになってきたが……。

少し前に、日本人女性の書いている日記のWeblogで興味深いものを読んだ。書き手は、海外で勉強する若いお嬢さんらしいのだが、何と彼氏がマケドニア人。彼に「尊敬する人は?」と尋ねると、瞬時に「アレキサンダー」という答えが返ってくるんだそうだ。そして、マケドニアの歴史を語れば、ノンストップ&オーバーヒート。故国を誇りに思う気持ちは、それは大きいらしい。微笑ましい恋愛話が、別の面でも非常に楽しめた。いやあ、アレクサンドロスだって、神々や理想について語ったら、傍迷惑なぐらいうるさそうだもんなあ。気質ってあるんだろうか。

C・ファレルの米国で年末公開予定の新作はテレンス・マリックの《The New World》。寡作だが評価の高い監督で、調べてみたらこの人、張芸謀(チャン・イーモウ)の『至福のとき』の制作にも関わっている。『至福のとき』(原題:幸福時光)自体は、タイトルとは裏腹なけっこう恐ろしい話だったりするのだが(実は結末はいくつかバージョンがあるという)、盲目のヒロインの父親役の趙本山さん初め、芸達者なオヤジぞろいで、その点は見るべきものもある。《The New World》のトレイラーを見ていると、古装だし、アリストテレスことクリストファー・プラマーが語ったりもしていて、大王ファンにはなかなか嬉しい。4月ごろだったか、14歳のヒロイン(ポカホンタス役)相手に演じたラブシーンが濃厚すぎて、撮影終了後にそこだけ撮り直しを命じられたC・ファレルのニュースを見たが、いよいよ予告も出来てひと安心?

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2005.06.12

『この世の果ての家』胡言乱語

以下は、小説『この世の果ての家』(マイケル・カニンガム著)について書いたもので、完全にネタバレです。小説を未読で、そういうことが気になる方は読まないでやってくださいませ。(しかし、ネタバレなんて概念、いつ生まれたんだろう)

「家(house)」と「家庭(home)」の違いについて、遠い昔、外国小説の中で読んだ記憶がある。「家(house)」という容れ物は、そこに暮らす人々とともに、新しい命の誕生と婚礼と葬儀を経験し、その記憶を刻むことで「家庭(home)」になるのだと……。

マイケル・カニンガムの『この世の果ての家』を読むときにはいつも、頭のどこかに「家庭」という言葉がひっかかっている。日本語では「荒涼とした地の果てにある、人も住んでいないような寂しい一軒屋」というイメージの浮かんできそうなこの小説のタイトルに込められた作者の思いは、むしろ、人が日々を営む基盤としての家庭にあるのではないかと、その原題の "a home" の部分を見ながら思う(とはいえ邦題は美しく、ほかの言葉が浮かぶわけではないのだが)。思えば、ボビーとジョナサンの店の名前も「ホーム・カフェ」だった。

文庫版に収められた柿沼瑛子氏の解説にもあるが、新しい形の家族・家庭というこの作品の主題は、アメリカの70年代から80年代にかけてのゲイを取り巻く社会状況の変化、解放運動によって「フリー」なものとなった性が、エイズという疾病の出現により、固定的な関係の間の「閉じた」ものに変わっていく中で、親密な関係の相手と家庭を築いていこうとするような、個々の生き方にまで影響するその変化を映したアメリカ文学の1つの流れの中心に位置するものだ。

小説は、第1部が主人公のジョナサンとボビーのクリーヴランドでの幼いころから少年時代までを、第2部は20代半ばとなったジョナサンと、ルームメイト兼なかば恋人のようなクレアが暮らす部屋に、ボビーが加わるニューヨークでの日々を、第3部はジョナサンとボビーとクレアと、クレアとボビーの間に生まれたレベッカと、呼び寄せられてやってくるニューヨーク時代のジョナサンの恋人エリックとの、「ウッドストックから5マイル」の古びた一軒屋での暮らしを描く。(※ウッドストックはニューヨーク州東南部、大都市ニューヨークの郊外にある町)

登場人物たちの属してきた血縁に基づく伝統的な家庭は、それぞれの事情によって、どこもみな壊れてしまったか壊れかかっている。クレアの両親はクレアが子どものときに不幸な別れ方で離婚した。ボビーの家庭は、彼の兄カールトンのドラッグを遠因とした事故死をきっかけに、そのショックで心に傷を負ったまま睡眠薬を飲みすぎた母が亡くなり、飲酒と火事により父も亡くなり、消え去った。ジョナサンの場合は、一見幸せそうな、料理上手な母と映画館を営む父と3人の「理想の家族」として、地元紙に掲載されてしまうような家庭だが(映画『エデンより彼方に』を思い出す)、母アリスが第2子を死産したころから、父ネッドとの夫婦の絆の空洞化が進んでいく。この物語が、モダンアートを思わせる詩情と諧謔を散りばめた美しい文章で書かれていなかったら、そして訳者あとがきにもあるように、章により語り手が変わり時間軸がずれることによる、物語の新局面の衝撃からの緩和がなかったら、何とリアルで辛い話だろう。何と荒れ果てた、寂しい世界なんだろう。

"the end of the world" という言葉には、「地の果て」という意味のほかに、「破滅」という意味もあるのだそうだ。 "home" が人生の基盤としての家庭なら、 "the end of the world" とは何を示すのか。ジョナサンとボビーとクレアとレベッカ(とエリック)という家族が暮らす家(の建つ世界)のことを、作者のカニンガムが「この世の果て」などと形容するわけはあるまいと考え、ずっと疑問に思ってきた。

ふと浮かび上がってきたのは、ニューヨークでのエリックとジョナサンの会話だった。フィジカルなつながりのみの恋人として関係を続けてきた2人の身辺に、HIV感染の危険性と病気への恐怖が迫ってきた夜、ベッドでジョナサンが言う。「恐ろしい世の中になったもんだ」。重ねてエリックか(あるいはジョナサンが)嘆く。「まったく。実に恐ろしい世の中になった」。

「この世の果て」とは、現代の世の中そのもののことだと考えたらおかしいだろうか。従来の価値観が崩れ去り、伝統的な家庭は内部崩壊、人々を不安に陥れる病が流行し、人が自分をとりまく最も小さなサークルの中に閉じこもり始めた、そんな「人の世」のなれの果て。人間の行き着いた先。まさしく今このとき。それが "the end of the world" なのではないか。

そこに建つ家では、この世で(誰もがそうであるように)傷ついた人々が、未来への希望と現実への絶望の狭間で静かに暮らす、新しい「家族」として。「この世の果ての家」とは、「終末の世界(The end of the world)」にひそやかに灯るある1つの光だと、暗い海から望む小さな灯台のようなものだとは言えないだろうか。

ホームパーティからはじき出された子どものボビーは、自分に味方してくれなかったカールトンを恨みに思った弾みで「カールトンに何か恐ろしいことが起こればいい」と願ったまま、兄を失うことになる。「母さんは赤ちゃんが欲しくないんだ。ぼくたちは赤ちゃんなんかいらないんだ」と言い続けたジョナサンの母は死産し、ジョナサンは生まれるはずだった妹を失う。子ども時代のボビーは、夜中に起き出した父に付き添って、父をベッドに寝かしつけたが、ジョナサンは、夫婦関係に悩む父が自分に関心を持ってくれている証しに、自分をベッドに入れてくれることを切望した。少年時代、氷が解けたか解けないかという早春の湖に飛び込むジョナサンを、引き上げ救い出すボビー。最終章では、生の実感を求めて春まだき湖の中に足を踏み入れる裸のエリックとジョナサンを、制止しつつ優しく見守るボビー。2人が出会う以前から巧妙に重ねられた対照的なエピソードや相似形のエピソードが、磁石の対極のように引き合い、双子のように重なり合って、ジョナサンとボビーの固い絆と運命を印象付ける。

だが「一心同体だ」というジョナサンとボビーだけでは話にはならない。この小説は、類稀な2人のつながりを描いてはいるが、もちろん2人だけの世界などを描こうとはしているわけではない。そこにクレアがいて初めて、家族の1つの新しい形を追うための可能性が生まれてくる。3人というのは、1対1の人間関係に第三者が介在しうる最少の人数だ。ことにパートナーシップ、人生における伴侶、2人であることが重要視される西欧社会において、夫婦を中心とした家族というものが限界に来ている現実がある以上、ユニットを分解し別の形に組み上げない限り、家族の、希望の持てる未来を描くことは難しいだろう。

かくしてクレアは登場する。彼女が女性であることの理由の1つは、新しい家族が未来への可能性の蜘蛛の糸を落としていくために、次世代の命を育みうることが必要だからということはあるだろう。作者はクレアが、性別の押し付けられた文化的役割からやや距離を置いたところに存在できるような設定をほどこしている。彼女が子産みの道具としての存在になってしまわないよう、かなり早い段階で「わたしは子どもが欲しかった」と能動的な動機を示しているし、男性2人に対する女性1人という家族構成において、彼女が彼らより年上であること、経済的に自立していることも、然るべき設定だろう。無論、そうしたプロパティの面からだけではなく、彼女のファッションからもわかる軽みと頑固さを合わせ持った人柄、ジョナサンとの姉妹のような恋人のような「理想的」な関係、生い立ちやそれまでの人生経験など、人間クレアの描写からも、例えばレベッカとともに出ていく結末などは、意表をつかれる反面、彼女らしい決断であると納得できるのである。

そして、この小説独特の決して軽くはないが柔らかな手触りを決定づけているのは、やはりボビー・モローの存在だろう。ボビーのまわりに跳梁するのは「新しい国」のイメージだ。兄カールトンが示すその未来の国では、ボビーはフリスコという名前を持っていて、「仕事や勉強から解放」された人々が「川のそばで木々に囲まれて暮らす」。そこは「光輝く完璧な単純さ」の国である。だがドラッグと音楽をよりどころとして、愛と平和を夢見た60年代の理想がついえたことの象徴のようにカールトンが亡くなると、「未来」は失われ、ボビーは可能性というものを持ち得ない「永遠に死んだままの人々」の世界を背負ったまま、この世の捕らわれ人となる。

できないことは何なのかとクレアに問われたボビーは、「ぼくはひとりになりたくない。ひとりきりになったことがないんだ」と答えている。だから、ボビーはいつも「そこ」にいる。ジョナサンと出会ったときのボビーも、そこに居合わせたのが偶然であるかのようにさりげなく、しかし確実に、ジョナサンのそばに立っていた。カニンガムの小説では、悩みを抱えた人はどうやらみな、現在の生活の外へ出て行くか、出て行こうとしている。でも、ボビーは出て行かない。「ぼくは兄のあとを追ってこの世界に入ってきて、一度もここを離れたことがない」。クレアがレベッカを連れて家を去ったあと、もしジョナサンも一緒に行ってしまっていたら……と考え始め、ボビーがパニックに陥りそうになるモノローグ、「ぼくはこの家がばらばらになるのを黙って見ていることはできない。時間がかかりすぎるから、もう二度とふたたび建て直しはできない」。波立つ心を静めたのは「僕には仕事がある。屋根を修理するのだ」という自覚だった。まるでスカーレット・オハラのあの呪文(「今、考えるのはよそう。頭がおかしくなりそうだわ。あした考えましょう」というあれ)のような……。そうやって彼はいつも、のぞき込んでしまった虚無の深淵に背を向け、眼前にある日常のなすべきことに向かうことで、危機を乗り越えてきたのだ。

辛い経験が人間を磨くとは限らない。心の傷が人間性や人生をぼろぼろにしてしまうこともある。ボビーは、壊れてしまっているとも言えるし、完璧であるとも言えるだろう。彼の真ん中には、スポンジのような、ブラックホールのような空(くう)がある。その虚無に対峙すれば、生きる気力を失ってしまうかもしれない。だからこそ彼は「ひとりにりなりたくない」のだろうが、またそれゆえ彼のそばにはいつも人が寄り添う。自分を持て余している現代人(特に小説の世界の80年代の人々)にとって、ボビーの静寂と平穏は、安らぎと神秘に満ちたマイナスの引力であるからだ。

レベッカという彼の娘(そしてボビーとクレアとジョナサンという新しい家族の娘)がこの世に生まれると、カールトンとボビーの描いた「新しい国」が、形を変えてふたたび姿を見せ始める。クレアは父親としてのボビーのことを、「彼は血のつながりというものを、さほど重視しない。レベッカを抱いているボビーを見ていると、ときにわたしは、彼にとって娘がどういう存在であるかがわかるような気がする――彼の世界の未来の市民だ」と評する。日常生活に満足し、泰然自若たるボビーに向かって、クレアはこうも言う。「結局、ジョナサンとわたしの方がはるかに保守的なんだわ。わたしたちは毎日鏡をのぞいて、そこになにが映るかを確かめずにいられないのよ。ところがあなたときたら、ただやりたいことをやるだけ。そうなんでしょう?」。

レベッカは、未来に向けた彼ら家族の希望である。それは血のつながりとは関係がない。彼らが一緒に家庭を営んでいた記憶が、茶色い古ぼけた家を媒介に彼女にリレーされる。ボビーがカールトンの未来をも生きてきたように、ボビーやジョナサンやクレアがこの世からいなくなっても、たとえボビーやジョナサンのことを直接知らなくても、レベッカには彼らが家族だったことが伝わるはずだ。

最初にこの話を読んだときに、柿沼瑛子氏の解説の締めくくりに置かれた詩を見るまでもなく、高校生のころ大好きだったアルチュール・ランボーが17歳のときに書いたという「見者の手紙」を思い出した。それは作品ではなく、新しい詩の意想を説いたという私信で、いかに詩人としての感覚(目)を研磨していくかということが、若者らしい熱気を帯びた調子で述べられているものだ。

「(前略)深い信念と超人的努力とをもって初めて耐えうるのみの言語に絶した苦痛を忍んで、初めて彼はあらゆる人間中の偉大な病人に、偉大な罪人に、偉大な呪われ人に、――そして絶大の知者になる!――なぜなら、彼は未知に到達するからだ!――すでにみずからの霊魂の練磨を完了したこととて、誰よりも豊富な存在になにっているからだ。すなわち彼は、未知に達したわけだ。だから、万一彼が狂うて、自分が見てきた幻影の認識を喪失するにいたるとしても、すくなくとも彼はすでに一度それを見たのだ! 彼が見たおびただしい前代未聞の事物のうちに没し去って、彼が一身を終ったとしても嘆くにはあたらない。なぜかというに、他の厭うべき努力者どもがつづいて現われるはずだから。彼らが先に彼が没し去ったその地平線のあたりから踏み出して、詩を進めるから!」
(新潮文庫『ランボー詩集』(堀口大学訳)の「ランボー略伝」中より引用)

引用した手紙の最後の部分は、詩とそのビジョンが、詩人の個体を越えて次の詩人に受け継がれていくことを示していると思われるが、レベッカとはまさにそういう、ジョナサンやボビーにとって、血のつながりや体験や面識を越えた未来への希望なのではないかと感じたのだ。

実は『この世の果ての家』の感想は、ランボーのこの「見者の手紙」で終わるはずだった。が、この小説のもう1つの側面、新しい家族を模索した物語であるとともに、とても大切なもう1つの側面に触れていないことに思い至った。それはジョナサンだ。

ジョナサンは、幼いころから何らかの役割を演じ続けてきた。その場に最も相応しい役柄を。子どものころの、化粧と髭剃りのシーンなどからもそのことがうかがえるし、母アリスとのやりとり、恋人エリックとのやりとり、そしてクレアとのやりとりの中でさえも、彼が何らかの仮面をつけているいることが描かれている。そして、未来のいつの日かその仮面を脱ぎたいと、彼はずっと願い続けてきたはずなのだ。

父ネッドとの最後の場面でも、ジョナサンはずっと、最愛の父に本当のことを言いたくて、でも結局言えずに終わってしまう。この小説の中で最も印象深かったのは、何ともはや、このネッドとジョナサンの、苦しいアリゾナの星月夜の場面だったりする(その次は、ネッドの葬儀の前に道端で取っ組み合いをするジョナサンとボビーの一節だ)。

「木星から送られてきた」ボビーに比べると、作者が自分をさらけ出し苦しんで描き出したジョナサンの方が、一般的に読者に近い存在だと思われる。少なくとも自分には、内容こそ違うものの、ジョナサンの苦しさには共感しやすかった。だから、頭を「いつか来るはずの輝かしい未来」に向けたまま悩み続けてきたジョナサンが、周囲の「家族」と過去の経験を含めた、広い意味での今の自分を認めて生きていくことに至る最終章を読むと、この小説が新しい家族を模索した物語であると同時に、ジョナサンという少年の自己克服の物語でもあると思えるのだ。

作中に何度も登場する「可能性」と「未来」という言葉がある。面白いことに、「可能性」は登場人物たちが自分たちの希望を少しずつ実現していくなかで、どんどん失われていく。「この世の中は可能性に満ちあふれている」といったのは9歳のボビーだが、人は、生きるほどに、あったはずの可能性を失っていくものなのだ。それは時間軸の上を生きている人間なら当然のことだ、残り時間が少なくなるのだから。

「それまでぼくは、未来を生きつづける期待を維持した状態で、その未来のために生きていた。だが、ボビーとエリックと一緒に凍るような湖の浅い砂底に裸で立ったとき、その状態がふいに立ち切られたのだ」

この最終章のジョナサンのモノローグは、病と死への覚悟という読み取り方もできるだろうが、作者が敢えて病名も出さずカテゴライズを嫌っている以上(文庫版解説より)、やはりここは、彼が自身とその人生を受容したのだと読みたい。それまでずっと、カニンガムの小説で死に惹かれていることの象徴である「水に入る人」の側であったジョナサンが、最後の最後、ホビーとともにエリックを陸に連れ帰る人となる。

モロー家父子3人のコンヴァーティブルの疾走で始まる物語は、静かな湖をそっと歩む3人の男の遠景で終わりを告げる。ある物語を定義するためにはハッピーエンドかそうでないかという視点も必要だろうが、このラストシーンは、生きていけば誰もが同じように可能性をすり減らしていく人生の、その時々の光景が、実はとても美しいものだと教えてくれているようだ。この物語の、さまざまな場面が美しかったのと同様に。


※文中の小説からの引用部分はすべて、角川文庫『この世の果ての家』(マイケル・カニンガム著、飛田野裕子訳)による。

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2005.05.28

国内盤DVD詳細

えーー、監督コメンタリーねえのかよ~。う゛゛ーーー。

『アレキサンダー プレミアム・エディション』 タイトル詳細

この見事におざなりな特典内容(予想してたけど)。

各地で話題になっているイタリア盤とか……どうせカットされちゃったきったねー特典映像なんかどうでもいいすけど、コメンタリーないよね、これ? それとも記載もれ? 海外盤には収録されているんだし、コメンタリーに字幕つけるだけでいいのに、購買需要が大して見込めない大長編映画には、そんなに予算もとれないって?

英文字幕付きでコメンタリーが収録されている、海外のどこかのDVDを探して買うしかないのかなあ。

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2005.05.21

しばしのおあづけ←してない

5月8日に発送連絡のあった香港盤『アレキサンダー』DVDと、田原をメインボーカルに据えた大陸のバンドHopscotchのアルバム"A Wishful Way"が、昨日ようやっと届く。過去の実績では遅くても1週間で届く香港からの荷物が、2週間近くも届かないので、またもや東京税関で止められたかと気をもんだが(《十七歳的天空》のDVDと写真集は税関で開封されてから届き、何だか大変恥ずかしかった……)、結局12日かかって無事手元に。

このところエネルギーを仕事に吸い取られ、『この世の果ての家』の感想を書きかけては止まり、少しずつしか進まないでいるので、それが終わるまで大王はおあづけと思いつつ、やはり本編だけは我慢できず寝入りばなに見る。聞き取れなかった台詞でも、何と言っているのかがわかるという部分では、英語字幕は嬉しい。が、映画館とでは音が全く違うのに驚く。台詞の声のトーンが違うのだ。老プトレミーもオリンピアスもまるで別人が演じているかのように聞こえたりする。まあ、そりゃあノートPC付属の貧弱スピーカじゃ仕方なかろうが。ただし映像は、大スクリーンでは視野にとらえきれなかったディティールが、小さいゆえに見えることもあり、後でしっかり見れば、また別の面で発見があるかも。

DVDのパッケージは心配したほど馬鹿でかいものではなく、意外と品の良いのに胸をなでおろす。中身は、説明を見た範囲では、北欧盤2枚組の販売サイトの詳細仕様に書かれていたものと全く同じだ。VCDじゃないんだから、本編を2枚に分けるなよ、と。

最近のお気に入りは、インドでの(ああ、東征後半のバランスを欠いた迷妄の大王(のコリン・ファレル)、いいよねぇ)演説シーンで兵士たちの反論を聞き、自説を覆し部下たちの希望を容れたかと取れるような言葉を並べ始めた大王に、「こいつが、本心でこんなことを言っているわけはねーよな」と、いぶかしげ~な視線を投げるプトレマイオスである。大王、性格も信念も深~く理解してくれている、良い友人をお持ちで(笑)。

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2005.05.09

Be Reasonable…

「失敗作」とのアメリカのお墨付きを受けて公開された『アレキサンダー』の日本での感想は、腐ってもハリウッド大作なだけはあり、自分が普段見ている、市場の小さな映画とは違って、見ようと思わずとも何となく目に飛びこんでくることが多かったから、まあ、どんな感じかは知ってはいた。

今さらながら、改めて『アレキサンダー』評をウェブ上で拾って見ていたのだが、いやあ、映画の国アメリカ本国での大コケ、酷評という「錦の御旗」は強いねえ。プロからド素人様にいたるまで、大船に乗ったつもりで「失敗作」「駄作」と安心してお書きくださっている素晴らしい方の多いこと(!)。好き嫌いを言うならともかく、『アレキサンダー』レベルの作品に対して、本来なら、自分の鑑賞能力や、下手をすれば人間性まで裸にされてしまう価値判断をいとも簡単に出来てしまうのは、アメリカでの「実績」に後押しされてのことなのだろうと、つくづく感じた。

国内の『アレキサンダー』評を見ていたのは、しかしそれ自体が目的ではなく、アメリカでの大コケの原因の何かヒントになるものが、日本語で読めないかと思ったからだ。やたらとあちこちで言われている、「WASPの偶像・アレクサンドロス大王をバイセクシュアルとして描き出したこと」だけが大コケの原因ではなかろう、と思って。

真偽のほどは判断し得ないが、考察として面白いものを2つばかり見つけた。最新記事ではないので、関心を持っていれば、とっくにご存知の方も多いだろうが。

(1)映画”アレキサンダー”-なぜアメリカで不評だったか-
  (MBAキーワード広告社長日記) 2005年3月8日付

記事中では、理由の1つとして、オリバー・ストーン作品中のアレキサンダー像が、アメリカ人の理想像としてのアレキサンダー、つまり東洋の(野蛮な)国々を打ち破り滅ぼす英雄というよりは、現地人との融和を図るコスモポリタンという点に重点を置いて描かれている点が挙げられている。また、もう1点として、アレキサンダーのエゴイスティックなまでの未知の領域への前進への意欲が強調されたことで、民主的なギリシャ社会の影響下にあるマケドニアの王が独裁者のようなイメージを抱かせたということも挙げられている。つまりアレキサンダーが、今のアメリカ人にとって、アメリカの"敵"寄りの思想を持ち、"敵"の首領のような振る舞いをする人間に見えたのではないか、と。

(前略)”プラトーン”、”7月4日に生まれて”など過去にも反戦映画を発表してきたストーン監督が描いたとなると、この映画はオリエンタル世界とオクシデンタル世界との融合を示唆してると解釈できよう。ブッシュ政権の対オリエンタル(アフガニスタン、イラン、イラク)強攻策への明確な否定に他ならない。(記事中より引用)
書かれた方はこのようにまとめておられる。だが、個人的な映画としての評価では○をつけてくださっている♪
娯楽大作としても、現在のアメリカを知る上でも、そしてアレキサンダーという歴史上でも屈指のコスモポリタン(今から2300年も前のギリシャ人と野蛮人の二つしかないと本当に信じていたギリシャ人が黒人の女性を妻に娶ることなど、当時の常識を逸脱している)の人生をたどるという意味でも、間違いなくおススメの大作である。(記事中より引用)

"歴史上でも屈指のコスモポリタン"というのは、胸のすかっとする論評である。アレクサンドロス像に関してどうしても、"軍を率いて他国を侵略した"というイメージが先行する自分には、眩しく嬉しく有難い言葉だ(笑)。


(2)受け入れがたい?“ゲイのアレクサンダー”
  (西森マリーのUSA通信)
  地球人ネットワークを創る総合サイト「SPACE ALC スペースアルク」より

ここでは、批評家による評価が悪かったこと、選挙後というタイミングの悪さの2つが挙げられているが、特筆すべきは、右派層によるホモフォビックな評判の連鎖ということだけでなく、逆にリベラル層の批評家による酷評="アレクサンダーがゲイであることにしっかり言及しなかった"ことだと筆者が書いている点だ。

「アレクサンダーのホモセクシュアリティの描き方が中途半端」という批判が、リベラルなオーディエンスを遠ざけたのは当然のことで、ストーン監督のコアなファンたちまでもが「911以降急速に保守化したアメリカにオリバー・ストーンが媚びたのでは?」と監督のインテグリティを疑う始末。(記事中より引用)
とのこと。
つまり、この映画はターゲット・オーディエンスである歴史モノに興味のあるインテリ層とsword-and-sandal epic(『トロイ』『グラディエイター』などの古代の白人のヒーローを描いたアクション映画)が好きな層の両方を失ってしまった、というわけなのです。(記事中より引用)

タイトルは「受け入れがたい?“ゲイのアレクサンダー”」とされているが、"ゲイだか何だかはっきりしないアレクサンダー"も受け入れられなかったというわけだ。日本人なんかは、このあいまいさは好きな人が多いと思うが。詳細はリンクの原文を読まれたい。

あいまいなアレクサンドロス像ということでは、セクシュアリティではなく、母への思いのアンビバレンツさがアメリカでは受け入れられなかったのではないかとするこちらの解釈も、面白いと思う。

ここまでいろいろと考えさせちゃう作品ってのも、芸術性とはまた別の意味で、非常に作家性の高い映画であるってことなんだろう。で、作家性の高さ自体に価値があるかどうかは、これまた別の話(きちんと伝わってなきゃ、意味ないもんね)。

【おまけ】
オリバー・ストーン版『アレキサンダー』が「アメリカではこけたがヨーロッパでは理解されてるよ」という一般的見解(というか制作関係者とファンの祈り)を一気に覆す記事があった。確かにイタリアあたりではかなりなヒットだというし、ほかにもヨーロッパ諸国では初登場1位という国が大分あった気がする(←気がするだけか?)。南米はどうだ? だがとにかく、こちらの日本語サイトで訳して下さっているフランス、ル・モンド紙の『アレキサンダー』評(前編後編)(言語生活より"Le Mondeの映画評の仏語抄訳")は、もう面白いぐらいに"けちょんけちょん"である。批判の魔の手が、今だ生まれてもいないバズ・ラーマン版にまで及んでいるのを読むと、いっそ思わずほくそ笑んでみたりして……(爆)。まあ、映画評など、多少の地域性はあるにせよ、圧倒的に個人差の方が大きいのだろう。日本語訳、ありがとうございます! そうか~、映画ではフィリッポスも少年アレキサンダーもアイルランド訛りでしゃべってるのか~!

何でこんなことが気になったかといえば、このところたまに見かける『アレキサンダー』がらみの(映画・俳優・アレクサンドロス大王)ファンの盲信的態度に、「それはどうかな」と思う気持ちがじんわりと湧いてきたからで……。そりゃあ、映画『アレキサンダー』にも、アレクサンドロス大王にも、コリン・ファレルにも、今の自分はすっかり惚れまくっているが、この映画は至高の作品でない、しかし素晴らしさも欠点もある魅力的な映画であると思っているし、それは大王についても、俳優についても同様。

映画についても、ちゃんと外側からの見方を頭に入れておいた方が、ファンとしてスマートな態度なんじゃないかな、と偉そうに感じた次第デス(←大きなお世話だよ)。

ああ、それにしても、のっけから評判の良さそうな『キングダム・オブ・ヘブン』、うらやましすぎ(笑)。


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2005.05.06

取り返しのつかないことをする

「バンコク国際映画祭 オリバー・ストーン」で検索をかけていた方がいらしたので、かつて調べたことはあったが、もう一度自分も調べてみた。

実はバンコク国際映画祭での『アレキサンダー』キャスト関係の画像は、海外ファンサイトが一番充実していて、夢のような大王&側近ぞろぞろの集合写真(しかも大変楽しそうな表情の(もちろん役柄の服装ではなく)フォーマル姿)などが見られるのだが、公式サイトの報道写真には、オリバー・ストーンロドリゴ・プリエト(撮影監督)の画像以外一切見当たらない。

2005年のバンコク国際映画祭で『アレキサンダー』が上映されたのは、撮影監督のロドリゴ・プリエトがCrystal Lens Awardを受賞したことによる作品上映(ほか『フリーダ』)の際だが、今年のバンコク国際映画祭ではオリバー・ストーンへのトリビュートということで特集上映もあり(『7月4日に生まれて』、『天と地』、『プラトーン』、『サルバドル~遥かなる日々』)、加えてコリン・ファレルをスターダムにのし上げたジョエル・シューマッカー監督もCarrier Archivement Awardを受賞し、『フォーン・ブース』(ほか『ロストボーイ』、『フォーリング・ダウン』、『評決のとき』)まで上映されているのに、どうしてコリン・ファレルの写真が見当たらないのか? なぜだ! と思っていたら、"Thai Movies!"という素晴らしい(!)サイトの2004年2月のニュース記事(バンコク国際映画祭関連)の中に、こ~んなことがきっちり書かれていた。

●バンコク国際映画祭閉会式には多くのアジア及びハリウッドのスターが参加。 『S.W.A.T.』のミシェル・ロドリゲス、『アレキサンダー』のヴァル・キルマー、ジャレッド・レトとロザリオ・ドーソン等。
●閉幕映画に選ばれたのは、ヴァル・キルマー主演の米国映画《Spartan》(ワールトプレミア)。
●映画祭の歓迎パーティにて8部門から成るキンナリトーン賞(Golden Kinnaree Awards)が発表された。会場にはミシェル・ロドリゲスが紫色のドレスで現われ、『Alexander』の主役コリン・ファレルはヒロイン役のロザリオ・ドーソンと腕を組み、ヴァル・キルマー、ジャレッド・レト(正しくはヒロイン役はロザリオではなくこの人←ウソ)、ジョナサン・リース=マイヤーズ及び同映画の監督オリバー・ストーンの息子ショーン・ストーンと共に入場した。(ちなみに海外ファンサイトにある画像では、クレイトスもクラテロスもネアルコスもいたぞ♪)
●オリバー・ストーン監督は、タイ映画《タウィポップ(The Renaissance)》の主演女優ワニダー・フェーウェー(フローレンス)と並んで入って来た。

一番下の"ワニダー・フェーウェー"については、彼女が主演する《タウィポップ(The Renaissance)》の撮影をオリバー・ストーンが見に来たという2004年1月のニュースの中にこんな発言が。
●ストーン監督が見学にみえるなんて、思ってもみなかったことでした。後日、監督と食事をご一緒する機会があり、監督の新作映画『アレキサンダー』に出演しないかと誘われました。しかしニューヨークでのモデルの仕事が詰まっており、決心に手間取っていたら、もう待てないとのことでした。

おわかりだろうか。キャストが参加したのは2004年のバンコク国際映画祭。『アレキサンダー』の上映&監督と撮影監督が参加したのは2005年のバンコク国際映画祭。大王&ヘタイロイ親衛隊の豪華ステージ写真は、タイでロケ中(あるいは直後?)だった2004年だから実現したことだったのだろう。ちなみに2004年はオリバー・ストーンが Career Achievement Award を受賞している(2004年2月3日の"Taipei Times"にも、オリバー・ストーンの受賞に際し、撮影中の俳優が映画祭に参加したことが書かれている。訓練された象が必要なためにタイで撮影している、とも。だかヴァル・キルマーが映画中でタイロケらしきシーンに登場するのは、ポロス王との戦い後に傷ついたアレクサンドロスが皆の前に姿を現すシーンでの"象徴"としてのワンカットのみだと思うが、あれしか撮っていないのだろうか? そのために長い日数現場にいるとも思えないが、もしかしたら、コリン・ファレルはバンコク国際映画祭で再会したヴァル・キルマーと飲んで骨折したとか?)。

おかげさまで"Thai Movies!"の情報には、すっかり楽しませていただいた。公のサイトでもWeblogでもないのでコンテンツページを直にリンクできないのが残念。

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これらは2004年のバンコク国際映画祭の公式サイトにあった画像。左は監督とコリン・ファレル。中央、ヴァル・キルマー。右はジャレッド・レト(実際のサイトの画像はもっと大きい)。


ということで、取り返しのつかない日々をふりかえってみた。


museum_alex_200308_sもう1つ、大王がらみの取り返しのつかないものがある。それは、ちょっと検索するとすぐ出てくるのだが、2003年に東京国立博物館(8月~)と兵庫県立美術館(10月~)で開催された「アレクサンドロス大王と東西文明の交流展」だ。→展覧会がらみの公式ページはほとんどがリンク切れしている中、まだ生き残っているのが日本通運ページ兵庫県立美術館のページ。そして最もわかりやすいのが、たいへんラブリーなサイト"古代遺跡な日々"の中にあるこの特集ページだろう。「異なる博物館のアレクサンドロス像が、いっぺんに見られる」という説明と館内の平面図には、『この世の果ての家』原書版朗読CDを発見したとき同様に悶絶した。当時、この展覧会があったことはかすかな記憶にはあるのだけれど……。ああ、あと2年遅くこの展覧会をやってくれたていたら、イシュタル門のライオンどころの騒ぎではなかったぞ。せめて図録を古書で探してみるか。

 


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2005.05.04

疑問点2つ

いや~、直裁なタイトル。映画『アレキサンダー』について標記の件、以下。

1つは、ガウガメラで戦闘が始まる前の王の演説のラスト「この戦いは栄光と自由とギリシャのため……」って言っている、その「ギリシャ」。これが疑問。どうしてあそこで「ギリシャ」と言っているのか。関係ないがここで「自由」って言葉が入るあたりは、見る者にブッシュを思い起こさせた理由の1つだと思う。

あ、それは、元々ペルシャとの戦いの大義名分がギリシャ(ギリシャを含めた地域の盟主としてのマケドニアの、かつてペルシャがギリシャを侵攻したことへのリベンジ)だったからか。そういうことですか?

もう1つは、フィリッポス暗殺直前、一緒に行こうとするアレクサンドロスを拒んで1人で観衆の面前へ出ようとするフィリッポスへ向けられる諭すようなアレクサンドロスの言葉。「一歩一歩勇気を持って……進むのです」(だったか?)。このあたりの一連の台詞の真意((追記)アレクサンドロスの気持ちではなく、どうしてこの言葉がここで選ばれているかということ、つまり何か裏付けか背景がある台詞なのかどうか)を知りたい。アレクサンドロスは、何でこんなことを言ったのか。単なる「気をつけて」というようなものではなく、意味深いものを感じたから。まあ、パウサニウス逃亡用の馬を他の人が引いていくのを見て、何かおかしいとは気付いている様子のアレクサンドロスではあったけれど……。う~ん。

あくまでも映画の脚本についてではありますが、このへん、わかる方がいらしたらお教えください。

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2005.05.01

大王の帰還

『アレキサンダー』関東地区上映情報を発見。三軒茶屋シネマにて、5月14日より(1~2週間の上映と思われる)。しかも『五線譜のラブレター DE-LOVELY 』と2本立てだ。いや~三軒茶屋で映画見るのなんて、20年ぶりぐらいかも(爆)。←まだ行くのか?

本日は華々しくあちこちからいろいろなものが届き、心騒ぐ日だった。午後イチで、古書販売サイトで注文していた河出文庫の短編集『ファミリー・ダンシング』(デイヴィット・レーヴィット著)が届き、しばらくしてから月賦で購入した32型のテレビが届き(しかしDVDデッキを買う予定はないので、映画DVDは今までどおりPCで見るだけだ)、夕方ついに、例の『この世の果ての家』原書&オーディオCD11枚組が届く。

コリン・ファレルの朗読は凄い。凄いとしかいいようのないぐらい、凄い。最初にCDを再生し、彼の声を聴いたとたん、"heartthrob"(→(心臓の)動悸のことであり、心ときめく憧れの人というような意味も持つ)という言葉が頭に浮かんだ。心臓がいつもより強く速く鼓動し始めたから。だが、だか全く聴き取れない。ダラス・ロバーツの言葉は聴き取りやすいのだが、インタビューでもテレビ番組でもそうなのだが、コリン・ファレルの言葉はほとんど聴き取れない。しかも原書を追うのも間に合わないぐらい速いし……。最終的には、登るべき山のあまりの高さに、心臓の動悸よりも膝からくずれ落ちる思いの方が強くなった。いや~、こりは難関。

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2005.04.30

デモーニッシュ【dämonisch】

アジア映画ファンならおなじみの"YesAsia"で『アレキサンダー』香港版DVDの発売情報を見て以来ずっと悩みつづけてきたが、ついに迷いを吹っ切りもとい血迷い、29日の明け方に発注をかけてしまった(うーん、やはり明け方がいかんのだな。明け方まで起きているのが。明け方こそが通販の"逢魔が時"なのだな)。

さて、読み流し状態ではあるものの、今までに買いためた大王関係の本を、合間に別の本をはさみつつ徐々に読んでいる(別の本を間に入れないと、いくら中毒患者とはいえさすがに、同じ登場人物、同じ人生では、いかに書き方が違っても飽きる&混乱するから)。そんな中で、何となく思うことがある。

(オリバー・ストーンの)映画で、クレイトス殺害後に衝撃と悔恨のあまり自室(テント)にこもってしまうアレクサンドロスが描かれていた。インドにおいては、士気の下がりきったマケドニア軍の面前で、ただもう"Go East"しか頭にない王の空回りの演説に向けて次々と飛ばされるヤジに激昂した王が、兵の中へ飛び込み乱闘する場面があった。戦象部隊を相手取った戦さの後に初めて姿を現した手負いの王を、兵たちが大喝采で迎える場面もあった。

ないのは、怒りのあまり自室に引きこもった王に、兵たちが許しを請う場面か。……って何のことかと言うと、映画では"天岩戸"はクレイトス事件後の一度しか出てこないが、どうやらアレクサンドロスは、マケドニア軍兵士との間で、何度かそういうことをやらかしているらしいのだ。いや刺殺の方ではなくて、「ショックや怒りで部屋に入ったきり出てこない」という方を……。

インドの地で、遠征の目的を失い、ひたすら帰りたいマケドニア軍兵士を前にした演説が徒労に終わったあと、(映画では、インドの場面は史実の幾つかのエピソードを混ぜ合わせているため、すぐに反対派の粛清と最後の戦闘シーンに移るが、史書などでは)王は3日間引きこもったという。そして総合的な状況から王が折れる形となり、長い遠征からの帰還が始まる。その後にも、ペルシャをはじめ東方の異民族に比べて自分たちは軽んじられていると感じてきたマケドニア兵とアレクサンドロスとの間で(映画のインドでの乱闘シーンのような)衝突が起こり、やはり王は3日間引きこもっている(いつも「3日」なのは、「白髪三千丈」みたいなレトリックなのか)。このときは、マケドニア兵たちの方が王の宿舎前に参じて許しと憐れみを請い、出てきた王と互いに涙を流し合って元のサヤに納まったという。

映画の中で、2つの異なる馬上の行進の場面に各々かぶって入る、きっと誰もが覚えているであろう印象的なナレーションがある。まず前半の見せ場であるガウガメラの戦いの後の、バビロン入城の際の「アレキサンダーは全ての人々から愛された」というのが1つ。そして、後半の見せ場であるインドのポロス王の象たちとの戦いの前の、「アレキサンダーはもはや誰からも愛されていなかった」というのがもう1つ。この2つは、東征の評価という意味でも、アレクサンドロスの人生を語る上でも、前半と後半の明暗をくっきりと際立たせていて面白い。

彼を愛し、愛さなくなった「すべての人」とは、映画の中ではアレクサンドロスを取り巻く同胞も異民族もすべてひっくるめた"ALL"を指すだろう。だが、焦点を「すべての人」からマケドニア軍に絞ってみると、ガウガメラの勝利前後を頂点に王への信頼が徐々にゆらぎ、政策とも嗜好とも言える王の東方への傾倒が深まるにつれ、それをマケドニアへの背信だとする空気が濃くなっていくさまは、まるで恋人たちの蜜月から別離までの愛憎の年月を見ているように思えてくる。

いや、マケドニア軍と王との間には「別離」など訪れない。王が死の床にあるまで、兵たちの多くが王を愛し続けた。映画でも、インドの乱闘騒ぎの後それでも行軍を続ける重苦しい映像を見たときには、「何だかんだ言って、あれだけ騒いでおいて、結局ついて行くんじゃん、おまいら」とでもいいたくなるような、"口あんぐり"な気持ちを抑えがたかったし。王とマケドニア兵たちは、駆け引きを繰り返す恋の手だれのごとく押してみたり引いてみたり、「一生やってろ」と言いたくなるような、1対Nの腐れ縁カップルであり続けるのだ。

映画のガウガメラの戦いの前に、王がマケドニア軍を前に、何人かの個々の兵の名を呼び、それぞれの生い立ちや過去の実績にふさわしい言葉をかけて彼らを鼓舞する場面は、実際にアレクサンドロスが行ったことだという。王はマケドニア軍のほとんどの兵士の名前を知っていたとすら書いてある本もある(映画中、檄を飛ばすシーンだけではなく、ガウガメラの戦いの直後の、グラウコスの死の場面などからも、王と兵との1対1の距離の近さがうかがえる。「俺の」呼ばわりするのはヘファイスティオンだけじゃない。「名前は?」と尋ねられ、「グラウコス」という名のあとに"My King"ってつけてたもんね。"Your Majesty"じゃなく。あ、でも彼はイリュリア人か(まあ、いいか←よくない))。「王たるものは、部下に命じたことは、自分でもできなければならない」という教育(→映画の少年時代の場面)を受けた彼は、文字どおり全軍の先頭をきって戦い、皆と同様に手傷を負いながら、部下との間に強固な信頼関係を築いた。(などと、偉そうに断言してみるが、2300年も前の何が真実かは誰にもわからない。ここに書いていることは、研究者や作家の解釈のごくごく付け焼刃な鵜呑み&受け売りに過ぎない、無論)

映画の中では、上層部を集めての軍議の場面がしばしば見られ、当初は王と側近たちがほとんど対等の言葉で意見を戦わすのが新鮮だった。それはもちろん、ギリシャの民主主義をベースとしたものなのだろうが、側近たちにだけにとどまらず、マケドニア軍は心理的には全員が王とマブダチ状態(広義のヘタイロイ)である。マケドニア軍こそが、父王フィリッポスがアレクサンドロスに残した最大の遺産だと、どこかに書かれてあったっけ(←どこだよ)。そういう近しい心情の上に、軍事的天才といわれるアレクサンドロスのカリスマが加わったら、まあ、ああいうこと(="インクレディブル!"な長期遠征)にもなるか。

森谷公俊氏の『アレクサンドロス大王-「世界征服者」の虚像と実像』(講談社選書メチエ)中にも引用された、大牟田章氏のアレクサンドロス評、これは凄い。大牟田章氏は、概説としてアレクサンドロスに対する評価の変遷を示す中で、第二次世界大戦後には征服者としてのアレクサンドロスをヒトラーと重ねる解釈も生まれたことを記すときに、アレクサンドロスの内的な力を「デモーニッシュ」(ドイツ語=「悪魔的な」)という言葉で形容し、その後の文章に「魔的」という言葉で引き継いでいる(以下の引用参照)。

――(前略)――味方も、敵でさえも、出会ったものすべてのものを、その引力圏に引き込み、近づくあらゆるものに、自分と同質の磁性を与えずにはおかない。これはたしかに、抵抗し難い一種の「魔力」というべきものだった。「人間的魅力」などという生ぬるい表現では、とうてい尽くせない、それはある種の無気味さをすらたたえた「魔力」であった。
 私が、アレクサンドロス東征についてのいろいろな史料を、幾度読みかえしてみても、ついに私の理解を超えるのは、このアレクサンドロスの、「魔的な」としかいいようのない、力というか、性格であり、またかれの、その「魔法の采配」のもとに幾万の兵士たちが、「ただ黙々と」艱難苦闘の10年間をつき従ったという、その事実なのだ――(後略)――大牟田章著『アレクサンドロス大王 「世界」をめざした巨大な情念』の「はしがき」より引用

ということで、アレクサンドロスの東征とは、ある意味、マケドニア軍との愛の日々であったのか~と思う今日この頃の自分である。しかし何で、こんな戦争好きのキナくさい人の本ばっかり読んでいるのだろう。まさにデモーニッシュだ(←んな一言で片付けていいのか)。 
 
※内容に間違いがありましたら、ご指摘いただけると有難いです。

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2005.04.29

「今年は探偵モノの年」

jq44左は(わかります? わかる?)、なんと金勤クンである。「まだクランクアップしていなかったのか」の范植偉主演《偵探物語》に、范植偉に敵対する悪役(これまた探偵)としてゲスト出演した際の写真らしい→記事。まさに漫画という感じだが、まあ楽しそうだし、いいか。金勤クンは今年、大学(演劇系)の《影痴謀殺》という卒業制作劇でも、連続殺人犯を追う刑事の役を演じたそうで、「今年は探偵の年」だと言っているらしい。卒業となると、いよいよ俳優稼業に専念というわけかな。この人は常に"化け"て、見るものを楽しませてくれるので、これからが本当に楽しみである。

yyn41ついでに、祝日のご祝儀なのか(あ、中華圏はまだGWではないのか?)、祐祐の姿もあり→記事。いや~、たまには見にいってみるものだね、聯合網。

で、全く関係ないが、台湾での『キングダム・オブ・ヘブン』の公開タイトルは"王者天下"。これでは十字軍じゃなくて、何だか、豊臣秀吉なんかが出てきそうである。美しいオーリー様(←いや、全く興味ありません、自分)の画像の上にポーンと"王者天下"の文字が浮かんでいるのを見たら、その見慣れなさに、思わず笑ってしまった。で、『アレキサンダー』の方は、中華圏では"亞歴山大帝"とか"亞歴山大大帝"という表記で公開されていたようだ。オリバー・ストーンはインタビューの中で、そのタイトルに関して"The Great(大王)"のつかない"Alexander"であることを強調していたことがあった気がするのだが(←記憶がおぼろげ)、いいのか"大王"なんてつけちゃって? 監督意図はどうなるのか? ……ってやっぱり漢字で"亞歴山大"では、見た目のしまりがない?

うららかな日和とは裏腹に、世相が余りに暗いので、若者たちの画像は嬉しいデス。

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2005.04.18

2005年07月29日よりDVDリリース

やっと発売日決定。『アレキサンダー』日本盤DVD。で、詳細仕様はまだ。海外盤を調べていると、北欧盤やドイツ盤には見当たらなかった「監督&歴史アドバイザーのコメンタリー」がついている国もあるようす(→(ex)イタリア)。よかった、よかった(日本でもたのむ。どうせなら俳優のコメンタリーもつけてくれると、なお嬉しい)。

国内盤続報。ふつうの(=スタンダード・エディション)が3465円。プレミアム・エディションは海外盤同様に本編と特典ディスクの2枚組で4935円。さらに、『シカゴ』プレミアムボックスの"網タイツ"だの"パフュームボックス"だの"煙草入れ"みたいに、"アレキサンター着用ミニスカ"とか"ヘファイスティオン大理石像ミニュチュア"あたりがついてくるバージョンとかあったら、どうするかなあ(←ねえよ)。ミニスカはいいなあ♪ でも"サリッサ(長槍)"だけは保存に邪魔なので不要だな。


しかし、いくら10枚組12時間『この世の果ての家』を聴き込んだとしても、8月近くまでおとなしく待ってはいられまい。途中で英語字幕か中国語字幕あたりのついてるDVDを買うしかないかなあ(やっぱり5月半ばに発売されるイタリア盤か?)。

あ、ちなみに公式サイトでの劇場上映情報では、5/11~17大阪、5/14~27兵庫というのが増えている。愛知は今週末まで。

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2005.04.14

この世の果ての家(原書版)オーディオCD

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映画化と同時に、オーディオCDも出来ていたようだ。知らなかった~。2004年7月発行。『この世の果ての家』(英語原書版)を、ボビーのコリン・ファレルとジョナサンのダラス・ロバーツで朗読したもの。アリスとクレアは映画のキャストとは別。しかも、完全ノーカット版12時間CD11枚組編集版7時間半CD6枚組の2種類がある。そりゃ、ただ聞いていても何だかわからないだろうが、原書と一緒に聞くとか……。いやいや、ただ聞いているだけでも、ノーカット12時間はおいしすぎる。しかも、ボビーのパートとジョナサンのパートは映画どおりだし。あああああ~。

上記の話題と全く全然何の関係ないが、あのマフマルバフの映画にもなったアフガニスタンの都市「カンダハール」の語源は、「アレクサンドリア」なのだそうだ。宇宙戦艦でおなじみの「イスカンダル」は、「アレクサンドロス」のペルシャ語読みだというし。そういえば、アレクサンドロスの妻となったロクサネの発音する「シカンダー」というのも、確か、彼女の発音が不完全なのではなく、彼女の民族の言葉で「アレクサンドロス」が「シカンダー」だったかと。

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2005.04.12

ダミアン?

いつも出勤の支度をしながら聞いている朝のラジオ番組では、火曜日に映画評論家が2本づつ、週末に公開される映画を紹介する。

今週は『インファナル・アフェアⅢ 終極無間』と『海を飛ぶ夢』だったが、前者の出演者を紹介するときに、

  『HERO』で秦の始皇帝を演じたチェン・ダミオン

という声が聞こえてきた。間髪入れず「ダオミンだよ!」とラジオに罵声を浴びせる奴が1人……。陳道明、秦の始皇帝のみならず、ぜひともダレイオス3世を演じていただきたいと願っている自分である(←どこでだよ)。終極無間は、彼を見るためになら見にいってもいいなあ。

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2005.04.11

日記だな、しかもきのうの

土曜日は『バッドエデュケーション』を見に出かけたものの、時間ギリギリだったため満席で入れず、その足で上野に向かい大王を見る(←ほかの映画も見ろよ)。大王はキャパの小さな館ながらなかなかの客の入りで、最前列にも先客が2組もありびっくり。

その後、ニセ妹嬢と久々に会う。同病者なのでなから強制的に、あるいは息子自慢な母のように、DVD『フォーン・ブース』を見せる。

この映画なども、小品ながら、もし映画館で見ていたらもっと緊迫感があって面白かっただろうと思う。ビデオ鑑賞は、そりゃ「見ない」よりはいい。でもやはり映画は映画館で見なければ、その真価を味わい尽くすことはできないだろう。『アレキサンダー』などは特にそうだ。ガウガメラの戦いで右翼の先端を走っていたアレクサンドロスが「レフトターン」したときの俯瞰映像など、いつもアレクサンドロスを追って頭がスクリーン右下方向を向く。まるで、スタジアムでサッカーを見ているときのように、巨大なスクリーンの中の1点を目で追うのだ。それはもう平らな銀幕の中で起きているできごとではなく、3次元のできごとを目撃するに近い感覚だ。

昨日の日曜は、韓流シネマフェスティバルの前売り購入済み2作品を見るつもりが、DVDで『アメリカン・アウトロー』などを見始めてしまい、大した話ではないのだが軽妙で楽しい台詞のやりとりと激可愛いヒーローの魅力の深みにはまり、韓国映画1作品目に間に合わず。2作品目だけ見ようと意を決して出かけたものの、今度は新宿で5分だけ時間に余裕があったのをいいことに本屋に寄ってしまい、国内雑誌の某CFのグラビア記事と某JLのインタビュー記事を見ているうちに上映時間をオーバー。

あきらめてテアトルタイムズスクエアに向かい、ついに『バッド・エデュケーション』見る。

日本でのチラシの赤とピンクのバラのイメージのせいか、めくるめくような極彩色のどぎつい画面を期待していたが、内容の濃さに反して薄暗い画面、そして監督の語るとおり、非常にパーソナルなストーリー。タイトルはきっと"悪い教育"の方が、ヨーロッパ映画らしいし、作品本来の世界にふさわしいだろう(だが、"悪い教育"ではセンスが古すぎる)。私小説的なスケールの小ささと湿り気と、イグナシオのアパートの入り口のモザイクのような暗いきらめきに彩られた、猛烈に好みなつくりの作品だ。どこかの雑誌で批評家が、劇中で登場人物たちが見にいく映画にひっかけて、(この作品もまた)フィルム・ノワールだと書いていたが、そのとおりだと思う。

ガエル・ガルシア・ベルナルは、夢(それも悪夢)に見そうなぐらい強烈な引力で観客をひっぱる。全く異なる表情を見せる3つのベッドシーンは、どれも見応え十分だ。

愛と感動の美しい映画だと勘違いして皆が見にいくといい。きっと、エンタテイメントではない映画の奥深い魅力を知る人が、その中から出てくるだろう。

大王に続いて、今年はこんな作品が公開されちまって、自分はこのままどうにかなってしまいそうだと危ぶむばかりだ。それにしても、『アレキサンダー』や《A Home at the End of the World》ごときでキャリアを危ぶまれてしまうコリン・ファレルのいるハリウッドとは……と、全く別の部分でためいきが出た。もちろん、『バッド・エデュケーション』だって制作も監督も役者も、自らを賭して作っているに違いないのだが。

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2005.04.08

我慢しなきゃね

大王DVD、北欧圏(スウェーデン、ノルウェー、フィンランド、デンマーク)ではつい数日前に発売されたという。デンマークやスウェーデンのネット通販サイトで映像特典を調べていたら、ついつい買いたくなってしまって困っている。韓国まで1~2週間で発送、って書かれているところすらある。それなら、日本だってその程度の期間で届くんじゃないのか。2枚組のDVDは日本円にしておよそ5000円(デンマークの価格)で、送料を含めると7000~8000円弱ぐらい。今発注すればGW前に見られるって?(世界中でも、次に発売になるのは、早いところで5月中旬である) 当然、北欧仕様なので英語字幕ではない。リージョンも違う。そりゃあもちろん国内盤は買うんだが、下のような具体的な数字を見ちゃうとねえ……。我慢できるのか、自分。

 ●北欧版の2枚組のうち、本編以外の1枚の内容は、制作ドキュメンタリーが76分、メイキング映像12分、インタビュー15分、削除シーン15分。

もうそろそろ、国内盤の情報が出ていいころだ(7月発売という情報はどこかにあったが)。日本版が発売されるときには、監督&俳優のコメンタリーなんかがついてると死ぬほど嬉しいのだが、無理? ついでに字幕監修をされたマケドニア史の森谷先生とか、時代考証(アドバイザー)のロビン・レイン・フォックス氏あたりのコメンタリーなんかもついてると、さらに嬉しいんだけどなあ。

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2005.04.06

ワンダーランドから

ヴァル・キルマー主演、ワンダーランド。5月公開。かなり良い出来という噂→公式サイト。ヴァル・キルマーって誰かに似てるなあと思っていたら、どこか『ロードムービー』のデシク(ファン・ジョンミン)を思い出させる表情を見せるときが……。え?似てるのは髭面だけ?

気になっているのは、この人の『ドアーズ』(オリバー・ストーン監督作品)。未見。映画は、『この世の果ての家』の翻訳者、飛田野裕子さんが訳された『ドアーズ』(ジョン・デンズモア著)とは別物?

翻訳者といえば、『わが家の犬は世界一』と陳道明にトラックバックを飛ばしていただいている「しのわずり」の管理人さんは、何と范植偉も出演した《地下鐵》の原作である絵本『地下鉄』をはじめ、『Separate Ways 君のいる場所』(金城武主演の『ターンレフト ターンライト』の原作)など、ジミー作品を翻訳されている方である。

そういえば、『アレクサンドロスと少年バゴアス』も、翻訳者の方が10年間手塩にかけて訳された労作である。いろいろ読んでくると、この作品はバゴアスを視点にしている故に、小説としてのユニークさが群を抜いていることを実感する。ロマンチックな割には表現が抑えられていることにも好感を持つ。『アレキサンダー大王 陽炎の帝国』などの方が、小説として大胆な脚色がほどこされている感じを受ける。

そして久しぶりに映画館で大王以外の映画を見た。前売りを買ってあった『清風明月』だ。前評判が相当悪かったので全く期待していなかったのだが、やはり楽しませてくれた(公開、ずっと待ってたんだもんな~)。チョ・ジェヒョンが良いのは言わずもがなだが、チェ・ミンスの鬼気迫るラストにはびっくりした。『MUSA-武士-』といいコリン・ファレルのアレクサンドロスといい、"長髪、血みどろ、鬼の形相"というパターンには結構"持っていかれる"ものがある。で、『清風明月』を見た人の多くが「なんだかなあ」と言っているのは、全てが主演2人の気恥ずかしくなるような友情に収斂されてしまうから? 『アレキサンダー』の感想でよく見かけるのと同じ?

思いつくままのだらだら記事にて失礼します。しかし最近、アレルギーが完全に"膏肓に入る"状態。


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2005.04.05

バビロンの残り香

本日から東京国立博物館で始まる「ベルリンの至宝展」、きっと"何か"あるだろうと思ってサイトを見にいったら、ありました。

いや、"何か"ってギリシャかペルシャかそのあたりの、「あれ」とか「これ」とか~。

展覧会には、アレクサンドロス関係の本にも出てくるバビロンの、イシュタル門のライオンのレリーフが出品されている模様。公式サイトの画像(古代西アジア美術に分類される)だと色がよくわからないが、地のレンガは青いんである! 映画に出てきたあのバビロンの門と同じ青である(って、映画の方が、実物を模したセットなのだが)。

ラファエロもボッティチェリも見ずに、レンガの色だけ見てうっとりしているバカが国立博物館にいたら、それはこの……。
   ↓
4/5初日、仕事ぶっちぎって見てきた(←ウソ、たまたま休出の代休だった)。正確には門のレリーフ(フリーズ彫刻)ではなく、イシュタル門につづく行進道路の両脇を飾る壁の彫刻である。新年の祝祭のときなど、ペルシャ王の行列が通る道を飾ったもので、彫刻のライオンも何頭も連なって行列を形づくるわけだ。

今回の展覧会は幅広く近代美術まで展示しているが、中でも、エジプト、古代西アジア、ギリシャ・ローマ美術あたりが圧巻だ。エジプトの木棺をしげしげながめ、ギリシャ彫刻に見とれた(ハドリアヌス帝寵愛の若者アンティノオスの像の美しいこと!)。

さらに、コインのコレクションの筆頭を飾るのがアレクサンドロス時代の4ドラクマ銀貨。表はヘラクレス、裏はゼウスで、ゼウスの脇に「アレクサンドロス」と刻印された、いかにもいかにもアレクサンドロス好みのコインである(笑)。

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2005.04.03

花より何とか

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本日の上野。写真撮るの下手すぎ(発光なしで撮ったものは思いっきりブレてたし)。

……確かに『アレキサンダー』は、(興業的に)失敗作かもしれない。映画は、いろいろ調べてから見ると、あらゆるシーンが様々な資料に基づいていることがわかるが、作品としてはどこか"生硬"な感じがする。それが欠点でもあり、魅力でもある。歴史大作でも娯楽作でも芸術作品でも人間ドラマでもなく、形容するならやはり"問題作"だと改めて思う。それを"失敗"というなら、コリン・ファレルにはあえて劇中のプトレマイオスの言葉をかけてやりたい気がする。「君の今度の"失敗"は、どんな成功よりも栄光に満ちているよ」と。

彼の『ヴェロニカ・ゲリン』での登場シーンと『リクルート』のコメンタリーはかなり可愛い。このところ、『フォーン・ブース』と『デアデビル』の次に気に入っている。

『アレキサンダー』は、現在の最終カットの前、4時間の作品だったという。そいつを見てみたかったなあ。ゲドロシア砂漠の灼熱地獄の帰還シーンとか、なかったのか? 国王クラス、いやそれ以上だったと言われるヘファイスティオンの葬儀シーンとか、なかったのか?(あっても盛り上がらないか……)

最近、読み飛ばしていたインタビューをちゃんと読んだら、すっかりヴァル・キルマーもお気に入りだ。なんとこの方、きっちり日本でもファンサイトがある。いや~、次の公開作が楽しみな、これまた"役者バカ"系俳優である。

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2005.03.31

ウサギのように走ったというか、転げたというか

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上は3月5日に出かけた「韓国インディペンデント映画2005」会場のイメージフォーラムの外壁に飾られている、映画『ブエノスアイレスの夜』中に登場するガエル・ガルシア・ベルナルのポスター。ニセ妹嬢が撮影してくれたもの(深謝)。ぐっと縮小したのでここに無断で貼らせてもらった。本物はどこぞの古代戦闘図モザイクのごとくでかい。勝手に使用してすみません(→to ニセ妹)。

今年の「韓国インディペンデント映画2005」は、昨年以上にパワーアップされた作品群で、とても見応えがあった(特に『スパイするカメラ』と『シン・ソンイルの神隠し』は面白かった。前者は、社会問題をテーマにしたインディーズ作品にもかかわらず、『スパイダー・フォレスト 懺悔』あたりよりずっと娯楽性があり楽しめたし、後者は『地球を守れ!』に似たパワーを感じた)。長編・オムニバスあわせて5作ほどしか見なかったのだが、もう少し「心ここにある」状態であれば、どの作品ももっと深い印象を刻んだに違いない。

3月中、これら以外に映画館で見たのは、よく考えたら恐ろしいことに1作品だけだった。その1作品のために何度映画館にのこのこ出かけて行ったか、回数は恥ずかしくて書けない。

DVDでハリウッドの娯楽映画ばかりを見ていると、特にそれがよくできていて夢中になれる大作だったりすればするほど、しばらくしてから”物足りなさ”が残る。丸い入れ物に四角い物を入れたときのような、隙間があるのを感じる。収めた四角が強烈に魅力的であれば隙間の存在をしばし忘れるが、いつしか四隅を静かなすきま風が通りだす。その間隙を埋められる最大のものが、自分にとってはアジアの映画というわけなんだろうか。

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2005.03.25

The King Lives!

とりあえず情報のみ。

上野東急(本日、大王上映最終日)からJR上野駅へ戻る途中、駅前の上野セントラルに大王の美しい(?)看板と上映時間が……。とりあえず、少なくとも4月1日(金)までは、こんどはここで上映するらしい(公式サイト情報では、4月15日までと表記あり)。都内とはいえ、どんどんこぢんまりとローカル色の強くなってくる上映館ではあるけれど、世界のどこかで必ず上映されているというGWTWじゃないが、どこかでやってると思うと嬉しいものだ。 Alexander, Be with us!

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2005.03.23

コリン・ファレルのボビー・モロー

《A Home at the END of the World》の見どころは、何と言ってもコリン・ファレルのボビーに尽きる。どういう関係でこの仕事を引き受けたのか、見つけたいくつかのインタビューではよくわからないのだが(言葉がわからないだけかも?)、この映画のボビー・モロー役がそれまでの役柄とは毛色の違うものであることは確かで、ここ2~3年力を伸ばしている彼の俳優としての意欲の表れと解釈するしかないだろう。その割に、大人ボビー初登場時のヒッピー風の長髪には、本人、不満タラタラだったりするのがご愛嬌だ。

HEW_a_bniezi_ex左はコリン・ファレル演じるボビー・モロー。右は台湾のボビーこと呉敏(飾・張孝全)←ウソウソ(ボビーと小敏は全然違う)。しかしこの「隅っこにくるっと丸まった内向的な
ゴツい兄ちゃん」ってあたりだけは共通しているかと……(並べて自分が嬉しがりたいだけだろう)。

以下、気をつけてはいるつもりですが、映画および原作小説に関して、物語や登場人物の詳細にかなり触れています。クリアな状態で映画を見たい方は読まないでくださいませ。⇒つづき
うーん、IE以外だとちゃんと開かないようなので、あとで対処します。すみません。


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2005.03.15

Looking for A HOME to THE END OF THE WORLD

タイトルが英語として正しいとは全く思えないが、ヒンドゥークシュ山脈でプトレマイオスとこんなことを話していたのだ、大王は。

で、おわかりの通り相変わらずバカがやまず、恥ずかしいので鳴りをひそめていた。今、何かを書いても、うわごとのような状態にしかならぬので。ほれほれ、たとえばこのように。 

「ダレイオス王はビン・ラディン似だとかいろいろな声もあるが、ヒンドゥークシュで並んだプトレマイオスと大王こそ、クリントンとブッシュのようではないか? いやいや、バビロン入場後の親友とのラブシーンで征服地の民への夢を語る大王こそブッシュそっくりだろう。だが、ガウガメラの戦い前にフォボスに祈る大王のしぐさの可愛いことといったらない。可愛いというなら、そのガウガメラの戦場で右翼を広げきったところで急に方向転換して走り出した後、振り返ってにやっと笑う顔はまさにメガス・アレクサンドロスと言えよう。でも好きなのは、戦いが終わったガウガメラの負傷者たちの中に立ち泣いている大王だったり、その信すら失った兵の前で半分錯乱状態になりつかみ合いをするインドでの大王の姿だったり、ポロス王の象部隊との戦いの後、傷ついて声すら弱々しくなった真っ青な顔色のキリストのような大王だったり……。前半のまさに神の子としての輝かしさと、後半の一個の人間の弱さををさらけ出した描写の対比が、大王の魅力を深めている。その上さらに、ファレルの演技が、キャラクターを生き生きと印象付ける。たとえば、何が凄いって、子役からファレルに交代した19歳の大王の初登場シーン、オリンピアス母の言葉の中に親友のことが出てきた途端に、表情がとてつもなく思いつめたせつないものに変わるのには、見るたびに驚かされるし、親友と見詰め合うシーンよりよほど艶っぽいではないか。ソグディアナで、その後娶ることとなるロクサネの踊る姿を見つめて、明らかに呼吸が速くなっていくのがわかるところも生々しくて凄い。マラカンダでの酒宴でクレイトスと言い争うときの"Why not?"の台詞あたりも印象的だ("ジャン"とBGMもついている)。台詞といえば、王の"Go!Macedonians!"の声は耳について離れないし……」

こんな具合に、いくらでもノンストップで、脈略のないことを語り続ける状態が……(汗)。おあとがよろしいようなので、ここで失礼し、『マイノリティ・リポート』でも見ることとする。次にお会いするときには、正気にかえっていますように。以上、病状報告おわり。

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2005.02.28

Out of Control

ゆうばり国際ファンタスティック映画祭で、『人魚姫』がグランプリだそうだ。昨年のグランプリ作品『木浦は港だ』も、1年以上過ぎて、ようやく韓流シネマ・フェスティバルで4月に見ることができる。『人魚姫』は大好きなチョン・ドヨンと、あのパク・ヘイルの共演作。いつか見られる日が来るのが楽しみだ。

さて今日は、ニセ妹とキム・ギヨン監督の映画を見にいこうと以前から決めていたにもかかわらず、不心得にも前売りも買わずにのこのこ出かけていったら、ちょうど合う時間帯の上映は既に満員で、当日券なし。「ユリイカ」の韓国映画特集を読んで以来ずっと見たかった監督の作品だけにショックではあるが、実は2003年にも見るチャンスがあったのを見逃している。伝説の鬼才監督のことだ。きっとまた作品が上映されることがあるだろう、と自分に言い聞かせ、『ダブリン上等!』2回目に走る(→やっぱり)。

土曜深夜に、同じくニセ妹と『アレキサンダー』を見、合間には自宅で先週届いた《a Home at the End of the World》DVDを見たため、はからずも今週はコリン・ファレル祭りとなる。この《a Home at the End of the World》、映画としては今1つ盛り上がりと緊張感に欠ける感があるが、子ども時代から青年期までの年月の登場人物たちの心理を静かに追った小作りな映画で、インディーズ特有のひなびてしみじみとした味わいはある。ローティーンのころから親友以上のつながりの中で育った少年たちが、一度は離れ、成人してから再び、今度はもう1人女性をまじえて3人で生きはじめるという、家庭と家族の新しいあり方を探った話だ。原作本(『この世の果ての家』)を持ってはいたが未読のままだったため、今やっと追いかけるように読み始めたところで、英語字幕の映画がどの程度理解できているのか全く自信はないが、ここでコリン・ファレルが見せる主人公ボビーの、少年の表情を残す非常にセンシティブな演技には瞠目する。ゴシップなどから推察されるファレル本人の人となりを想像すると、このボビー役は、そのキャラクターのあまりの違いに大爆笑したいぐらいなものだが、決して笑いなど出ようもない文句なしのリアリティで、ホビーの存在を観客に信じさせる。ファレルは、この作品を気に入っていないというような記事しか見当たらないのが残念だが、彼の役者としての才能を見せ付けられる役柄だ。実はこのボビー、全ったく違うのだけれど、なぜか呉敏少年を思い出させるところがあるのだ。呉敏みたいな"乙女"じゃないんだけれどね。監督はマイケル・メイヤー(長編作品としては初監督……だったっけ?)。映画の脚本を、ゴージャスなことに原作者のマイケル・カニンガムが書いている。今年日本でも公開予定。

大王中毒状態のまま、主人公の成長とともに時代を映すロック音楽の懐かしさと、うつむき加減(!)のボビーに引きずられると、そりゃあどうしようもなくせつないのだが、その内向性ハイテンションを中和してくれるのが、『ダブリン上等!』のレイフだった。すっきり、である。二日酔いの日の漢方系胃腸薬のように。いやあ、上等、上等。それにつけてもアジアの遠さよ。

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2005.02.26

極東で大王に会える場所

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貼ったのは、「アレクサンドロス・モザイク」と呼ばれる横5.12メートル、縦2.71メートルのアレクサンドロス(左端)とダレイオス三世(右端)との戦闘図のモザイクで、多くの人が一度ぐらいは何かの本で見た記憶のあるものだと思う。ベスビオス火山の噴火(西暦79年)により埋もれてしまったポンペイから出土したそうで(『ポンペイ最後の日』という映画をテレビで見た記憶がある。以降、中学生という若いみそらで"ポンペイ"ファンだった(←灰で埋没した"街"なのに!))、発掘後、今はナポリの考古学博物館に保管されている。

映画『アレキサンダー』のガウガメラの戦いのシーンなどは、このモザイクの雰囲気をよく写していると思う。アレクサンドロスの若さと緊張感。敵味方入り乱れ砂ぼこりにまみれた戦場。ペルシャ王の姿なんてそっくりだ。森田公俊著の『アレクサンドロス大王』(講談社選書メチエ)という本の中で、このモザイクに関する丁寧な記述があり、加えて本のあとがきの中には、何とこの「アレクサンドロス・モザイク」の実物大の復元が見られる場所が日本国内にあると紹介されていた。

それが徳島県鳴門市にある大塚国際美術館。世界の名画1000点以上を写真撮影し陶板に焼き付けた実物大の"陶板名画"を展示している美術館で、その技法の複製作品は2000年は劣化しないのだそうだ。古代からルネサンス、印象派まで、有名どころの作品の陶板画を並べた三次元画集のような施設だが、何だか、鳴門のうずしおが呼んでる?

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2005.02.23

いろいろとショックな

韓国女優イ・ウンジュが亡くなったのはショックだ。しかも彼女はまだ25歳の若さだそうだ。日本ではもうすぐ『バンジージャンプする』が公開されるというのに。

『シュリ』のヒットにより起こった韓国映画ブーム(今のジャパニーズ"韓流"とは比較にならない規模だが)の時点で、まだあまり韓国映画を見ていなかった自分が、やっと初めて見たのは『アタック・ザ・ガス・ステーション!』だ。これは女性も出てくるが、男性ばかりが印象に残る威勢のいい青春映画。そして2本目に東京国際ファンタスティック映画祭で見た韓国映画『バンジージャンプする』で、初めて覚えた韓国女優の顔と名がテヒ役のイ・ウンジュだった。

上手い下手ではなく、情感あふれるキュートな印象で好感を持った。彼女の魅力があってこそ、その後の荒唐無稽な展開(といったらファンに怒られるかな?)に信憑性が出たのだろうし、イ・ビョンホン演じるインウ(イヌ)の想いが納得できたのだと思う。『バンジージャンプする』は、笑えるせつない恋愛映画で大好きな作品だ。

2004年に入り、ホン・サンス監督の旧作『オー、スジョン!』を見るチャンスがあり、さらにシャープで大胆な彼女の美しさに驚く。そして『ブラザーフッド』。バンジーやスジョンでの可愛い子ちゃんとは全く違う、質素な戦時中の女性になりきっていて目を見張った。(余談だが『ブラザーフッド』の見どころは、戦闘シーンでも"brotherhood"でもなく、イ・ウンジュの変身ぶりと、チャン・ドンゴン後半のヒゲクマ姿だと信じている自分である)。

……残念でならない。ぐずぐずした子どもっぽいインウを引っ張ってちゃっちゃとホテルに進み入るテヒ、ちょっとインウよりお姉さんな感じが、良かったなあ。

さてもう1つ、小さなショックは検索ワードだ。当方のトータルのアクセス数は微々たるものだが、最近検索でいらっしゃる方々のキーなんてものを久々に見てみたら、その1位は何と………ははは……参ったな……「ヘ●ァイスティオン」だった。台湾の若手(范●偉と藍●龍)を抑えて堂々の1位である(笑)。このまま書くと、このくだらぬ記事がまた検索でヒットしちゃうから伏字にしてみました。 歴史に興味のある人なら別だろうが、興味のない人は、自分もそうだがプトレマイオスやカッサンドロスの名は聞いたことはあっても、彼の名には馴染みがない。でも、もうこれで一生忘れえぬ名になったやね。やれやれ(←to自分)。

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2005.02.21

引き続きアジアを離れ

もう、何かに取り憑かれたかのように『ダブリン上等!』に行く。『アモーレス・ペロス』でコリン・ファレルだと言われたら、今の自分を引き止められるものは何もない。

コリン・ファレル演じるチンピラのレイフは、まさに『アモーレス・ペロス』の危ないスキンヘッドのオクタビオの兄ちゃん・ラルフのようなイメージで冒頭から登場。コーヒーショップのレジのお姉ちゃんを口説いていると思いきや、相手が女性だということも全くおかまいなく顔面に強烈なパンチをくらわせ、レジの金を奪って逃走する。そのスピード感、強盗というシュチエーション、続いてカーチェイス、そして様々な人々が登場してくる群像劇というあたり、確かに『アモーレス・ペロス』か……。などと思いつつ見始めたが、この映画の魅力は『アモーレス……』でもコリンでもなく、全く別のところにあった。

最初はサスペンスか、破壊的な生き方をする若者たちの話かと思っているから、口をひん曲げて画面を見据えているのだが、出てくる人物すべてがあまりに普通で、あまりにヘンで肩すかしを食らううちに、徐々に徐々に口元がゆるみ、笑いがこみ上げてくる。いや~普通の人ってヘンなんだよね(俺もか)。(アイルランド映画だが)イギリス映画風の諧謔に満ちた人物描写。お茶にソースを入れ、神妙に「ウマイ」といいながら飲む男たちがいる。若い女性との不倫のために家庭を捨てて出ていこうとした中年男に、泣いて追いすがった妻が実はサディスティックな性癖をもっていたり、こっぴどく恋人に振られて以来、男性不信、人間不信で髪はぼさぼさ服にもかまわず、口ひげまで生やしたままの女の子もいる。長い間彼女をつくれないままついに性的不能状態に陥り、焦ったあげくに女性なら誰でもと熟年ばかりが集まるクラブにナンパにでかける若者とか、米国かぶれの著しいスーパーの中間管理職のオヤジとか、一匹狼を気取り勝手な正義感と妄想にとりつかれている暴力的な中年刑事とか……。コリン・ファレルのレイフは、街のチンピラで凶悪な風貌だが「そろそろお部屋も持ちたいし、家庭を築いて、中華なべとかジューサーとか、キッチンに置いたりして~♪」などと夢見て強盗に励む。パブの車椅子のじいさんや、投石少年も映画を盛り上げる(?)。

一応、犯罪がメインのストーリーなのだが、普通の人々のヘンでかっこ悪い出来事を、音楽も含め映画として凄くかっこ良い見せ方で見せていると思う。みんな、相当命ギリギリなことをしていたりするが、最終的には死なないし、後味はほのぼのとしたものだ。脇役のオヤジ陣&ヒゲ姉ちゃん&暴力主婦にかなり魅せられる。この絶妙な加減の面白さ、どこかで味わったなあと思うが、思い出せず、残念。

夜、『モーターサイクル・ダイアリーズ』の撮影風景をドキュメントした『トラベリング・ウィズ・ゲバラ』を見る。これは『モーターサイクル・ダイアリーズ』に匹敵する素晴らしい作品だと思う。80歳になったアルベルト・グラナード本人(非常に魅力的なじいさん)が撮影に同行。監督よりも先に、テイクにOKを出すなんていう微笑ましい場面もある。チェ・ゲバラにまつわるラテンの歌が全編に流れ、ラストはゲバラの演説の声。ぜひ本編と一緒にDVD化してほしい。

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2005.02.19

かわをわたる

花粉症の季節。世の中に氾濫する「アレ」ルギーの文字にも反応。めったに読まないノベライズも読んだ(ほとんど全く映画どおりで、書籍として読む価値は皆無だが、ヘファイスティオンとの3つのラブシーン(なのか?)での彼の気持ちの表記あり(1行程度)。ガウガメラの戦法もよくわかる。興味のある向きには「さらう」程度の価値はあるかもしれぬ)。大王まわりの書籍&映画関係の雑誌も購入。こんな状態で、3~5月の韓国映画ロードに頭がシフトできるのか、はなはだ不安ではある。まあ、さらにインパクトある映画に出会えば元にもどるだろう。おそらく世の腐れたみなさんの大半も、心は大王のみもとにあるのではあるまいかと思う。で、公開前、話題を呼んでいた「カットされたラブシーン」なんてものがあったとしたら、それはバゴアスとの場面ではないかと想像しているが、いかに。そう、あの「おいで、おいで」してる後のね。

今年に入って2本の「かわを渡る」映画を見た。1本は、若き日のチェ・ゲバラがアマゾンを泳いで渡る『モーターサイクル・ダイアリーズ』。もう1本は、在日朝鮮人の美少女に恋した若者(康介)が鴨川を泳ぐ『パッチギ!』。その「かわ」は自分のいる世界と異世界とを隔てるもので、エルネスト(ゲバラ)にとっての異世界は、対岸にあるハンセン氏病患者の療養所に暮らす人々が象徴するあらゆる虐げられた人々の社会だったし、康介にとっての異世界は、美少女の暮らす在日朝鮮人社会だった。あるきっかけにより向こう側に激しく心をひき寄せられた2人が、自分と向こう岸を隔てる「かわ」に飛び込む、エルネストは無謀に(アマゾン河を横断しようとは!)、康介も無謀に(すぐそばに橋があるのに!)。東洋と南米という全く異なる場所ながら、舞台となった時代の差は15~20年程度だ。

だが、向こうに行こうとする強い意志を核にした2本の青春映画は、全く異なる作品世界を形作った。『モーターサイクル・ダイアリーズ』は、楽しいロードムービー的場面と南米の現実を焼き付けるドキュメンタリー風の映像を織り交ぜ、旅がもたらした文学青年エルネストの成長、伝説の人チェ・ゲバラへと歩み出すきっかけとなった彼自身の内面の変化をさわやかに描く。一方『パッチギ!』は、60年代後半の風俗の中で康介の恋物語を中心に「笑いと涙」で引っ張りながら実は、日本人と朝鮮(民族)の人々との間にあったこと、今でもあることを教え(思い出させ)、韓流にうかれるイマの日本人に「足元固めなよ、本気でつきあうなら」と、そっと肩ごしにささやいたエンタテイメントだ。

『アレキサンダー』で描かれた理想に燃える若き王アレキサンダーもそうだが、アマゾン河を泳いで渡るエルネストにも、違いを乗り越えていこうとする強烈な意志がある。もう意志だけで、"ありえねー"ことを実行していく。そして、力で、知恵で、心で、周囲を納得させる。目の前にはだかる山が高ければ高いほど燃える、と言わんばかりの決然たる生き方だ。

ところがそんな乗り越えがたい現実に直面すると、ここ日本では「悲しくてやりきれない」になる。康介は恋をきっかけに、彼女の世界を知ろうと在日朝鮮人の人々の中に飛び込んでがんばるのだが、葬儀というとても民族的でパーソナルな儀式の場でついに日本と朝鮮半島の過去、在日朝鮮人の現実を突きつけられ、おずおずと後ろ足のまま斎場を出る。無力感にさいなまれさまよう場面で流れるのは、この映画の最も大切なモチーフである「イムジン河」を歌ったザ・フォーク・クルセダーズの、「悲しくてやりきれない」だ。音楽と心がぴったりと合った美しい場面ではあるが……。

当然ながら、自分も「悲しくてやりきれない」派である。「世の中にはどうにもならないことがある」という諦念は、東洋、いや日本だから、なのか。人が、人をも自然をも征服していく狩猟の民と、自然に合わせ自然を恐れ自分を無化していく農耕民族、というありふれた図式で対比してしまえば終わってしまう話なのかもしれないが、その本質は「悲しくてやりきれない」と歌う『パッチギ!』が小品ながらパワー炸裂の仕上がりなのに対し、チェ・ゲバラという強烈な個性を主人公にすえた『モーターサイクル・ダイアリーズ』が(ガエル・ガルシア・ベルナル出演作には珍しい)淡く美しい印象を残す作品となっているのが面白い。

さらに『パッチギ!』では、日本に住む日本国籍ではない人々が、例えば就職先1つとっても限られたものであること、棺が入らないほど間口の狭い家に住む人もいること、生業と生活する場を求めて転々としなければならないことなどが、メインストーリーの中でさらっと、しかしきちんと描かれているのが良い。

全くの余談だが、『パッチギ』上映館では、ガエル・ガルシア・ベルナルの次なる出演作『バッド・エデュケーション』の予告がかかっていた。この作品での彼は「レスリーみたいだ」と誰かが言っていていたが、ブロンドのウィッグをつけ大画面で艶麗に微笑む姿は、確かに虞姫を演じる程蝶衣か女装の何寶榮のようだとも言えるかもしれない。

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2005.02.13

見てやって、アレキサンダー

昨晩、地元のオールナイト上映で『アレキサンダー』を見る。苦手な史劇&めったに興味をそそられぬハリウッド大作だが、もちろん腐れ婆としてはとりあえず押さえておかなきゃいかん映画でしょと、バカな理由で映画館へ。

米本国での興業不振&ラジー賞への多部門のノミネート&あちこちから漏れ聞こえる悪評、の割には、それなりにちゃんとした映画だったと思う、"腐れレンズ"外しても。

大体、アレキサンダー自身も、彼の生きた時代も、今もって謎だらけなんだろう。それなら、謎のままでいいじゃないか、『殺人の追憶』みたいに(←質、違いすぎ?)。どうして遠征したのか、どうして死んだのか、どうして偉大だったのか、解明などされなくたって……。

見た人の声に不満が多いのは、歴史物というと、NHK大河ドラマのように、史実の因果関係がわかりやすく説明されていることを期待しがちだったりするからじゃないのか。あるいは、登場人物の愛憎の人間関係がクローズアップされていて"歴史上の人物も自分と同じような"人間"だったんだなあ"などと感情移入しやすかったり、あるいは、話は小難しいけれども何だか芸術的な感じで荘厳で有難く感じられたり、そんな先入観があるからじゃないのか。別にそんな期待をせずに見れば、『アレキサンダー』、楽しめると思うのだが。もちろん、息もつかせぬハリウッドアクション大作としてではなく、ほんの少し時空と人間に対する想像をめぐらせながら見る史劇としてだけれど。

そういう意味で、もしかしたら、アンジェリーナ・ジョリーやコリン・ファレルをキャスティングしたのは、彼らの現代的で強烈な個性ゆえに、この映画の見られ方という面でマイナスだった気もする。アンジェリーナ・ジョリーは好きだし、劇中でもがんばっていた。コリン・ファレルも、生き生きとしていて魅力的だったと思う。でも、もうちょっと"薄め"の俳優を使った方が、観客は期待しなかったんじゃないのか、わかりやすさとか、圧倒的な物語性とかそんなものを。もやもやと、遥か遠い歴史の物語を、そのままに見ようとしたんじゃないのか?(アンソニー・ホプキンスが出てくると、出来上がった過去の物語として、安心して見ていられるあたりの心理……)。

監督が『アレキサンダー』で描きたかったのは、「若い情熱の美しさ」なんだそうだ。ポスターの馬に跨るアレキサンダーの脚がまぶしくみえたのは、さほど方向違いじゃなかったわけだ(笑)。コリン・ファレルという人は、それだけでも活きのいいキャラクターだそうだが、スチール写真で見るよりもずっと"歴史上の偉大な人物"らしかった。いや、時折、あの目がジョージ・ブッシュに見えて(←ごめん、コリン。あんな馬鹿と一緒にして)、そうなると戦闘シーンが今のイラクに見えてきたりもしたが(あ、実際イラク近辺か)。

京都や奈良の古寺を見ると、仏や伽藍の抜けきった水墨画のような色調に、流れ去った時を感じ精神的なものさえ託してしまうが、よく言われることだが、創建当時の寺は建物も仏像も金ぴかツヤツヤだ。建物はディズニーランドのごとく、仏像は金日成像のごとく、明け透けで身も蓋もない。

(真実はどうか知らないが)日常はセックスと酒の"アレキサンダー"と噂される若い突っ張ったニイちゃん、コリン・ファレルを得て、何年も10何年もあたためてきた監督の夢のアレキサンダーを描くとなれば、そりゃ、新築金ぴかの東大寺になるだろう。芸術映画風にしてしまえば、謎が解けずとも、ストーリーにぐいぐい引っ張られずとも、見る人はそれなりに納得したかもしれないのに……。自分が描きたかったものを、誠実に描いたんだなと、他に作りようもあっただろうに、太陽を背負った馬上のアレキサンダーの明るさと眩しさとはかなさとを正直に映像化したんだろうなと、納得はできる。

違和感を覚えたのは、言葉だ。アレキサンダーの母に方言を含ませてみたとか、マケドニア人をイギリス・アクセントにしたとか、言葉に対する細かな工夫があったようだが、あの衣装、あの風景で、"英語は違うよな"と、単なる感触だが、そう思った。アメリカ映画だから、もちろんそんなことを言っても仕方ないのだが。

腐れ的には、アレキサンダーがヘファイスティオンを見つめる目だけで十分だろう。母とのシーンはつらいし、外では1人突っ走るアレキサンダーに置いていかれがちな観客がほっこりできる場面は、ヘファイスティオンとの場面だけだしね。描写不足との指摘もあるが、ここはほれ、『アレキサンダー』における"阿青&趙英エピソード"みたいなものだから……。

そうそう、そのコリン・ファレル、全裸シーンがカットされて激怒したという2004年米公開済みのインディーズ映画"A home at the end of the world"という作品がある。原作は角川文庫にもなっている『この世の果ての家』(『めぐり合う時間たち』の作者でもあるマイケル・カニンガム著)。自分、オールナイト明けで、またしても血迷ってAmazon.comでDVDを発注。いや、シシー・スペイセクも出ているんで期待したが、あとから評判を読むと、原作ほどの出来ではないらしい。うーん、バカだ。

もう1つ、コリン出演作でもうすぐ公開になる『ダブリン上等!』の方は、大丈夫だろうか? 作品評で『アモーレス・ペロス』が引き合いに出されている以上、見にいかねばならぬが(笑)。

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