2009.03.23

誰も寝てはならぬ

先週『ダウト~あるカトリック学校で~』を見た。今年初めて出かけた一般公開作品だが、1本目にして既に「今年のベストでは?」と感じるほど、好きなタイプの佳作だった。

内容はシンプルで……とあちこちで紹介されているとおり、ブロンクス(ニューヨーク)のカトリック系学校の校長(シスター・アロイシス=メリル・ストリープ)が、教師でもあるフリン神父(フィリップ・シーモア・ホフマン)に対し、ある男子生徒に性的な関係を強要しているのではないかという疑い(「ダウト」)を持つというだけの話である。

アロイシス校長のフリン神父への疑惑を形づくったのは、恐らくは日常の中の小さな違和感の積み重ねと、校長自身が目撃した一瞬の出来事だったろう。疑いを確信に変えたのは、校長に猜疑心という色眼鏡を授けられた「部下」シスター・ジェームス(エイミー・アダムス)からの、証拠以前の「異状」報告だ。が、フリン神父に尋ねたところで、シスター・ジェームスによる状況証拠には、一般的には十分に納得のいく釈明がなされるだけだ。

「開かれた教会」という新しい風を体現したフリン神父の教育と人柄に、日頃から信頼を寄せていたシスター・ジェームスは彼の説明を信じようとするが、学校の責任者であり信念を持っている校長は、神父の「言い訳」など信じない。獲物に喰らいついた獰猛な犬のように神父を疑うことを止めようとせず、男子生徒の母(ヴィオラ・デイビス)をも巻き込んで、「そっとしておいてほしい」大勢を鑑みることなく終幕へと突き進む。

映画を監督した脚本家ジョン・パトリック・シャンリィが2004年に発表した戯曲『ダウト――疑いをめぐる寓話』は、2004年にニューヨークで初演されて評判を呼び、2005年のトニー賞(4部門)とピューリッツアー賞(戯曲部門)を受賞した折り紙つきの本。台詞の応酬で綴る4人の舞台劇は、簡素ゆえの力強さと、多義的な台詞によるポテンシャルを保ったまま、理想的なキャストと素晴らしいスタッフ(撮影監督は『ノーカントリー』のハワード・ショア、編集は『ブロークバック・マウンテン』『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』のディラン・ティチェナー等々、詳しくは公式サイトへ)を得て、陰鬱な美しさと胸騒ぎに満ちた映画らしい映画になった。

時代は1964年とされている。映画冒頭のフリン神父の説教にも登場するとおり、ケネディ大統領が暗殺された1年後の晩秋。公民権法はまだ制定されたばかりで、翌年にはベトナム戦争に突入しようという年。キリスト教世界が現代社会に合わせて変わり始めようとしていた節目の年でもある。シャンリィによれば、(当時14歳だった)「私だけではなく、世界全体が、ある種の果てしない思春期を通り過ぎているような時期」だったという。

このような時代背景やキリスト教文化は、映画の内容そのものを理解するためにはもちろん重要だが、この作品の本質ではない。これは、9・11以降の現代アメリカに向けられた、原作戯曲のタイトルが示すとおりの、フリン神父の説教のような長い例え話なのだという。

映画を見終えた後には、作品の完成度から得られる充足感とともに、「ラストのアロイシス校長の台詞の意味は何だろう」、「映画の寓意は何だろう」といった幾つものクエスチョンマークが、ただの疑問ではなく、様々な思考とともに湧き上がってきた。実はそのクエスチョンマークが1週間持続していたのが、今ごろ感想を書いている理由の1つである。で、答えの「おこぼれ」にでもありつきたくて、原作戯曲を読んでみたりもした。

その原作戯曲の「訳者あとがき」の中に、この作品が「疑いを持つことの効用」を説いたものだという一節を発見した。我々のような普通の観客の感想からプロの文章に至るまで、この作品の主題である「疑い」を、「効用」というようなプラスの意味で解釈した文章は、多分ほとんど見なかったと思う。もちろん、ストリープ演じるアロイシス校長の最後の台詞を含め、この映画が、疑いの良し悪しなどと言う以前に、人間を見事にとらえた作品であることで十分見るに価するわけで、小学生の作文のような教訓をこじつけるのは馬鹿丸出しかもしれない。

が、原作戯曲の献辞はカトリック系修道女に向けたものであり、本国の映画公式サイトでインタビューに登場するのも、登場人物のモデルとなったシスターたちである。

原作戯曲に対するインタビューで、テーマを尋ねられたシャンリィはこう答えている。「(前略)ここ数年、ブッシュ政権になってから、国全体の雰囲気として、なんの理由もないのに人々が確信してしまうという傾向が見えてきた。テレビでも、他のヒトの言うことなんか聞いていなくて、ただ相手に打ち勝とうという傾向。これは、注意すべき点だと思った。それと、昔からの賢者たちの領域である「疑う」という行為が、いまの時代、我々の文化のなかでは弱点として捉えられているのは、大きな間違いだと感じたんだ。そこで、芝居を通じて観客が「疑う」という行為を体験してほしいと思った。そして、結論や解決をつけないで、観客にそのまま、その疑いを持って帰ってほしいと思ったんだ。単純な答えを出さないでね」。

また原作戯曲の序文では、「疑い」が物事を変え人々を成長させるとし、「疑いは信念よりも勇気がいります。また、もっとエネルギーを要します。なぜならば信念は休憩地で、疑いは永久に続く――情熱のいる修練だからです」と記している。

よくよく考えてみれば、アロイシス校長は校長と言えども、キリスト教会ではフリン神父よりも下の階層に位置している。それは作品の中でも、校長がフリン神父を問いただしたりすることはできないということや、呼び出された神父が当然のように校長の椅子に座ってしまうこと、最終的なフリン神父の処遇などから理解することができる。

シスター・アロイシスは老練な校長(権力者)として、同僚や部下を不当な疑いで追い込んだわけではない。自分たちにとって逆らう術のない上位者を、身を賭して糾弾したのだ。オープンで温かく新しい価値観を持ったフリン神父と旧弊なアロイシス校長の対決という図式では、現代人にはどうしてもフリン神父の方が正しく思えてしまうが、新しさも「お上」が取り決めた範疇のことなのである。

上からやってくる正しいはずの何かが本当に正しいかどうか、正しそうな顔をして上からやってくるからこそ、正しさを盲信して「巻かれて」いれば楽だからこそ、むしろその正しさを絶えず疑ってかかれという警鐘を、この作品は鳴らしている。

現代、教会(に限ったことではないが)における神父の児童生徒への性的虐待は大きく取り上げられてきているというが、その功績の一端は、シスター・アロイシスのような人々の勇気ある態度にあったのではないのか。

そんな風に考えると、アロイシス校長の最後の台詞が、映画を見た直後とは全く別の意味があるように感じられてくる。舞台版での最後の台詞は、メリル・ストリープのそれとは異なる表現だったらしいが、演じたチェリー・ジョーンズはその台詞を、信仰心の揺らぎ――つまり、自らの神への愛に対する疑いと解釈して演じたそうだ。それは、映画でストリープの台詞を聞いたときに自分が感じたものと同じだった。が、「疑い」をもっと積極的に評価したとき、あのストリープの台詞は、本当は心の平安がほしいのに、それでもまだ、子どもたちと関わる仕事をしているフリン神父に疑いを感じるという、疑惑の無限地獄の苦しみの中から発された言葉のように思えてはこないだろうか?(え、無理?)

そんなシリアスなこのドラマには、実は、コミカルな場面もいろいろある。頭スコーンから始まって、「ドミノ倒し」や「鼻血」に、お砂糖3つ事件など……。ちょっとした台詞や「間」だったりするので、聞き逃してしまいがちだが、原作戯曲で読んでいても、声を出して笑ってしまうぐらい可笑しい場面である。

最後に名前について。原作戯曲でも公式サイトでも、セント・ニコラス・スクールの校長名(Sister Aloysius Bauvier)は日本語では「アロイシス」(・ボービエ)と書かれているが、映画字幕では「アロイシアス」になっていたと思う。実際の発音は知らないが、ラテン語読みだの、英語読みだのといろいろと事情があるのだろうと思う。読みが気になってちょっと調べてみたら、聖アロイシスは16世紀イタリア生まれの聖人で、青少年(子どもたち)の守護聖人だという(←意味深だ)。一方、フリン神父の洗礼名はブレンダン。聖ブレンダンは5世紀アイルランドの聖人で、映画冒頭の疑いについての説教の中に出てくる海で迷った人の如く、長い間弟子たちと海を旅した人だった。当たり前なのかもしれないが、イタリア系移民とアイルランド系移民を中心としたブロンクスのカトリック系学校を象徴するような、登場人物2人の名前である。シスター・アロイシスは米国に渡る前、ヨーロッパでレジスタンス運動に携わっていたりしたんじゃないのかとか、ふと空想したりもした。

記事タイトルは、シスター・アロイシスの台詞から。
(ジェームス) 最近、夜、眠れなくなったからです。いろいろなことすべてに、確信が持てないんです。
(アロイシス) 我々は、あまりよく眠ってはいけないということなのかもしれません。(後略)

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2009.01.03

ごあいさつに代えて

謹んで新年のお慶びを申しあげます。

Brideshead1_2

世の中、目出度いという感じは全くありませんが、ごあいさつに代えて、せめても美しい(「美しいだけ」との声もある)、映画版《Brideshead Revisited》の画像を貼ってみました。あちこちで書かれていますが、DVDスルー(3月発売)だそうですね。

先日、確かラジオのパーソナリティだったかと思いますが、 "Think global, Act local" という言葉を取り上げていました。1つの生き方の規範とでも言いましょうか……。"Think global" というのは文字どおり、「世界のことを考えよう」です。が、「実際の生活(行動)は "global" ではなく "local" で行こう」という、グローバル化の進む世界へのアンチテーゼとでも言うような考え方です。今の我々の生活はどちらかというと、"Think local, Act global" になってしまっていて、自分の身の回りのことだけで一喜一憂しつつ、暮らしはグローバル化の"産物"にあふれている。それを少し変えてみよう、と……。"Act" に関しては、地産地消というやり方も既にありますね。

ただ "Think global" というのは、地球環境とか世界経済とか、そんなことのみを意味するのではなく、視野を広く持ち、目先の損得に左右されない価値観を持とう、ということでもあるのではないかと思います。逆に、"Act local" によって「落ち着け。頭でっかちになるな。まず自分のできる範囲のことをちゃんとしろ」と言われているような気もします。

何を言おうと、あくまでもミーハーなエンタティメント・ファンであることがベースの筆者ではありますが、そのときそのときの特定方向にエネルギー(「愛」とも言う)を注ぎつつ、いくらかはまともなヒトになっていければいいなぁと思う年のはじめです。

2008年は、みなさんご存知のとおり更新状況がこの体たらくゆえ、例年のような直接的にこの場を通じた新しい出会いはなかったのですが、間接的なきっかけで、長い間拝見させていただいているサイトの管理者(作成者)の方と、東京国際レズビアン&ゲイ映画祭でお会いすることができました。

2008年のTILGFFは「重厚なテーマを扱ったドキュメンタリー」と「(良くも悪くも)フィクション性の強いドラマ」とが織り上げた絢爛たるラインナップでなかなか見応えのあるものだったと思います。今でも印象に残っているのは、重いテーマを軽やかに仕立て上げた、イタリアの同性婚(パートナーシップ)法に関するドキュメンタリー、『パートナー法は突然に』です。見た後に、お会いしたその方がおっしゃっていた、いつかは同性愛者の離婚というのも映画のテーマとして出てくるだろう、といった発言にはまったく同感でした。イタリアという、キリスト教の総本山を抱える保守的な国でのパートナー法成立の困難は推して知るべしなのですが、しかしそれを「タブー」とはせず、賛成派と反対派が街じゅうにポスターまで貼って、パートナー法についての主張を打ち出しているところに、まず感嘆しました。強烈に保守的な人の声までを、きっちり映像にのせているところも凄いです。日本で言うなら何か、靖国神社に関するドキュメンタリーでも見ているような気分になりました。まあ、靖国ですら日本ではタブーの部分が大きいのですが……。それから、スペインのサスペンス・コメディ、『チュエカタウン』。ゲイ男性のカップルが主役でありながら、周辺の年配の女性たちが大活躍する盛り沢山な爆笑物語ですが、「ゲイはファッションも生き方もおしゃれ」という、(日本ではまだまだ一般的とはいえませんが世界的には)一般的な見方を蹴散らして、「ゲイだってかっこ悪くていいんだ。肩の力を抜いて普通に楽しく暮らしていいんだ」ということを主張した、非常に画期的な内容のオチに目を見張りました。日本は完全に周回遅れだな、と……。

ということで、こんなところまで読んでくださったクールなみなさま、毎度のことながら、本年もまた、冷たい目で変わらず見守っていただけたら幸いです。

あくまでも希望ではありますが、ことしは少し仕事を放っぽって、気合いを入れて書きたいと思っております。


以下はまた、ごあいさつに代えての映画《彈.道》の画像になります。

Ballistic1

前の記事のコメントにも書きましたが、昨年11月に香港で公開された劉國昌監督の《彈.道》(画像上)が、いよいよ台湾で1月9日に公開されます。2004年の陳水扁総統狙撃事件を扱ったかなり政治色の濃そうな作品で、すでに香港でご覧になった方がネット上に記事を出されていらっしゃるようですが、スコーンと楽しめるエンタテイメントではないようです。まあ、重くて苦しいのは台湾映画の常なので、それはそれで「らしくて」良いのではないかと思いますが、はたして作品的にはどうでしょう。 え? 《彈.道》は台湾映画ではない? まあ、全編台湾ロケ、台湾俳優が大勢出ているのだから、「台湾風」ということでお許しください。

主演はもちろん、任達華(サイモン・ヤム)と張孝全(ジョセフ・チャン)。孝全クンは今や日本ではすっかり、ジョセフ・チャンで定着したようですが、日本語の台湾芸能ニュースに出てくるのはジョセフ・チェン(鄭元暢)ばかりなので、いつもがっかりさせられます。しかしテレビではなく映画で、しかも今回のようなハードな作品と、お得意の青春物にバランス良く出演し活躍してくれるなら、ファンとしては嬉しい限りです。映画はどうあれ、任達華と張孝全の共演なら、取りあえず見てみたいと思うところなのですが、その上今回は、脇を固める台湾俳優の中に、張先生こと沈孟生と、阿青父こと柯俊雄が出演しております。

そんなことから、ここで画像を貼ってみる気になりました。
(画像はすべて公式サイトのリンクから)

Ballistic2Ballistic3
<左>任達華と張孝全、<右>柯俊雄

Ballistic4Ballistic5
<左>張孝全と(もしかしたら戴立忍?←違っていたらすみません)
<右>沈孟生


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2008.09.29

The Leading Man

今でも、せめてDVDスルーでいいから邦盤が発売されないかと心から願っている《Infamous》。いい加減しつこいと思いながら、いつもDVDの発売スケジュールをチェックせずにはいられない。

Wittclその《Infamous》の冒頭、ニューヨークのナイトクラブで女性シンガーが歌い出す。彼女の名はキティ・ディーン。グウィネス・パルトロウが演じている。歌の世界が、弾むような恋の喜びから失恋の痛みに変わるにつれ、まるで歌詞が歌い手自身の辛い恋の告白の言葉そのものであるかのように、歌はテンポを落とし、ついには悲しさに飲み込まれたキティが声を止めてしまう。恋のゆくえ、いやステージ・パフォーマンスのゆくえを、心配顔で客席から見つめているのが、トルーマン・カポーティ(トビー・ジョーンズ)。伴奏が止まり、不安な静寂に満たされる店内。一瞬の静けさが自分を取り戻させたのか、キティは思い出を頭から振り払おうとするように顔を上げて、再び恋の不思議を歌い出す。安堵の空気とともに、店内は歓声につつまれ、カポーティも満面の笑みで力一杯の拍手をステージにおくる。

観客をカポーティの時代に連れて行くこの場面はとても印象的だが、特にその後の内容に関連しているわけではなく、映画の枕詞のようにポンと最初に置かれている。ややアップテンポにアレンジされた曲のタイトルは、『恋とは何でしょう(What Is This Thing Called Love?")』。これから始まるカポーティの「恋」――事件と創作とペリー・スミスへの執着――の物語を象徴するような、コール・ポーターの名曲である。

20世紀前半に活躍した音楽家コール・ポーターの後半生を、最期の近づいたポーター本人が、ミュージカル仕立ての舞台として客席から眺めては文句をつけるといった仕掛けで描く、映画『五線譜のラブレター』(原題:"De-Lovely")には、『恋とは何でしょう』をはじめ、ポーターの代表曲が目白押しだ。しかも、ナタリー・コールやエルビス・コステロ、アラニス・モリセットといった誰もが名前を知っている歌手たちが次から次へと登場しては歌ってくれるという、珍しくも貴重な映画である。(映画なので曲が短いのが残念だが、サウンド・トラック盤は至福の1枚と言えるだろう)

この『五線譜のラブレター』の中にジャックという名の若者が登場する。ちょっとした脇役の1人だか、彼を演じているのがジョン・バロウマン。以前DVD発売のニュースでも取り上げた、英国のSFドラマ『ドクター・フー』のスピンオフ作品 《Torchwood》(日本版DVDタイトル:『秘密情報部 トーチウッド』)で、結構トホホな秘密組織「トーチウッド3」のアナクロいリーダー、キャプテン・ジャック・ハークネスを演じている我らが主役である。(ずっと前に、彼の歌についても少し触れました→ほんの少しですが

ジャックは、初期のヒット・ミュージカル《The Gay Divorce(陽気な離婚)》の舞台稽古の場面で、ピアノを前に『夜も昼も("Night And Day")』のレッスンをしているが、音が低すぎて歌えないと怒り出す。初日を3日後に控え、客席側でステージをチェックしていたコール・ポーター(ケビン・クライン)は、あわててジャックに駆け寄るが、ジャックは曲を書き直せと言ってきかない。ポーターは、どうにかしてジャックに歌わせようと説得する。楽しんでいないから歌えないのだ、メロディーのことを考えず歌詞に集中しろ、これは恋に憑かれた歌だと……。

Nad「僕の目を見て、ほかのことは考えないで」と、『夜も昼も』の狂おしい恋の世界へ導くかのように、ジャックと一緒に歌い出すポーター。「夜も昼も浮かぶのはあなただけ」と訴えかける愛の歌を歌いながら見つめ合って、彼らは恋に落ちる。(という意味のことを、監督がコメンタリーで言っているのだから、そうなのだろう……)

ミュージカルのリハーサルは、歌の進行とともに切れ目なく本番の舞台の場面に移行し、ジャックはいつのまにか、コール・ポーターにではなく、本来の相手役(恐らく《The Gay Divorce》のヒロイン、ミミ)に向けて、主役ガイの扮装で燃えるような想いを歌いかけている。曲は、ガイとミミとの抱擁で締めくくられ、女優が役目を終えてほんの一足先に舞台上手へ下がっていく。引き続いて舞台から立ち去ろうという直前、ジャックは、コール・ポーターのいる客席の1点に、想いを込めた視線を投げかけて、そして消えていく。余韻を残すシークエンスである。

「余韻」は、ポーターと学生時代から最期まで親交のあった俳優、モンティ・ウーリーの「粋な計らい」へと引き継がれていく。《The Gay Divorce》の初日の幕が下り、オープニング・パーティへと誘う妻リンダを断って、ポーターはモンティの用意した馬車に乗リ込む。「君の初日祝いは手が込みすぎている」と文句を言うポーターに「リンダのシガレット・ケース(初日祝い)にはかなわないが、こっちのほうが君にあっている」とやり返すモンティ。夜の公園を駆ける馬車の上で、モンティがポーターに、御者席の男を紹介する。振り向いた御者はジャックだった……。「あとは、君たちの即興で」と馬車を降りるモンティ。

コール・ポーターの半生を描いた『五線譜のラブレター』は、ゲイである主人公と、それを承知で結婚した妻リンダの夫婦愛を主軸にすえてはいるが、劇中劇の中にまた劇があるような複雑な映画のつくりと同様に、単純に夫婦愛を謳い上げるようなことはしていない。人の人生の真実は、当事者以外にはわかりようもない。リンクして良いかどうかわからないので書けないが、ある方が、ミュージカル演劇鑑賞者の立場から、この映画に関する見事な評(鑑賞メモ)を書かれている。その中で最もうなずいたのは、歌や劇中劇を交錯させたフィクショナルな表現が、後世の脚本家が描き出したポーターの虚構の生涯に真実味を与えているという指摘だった(←自分の言葉で書き直してみたので、意味がブレてしまっているかもしれないが……)。そして、「あったかもしれない」「なかったかもしれない」と考えざるを得ないこのスタイルは、コール・ポーターその人とその真実の人生を、決して踏みつけにしたりしない。ポーター夫妻の人生の明暗、喜びと悲しみの振幅を、ポーターの曲に乗せて、確信を持って、しかし慎み深い態度で描き出している。ジャックのエピソードは、コール・ポーター個人の人生という面からは人生の愉しみを表すものだが、リンダという伴侶を持ったコール・ポーターの人生においては、2人の関係に差す影の1つである。

ジョン・バロウマンの歌う『夜も昼も』は、本来フレッド・アステアの持ち歌である。《The Gay Divorce》の舞台でも、映画版である『コンチネンタル』(原題:"The Gay Divorcee")でも、主演のフレッド・アステアが歌った。『五線譜のラブレター』のコメンタリーによれば、「こんな歌は歌えない」と怒ったのはアステアだったらしいが、アステアを役として登場させると、物語の進行上、アステアがゲイだということになってしまうため、ジャックに歌わせたのだという。

歌には相当な自信を持っていそうなバロウマンなら、どんなに難しい曲でも「歌えない」とは言いいそうにもないが、その彼が「歌えない」という台詞を口にするあたりが面白い部分でもある。この場面の撮影は長時間におよび、バロウマンは50回ぐらい『夜も昼も』を歌ったそうだ。「でも「もっと歌えるよ」とけろっとしていた」と言っていたのは、ケビン・クラインだったと思う。映画で使われたのは撮影時に同時録音した歌声なのだそうだが、何度聴いても、恋する想いが切実に伝わってくる迫力のある歌唱だと思う。ちなみに、ロケで使われた劇場は、何とオールド・ヴィック座だそうだ。

ジョン・バロウマンの『五線譜のラブレター』における出演シーンは、このエピソードと、オープニングとエンディングでの、コール・ポーターの「人生」の出演者全員が歌い踊る場面のみである。

本編出演者の中では無名に近いジョン・バロウマンだが、この映画で起用されたのは、監督によれば、彼がロンドンでコール・ポーター作のミュージカル『エニシング・ゴーズ』の舞台に立っていたことが1つのきっかけらしい。この映画がつくられた2004年の時点でウェストエンドとブロードウェイのミュージカルの舞台で10数年のキャリアを持ち、テレビやラジオでも活躍、2005年にはミュージカル版『プロデューサーズ』の映画化作品にも出演したジョン・バロウマンが、自分のキャリアの頂点だと語るのが、2005年に復活した『ドクター・フー』新シリーズのキャプテン・ジャック・ハークネス役である。その言葉だけで、逆に『ドクター・フー』というSFドラマの欧米での人気の凄まじさの一端が垣間見えたりもする。

そんな『ドクター・フー』の、脇役の1人であるキャプテン・ジャックを主役に据えたドラマ《Torchwood》ができると知ったときのバロウマンは、例えそれが『ドクター・フー』シリーズ間の穴埋め的な企画であろうと、相当に嬉しかったらしい。その日は2005年7月7日。ロンドン同時爆破事件が起きた日である(本人自伝による)。


ということで、このかなりヘンテコな英国ドラマ《Torchwood》について、日本版DVDもシリーズ2まで発売されて大分過ぎたけれど、ぽつりぽつりと書いてみたいと思っています。ヘンテコ具合をすべて理解して咀嚼できる自信など、これっぽっちもありませんが……。

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2008.09.08

海洋映画祭。

奥さまは首相~ミセス・プリチャードの挑戦~』は面白い。でも、全6回なので9月中には終わってしまう。1回目はたまたま食事中にテレビをつけたら放映中で、最後の20分ぐらいを見た。2回目はやや意識的に見た。主人公(ミセス・プリチャード/地方都市のスーパーの店長)が首相として演説する場面は感動的だ。二世、三世議員が跋扈する日本の現実では考えられないような彼女の言葉。それがドラマとして成立するのだから、英国の現実だって苦々しいものなのだろう。あと4回、うまく見られれば幸運だ。

8月は映画館に足を運ばず。7月以来の映画館は、アジア海洋映画祭イン幕張。前売券を3枚申し込んであったので、いかにこのところ出不精気味とはいえ、すべてのチケットを無駄にする気にはなれず、頑張って出かけた。この映画祭は4回目だが、参加は初めてだ。幕張は地理的には自宅から決して遠い場所ではないのだけれど、乗り継ぎが悪いととんでもないことになる。帰りは1時間で帰れたのに、行きは1時間40分もかかり1本目の頭を見逃す始末だ(←いつものことだろ)。

インドネシア映画『フォトグラフ』と韓国映画『少年監督』、タイ映画『夏休み ハートはドキドキ!』の3本を見たが、噂にたがわぬ作品の質の高さの上に、故郷に帰ったかのような何ともしれぬ懐かしさのようなものが肌身に染みた「アジア」映画だった。

コンペティションのグランプリは、「エドワード・ヤンの弟子」だという魏徳聖(サミュエル・ウェイ)監督の『海角七号』だそうだ。スケジュールが合わず見られなかったが、あちこちで賞をとっている作品だそうだから、きっとまた上映されることもあるだろうと思う。

特に良かったのは、インドネシア映画『フォトグラフ』。東南アジア色の画面に、甘くない郷愁の漂う佳作だ。パンフレットによると、ロケは中央ジャワのチャイナタウンとのこと。過去にとらわれて生きる老いた男と、人生と戦う若い女の、血縁関係でも男女関係でもない人と人とのつながりが、アジア的な思いやりの中でおずおずと少しずつ深まっていく様子が、男の生業である写真館を舞台に展開する。老人の過去ゆえに、供物と線香を捧げ死者を弔う場面が全編を覆っているが、悲観的な人生観を持った作品ではない。何よりも写真館の跡継ぎが欲しかった老人は、その夢をかなえることはできなかったが、写真館の屋根裏の間借人であり、アカの他人である女性と彼女の娘の中で、思い出として支えとして生き続けることになる。

韓国映画『少年監督』も非常に良い作品だという評判にたがわぬ、幾つかの場面やイメージが様々な思いを呼び起こす力を持つ、基礎体力のある映画だと思う。江原道の夕焼け谷(←原語は忘れました。何とかコル)という村に暮らす小学生の少年が、映画作家を志していた亡き父の残した「壁画」を8ミリに収めようと、ソウルまで8ミリカメラの使い方を学ぶために出かけていくというロードムービー。イ・ウヨル監督はティーチ・インに参加された。場内でも質問者の方が指摘していたように、こちらは『フォトグラフ』と逆に、コメディタッチの明るい語り口でありながら、非常にシビアなラストが待っている。けれど画面からひしひしと伝わってくるのは、絶望感でも何でもない。伝播するほどの映画への情熱の不思議さと強さ。何度も登場する米研ぎシーンや食事の場面に表象される生活の大切さ、強く生きることの大切さ。そして人との縁。現実はぶちのめされるほど厳しいけれど、それをどうやって乗り越えて生きていくのかということを、少年の身を持って感じさせてくれる、辛いけれど元気になれる映画だった。

『夏休み ハートはドキドキ!』は女子が非常に可愛かったけれど、ハートがドキドキしない年頃には、余りに長い時間だった。とはいえ、純粋な若者たちの細やかな感情描写は素晴らしい。非モテ、非恋愛系、オタク寄りの人生を歩んできた身としてはやはり、オクテな大学生ジョーがキャンパスの美女シーに片思いするエピソードとか、台湾アイドルに熱中する菊池桃子似の追っかけ少女オーレックのエピソードがわかりやすいし好きだ。

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2008.07.27

オレが書かなくとも

7月半ばに発表された2008年の東京国際映画祭のポスターを見て、ただでさえ心もとないこのイベントが、ますます不安に感じられた方はきっと少なくないはず……。

たまにしか出てこないから、鮮度の落ちたネタばかりで情けないですが、さらにもう少し前の話を……。

退会しようしようと思いつつ、毎年連絡しそびれて、何か良いことがあるやらないやらわからぬ「会員」資格が継続され会費が引き落とされ、自動的にやってきてしまう「香港電影通信」。先月来た号(6月号)をぼんやり見ていたら、DVD紹介のコーナーに、どこかで見た名前が……。それは7月4日発売のアクション映画『ソードキング』というタイ製のアメリカ映画で、16世紀、Geographical Discoveryの時代のタイ王朝を舞台にした権力抗争物。そこに(おそらくは主演格として)最初に書かれていた俳優の名が、ゲイリー・ストレッチ。どこかで聞いたと思いながら、ピンと来るまでに、ひと呼吸。思えばそれは、クレイトス、あの「黒のクレイトス」の中の人の名前ではないか。 紹介文によると、なかなかに引き締まったエンタテイメントのようで、どこかで縁があったら見てみたいものだと、そして我が"マイティ"クラテロス兄貴はどうしているのかと、思いを馳せた。……クレイトスの衝撃的な最期は、大王の栄光に満ちた短い人生の影の部分を象徴するような辛い事件であるだけに、その名前を思い出すと、ずっと時代を下ったこんなミーハー者でもちょっと胸が痛い。


Background_map25日、山形で見損ねて危うくまた見損ねそうになった『バックドロップ・クルディスタン』の、ポレポレ東中野での最終上映(最終日最終回)に間に合った。25歳の監督が処女作として世に問うた、この求心力の強いドキュメンタリーをどう書こうかと思っていたら、パンフレットに阿部嘉昭氏の余りにも見事な、詳説とでも言うような評論が載っていて、読んでただひたすら「そのとおりだ!」とうなずき、満足してしまった(←バカ)。同じパンフレットの佐藤忠男氏の文章がすっかり前座の趣である。

映画は、映画制作の専門学校で学んだ野本大監督が地元埼玉で知り合ったクルド人難民カザンキラン一家の、日本での闘いを描いた前半と、カザンキラン一家を迫害したトルコとそこに住むクルド人を現地で取材した後半からなる。しかし、そんな言葉でまとめられるような単純な内容では決してない。

大体、日本人には難民そのものが遠い存在である。クルド人にいたってはさらに遠い存在である。でも、「何も知らなかった日本人としての私」=監督自身の視点から描かれていることと、カザンキラン一家を、難民という、社会問題を背負った単なる取材対象としてではなく、監督自らが彼らと関わる日々の中で信頼を深めた結果としての、日本で困窮している身近な「友人」一家として描いているため、日本人の観客にも入り込み易い。

恥ずかしいことだが自分自身、クルド人がどのあたりに住んでいる民族で、どのような歴史的背景を持っているかということを、ごく簡単にとはいえ知ったのは、2006年の東京フィルメックスで上映されたイラン映画『半月』(バフマン・ゴバディ監督)を見てからだ。それ以降は、新聞の国際面に載るトルコでのクルド人弾圧の記事なども目にとまるようになった。『バックドロップ・クルディスタン』には、『半月』に出てきたような、死んだように静まり返った貧しい村が登場する。取材費用などごくわずかだったであろうに、監督はそんな山奥にまで行って、クルド人のアイデンティティ、いや、友人であるカザンキラン一家がどういう人たちなのかを知ろうとした。

でも、クルド人難民を追い、トルコで現地取材までしたこの映画が訴えかけるものはクルド問題ではなく、日本という国の閉鎖性と日本人の無関心だ。

トルコから逃げて来て何年も日本に住み、日本語も覚えたクルド人一家が、日本では移民として認められた形で暮らし続ける術がなく、国連からの難民認定を持って別の国へ行くことしかできない。その国連の難民認定ですら、国連大学前での座り込みによってやっとの思いでもぎとったものなのに、一家揃っての第三国への出国前に、一家の父と長男だけが、入国管理局での仮放免申請(不法滞在とされないための日本での在留資格の申請)時に突然収容され、特別な理由もなくトルコへ強制送還されてしまう。残された母と娘たちは、再び一家が揃う日を夢見て、自分たちだけで第三国へ旅立つことになる。

パンフレットによれば、日本の難民受入状況は、欧米諸国の年間数千~数万人に比べ、年間数十人という少なさで、クルド人難民に至っては、およそ500人ほど住んでいるにもかかわらず、1人として難民認定されていないのだという。

日本を舞台とした前半は、カザンキラン一家の人間としての叫びが画面を支配し圧倒するが、主役の一家が姿を消し、舞台をトルコに移してからは、友人家族が安心して暮らせる国に行こうという矢先に引き離された上、その命までを危険にさらすような目に合わせる理不尽が、監督自身の母国の政府によってなされたという憤りとやるせなさ――「何でなんだよぉぉ!」という叫びと、その国を形づくっている国民の1人である自分への深い自責の念が、映画を引っ張っていく。

ラストシーンは、カザンキラン一家の父アーメットが、監督に向けて語りかける「日本人は悪くない。クルド人も悪くない。悪いのは日本のシステムだ」という声で締めくくられている。

この映画の、たった2人のチームである野本大監督と、撮影と編集とプロデューサーを兼ねた大澤一生氏は、阿部嘉昭氏の批評が言うように「慎ましく」、父アーメットの最後の言葉を「目を伏せて」聞いている。目を伏せてというのは、話をしているアーメットと視線を合わせない、つまりカメラがアーメットの顔を映さないということだ。「日本人は悪くない」という言葉に居心地の悪さを感じて戸惑うかのように、フレーム(視線)をアーメットからそらし、目を泳がし続けて映画は終わる。アーメットの表情を映した部分もあったのかもしれないが、選んだのならなおさらに、あのもじもじとした画面は、「悪いのは日本人ではない」という言葉に納得せずに行く、という厳しく慎ましやかな意志表明であると思う。

映画の中には、ジャーナリスティックな状況分析の部分もある。そんなあたりも含めて、世界各地で続けられている民族紛争が、歴史や宗教の問題というよりも多分に、経済的政治的な要因が強いのではないかということを、何となく考えさせられたりする。そしてその「政治」のあり方を選択しているのは、国民なのだということも……。

【公開予定】
◆横浜・シネマジャック&ベティ(8月16日(土)~29日(金))
◆広島・横川シネマ       (9月6日(土)~)
◆名古屋シネマテーク     (公開決定)
◆大阪・第七藝術劇場     (公開決定)

舞台挨拶での野本監督を見たら、全然似てないのに、なぜかポン・ジュノ監督を思い出しました。若いからか?

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2008.04.14

勇気がない"我々"

先週『パレスチナ1948 NAKBA』を見て、感想がまとめきれずにぐだぐだしているうちに、今週『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程』を見たら頭の中が混沌状態になった。ダブルパンチだ。特に後のは強烈。さっさとNAKBAのことを書くべきだったと悔やむ……。

『パレスチナ1948 NAKBA』と『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程』は、世界と日本の今を考えるために絶対に見るべき映画だと思う。「見るべき」などと言わなくても、見れば釘づけとなる力を持つ凄い映画である。

『パレスチナ1948 NAKBA』はもちろん、イスラエルのパレスチナ占領問題をテーマとしたドキュメンタリーで、監督の広河隆一氏は、ジャーナリストとして長い間この問題を追い、写真と文章で世界に発信してきた人である。映画は、氏が中東で記録し続けてきた膨大な映像と写真を劇場公開用に131分でまとめたものだが、これとは別に、記録映像として整理した長尺のアーカイブ版(DVD)も作成中だという。

『パレスチナ1948 NAKBA』は、インパクトのある素晴らしいモノクロ写真の数々とナレーションと、インタビューや戦闘(といったって投石VS銃撃だ)の現場などの映像からなる。広河氏自身のイスラエルのパレスチナ占領の問題へ関わるきっかけ――1960年代に社会主義の理想の発現として、イスラエルのキブツに研修に行き、その地でパレスチナ人の村の残骸を見つけ、自分のいる場所がかつてパレスチナ人たちの住んでいた場所だったと気付いた――から映画が始まっていることは、見る側にも取っ付き易いはずだ。2007年の山形国際ドキュメンタリー映画祭での古居みずえ監督作品『ガーダ -パレスチナの詩-』の上映後Q&Aでは、作品の視点がパレスチナ側に偏っているという批判的意見がいくつか飛んでいたが(そんなことは当然折込み済みなわけで、古居監督はちゃんと「日本でほとんど知られていないパレスチナのことを、多くの普通の人に知ってほしい」から映画をつくったと挨拶していた)、キブツから話が始まり、イスラエルの人々もパレスチナの人々も登場する『パレスチナ1948 NAKBA』なら、「ドキュメンタリーは中立じゃなくちゃ」的バカも文句はつけにくいに違いない。とはいえガーダとNAKBAは、同じテーマを扱いながら、様式も方向性も全く違うのだが……。1948年のデイルヤーシーン村襲撃の記憶を語るイスラエルの元軍人の言葉は、まるでイラク(バグダッド)攻撃での米軍兵士の言葉のようだった。最も印象的な登場人物の1人、パレスチナの女性兵士として戦闘に参加し捕まって投獄されたキファー・アフィフィは、救出された後、(さまざまな拷問を受けた)獄中の方が、今自分のいる外の世界よりもましだったと言う。『パラダイス・ナウ』でも、「地獄で生きるより頭の中の天国のほうがマシ」と主人公の1人ハーレドが言っていた。ハーレドは架空の人物で、台詞は脚本に書かれたものだが、キファーは実在の人物で、彼女の心は、言葉ではなく声にならない頷きで表されたものだ。


連合赤軍とNAKBAの2本は、いろいろな意味で関連のある映画なのだが、そこに先月末からの『靖国 YASUKUNI』の上映にまつわる騒動―― 一部映画館側の自主規制(実際には映画館ではなくて、映画館の上にある大会社(大映画会社?)が自主規制を決めたらしい)と、政治家による介入(介入して、ついに完成作としての前提をぶち壊してしまったじゃないか!)――が加わって、頭の中は暗澹たる「ぐるぐる」となっている。(そういえば関係ありませんが、田原総一朗氏の『実録・連合赤軍……』と『靖国 YASUKUNI』で発表されていたコメントがほとんど同じようで、妙に印象的でした。何か違うこと言おうよ)

記事のタイトルは『実録・連合赤軍……』のキーワード的な台詞から。
後で、もうちょっと書き足してみたいと思います。

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2008.03.31

花冷え

寒さで花見にも行かずじまい。

オスカー・ワイルドの戯曲『まじめが肝心』を、ルパート・エヴェレットのアルジャーノン、コリン・ファースのアーネスト(ジャック)、リース・ウィザースプーンのセシリーで、2002年に映画化したラブ・コメディ《The Importance of Being Earnest》が、何だか知りませんが今ごろ、国内盤DVD(タイトル『アーネスト式プロポーズ』)として4月4日に発売されます(DVDスルー、日本公開なしの模様です)。海外版でとっくに見てしまっているし、何ら特典もなさそうな感じなんですが、細かい言葉遊びの部分などは是非日本語字幕で見てみたい気がします。ガイ・ベネット母を演じたAnna Masseyも出演……というか、脇を固めているのはえらく豪華な方々ばかりです。

そして、ことしもまたEUフィルムデーズ2008がやってきます。ラトビア、リトアニア、スロヴェニアといった滅多に見られない国の作品もあります(一部、日本語字幕なしの上映もあるようですが)。5月16日~6月5日。

アラブ映画祭はその後、25日にラシード・マシャラーウィ監督の『Waiting』と、サミール監督の『忘却のバグダッド』を見ました。どちらもアンコール上映で、中東を知る上で非常に重要な作品です。『Waiting』は中東地域のパレスチナ難民キャンプを巡っていくドキュメンタリー仕立てのフィクション。『パレスチナ・ナウ』を読んで以来、見たかった作品の1つです。"Waiting"とは、ガザ地区で建設中の国立劇場の杮落としの芝居のために行う俳優オーディションで、俳優たちに与えられるテスト演技のテーマなのですが、登場するパレスチナの人々の多くが、日々の生活においても、人生においても、希望もなく、あるいはすがるような思いで、あるいはほかになすすべもなく、「待っている」「待つしかない」状態に置かれていることが見えてきます。国もないのに国立劇場、8年もつくり続け出来上がる保証もない劇場なのに杮落としの準備、そんなグラグラな足場の上で、ガザを出て各国のキャンプを回るオーディションを義理で引き受けた映画監督(主人公)が、徐々に真剣になっていく様子が興味深く、その真剣さを打ち砕くような結末がリアルです。でも基本的には、アイロニカルなコメディです。そのあとに見た『忘却のバグダッド』とともに、見るべきこと、読み取るべきことが沢山ある作品なので、1回見たぐらいで何かが書けるとはとても思えません。『忘却のバグダッド』は、インタビューと古い中東の映画の場面で綴るドキュメンタリー。登場するのは、全員がイラク系のユダヤ人。イラクにおいてはアラブ人として暮らしながらもユダヤ人として差別され、イスラエルに移住しユダヤ人として暮らせば、イラク人・アラブ人として差別されたという。ニューヨーク市立大学で教鞭を取るエラ・はビーバ・ショハットが、イスラエルのテレビ番組で「イスラエルに差別はある」と発言し、反発する司会者を尻目に、スタジオ内の観衆の支持を勝ち取る場面は圧巻です。ショハットの本で、日本語訳されたものはないのでしょうか(なさそうだ)。しかし、こんなことしか書けないのがもどかしいです。

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2008.03.24

俳優萬歳

"バンコク明け"の半徹状態で、アラブ映画祭2008にて、かろうじて2本見る。10秒ほど意識が遠のいた時間はあったけれども、それ以外は、幸いにして全く眠くならず。楽しかった。

1本はシリア映画、『サービス圏外』(毎度のことながら、10分遅れで入場したため冒頭を見逃す。ごめんなさい)。刑務所で服役中の親友に代わり、親友の妻と娘の支えとして、生活費から日常の雑事までを手助けをしている妻子ある中年男が、親友の妻への愛に悩む話で、こう書くと意外に「よくある話」の感じがするが、日本人の感覚で驚くべきは、主人公の男が、親友の家庭と自分の家庭とを、まるで2人の妻を持っているかのように、公然と行き来することである。親友の娘を学校まで迎えに行ったりもする。そういう二重生活は、やましいところは何もないという表向きの前提で、互いの家庭で了解済みなのだが、男の妻は、夫がよその家庭に入り浸るのは面白くないし、親友の妻も、自分たちのために尽くしてくれる男が「家族」ではなく、自分の家庭を持っていることが何だか面白くない。その実、親友の妻と男の間の気持ちは、「夫の友人」「親友の妻」という以上のものになりつつあり、男の妻もそれを疑っているから、関係者は皆、自分の中の疑いと恐れと満たされぬ思いを抱えてボロボロである。しかし、映画はコメディ。絡まりあった2つの家庭の男と女の奇妙な日常を、からかうように慈しむように、映し出す。

今ひとつ、シリアの事情を知らないために理解しきれなかった部分もあるのだが、見どころは、映画祭パンフレットの紹介にもあるように、ロングで映し出されるダマスカスの風景。そして、主人公の男の八面六臂の仕事っぷり。多分本来の仕事である菓子作りのほかに、タクシーの運転もすれば、仕事かどうかは知らないが、シリア在住の日本人("シャンタニ"さん)にアラビア語を教えたりもする。タクシーに乗り込むヘンな客たちとのやりとりも面白いし、"シャンタニ"さんとの場面も何ともユーモラス。そんな軽妙な喜劇描写とともに、どうにもならない愛に悩む孤独な人間たちが濃く描かれている。一言で言ってしまえば、凝った不倫物コメディ。楽しいけれど、要素が多すぎるせいか、やや散漫に感じられた。

2本目は、たぶんこの映画祭の、いくつかある目玉の1つとおぼしきエジプト映画、『ヘリオポリスのアパートで』。いつもエジプト映画では俳優たちに「参る」のだが、今回も、芸達者な男優陣と魅せる女優陣に惹きつけられた。俳優たちの描き出す人間像の深さ、面白さ、陰影に感じ入るというのは、当然、監督の演出の力でもあるのだろう。女性の人生の愛や結婚に関する価値観をテーマに、20代後半の純朴な女性が、上エジプト(南部エジプト)の田舎からカイロを旅する数日間の体験を描いた、自己発見の物語。エジプトは、アラブ世界のハリウッドと言われる映画大国で、当然その主流は娯楽作品であり、作家性の強い芸術映画を作っていくのは大変なことだと、日本人が見たら十分ロマコメな娯楽作と言える『ベスト・タイム』『カット&ペースト』のハーラ・ハリール監督が東京国際映画祭で言っていたが、『ヘリオポリスのアパートで』は、どのあたりの位置にあるのだろうかと、ふと思う。

学生時代の音楽教師が語った運命的な恋愛観に感化されたまま大人になり、特定の恋人もできず、親の勧める縁談にも気乗りせずの、悩める夢子ちゃんが進退窮まって、カイロにいるはずの昔の音楽教師を訪ねて、田舎町からやってくる。まだまだ女性の自立などとは程遠い価値観を持つ人々の多い地方で暮らし、28年間の人生で初めての旅。しかし訪ねた相手は「失踪中」で見つからず、探し回る中で出会う人々から、恋愛や結婚の苦しみや喜びといった現実を学び取っていく。結局、家に帰って親の勧めるルートに乗ってしまうのか、それとも「誰か」と出会うのか、どちらにしても余り釈然としないなぁと思いつつ、練れた脚本にぐいぐい引っ張られて、ヒロインの奮戦を楽しんだ。終盤は、ハッピーエンドのラブ・ストーリー的な方向に向かっては行ったが、結局、ヒロインが夢子ちゃんを脱却し自信に満ちた自分の人生を歩み出すのだろうなと思わせる、含みのある旅立ち(帰郷)で、見事に終わってくれている。

都会で出会った運命の恋人とのハッピーエンドのラブ・ストーリーが悪いわけじゃない。けれどそれでは、彼女が少女のころに見た夢が実現しただけだ。先生の言ったことは正しかった。自分の人生は間違いじゃなかった。それでは、お話にならない。

とはいえ彼女の「自立」は、人にはそれぞれに悩みがあり、喜んだり悲しんだりしながら生きていることを知ったこと、人生とはそういうものであると悟ったこと、都会で出会った運命の恋人がありのままの自分を認めてくれたことからくるもので、彼女自身も、物語そのものも、恋愛や結婚という巨大なイリュージョンに掠め取られている、あるいはその域を出ないという意味では、やはり娯楽作品か。

これも映画祭パンフレットの紹介文にあるが、ムハンマド・ハーン監督、女性を撮らせたらビカ一だそうで、それはこの映画の地味でおどおどとしたヒロインが、画面の中でどんどん輝きを増すのを見ればわかる。旧作『ヒンドとカミリアの夢』の上映日に行けなかったのが悔やまれる。

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2008.03.17

この世がなければあの世がある

ノーカントリー』を見てきた。パンフレットは売り切れていて買えなかった。

この映画のことを書いた文のほとんどが触れている原題《NO COUNTRY FOR OLD MAN》は、コーマック・マッカーシーの原作を訳している黒原敏行氏のあとがきによれば、「老人の住む国にあらず」。イェーツの詩の一節だそうだ。

だが、この作品で最後まで残るのは「老人」ばかりだ。

山ではなく砂漠だが、『ブロークバック・マウンテン』同様、荒涼たる土地が舞台となるこの映画もまた、風のふきすさぶ音で幕が上がる。麻薬取引にまつわる殺人現場に残されていた現金を、ハンティング中にたまたま見つけ持ち逃げしようとする男モスと、それを追う殺し屋シガー、さらにその2人を追う保安官ベルの様子を、見事原作どおりに説明的台詞も最低限に押さえて、映像で綴る。ここまで忠実に再現してくれたら、原作者は嬉しいに違いないと思う。アカデミー賞のセレモニー番組で客席に映っていたマッカーシーの満足そうな笑顔に納得する。舞台は1980年代。映画では説明されていた記憶がないが、トミー・リー・ジョーンズ演じる保安官ベルは、第2次世界大戦に出兵し最前線で仲間を置いて逃げ帰り、自分だけ生き残ったという深い罪悪感を抱いて生きている。逃げる元・溶接工モス(ジョシュ・ブローリン)もベトナム帰還兵で、これも映画には出てこないが、復員後、戦死した同僚の家族を訪ねて回ったことがあるという。シガー(ハビエル・バルデム)にコインの表裏で生殺与奪を握られるのと変わらぬ、不確かな運命を生き延びて来た人間たちなのである。

映画でも原作中でも、非常に皮肉でユーモラスで好きな場面の1つが、メキシコからアメリカへ入る検問での国境警備員とモスとの会話だ。怪我をして入っていたメキシコ側の病院を抜け出して、病院で着せられた寝巻のままアメリカ側に入ろうとするモスを当然不審に思って止める警備員は、モスがベトナム帰還兵だということを知って、ころっと態度を変え、丁重な扱いで入国させてくれる。ベルが戦争でもらった勲章も同じで、個人的には辛く忘れたい体験が、社会的には信用となり評価される経歴となるギャップ。マッチョな国アメリカ、「厳しい国」アメリカの現実のを端的に表している1つの部分だと思う。

その国境もまた象徴的である。メキシコから麻薬を運んできて、テキサスの砂漠で車の外から撃たれて意識の残っていた男は、「水(アグア)」と言ってモスに助けを求めた。求めに応じようとしたモスは、しかし男を助けられなかった。メキシコ人に水を届けようと思ったことが災いして、その後モスは命を狙われることになるが、撃たれて、傷ついて逃げ込んだメキシコ側の街頭で、「病院(メディコ)」と言って助けてもらう。向こうから来た人、こちらから行く人。助けてもらえなかった人。助けられてた人。生と死の境目か、天国と地獄の分れ目か。原作者が国境に、そして国境の向こうに何を象徴したのか。国境3部作(映画化された『すべての美しい馬』、『越境』、『平原の町』だそうだ)には何かヒントがあるだろうか。

マッカーシーの邦訳を全作手がけ「専門家」とも言うべき訳者の黒原氏によると、原作はギリシャ悲劇や神話的な人間と世界の関係を描いているという。かつ、マッカーシーはアメリカという国を描いてきた作家でもある。

(映画『ノーカントリー』のことを書こうとしているのか、小説『血と暴力の国』のことを言っているのか、すでに渾然一体となってしまっていてすみません……)

作品から教訓めいたものを読み取る必要は断じてないと思う。ただ、死に向かって生きている人間(=すべての人間)についての物語だということはわかる。ハビエル・バルデムのシガーは、まさに「死神」のような顔をして、部屋の薄暗がりに座っていたり、我々の正面に立ったりする。

作品から現代社会アメリカを読み取ろうとすれば、シガーは、ベル保安官の嘆く「理解できない人種」(犯罪者)の代表であり、人間性や情といった価値観では既に捕らえきれない現実を象徴していると言えるだろう。神話的、ギリシャ悲劇的な構図を読み取るなら、黒原氏が書かれたようにシガーは「純粋悪」(←マッカーシーの言だそうだ)ということになるのだろう。そして、死(つまりは人生)いうものを考えるなら、シガーは「死神」、我々の人生の一本道のいたるところに転がっている死(の危険)と言えるのではないか。

神は来ないとベル保安官は言ったが、神は来ないけれども、死神は来るのだ。

けれど死は、死への恐怖の終わりであり、生への罪悪感(あるいは生の罪そのもの)の終わりでもある、とも言える。

映画は、原作よりも重苦しい。テキサスの風景のせいかもしれない。エンドロールで耳をすますと、バックにテキサスの風の音がする。それがいつしか、シガーの足音と受信機の音に変わる。少しずつ近づいてくる音。原作よりも、怖い。

少し前に、酔っ払ってことし2個めのカバンを落とした。幸い、もう携帯電話は落としてしまっていたし、クレジットカードもキャッシュカードも持って歩かないようにしているから、入っていたのは現金のみの財布と、細々とした物だけだった。が、その中には扶桑社ミステリーの文庫本『血と暴力の国』も入っていた。本自体は翌々日に買い直したが、警察に落し物の届け出をしに行き、カバンの中身として本の名を書くときに、「こんなタイトルの本を読んでいたら、逆に警察に目を付けられるんじゃないか」と思い、わずかに冷や汗が出たりした。

いや、バッグに発信機さえ入っていれば……(笑)。


※『ノーカントリー』と一緒に、『スルース』も見てきました。リメイクの本作、映画そのものあるいは脚本に賛否はあるものの、役者の演技とその緊張感は『ノーカントリー』に匹敵するものがありました。ここを読んでくれている方なら、絶対に見て損はないと思います。

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2008.03.02

いろいろ

ごぶさたしております。

いつのまにやら外気にも春のやわらかさが混ざり始め、先月の半ばを過ぎたころから、国書刊行会のサイトでは白先勇の『台北人』の4月刊行という予定が発表されています。

アラブ映画祭2008も、もうすぐです。『ヤコービエン・ビルディング』(→感想)も再映されます。傑作とまでは言いませんが、エジプトの今と、エジプト映画に触れるに好適な1本だと思います。芸達者な俳優さんたちがたくさん出ていますし……。チャンスがあったら、足を運んでみてください。私も、休暇を取ってでも全作見たいものだと、あくまでも希望はしています。(でも、仕事がさらに忙しい時期でして……)

アン・リーの『ラスト・コーション』をやっと見てきました。ヒロイン王佳芝にスポットを当てれば、"ゾフィー・ショル"な物語であるわけですね。でも、ラストは、BBM同様、男の心に「思い出」として収まった愛という形で終わります。政治も恋愛も家庭もSMもひっくるめて、虚虚実実の腹の探り合いの中で、わずかに通う人間の心身……というか、殺るか殺られるかの瀬戸際にまで行って始めて触れる相手の心身の一角……というか、むしろその「愛のようなもの」の得がたさは、人の孤独の深さを見せ付けます。

湯唯は見事にはまっていたと思います。最初から出来上がった名女優ではないことが、見るものにそのまま「素人女スパイ」の危なっかしさを感じさせてくれ、またその「成長ぶり」にも目を見張らせられました。香港での最初の易との食事のときの、ワインを飲んだ彼女の妖艶さ。上海での「当日」直前の仲間のアジトで、トゥオ・ゾンファ(龍子さん!)の呉に向かって、易とのことを語る彼女の力強さ。惚れ惚れと見ていました。小さな唇のあどけない顔は、決して好きなタイプではないんですけれどもね……。

で、さらに決して好きではない梁朝偉。見ているときには、「珍しい役柄でなかなか良いなぁ」という程度にしか思わず、湯唯ばかりに気をとられていたのに、後になって頭に浮かび上がってくるのは、この人の重暗いシルエットと表情なんですね、くやしいけれど……(笑)。

BBMよりも複雑で、もっといろいろ考えていったら嫌いになる可能性すらある、素晴らしい工芸品のような1作だと思います。

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2007.12.17

縁を結ぶのは難しい

中国語圏を席巻し、金馬奨でも主要な賞をかっさらったアン・リー監督の『ラスト、コーション』。原作の邦訳も発売されましたが、BBMに引き続き今回も、町山智浩氏がラジオで語り尽くしてくれています→「コラムの花道」。いやぁもう、これで本編見なくていいか……(笑)。

Persepolis1今、最も楽しみなのは、イランを舞台にしたフランスのアニメ『ペルセポリス』。このタイトルがついたらば、どんな映画だって見に行くだろうけれど、大王が焼き払った(と言われる)都市の名を冠するアニメは、まるちゃんのようにトボけた可愛さを持つ少女を主人公に、クレイグ兄貴が声で主演したモノクロ・アニメ『ルネッサンス』よりも(きっと)ハイセンスで、ALWAYSシリーズよりも(きっと)懐かしく、しかしノスタルジーや苦労や貧困や子どもの純真さなんぞを描いて観客の涙をふりしぼろうとするに(きっと)堕さない、(きっと)骨のある女性映画だろうと思う。……って、見もしないでここまで書くか。左の画像はイスラム革命後の「ヴェール着用」を義務づけられたイランで、"PUNK IS NOT DEAD"のジャケットを着て歩くヒロイン。声の出演も豪華。

東京フィルメックスのクロージングで見た『シークレット・サンシャイン』は、ストーリーにとらわれると、ただただ自分の子を失った女性の地獄の苦悶を描いた映画になってしまうだけだが、上映後のQ&Aで監督がヒロインの性格について語っていたように、他人との人間関係が築けない、心を開けない未熟な人間が成長しようとする話と見れば、誰にとって身につまされる、他人事ではない現代的なテーマの作品となる。Q&Aで聞けないかと期待したことの1つは、彼女が世間に心を閉ざして生きるようになった理由として考えられる、自分の勘違いかもしれない台詞のことだった。その一連の台詞に対する判断に全然自信はないけれど、彼女が夜道を歩きながら自身の過去を語っていると思われるシーンがあったと思う。あれは、彼女が父親に性的虐待を受けていた、というように聞こえたのだけれど……(みなさんはどう思われましたか?)。それは、彼女の生き方や、亡くなった夫の家族に疎まれていることや、薬屋のオヤジとのドライブを説明するのに十分なことのように思えて仕方ない。

太陽に天上の神の視線を込めながらも、もしかしたら天上の「父」たる神はヒロインに性的虐待をした男かもしれず、「神」なんてことを考えさせざるを得ない「宗教」というものを登場させながらも、「宗教」ですべての人間が救われるわけではないことを明確にし、それでも、映画中の"癒しキャラ"であり、ヒロインの人間関係における最初の他者であるソン・ガンホ(役名、何でしたっけ?)を使ってほっこりと宗教へのフォローを入れている(彼はヒロイン・シネに付き合って入信するが、そのうちに宗教が生活の一部になってしまう)。

具体的で下世話な児童誘拐殺人事件を描きながら、考えさせられるのは、人生のこと。ラストの、ヒロインの自宅の庭は、物が散乱して荒れ果ててはいるけれど、そこにやわらかな日差し(サンシャイン)がそっと降り注ぐ。庭はヒロインの心かもしれない。でも、太陽はオープニングのように閉ざされた車のフロントガラスごしに輝いているわけではない。ガサガサでボロボロではあるけれど、とりあえずは開かれた庭に、光を注いでいる。そこに至るために、ヒロインは自分のそれまでの生き方を全否定されるような罰を受けた。許せなかったのは、他人(犯人)ではなく、自分。えらい荒療治です。

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2007.11.24

チャン・ツォーチ新作上映

お寒うございます。台湾でも、金馬影展が始まっていたのですね。開幕作品の1つは、準備2年、撮影3年という、久々の張作驥(チャン・ツォーチ)監督の新作《蝴蝶》。昨23日に上映されました。残念ながら、金馬奨の方にはノミネートされなかったようですが、いずれにしても気になる監督の1人です。蝶が死者の霊魂を表すというと、ことしのTIFFで見た韓国映画『永遠の魂』を思い出しますが、紹介文を見た限りでは、こちらは相変わらずハードな感じの張作驥ワールド。見たいものです。

東京フィルメックスで18日から22日にかけてぽつりぽつりと見た映画は、『撤退』(イスラエル)、『13歳、スア』(韓国)、『最後の木こりたち』(中国)、『ジェリーフィッシュ』(イスラエル)の4本。ジョニー・トーとリッティク・ゴトクは、チケットを買ったのに行けず(涙)。でもリッティク・ゴトクは、25日にも行くつもりです。また、だらだらと感じたところを書いて見ます。

『撤退』で最も印象に残ったのは、冒頭の列車での、イスラエル人男性(リロン・レヴォ)とパレスチナ人女性(ハイアム・アッパス)との出会いからキスシーンまでのやりとりと、そのリロン・レヴォ演じるウリ(イスラエル軍?警察?)が、今回の「撤退」のモチーフである「ガザ地区におけるイスラエル入植者の撤退」のために、退出を拒否する市民たちを追い立てるために隊列を組んで人々の間を進んでいくときの「掛け声」でした。もたもたっとしたリズムのヘブライ語の特徴が際立っている感じで、単純に面白くて耳に残っているというだけですが……。

ガザからの撤退に際して、権力による強制退去が行われたというような報道は公にはなかったそうですが、監督は弟に呼ばれて現場を見た(聞いたのではなく、見に行った)、と言っていたかと思います。国家の決定の前には、自国民すら体制からの暴力にさらされる国。いわんや、他民族においておや、というか……。終盤の有名な「巨大ブルトーザー」などを見るにつけ、パレスチナ人たちの村々が同様に破壊されていった様が、頭の中に二重写しになりました。冒頭の列車のシーンがあったことで、余計にそれを感じます。

でも、ジェニンを撮ったモハメッド・バクリは以来ずっと社会的生命を危うくされているのに、これはOKなのかと不思議に思いました。そりゃ、あちらは生のビデオで、こちらは劇映画ってこともあるでしょうが、やはりそれは、アモス・ギタイ自体が既にイスラエルという国の誉だから、なのでしょうか? (地下電影の監督であっても、海外の映画祭で評価されればオールOKになっちゃうどこかの国みたいに……) この映画だって国内で上映したら、(左派は別として)喜ぶ人は少ないんじゃないかという気がしますが……。

一番気になったのは、Q&Aで脚本家のマリ=ジョゼ・サンセルムが、ヒロインのジュリエット・ビノシュ演じるアナの、自分が産んだ娘をイスラエルに捨ててフランスに移住しても、全く気にしていないように生きているという設定の裏づけとして、「アナは人間的に問題があった」と語っていた部分です。それによって、彼女自身も納得がいったのだと説明していたと思いますが、意味がとれませんでした。何か聞き逃しているのかもしれません。

『撤退』は面白かったですが、『それぞれのシネマ』のアモス・ギタイ(ハイファの悪霊……いや亡霊?)は、うーん、あれではスピルバーグも同じじゃないか、と思いました。

韓国映画『13歳、スア』は、苦しい生活環境の中で愛する父を失い、現実逃避の夢を見がちな13歳の少女スアが、現実を受け入れて1つ大人に近づいていくという成長記、かと思っていたら、最後にどんでんがえしが待っていました。これは、美人女優として人気を得てきたチュ・サンミの「母物」でもあります。とはいえ、母としての味とか深みを感じるところにまでは至っていないと感じましたが、小泉今日子か瀬戸朝香を思わせる美しいチュ・サンミが、夫に先立たれ1人で家庭を支える母をやつれメークで見事に演じていて、途中まで全く気付きませんでした。後半の歌はファン・サービスのオマケみたいなものでしょうが、ラストシーン、少女スアが朝早く起き出してくると、既に忙しく働く母の姿が見える――楽しみつつも淡々と見てきたところに、そのラストシーンが来て、図らずも自分を育ててくれた人の働く後姿を思い出し、胸が詰まりました。

少女の気持ちに寄り添って、ときにおかしな空想シーンをまじえながら、丁寧に進行する映画で、母側の個人としての気持ちの描写は不足気味なのですが、無言で働く母の姿がそれを補っています。そういう、ステレオタイプな母像を描いているという意味でも、「母物」であると感じたわけですが……。13歳少女の心理描写は素晴らしいです。

『最後の木こりたち』と『ジェリーフィッシュ』は、全く毛色の異なる2本ですが、こういうのが1度に見られるのがフィルメックスだよなぁと幸せになる作品でした。

『最後の木こりたち』は、2005年に撮影された中国東北部の昔ながらの木こりたちのドキュメンタリーです。タイトルどおり、この地域での木こりの仕事はこの年を最後になくなったそうです。最初ドキュメンタリーだと知らずに見てびっくりしたのですが、これはもう、山奥で伐採した大木を麓の貯木場まで馬に引かせて駆け下りる大迫力の映像に尽きるという感じです。真冬の寒さの中で、人や馬が吐き出す白い息と、土ぼこりと雪けむり、馬のいななきと馬具の金属音、男たちの掛け声と叫び声、切り倒した木のきしむ音、こすれる音……。何か物語性があるわけでもなくナレーションもなく、繰り返される仕事や馬の世話などの木こりの日常風景に、わずかに男たちの会話がはさまれているだけの映画なのですが、丸太を引いて雪の山道を駆け下りる馬の脚のように、がっちりと太く力強い作品です。

酷使され、2005年のひと冬で6頭も馬が死んだといいます。生きてはめいっぱい使役され、死んでも、皮をはがれ肉を分けられ、人間のために使われる馬を見て、実際には同じことが続いているにもかかわらず、そこが見えなくなっている現代の生活、「現場」が遠くなる現代社会の仕組みに対する複雑な思いを抱きました。彼らにとって、馬は道具であり財産です。めいっぱい使うけれども、なくてはならない大切なパートナーであり、木こり自身が死したときには、墓前で、中華おなじみの紙のお札とともに、大きな張子の馬も燃やされます。あの世でも、馬がなくては木こりは生きていけないからです。そういう感じは、同じように日々肉や鳥や魚を消費している我々には、もうなくなってしまっている部分です。

『ジェリーフィッシュ』は、どこかおかしな登場人物たちが皆可愛らしい。3組の無関係なキャラクターが、同じアイテムでリンクする不思議な群像劇です。5歳、水、船、写真、オフィーリア、結婚式等々……。ホロコースト生き残りの第2世代というのも、実は重要なキーワードかもしれませんね。海で拾われた5歳の少女は、つけていた浮き輪をはずされそうになると、まるで皮をはがれるかのような悲鳴をあげました。その5歳の少女を拾ったウェイトレスの若い女性が暮らすアパートは、天井から水が漏っていて、時折漏れ落ちてくる水の下に立ってそれを飲んだりしています。しまいにはプールのように、部屋中が水浸しになってしまうのですが……。フィリピンから出稼ぎにやってきた看護士(あるいは介護士)の女性は、街角で水漏れアパートに住むウェイトレスの女性にぶつかられ、「大丈夫ですか?」と声をかけられます。ところが、ウェイトレスの女性が交通事故に遭って入院し、意識を取り戻して廊下を歩き出したところで、ふらふらっと倒れこんだところを、手を差し出して「大丈夫ですか?」と同じ台詞で助けてくれるのは、別の女性につきそっていた、あのフィリピン人女性です。これもまた、特に一貫した物語性はないにもかかわらず、なぜか面白い。エンドロールに流れる「バラ色の人生」が、あの『ブエノスアイレス』での「HAPPY TOGETHER」のように、爽快感と明るさをもたらしてくれました。

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2007.11.18

寒くて熱い日

2007年のフィルメックスが始まりましたね。このところ、ちゃんとした感想文が書ける自信など全くないので、適当におしゃべりしてみます。

オープニングは、カンヌ60回記念で制作された世界の監督35人による各3分間のオムニバス『それぞれのシネマ』。これは面白かったですね。気楽に楽しく見ていられるのが何よりも良いですが、見た後にあれやこれやと好みを語るのも楽しいでしょう。当方は1人で見に行っているので語りあう相手もなく、まあ、こんなところでつぶやいてみているわけですが……。個々の作品の多くは、劇中映画として古典的な名作を、舞台となる映画館で「上映」していたりするわけで、それらの作品を知っていればなおさら面白かったり、納得がいったりするのでしょうが、フランスやイタリアの古典的な名画をほとんど知らない恥ずかしい奴なので、わかりません。でも、知らなくても十分楽しく見られます。

最も好きなのは、キアロスタミの、ロミオとジュリエットを見ながら涙する女優たちです。素晴らしいイラン女優たちの表情を見ているだけで、こっちも涙が出そうに……。映画館へのオマージュと、俳優のすばらしさをシンプルに見せただけでしたが、感動しました。ウォルター・サレスの、土着な掛け合い漫才いや掛け合いラップ(?)も受けていましたね。楽しかった。最後の監督名のクレジット自体がオチみたいで、「なるほど~」と微妙な笑い(←失礼な)を誘っていたのはラース・フォン・トリアー。ケン・ローチもですか? まあ見ている側からすると、どの作品も監督名が「答え」というか、見ながら「誰の作品だ?」とクイズをやっているような気分になります。スレイマンとか、カウリスマキみたいに、おなじみの俳優さんが出てきてにっこりというようなものもあれば、劇中劇となる映画が楽しいこともある。エマニエル夫人の航空機内の濡れ場とか、とても久しぶりに見て懐かしかったです(昔はテレビでしょっちゅう放映されていたような……)。コーエン兄弟の作品も面白かった。ジョシュ・ブローリン(あれは『ノーカントリー』と同じ役柄でしょうか?)、昔テレビドラマでファンだったんですね(←吹き替えが鈴置(洋孝)さんだったからというのが最大の理由でしたが)。

俳優といえば、ここで絶対に挙げておかなければならないのが、王家衛の作品。作品自体はさっぱり面白くなく、専門的に何と言うのか知りませんが、お得意の一部画面から切れた大写しの顔で、劇中映画と音楽と、時折の女性との回想シーンをはさみながら、ほとんどずっと若い男が映っているだけです。張震かと思えども全く違う。陳坤かとも思ったけれど、王家衛と関係あるなんて話は聞いたことはあったっけ? と……。で、エンドクレジットになって、監督名の後に出てきた出演者名が「范植偉」。びっくりしました。門下(?)に入って、やっと主演で使ってもらえたのか~という感慨もありましたが、このところ王家衛の方も、范植偉の方も作品情報をチェックなどしていなかったので、ひたすら驚いて、目をこすりました。この作品、元祖動画アップロードサイトでも丸々見られるみたいです。このほか東アジア圏の監督作品は、北野武を除くと全て華語片だったのですが、最もきれいごとにまとめていなかったという理由で、蔡明亮の作品が好きです。李康生は、子どもの蔡明亮のおとっつぁん役(笑)。すっかりおとっつぁんです。

『無用』、『私たちの十年』、『東(Dong)』の賈樟柯特集。きょうの最大の発見は、『東』に「Dong」と付けられている理由でした。これは「East」の東ではなくて、この作品の対象である画家の劉小東の名前だったんですね。タイトルバックを見ていて、ふと、「『無用』には「Useless」とついている。『私たちの十年』には「Ten Years」とついている。なのに『東』にはどうして「East」とつかずに「Dong」とついているのだろう」と思い、気付きました。皆さんはすでにご存知だったのでしょうが……。タイトルについて言えば『無用』も、実際はこの映画のテーマである馬可という服飾デザイナーのブランド名なのですが、後半から切り替わるおなじみ汾陽の、最先端のファッションとは無縁の鉱山労働者の人々の姿を見ながら、現実の生活からは全くかけ離れたファッションの「無用」さ、無力さを皮肉に感じたりしました。Q&Aを聞く限りでは、監督にそんな意図はなさそうでしたけれどもね。自分の作品は、批評家には、ドキュメンタリーをとればフィクションみたいだと言われ、フィクションをとればドキュメンタリータッチだと言われる、と「フィクション」と「ドキュメンタリー」に関する質問に対し、ちょっとうんざりするように語っていました。実際、監督にしてみれば「フィクション」だろうが「ドキュメンタリー」だろうが、自分の創り出すものという点では変わらないのでしょうからね。後半に流れた、大陸の荒くれたフォークソングのようなロックの歌声(左小祖咒『愛的労工』)が非常に印象的です。

実は『無用』は前半をほとんど寝てしまったという……(←また直前にビール飲みました。懺悔)。でも後半に入って、汾陽の風景と、王宏偉を彷彿とさせる地元の男たちの姿を見て一気に目が覚めました。

とはいえ、作品としては『東(Dong)』の方が強烈で濃厚で、それはやはり劉小東その人が発散する熱と、彼の絵画の持つ力から来るものなのだろうと思います。三峡ダム建設のために長江河岸の建物を取り壊す仕事をしている労働者たちを描く劉小東の制作の工程がそのまま映っている。描いた絵もまた凄いです。カメラの前で武術の所作を始めたり、とつとつと繰り返し芸術観について語る、曲者です。賈樟柯が劉小東のエネルギーに孕まされて、産んだ子どもが『長江哀歌』なんじゃないか、なんて思えてくるほど劉小東も『東(Dong)』も濃いです。ものを表現しようと思う人々には、非常に刺激的な作品だと思います。(でもまだ、『長江哀歌』を見られていません。かならず、どこかの映画館で見ようとは思っているのですが……(高崎に行くしかないのか?)。昨年のフィルメックスのオープニングは、仕事のためにチケットを無駄にしてしまったのです)。

『私たちの十年』は、ナンファンデイリーこと「南方都市報」という、中国大陸の新聞紙の創刊10年を記念して制作された8分の短編。南方都市報が報道してきた10年を、同じ列車を利用する客の10年の日々に重ねて、趙涛と田原(←私が見たのは『蝴蝶 羽化する官能』以来。大分活躍しているようですが、相変わらす可愛いです)が演じています。終盤の、いるはずの家族が側にいない趙涛に対する田原の「どうして1人なの?」と、登場からここまで1人でしか電車に乗っていない田原に対する趙涛の「どうしていつも1人なの?」という台詞は、その場の会話以上に何か深い意味があるのでしょうか。賈樟柯は、南方都市報について、その報道姿勢を日頃から評価していたので依頼を引き受けたと語っていましたが、私も大陸芸能情報を必死で追いかけているころには、ずいぶんお世話になった馴染みのメディアの1つです。日本の一般紙などでも、世界情勢のページの中国大陸情報には南方都市報発のものがよく出ていますね。この南方都市報、本サイトもさることながら、確か「南方周末」という週に1回出る新聞(雑誌か?)のウェブ版も、映画の話題や作家論らしきもの(中国語が読めるわけではないので詳しくはわからない)が文化面に載るときがあり、アカデミックでなかなか良い感じだったことを記憶しています。もちろん今もあるサイトです。

ちなみに、あの2両列車は、南方網の記事によると、汾陽と同じ山西省の省都、太原郊外の化学工場(とどこか)を結ぶ鉄道らしいです。鉄道の画面はちょっと『鉄西区』みたいな風景でした。

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2007.11.05

映画祭シーズン折り返し

きのうきょうと、NHK アジア・フィルム・フェスティバルで『京義線』、『ガレージ』、『予感』を、浅草で『イラク-狼の谷-』を見てきました。

毎年同じなのかどうか例年は気にしていないのでわかりませんが、今回のアジア・フィルム・フェスティバルのキャッチは「映画で体感するアジアの青春 ラブストーリー×5」というもので、青春もラブストーリーも映画にはつきものとは知りながら、このキャッチのおかけで、このイベントへ出かけるのに二の足を踏んだりしていたのですが、さすがはお上品なNHK様というか何というか、「ラブストーリー」と言うにはおこがましい「淡さ」「苦さ」のラブストーリーで、意外と好感を持ちましたです。


韓国映画『京義線』は好きなタイプの作品。――心に傷を抱えた男女が偶然出会う。けれども、出会うだけであって、その男女が恋人同士になっていく話ではない。映画自体は、出会って終わる。「ラブストーリー」は出会った男女のそれぞれの心の中に、抱えた傷と深く関連する形で、別個の相手との思い出として存在する。出会った2人の恋愛劇に発展しないことで、男女それぞれの過去の出来事、淡々とした日々の小さな幸せと、孤独と、苦しみが浮かび上がる――基本的には、ある一夜の話である。傑作とは呼べないし、佳作と呼ぶにも後一歩という気がしなくもないが、登場人物たちの重苦しい日々をさんざん見せながらも、さらっとした本筋が、最近の韓国映画にない爽やかな後味を残してくれて、心の片隅で時折思い起こしたい愛すべき映画になっている。大々的には無理だろうが、公開できる作品だと思う。

上映後に、監督とヒロインが登場しての質疑応答。主人公の男女が偶然出会うのは、京義線という、ソウルから北朝鮮側に至る鉄道の、韓国側の終点「臨津江」駅(実際にはその次の「都羅山」が韓国側の終点だが、民間人は行けないのだそう)で、2人とも、最終列車で寝過ごしてしまい終点で降ろされる。監督によると、寝過ごした理由は、どちらも酒を飲んでいたからだとのこと。世の中には、浮かれた酒呑みばかりではない、こんなに辛い酔っばらいもいるのである。無論、この路線を舞台としたからには、そこかしこに南北統一への思いも込められている。脚本は監督の手によるものだが、映画のラストで、ヒロインが作家として書いた同名小説として登場する。よくあるパターン。でも一瞬、本当に原作は小説なのではないかと思った。こんな小説があってもいいな、あったら読みたいなと……。

インドネシアの『ガレージ』は、ボーカルの少女と、男の子2人の「ガレージ」というバンドの活動を中心に据えたバンド物の青春映画。少女の母は、妻子ある男との恋愛によって未婚で彼女を産み、勘当状態で実家を出て苦労して彼女を育てた。世界最大のイスラム人口を抱えるインドネシアという国では、それは大変なことに違いない。少女自身も、小さい頃からそのことで差別され、いじめられれながら成長してきたし、成長した今でも、周囲に知られれば、生活するのさえ困難なほどの差別にさらされることに怯えながら暮らしている。でも、無慈悲な社会への怒りと悲しみを乗せた少女のボーカルが、聴く者の胸を打つ。かなえられない愛や、恋しい人へのあふれる想いを歌うそのメロディは、アジア圏お得意のバラードではなく、ハードロック。シャウトというよりは泣きに近いファルセット。メンバーは皆若いので、ドロドロとしたバンドの人間関係なんてところには至らず、互いに青春特有の頭でっかちな悩みを抱えてすれ違い、また集うという他愛ないバンド物だが、見辛いほどに暗い画面の多用や美術、ヒロインの性格設定などに、東南アジアの映画らしからぬ新鮮さを感じた。

最も見たかった『予感』というイラン映画は、東京国際映画祭で見たイラン映画『数日後』と同じく不倫が大きなファクター。『数日後』は妻子ある男性と恋愛関係にある女性の心理をじっくりと追った映画だったが、『予感』の方は、若い独身女性と恋に落ちて浮かれる夫と、死産による心の傷が癒えぬまま冷えていく夫婦関係に悩む妻を描いている。こちらは『ガレージ』とは違い、大人の泥沼的人間関係がこれでもかと描かれているが、登場人物たちのリアルな末路には何か寓意的なものも感じられる。独身女性を見つめて、幽かに微笑む妻の表情も印象的だ。中東の映画を見てると、どこか哲学的、形而上的な感じがするのは、台詞はもとより、ちょっと車を飛ばすと荒涼たる砂漠の風景が出現するのも一因かもしれない。砂だらけの、何もない景色の中にたたずむ人を見たら、人間とは何か、人生とは何か、なんて考えてしまうのも人間である。


『イラク-狼の谷-』は、悪役の米軍のリアリティのなさこそが、逆に、ハリウッド映画における「テロリスト」「イスラム過激派」が実はどれだけいい加減なステレオタイプか、ということを表している気がして、とても面白かったです。

東京国際映画祭が終わって感想を書ききらぬうちに、期間中に午後半休を2回もとってしまったツケか、怒涛の残業ウィークに入り、それが終わったら東京フィルメックスのチケット発売で慌しいことしきりです。フィルメックスは、前売りを買わないとやばそうなチケットだけは辛うじて入手しました。ほかは近くなってから準備すれば大丈夫だと、たかをくくってはおりますが……。

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2007.10.23

わがままな客

22日、やっと岩波文庫『ペドロ・パラモ』を買う。

初日からきょうまで、TIFF2007のアジアの風作品を10本(&コンペ1本)を見たけれど、どの作品もヒューマンな内容で見応えがあり、ハズレなしという感想。若手監督の新作を積極的に持ってきているのに、内容的には、年齢層の高いのが特徴の日本のアジア映画ファンのまさにストライクゾーンという感じの作品群で、となると前回までのような、「なんじゃこりゃ?」的な尖った作品がないのが、ちょっと寂しく思えてきたりして……。まあ「何じゃこりゃ?」であっても「何だか惹かれる、何だか凄い」と思わせるものもあったし、ただただ「何じゃこりゃ?」としか感じられない作品もあったのだけれども……。それでも、ね。 

のんきでわがままな「観客」である。

そんなことを言いながら、今のところ最も気に入ったのは、インドの女性映画『運命の糸』である。インドというと、人がごったがえす都市の風景をイメージしがちかと思うが、この映画ではインド北部の山岳地方の風景や、北西部の砂漠の風景が本当に美しい。運命に操られる男女のメロドラマ、あるいは夫婦の情愛物と思いきや、女性の自立を(というか、本当は「女性」にとってだけでなく、人間が自分の人生を選び取って生きることの困難とその意義を)描いている。伝統的な生き方を選ぶことは正しく立派なことのように思えるが、出来合いのレールの上を安易に流されて生きているだけだ。すべてを自分で決めること。決めたことには責任を負うこと。そうして、本当の自分の人生を生きよう、と訴える。娯楽作品ではなし、物語の展開や顛末は想像に難くない。だが、さすがインド映画というのか、きっちり笑わせ、しっかり泣かせて、爽快に終わる。つまり「見せる」。女優陣も魅力的だ。でも、自分がこれまでに見た映画の中で、最も厳しいことを言っている映画の1つだと思う。

フィリピン映画『レカドス食堂』も、とても可愛い作品で、料理をモチーフにした3代の女性の年代記である。監督は26歳という若さの男性である上に、映画の総制作費は200万円だそうだ。が、高名な脚本家に師事する監督だけあって、若きヒロインの恋、3代の女性の生き様といった盛り沢山な内容を、フィリピンの家庭料理を中心にコンパクトにまとめ上げていて見事だと感じた。低予算でありながら、主人公の女優陣はフィリピンでは有名な人たちばかりだそうで、脚本に思い入れてほとんど無償に近いギャラで出演してくれたとのこと。で、明るく可愛い作りの映画なのだが、後からしみじみ振り返ると、祖母・母・娘の営む「レカドス食堂」は、映画の中の回想シーンでのみ繁盛しているだけで、苦しい家計にあって「今」は1度も店を空けていないということに気付く。

こんな感動作が目白押しな「満腹」アジアの風の中で、唯一いつもどおり気を吐いてくれたのが、さすがのパン・ホーチョン作品『出エジプト記』だ。見終わった直後、パン・ホーチョンはますます高みに上ってしまったなあという感想を持った(でも、何だかわからぬ違和感もあった)。すごく下らないことを大真面目にやっている可笑しさは変わらない。ダイバーのエピソードやら、女性の陰謀といった主題は本当に下らない(が面白い)。なのに目いっぱい真面目に格調高く作られている。暗く静かな画面、未解決事件を追う警部、返還前の香港と今の香港、そしてダイバーのエピソードに表された警察の暗部なんてものが揃ってしまったものだから、「『殺人の追憶』か?」というほどの重厚さにまで手が届きそうになってしまった。下らなさと真面目さのギャップが大きいほど面白いのは笑いの基本なわけで、となると今回は格別に面白いはずである。大好きなパターンだ。なのにもう1つ何か満足できなかったのは、実は今、それは主演のサイモン・ヤムのせいだと信じている(笑)。映画中で女性とのラブシーンなどもあり、それはサイモン・ヤムだからこその信憑性なのかもしれないけれど(醜男じゃ「その展開、都合良すぎるよ」と思えてしまうもんね)、でも、サイモン・ヤムが婿殿状態で姑に馬鹿にされようが、ジャージでカラオケを歌おうが何をしようが、情けなくないし、可笑しくもない。「かっこよくてセクシー」過ぎて「味」がない。監督が意識して配置したというスクリーンの中の巨大な建造物と同様、彼は無機物の1つなのだろうか、などとすら勘ぐってしまうほどの「つまらなさ」が、映画の中のサイモン・ヤムの周りに漂っていたと言ってしまっては、素人の癖に失礼過ぎると叱られるだろうか……。でもラストのしゃっくり、面白くなかったもん……(え?あれは面白さを出すためではない?)

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2007.10.15

東京シネシティ フェスティバル2007

こんなタイトルばっかり続いてナンですが……。

TIFF提携企画の東京シネシティ フェスティバル2007で上映される2本のフィリピン映画、特にこのジョエル・C・ラマンガン監督(『愛シテ、イマス。1941』の監督)の『シャシャ・ザトゥーナ』(→映画公式サイト)は"レズ&ゲイSFミュージカル"だそうで、何だか楽しそうです。惜しむらくは、せっかくのフィリピン映画、せっかくのラマンガン作品なのに、ジェイ・マナロが出ていないこと。とはいえ、何かと脳味噌が疲れがちなフィルメックス作品の合間にいかがでしょうか。


さて10月の7~8日の2日間、長い間望みながらタイミングを逸していた山形国際ドキュメンタリー映画祭に、初めて出かけた。キャパが小さいためか朝早くから並んでチケットを整理券に換えておかないと入れない会場もある、ということを知らずに、見るつもりで見られなかった作品もあるとはいえ、各会場の間は近く、落ち着いていて良い雰囲気だった。派手さのないところが短所だという意見もあるようだが、個人的にはその方が好きだ。映画の合間に街中を移動していると、メディアで見かけたことのある顔とすれ違ったり(とはいえ向こうがこちらを知っているはずはない)、憧れの映画監督が近くを通ったりするのがとても嬉しかったりもする。ただ、福岡アジア映画祭などと比べると、映画作家や映画関係者の参加率が高いせいか、あちこちで顔見知りが挨拶しあっている様などを見るにつけ、単なる観客、しかも地元住民でもなく仕事でもないのに金をかけて泊りがけで来ている物好きな一般ファンなどは、少々疎外感を覚えたりもする。ひがみ根性?

見られたのは6作品、正確には5作品とちょっとだった。その「ちょっと」が、今回大賞を受賞した『鳳鳴(フォンミン)― 中国の記憶』。監督は『鉄西区』の王兵。この作品もまた3時間という長さである。実はこれはもう、カメラの前で和鳳鳴という女性が波乱の生涯を語るというだけの映画(多分)だが、そのただならぬ雰囲気に圧倒され、最後まで見なかったことが悔やまれた。アパートの部屋に入りカメラ正面の椅子に腰掛け、合格していた大学への進学を諦めて新聞社に就職した十代のころの話から語りだす老女。微動だにしないカメラは、語り部がトイレに行く間も、その不在の画面を映し続けている。このあたりで「ああ、この映画はきっと最後までこのまま行くんだな。我々は、彼女の人生を彼女から直接聴くことになるのだな」と思う。同時に、監督の作品に対する覚悟みたいなものが、びんと頭の芯に突き刺さってくる。映画なのに「絵」はない(正確には、語り手の「絵」がある)。1人の人間の頭の中にある過去の出来事が言葉で語られ、カメラを介して観客に届く。なのに「絵」以上の、和鳳鳴の来し方の物語という以上の、何かを感じさせる。きっとまた見るチャンスもあるだろう。そのときにはまた考えてみたい。いずれにせよ、今度もまた「体験」させる王兵である。

『鳳鳴(フォンミン)― 中国の記憶』を途中までしかみなかったのは、上映時間が重なるが、どうしても見たいと思い見ることに決めていた作品がその後にあったからなのだが、鳳鳴を中断してまで見た作品はやはりインタビュー形式で、しかし鳳鳴の後ではレベルが違いすぎた。上映中に感じたモヤモヤは、上映後の監督Q&Aによって大分すっきりしたものの、「なかな面白いじゃん」の域を出るものではなかった。

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2007.10.06

NHKアジア・フィルム・フェスティバル

第8回の詳細が発表になっていたのですね。→公式サイト

ということで、皆さま(って何人だ?)、大変おひさしゅうございます。TIFFのチケット取得状況はいかがでしたでしょうか?

ワタクシの方は、『遠い道のり』以外は取れました。興味の方向が、どんどんダークサイドに落ちて……いや、地味に傾いてきているので、競争率の高い作品はほとんどなかったのですが……(窓口に10時に出かける根性も元気も全くないので、競争率が絶対に高いと思われたパン・ホーチョンと、『帰郷』だけはプレ・リザーブで取りました)。まあ、『遠い道のり』のチケットに固執するなら、10月10日の朝7時あたりのウェブが狙い目でしょうか?(笑)

最近の生活では、帰宅後の夕食がほとんど毎日午前1時~2時ごろなので、その時間帯に先月BS2でまとめて放映していた『デスパレートな妻たち』がすっかり気に入ってしまいました。テレビドラマ的馬鹿馬鹿しさに満ちた笑いと、テレビドラマ的大げささに満ちたきっつ~いストーリー展開が大変心地良く、日本語吹き替えの台詞まわしも個性的です。3日から始まった新シリーズには、必死で仕事を切り上げて帰宅して見ました。楽しみにしていたもう1本、『アグリー・ベティー』の初回には間に合いませんでしたが……。

トップで書いたNHKアジア・フィルム・フェスティバルには、いつも足を運び損ねてしまうのですが、ことしは必ず『予感』と『京義線』は見ようと思っています。実はこちらも、前回(第7回)作品を先月あたりからNHKBSで放映中で、イラン映画の『こんなに近く、こんなに遠く』やイスラエルの『甘い泥』、一般公開もされたインドの『ナヴァラサ』を見たのですが、どれもが、その地を旅しているかのような気持ちにさせる景色を映し出していて、内容も見応えある素晴らしい作品でした。今月末あたりにもまた放映するようなので、未見の方は、ぜひ『ナヴァラサ』や『こんなに近く……』をご覧になってみてください。

月末からは、浅草中映で『イラク -狼の谷-』もかかります。これだけは、見逃さないようにしなくては……!(笑)

映画祭シーズンに入ります。スペイン・ラテンアメリカ映画祭に行けなかったのが本当に残念ですが、今月からは元気出して出歩きたいものです。チェコ映画祭にも行きます!

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2007.05.10

高知行きますか?

アピチャッポン・ウィーラセタクン監督が来日。高知と大阪では長編・短編の特集上映、東京では短編の上映があるそうだ。

東京フィルメックス事務局だより

中でも、土日2日間で監督の主要作品がいっきに見られて、チケットも安い高知県立美術館は素晴らしい。

今回は『世紀の光』(←もう一度見たいなぁ!)が新作という形での上映らしいけれど、3部作(『ブリスフリー・ユアーズ』、『トロピカル・マラディ』、『世紀の光』)としてのひとくぎりの後、いったい「何」が来るのか、次の作品こそ最も楽しみだ。

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2007.04.02

しばし洗濯、心の……

仕事そのものは年度末とは全く関係ないのだけれど、先週は送別会の1日を除いては日々長時間労働。土曜も午後から出勤したものの、朝5時まで仕事をしてしまったので、日曜の午後、自宅近くの桜並木に、発泡酒を1本だけ持って行って散歩がてらの花見をし、本屋に寄って欲しかった本をクレジットカードで全て購入し(←まったくもう……)、週末は終了。

花見と言えば、成熟しきった樹のこぼれ落ちそうなほど咲き乱れた花ばかりが浮かぶけれど、出かけた先は、まだ幹の細い若い桜並木。ほうきを逆さにしたような、楚々とした桜も意外と良い。

ということで、買ったDVDでも映画館でも、映画は見ていない。

少し前に情報が出たのだけれど、昨年話題を呼んでいたトルコ映画『イラク-狼の谷-』が、ことしいよいよ日本公開だ。トルコで超大ヒットした娯楽映画で、公式ページのコンテンツはまだ工事中だが、トップページにある欧米マスコミのキャッチが面白すぎ。「まるでジェーン・フォンだとマイケル・ムーアの描くランボー」。「アメリカ人を野蛮人のように描いたトルコ映画」。内容的にはかなりB級でマッチョなものらしいが、西側の見方でイスラム圏を描いた映画がほとんどな状況で、たまには逆の方に偏向した映画っていうのも面白いんじゃないかと思う。

それから、数日前の Guardianのニュースによると、『ふたりの人魚』のロウ・イエ監督(新作を、検閲を経ずにカンヌに出品したことで、昨年秋、当局から5年間映画制作を禁じられた)が、パレスチナの作家 Mazen Saadeh の"The Last Year"(イスラエルに捕らえられ10年の監獄生活を送ったパレスチナ人の男が妻に捨てられる話?)を撮るらしい。

そして5月10~27日の EUフィルムデーズ2007。見た作品もあり見損ねた作品もあり、それ以外にも非常に楽しみな上映作品群だ。

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2007.03.26

His name is Perry

「びっくり」な初見の印象は、寝ぼけていた割には、さほど的はずれでもなかった。

ジョージ・プリンストンの『トルーマン・カポーティ』を原作として表看板に出しながら、自分なりの答えを出したのが 《Infamous》。その肝をすえた「オレ流」が、見事な脚本に結実した。ユーモラスで、胸を打つ台詞の数々。構成も冗長なようでいて、無駄がない。

映画は、小説『冷血』とクラッター事件そしてトルーマン・カポーティに関して、我々の多くが最も気にしながら見ない振りをしてきた部分を、「答え」として取り出して、納得できるよう丁寧に描いている。

クラッター事件で4人を殺したのは誰なのか? 
殺害の直接的なきっかけは何だったのか?
カポーティが『冷血』の後に作品を完成できなかったのはなぜか?

ベネット・ミラーの『カポーティ』とは何度も比較されてきたし、この作品自体、『カポーティ』より後に完成し公開も遅かったことで、「こっちが本物のカポーティ」という、はったり半分の煽り文句を打ち出していたりもしていたようだが、要は好みの問題で、例えば『カポーティ』冒頭の見事なホルカムの田園風景の荒涼、それが《Infamous》では、突飛で都会的なシルエットのトルーマン・カポーティ自身がその風景のど真ん中に立つことにより、ユーモラスなものに変わる。『カポーティ』の中で、ペリー・スミスと自身に関して「同じ家で育ち、彼は裏口から出て、ぼくは表から出た」というカポーティの重要な台詞があるが、これは『カポーティ』と《Infamous》にも言える気がする。

『カポーティ』が、作家としての苦悩を描き出したカポーティ自身の映画だとすれば、《Infamous》は、カポーティとスミスのコミュニケートを克明に追い、関係が深化していく様子を見せながら、ヒコックとスミスの処刑後、カポーティの世界に開いた穴(スミスの喪失)の巨大さを観客に実感させる映画で、スミスの比重が大きくなっている。ダニエル・クレイグを見たい観客には堪えられない、嬉しい作品だ。

Infamous_perry
(懲りずにまた貼る) 

そんなわけで、今やジェームス・ボンドが英国の霧の彼方に吹っ飛んでしまった感あり(笑)。いや誰だって、銃を構えてタキシードひるがえし、スリリングに戦って敵を倒すなんていうお膳立てがあれば、ある程度格好良く見えるに決まっている(まあ、22作目を楽しみにはしています。いますが……)。 カポーティを演じるトビー・ジョーンズもダニエル・クレイグも、共に英国俳優で、それが、非常にアメリカ的な2人の人物を演じることになったのが面白いと監督のダグラス・マッグラスが言っていたが、ダニエル・クレイグにとっても、出演映画の中では格別にやりがいのある役の1つだったのではなかろうかと思う。おなじみの犯人系の役柄ではあるにしても、主役の鏡像とも言える重要人物であり、共演者にだって不足はない。

ペリー・スミスが芸術を志向したのは、悲惨な境遇による学歴コンプレックスのゆえか。絶望的な孤独からくる、他人に受け入れられたい、関係を築きたいという渇望。その上に、常識の壁を乗り越え、凶悪犯罪の世界に足を踏み入れてしまうほどのポテンシャルを持つ。どの作品だったか忘れたが、ダニエル・クレイグの出演映画の監督が、俳優としての彼を評して同じようなことを言っていたと思う。俳優としての技量の内側に、大きなエネルギーのようなものの存在を感じさせ、それが正義感として表出するにせよ、怒りや暴力のようなものに変わっていくにせよ、説得力のあるものとなる。

カポーティがスミスに抱いた親近感の理由の1つに、カポーティ同様の小柄な体格があったことは明らかだろう。「こびとのような半おとな」。小説『冷血』の終盤の処刑シーンで、吊るされたスミスを表現したこの言葉は、カポーティ自身を表した言葉でもあり、自己を客体化し突き詰めていく作家の厳しさを感じさせ、とても印象深かったのだが、この点に関してダニエル・クレイグがスミス役を演じるに当たり背負ったハンディは大きかったはずだ。

『カポーティ』の中で最も好きなシーンは、先に述べた冒頭の田園風景ともう1つ、カポーティが保安官住宅の女囚用の監房に入れられたスミス(クリフトン・コリンズ・ジュニア)を最初に訪ねる場面だ。スミスが壁際から振り返って、脚の痛みを止めるアスピリンを要求するあたりは、『カポーティ』におけるペリー・スミス像――小柄で繊細で孤独で、世の中に対し静かな苛立ちを感じている、そんな面が良く表されていたと思う。

ダニエル・クレイグは決して大男ではないが、スミスの人となりに関する重要な要素である「小柄さ」はない。それをカバーするのは、演技の技量は言わずもがな、役づくりと言う面では、やはり彼の中からにじみ出る熱のようなものしかない。金髪を黒く染めダークなコンタクトをつけた彼が、場面によっては誰なのかわからない(ぐらい別人として役になりきっていた)という声を、監督は多く聴いたそうだ。スミスの内面を表側に出していくことによって観客を納得させようとする、「こびとのような半おとな」的なスミスのイメージとは全く違う、新鮮で力技なペリー・スミス像。

自分の中では、コリン・ファレルのボビー・モロー役と張りますね(笑)。

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2007.03.24

アラブ映画祭雑感

17日から18日にかけて、アラブ映画祭2007で3本と半分の映画を見た。(もう1週間過ぎちゃったじゃん)

サウジアラビアの『沈黙の影』は、大分遅れて途中から入場したので「見た」とはいいがたいが、近未来設定の社会風刺のきいたサスペンス映画で、展開は猛烈にゆるいけれど、中東版未来世紀ブラジル的趣あり。サウジアラビアでは政策によりここ20年間映画自体が禁止されてきたが、2005年に初めて女性と子ども限定のアニメーション専門の映画館ができたということで、この映画はサウジ初の長編作品。アヴドゥッラー・アル=ムヘイセン監督自身が所有するスタジオで、自身の制作により完成。ということは、いわゆる「アラブの大富豪」か?

自分が見たうちで、もっともお客が殺到していたのが、ヨーロッパ各国とチュニジアの合作映画『バーブ・アジーズ』。ハーブ・アジーズ(アジーズじいちゃん)と孫娘イシュタールが砂漠を旅しながら出会う人々とのエピソードと、じいちゃんが語る昔話が交錯する幻想的な物語。アラブがつくる「アラブ的幻想譚」は、朝日選書『ハリウッド100年のアラブ』の言う、西欧社会の作り上げた「富と愛欲と不思議のアラブ」のイメージとは全く違う、
生と死に関する哲学的な話になっていくのは、フィルメックスで見た『半月』なども同じだなと思う。厳しい自然環境の砂漠に生きるということは、常に死と背中合わせということであり、生死について、人生について、考えざるをえないということなのか。『バーブ・アジーズ』でじいちゃんの語る、水面を見つめたまま人生を悟ってしまった若き王子の話に登場する、王子役の俳優の美しいこと!

これもまた初の長編になるイエメン映画『古きサナアの新しき日』は、現代のメロドラマで、身分相応の婚約者のいる富裕層の若者と、労働者階級の女性との悲恋と、彼らをとりまく昔ながらの「村」的なイエメンの社会の様子を、ヨーロッパから来たカメラマンという外の視点から描いた作品。外国人視点特有のエキゾチズムのあざとさを感じないこともないが、夢のように美しい古都サナアの街並みはもちろんのこと、忍者のような目以外は全て布で覆った女性の民族衣装とか、婚礼のしきたりや衣装とか、頭にカゴを載せた卵売りとか、ジン(魔物)に関する風説などに、やはり心ひかれるし、「古の街サナアの不思議」に酔っていいように映画もつくられている。新しい朝は毎日やってくるが、本当の意味での新しい朝、「新しき日」はサナアにはやってくるのだろうか。待っているのはヒロインである。

アラブのハリウッドと言われるエジプトの新作映画『ヤコービエン・ビルディング』は165分の大作で、1930年代に高級住宅として建てられ、今は様々な階層の人々が住むヤコービエン・ビルディングの住人たちの群像劇だ。様式美にさほどこだわらず、個々の登場人物たちの「今」の生活とその心理を丁寧に追っているので、テレビドラマの3時間スペシャル物を見ているような感じを受けた部分もあったが、オールスターキャストでつくられたベストセラー小説の映画化で、エジプト映画史上最大の予算を注ぎこんだ作品なのだそうだ。監督は30歳のマルワーン・ハーミド。高名な脚本家ワヒード・ハーミドの息子で、長編は初監督となる。

『ヤコービエン・ビルディング』の主な登場人物は、上流階級から、社会の底辺に生きる人々まで5人。

ビルに事務所を持つ初老の男は、若き日に過ごしたパリを思いながら、女性との色恋沙汰にうつつをぬかす「有閑」男で、酒場の女性との情事の後、相手の女性に金目の物を一切合財持ち逃げされたのをきっかけに、実の姉からも家を追い出され殺伐たる日々に身を埋めていく。

高官(パシャ)の息子として裕福な環境で育った彼が、軽蔑しながら成り上がる様を見てきた、自動車会社を経営する実業家がいる。金にまかせて政治権力の中枢を目指すその男は、性欲亢進気味で、妻に隠れて、イラクで夫を亡くした子持ちの美女を2番目の妻としてヤコービエン・ビルディングに住まわせる。子どもと引き離され、ヤコービエンの部屋の中にほぼ軟禁状態の2番目の妻が妊娠を告げると、「約束が違う」と、数名の手下を使って彼女を強制的に病院に運び中絶させてしまう。

エジプト映画史上初という、ゲイの中年男も登場する。ヤコービエン・デルディングに住む彼は、エジプトを代表する雑誌の編集長で、頭髪は後退し腹の出かかったインテリである。彼がゲイであることは近所でも職場でも公然の秘密となっていて、映画では、アフリカ系の兵士と街で出会い、故郷に妻子のあるその兵士を「落とし」て、兵士の妻子をも巻き込み、悲劇的な結果を迎える顛末が中心になる。子ども時代、両親から疎まれ、唯一自分を心配してくれる存在だった召使いの若者(下男)に心を寄せるようなったエピソードも描かれ、彼の指向が理由づけされる形だが、最後には、街で出会った男に寝首をかかれ命を落とす。女好きの初老の男も、権力欲にまみれた悪徳政治家(実業家)も生き残るのに、彼が死んで終わるのは納得しがたいが、イスラム圏ではここまでが精一杯なのだろうか。

この映画の主要な登場人物のうち、命を失くして終わるのは、前述の同性愛者の男と、もう1人、ビルの管理人の息子である。息子の物語は、彼が「ビルの管理人」の家庭の出自ゆえに希望する仕事にもつけず、大学でも多数はである上流階級の子弟たちから嫌がられ、学内の宗教活動に救いを求めたことがきっかけで、イスラム過激派の兵士になっていく様子を描き、エジプトの階級社会の厳しさを見せつける。彼のエピソードは、何だかエジプト版『パラダイス・ナウ』とでもいう感じだった。最後は、過激派として政治家の暗殺の任についた彼が、仲間たちと、ターゲットの政治家と、そのガードたちとの路上の銃撃戦で、銃弾に倒れて終わる。

死んだ管理人の息子が幽かな恋心を抱いていた、ビルの屋上に住む若い女性がいる。彼らは恋人同士とまではいかなかったが、とても親しい友だちだった。女性を演じたヒンド・サブリーはエジプトの人気女優で、長谷川京子似のさわやかな美人である。ヤコービエン・ビルディングの屋上には、貧困層がひしめきあうように暮らしている。彼女がソファに座ってテレビを見るシーンでは、屋上なので屋根などない。父を失い、病弱の母と年下の兄弟たちを養う彼女の「職場」の現実は、どこにいってもセクハラづくめだ。身体を触られるのが嫌で辞めた職場の次に、友人の紹介で就職した洋品店では、局部を触ることを強要する店主がいた。その彼女が、秘書として勤めることになるのが、一番最初に書いた女好きの初老の男の事務所である。びっくりするような彼女の結末は、ラストシーンともなって、映画の最後を締めくくる。

登場人物のプロフィールを書いただけで大河ドラマのようになってしまったが、まさに圧巻の物語だ。ヤコービエン・ビルディングが象徴するのは、ビルディングの名のとおりの「階層」。エジプト社会のがっちり組みあがった階層の中で、ある者はのさばり、ある者はあえぐ。のさばっている奴らが「処罰」されないのが、とてもリアルだ。

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2007.03.17

48

Chizu_1『パラダイス・ナウ』。2005年、フランス・ドイツ・オランダ・パレスチナ合作。『ブロークバック・マウンテン』が台風の目だった昨年の米国での映画賞レースにおいて外国語映画部門で注目され、世界各地の映画祭でも評価されたパレスチナの映画(フィクション)である。イスラエル占領下のナブルス(ヨルダン川西岸地区)の街に住むパレスチナ人の若者2人が、自爆攻撃の実行者に選ばれてからの48時間を描く。(左の地図は公式サイトの解説ページより)

様々な映画祭で賞をとったのは伊達ではない。テーマの重さや、ドキュメンタリー的なリアリティによる「意義深さ」だけの映画ではなく、(本国からクレームを受けたという問題もあり、所詮ハリウッド作品だという声もあるが、厳しい現実を描きながらも、エンタテイメントとして充分面白いと賞賛された『ホテル・ルワンダ』のごとく)映画館のスクリーンで見る価値のある映画であると思う。例えば、ナブルスの街並みを見下ろすショットの白い家々を染める夕景。ゴミの散乱する夜の街角。悲壮で不思議な「最後の晩餐」。運動家たちのアジト……。ハニ・アブ・アサド監督によれば、どこに行っても隔離壁が目に入る閉塞感に覆われた街だからナブルスを選んだのだそうだが、そんな「美」などという価値観からは遠い「舞台」においても、主人公たちの行動とともに記憶に鮮烈な情景がある。

定職につけず、近くの自動車修理工場で働く2人の若者、サイードとハーレドのところに、それぞれに知人が訪ねてきて、明日決行する自爆攻撃を彼ら2人が実行することに決まったと告げる。それ以外の「状況」は、ごくわずかのエピソードでしか描かれない。まるで『白バラの祈り―ゾフィー・ショル、最期の日々』のように、刻々と終焉に向かう抗いようのない現実に唖然呆然としながら、どんどん高まっていく緊張感と絶望感。

自爆攻撃(日本で一般的な「自爆テロ」という言葉は、「テロとの戦い」を標榜する陣営側からの色のついた言葉だそうだ)をすることになってしまった主人公の若者たちは、我々がイメージするような狂信的なイスラム教徒などではなく、もちろん普通に敬虔なイスラム教徒ではあるのだろうが、いわゆるアラブ服を身につけていたりもせず、Tシャツ、ジーンズ、ジャージである。バリバリな運動家(活動家?)でもなさそうだ。信仰に殉ずるためになどと自ら志願するわけではなく、運動家の幼なじみがいたというだけで、たまたま「選ばれちゃった」という感じで事が運んでいく。

だから、覚悟ができているわけではない。観ている側にも十分感情移入の可能な主人公たちである。

選ばれたことを口外するのは家族にすらも厳禁。告げられた翌朝にはもう、運動家たちのアジトに連れていかれる。「神聖な儀式」と言うよりは、かなり事務的に「最後の言葉」をビデオに撮られ、全身を洗われ、頭髪もヒゲもそり落とされてしまう。自分では外すことのできない「装備」の上に、フォーマルなスーツを着せられ、「最後の食事」までごちそうされて、いよいよ覚悟を決めざるをえなくなる。

監督は日本の、特攻隊として死んでいった若者たちの手紙を読んだという。理不尽な自らの死を、理にかなったものと納得させなければならなかった苛酷な運命は、この映画の主人公たちと通じるものがあるだろう。

だが特攻隊員たちと、自爆攻撃を行うパレスチナの若者の間には、大きな違いがある。「狂信的なイスラム兵士」には見えない「普通の若者」だからとはいえ、単純に「みんな同じなのね」と共感するだけでは済まない、絶対的な違いがある。

それは、「選ばれちゃった」ことで、自分の生を賭して人を殺すことを強いられる理不尽よりも、彼らの日常の方がもっと理不尽に満ちているということだ。その理不尽は敢えて説明はされない。日常の風景の中に威圧的に侵入してくる隔離壁の異様さや、街のいたるところに立ちはだかる検問、突然の爆発音にも日常茶飯事のように平然と身を低くする人々の姿などが、ただ見る者にそれを感じさせるだけである。

日本人なら皆そう感じるかどうかはわからないが、あのフェンスの向こうには、何だか高層ビルの建築現場でもあるような、そんな気がしてしまう。でも、その「工事中」な感じ、「あれ」が取れないかぎり何かが「始まらない」、そんな感じは、さほど的外れではないのかもしれない。パレスチナの若者たちにとって、本当の自分の人生は、あの壁が街から消えない限りは始まらないのだから。

映画の終盤、主人公の1人サイードが、英雄アブ・カレムの前で吐露する思いの中に、『ホテル・ルワンダ』で我々の胸につきささったと同じ種類の台詞がある。「世界は遠巻きに眺めているだけだ」。世界への苛立ちがこの映画を形づくったとしたら、サイードとハーレドの結末は、世界へのまさにアンビバレントな思いを込めたものだと言えるろう。

日曜日(11日)の最終回を写真美術館で見て以来、こんな凡庸な感想を、日々少しずつ、書いては消し消しては書いてきたのだが……。

ユダヤ人のジェノサイドなど本当はなかったと主張する歴史修正主義者という人たちがいるということを、何十年も前に初めてテレビで知って驚愕した。南京大虐殺だって、日本軍が殺した一般市民たちの人数の上での論争だったりもするが、なかったことにしたい人たちが存在する。過去の出来事は、意識して語り継がない限り、語り継がれると都合の悪い側にねじ曲げられてしまうか、あるいは自然と時の彼方に忘れ去れてしまう。ところが、パレスチナの問題は、過去の歴史ではなく、ここ半世紀にわたり刻々と起きている今の問題だ。イスラエルの「入植」により、パレスチナ人が暮らしてきた歴史ある村や町が次々と破壊され、当然住民たちの多くも殺されて、土地の名前も残らない。でも、「世界は遠巻きに眺めているだけだ」。

そんな現実の上に立つ、イスラエル側からの罪悪感の悲鳴とでもいうべき珍しい作品が、2006年の東京国際映画祭で上映されたイスラエル映画『フォーギヴネス』である。まだまだ弱い立場のようだが、"Breaking for silence"という、元イスラエル軍兵士たちによる、真実を語ろうとする活動が起こってきていることも、先日テレビで知った。マスメディア経由の認識に過ぎないが(それ以外にどんな手立てがあろう)、わずかながらでも加害者側の声があがること自体が、起きていることの不当さ、シビアさを裏付けるものだと思う。

『パラダイス・ナウ』について、パレスチナ人の側からは、その苦しい状況が描ききれていないという評価もあったという。監督は、苦しい状況を最前面に押し出した映画をつくるつもりはなかった、つまり苦しさを叫ばないのは意図したことだとのことだが、やはり渦中から語ろうとすると、当事者以外には(努力しない限り)理解の難しい状況説明よりは、観客が何らかの形で自分の経験の中から理解し共感できる部分を見つけやすい、当事者の内面を中心としたミクロな視点での表現になっていくものなのだろうかと、『幽閉者(テロリスト)』を浮かべたりもした。そういえば『ヒトラー~最期の12日間~』も、そうか。

今や、テロと戦う陣営にどっぷりくっついている日本ゆえ、パレスチナもイラクもアフガンも、「イスラム原理主義者のテロリスト」的十把一絡げなイメージに覆われて、個別な関心を寄せる人は一部に過ぎないが、かつて日本赤軍という、パレスチナへのシンパシーを強烈に抱いた人たちもいた。だから今も日本では、アラブ方面について良いイメージがないという面もあろうが……。『パラダイス・ナウ』は、萌え系な向きの鑑賞にも十分に耐えられる(十二分に応えてくれる?)映画である。パレスチナ人俳優たちは魅力的だ。その目ヂカラには、トニー・レオンの眼が鯖の目のように思えるかもしれない(笑)。特に、主人公たちが頭髪とヒゲを落とされた後の変貌は、衝撃的だ。子どものころから、パレスチナといえば難民とゲリラ、という悲惨なイメージしか抱いた覚えがないが(←馬鹿だ)、この映画は、我々の頭の中にある「イメージ」のカーテンを開いて、見えざるパレスチナ人に引き合わせてくれる。見てみてください。

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2007.03.11

そりゃないだろう

『007/カジノ・ロワイヤル』を最初に見たとき、ルシッフル一味による監禁事件から入院を経て、目覚めたボンドとヴェスパー・リンドの最初のラブシーンで「そりゃないだろう」と思い、話がこのまま真面目に進行するなら席を立って帰ろうかと思ったものだった。いや、エヴァ・グリーンの演じたヴェスパーにやきもちを焼いたわけでは決してなく、むしろこの映画のヴェスパーのキャラクターは大好き(エヴァ・グリーンも好き)なぐらいだ。そうではなく、それまであれだけ「つっぱって」いたヴェスパーの心境の変化が、どう考えても不自然で説明不足だ、と感じたからで……。

だが、それは単に自分が007の見方を知らないだけで、見慣れた人なら、既にあそこで「ふふ~ん。それではこいつは……」とにんまりし、その後の、ジャンカルロ・ジャンニーニ演じるマティスが、なぜボンドとヴェスパー・リンドだけが生き残ったのかと問いかけるシーンで、ある程度「理解」できるはずだ。見慣れる見慣れないの問題ではなく、自分があさはかな馬鹿であるというだけかも知れないが……。

で、《Infamous》初見。 大王もマホメットも長いので、まずはクレイグ兄貴を選ぶ。

とりあえず字幕解読もほとんどせず、すっ飛ばして見ていったら、クライマックスシーンで「そりゃないだろう」と思わず声を上げてしまった(笑)。もちろんそれは、そこまでのやり取りがきちんと理解できていないからだろうと思う。後で字幕を解読しながら見ていけば、きっと腑に落ちるはずだ。そうでなければ、この映画は陳腐に過ぎてしまう。と、今は作品を信じておくることにする。

トビー・ジョーンズは凄く良い。フィリップ・シーモア・ホフマンよりずっと、(リアルなカポーティなんか知らないけど)「リアル」な感じを受けた。それはたぶん、《Infamous》が『カポーティ』よりも感情の動きを表現することに重点を置いている映画だからだろう。実は、そのあたりを含め、この映画の主題に驚愕しているところなのである。いろいろ読んではいたが、まさかここまで来ているとは……(笑)。ダニエル・クレイグ演じるペリー・スミスも、脂ぎっていて良い感じだ。1つの新しいペリー像だと思う。初見(しかも内容を把握できていない)なので、間違っている可能性は大きいが、『カポーティ』が文学なら、《Infamous》はタイトルどおりの週刊誌的な裏事情暴露話だ。あくまでも、映画のつくりのことではなく、テーマが……。でも、《Infamous》の方がずっと心を揺さぶってくるし、映画としてはこっちの方がいろいろな意味で「面白い」。

こんな映画だとは……。 (←マイナスの意味では決してない)

本当にびっくりした。 (きちんと見たらまた報告します)

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2007.02.25

2月の近況

ごぶさたしております。

先月予約した『アレキサンダー』のロングバージョンDVD("Alexander Revisited The Final Cut")は、2月27日発売なのだけれど、どうも発送が3月半ばから下旬にかかるらしく、一緒に頼んだ《Infamous》の方は世間ではとっくに発売されているにもかかわらず、(同送依頼しているので)すっかり「お預け」をくらっている状況だ。サントラまで買って待っているのに……(エンターテイナーを夢見ていたペリー・スミスなので、当然サントラ中でも歌っているわけだ、アノ人は……(笑))。

で、もう仕方なく、カポーティには余り興味もないのに、《Infamous》のベースであるジョージ・プリンストンの聞き書き『トルーマン・カポーティ』(新潮文庫/上下巻)も準備した。

公式トレイラーと、残念ながら最優秀助演男優賞には選ばれなかったが、Independent Spirit Awards の公式サイトで見られる助演男優賞のノミネート映像(映画のワンシーン(←凄い!))ぐらいしか、DVDの来ない現在、映画に触れる術はない(※24日発表の同賞の結果)。あちこちのレビューを読む限りでは、「静謐で品の良い『カポーティ』、けれん味たっぷりな《Infamous》」というところのようだ。実際、トビー・ジョーンズ(カポーティ)もクレイグもオーバーアクトといった評すらあった。作品については、あとは好みの問題なのだろうが、『カポーティ』と「双子のようだ」と言われる内容で、ベネチア国際映画祭での上映などはあったにせよ、アカデミー賞のようなメジャーな賞での受賞もなく、娯楽志向でもないとなれば、日本公開の声が今聞こえてこないのは、今後の日本公開があるのかどうか、とても心配だったりする。

困ったことに、3月16日に発売される『カポーティ』のDVDには2種類あり、そのうち1つが『冷血』(1967年)とのカップリング発売(「カポーティ&冷血 マスターピース・コレクション」)。いや、わざわざそんなものを買わなくても、昨年『冷血』のDVDは、単独で発売されている。劇場で見損ねていたなら買ったかもしれないが、別にホフマンの『カポーティ』を、DVDで持っていたいほど好きなわけではない。トルーマン・カポーティにも興味はない。でも、気になる(笑)。余りにも情熱的にクラター事件を語るさまが、まるで恋人のことを話しているようだとからかわれたカポーティ同様に、この物語に魅入られてしまったのか。


現在、大変面白く読んでいるのは、朝日選書『ハリウッド100年のアラブ』(村上由見子著)。ハリウッド映画の歴史の中で、アラブがどう描かれ、いかように「アラビア的なるもの」としてつくり上げられていったかという本で、ポストコロニアル批評的仕立てでありながら、非常にやわらかく読みやすい「映画本」になっている(←面白いのでお勧めだが、文章にもうひとつ品がないのが気に食わない)。この中で紹介され、見る気満々になってしまった映画がある。それは、ムスタファ・アッカド監督の『ザ・メッセージ』。イスラム教の開祖マホメッドを主役として描きながら、ご存知のごとく偶像崇拝ご法度のイスラム教であるため、マホメッドは映像としても音声としても登場せず、その存在をカメラワークだけで感じさせてしまうという、すごい作品だ。記憶違いかもしれないが、マホメッドを描いた映画というのは、これ1本だけだという表記もどこかで見た気がする。だとしたら、よけいに見てみたい。

YouTubeは、日本ではマイナーだが別のエリアではそれなりに知名度や人気のあるアーティストやスターの映像を見るのには最適なサイトだ。孝全くんだって、フィリピンのジェイ・マナロだって、アビチャッポン・ウィーラセタクル作品だって(全部じゃないけれども)見られたりする。有難い時代になったものだ。そんな中で、強烈なインパクトを受けたものが、たまたま『ドクター・フー』の映像を見ようとして出てきた、ジョン・バロウマンの歌う"I Am What I Am"の映像。"I Am What I Am"は、ブロードウェイ・ミュージカル版の『ラ・カージュ・オ・フォール』の中の曲で、バロウマンの全身全霊をこめた歌唱が胸を打つ。凄い歌い手には、聞く側が全く知らない歌であっても最後まで飽きずに聴かせ、聴き惚れさせる力があるといつも思うが、"I Am What I Am"はまさにそんな風だった。さらに、このタイトルを見れば知っている人ならぴんと来ると思うが、"I am what I am"は、張國榮(レスリー・チャン)のラスト・ステージのテーマ曲とも言うべき「我」の出だしの歌詞なのである。タイトルを見たときに気にはなったが、バロウマンの歌を聴いて、レスリーの「我」が、この"I Am What I Am"に曲想を得て創作されたものなのだなとわかった(ファンの間では常識なのかもしれないが……)。華麗なるバラードである「我」は、楽曲としては決して好きではない。だがあの歌詞と歌唱には、「好きな曲ではない」などと捨て置けない、しなやかで強い意志がある。バロウマンの"I Am What I Am"にも、同じものが流れている。

ベルリン国際映画祭は、金熊賞の中国映画(王全安監督《図雅的婚事》)、アルフレッド・バウアー賞のパク・チャヌク監督《I'm A Cyborg, But That's Ok》、そして《艶光四射歌舞団》を撮った周美玲(ゼロ・チョウ)監督の台湾映画《刺青》のテディ賞と、東アジア圏ではにぎやかな受賞結果となった。ほかに気になる作品も数々あり、その中の1本が、中国版メルキアデス・エストラーダ…とでも言うような張楊(チャン・ヤン)監督のコメディ《落葉帰根》である(一応、パノラマ部門のエキュメニカル審査員賞を受賞)。撮影は余力為と黎耀輝。主演の趙本山は言わずもがな、脇役陣も豪華だ。友人の遺体を故郷に運ぶ男の話で喜劇とのことだが、自分のわがままな希望としては、最終的に「心あたたまる話」「泣かせる話」に落とすことなく、辛め(からめ)に終わっているなら、ぜひ見たいと思う。

そういえば、同じベルリンで上映されたイスラエルのエイタン・フォックス監督の新作《The Bubble》は、テルアビブのアパートに同居するイスラエル人の若者たち(男2人女1人)のうちの1人が、検問所で出会ったパレスチナ人の若者に恋をし、4人で暮らすようになるといった内容で、パレスチナの問題に全く無関心に暮らしてきたイスラエルの若者たちの生き方が、パレスチナ人の若者に出会ったことで変わっていく話だという。


だらだらと書いてきましたが、ほかにもネタは抱えています。スペイン語圏にも興味が広がってきました(←もう、わけがわかりません(笑))。でも、時間的な余裕を失って何も書けずにいるうちに、余裕ができても何も書けなくなるという繰り返しです。情報系のネタはまだ良いんですが、本や映画の感想などになると、ひとたび自分に対する不信が顕在化すると、何かきっかけがない限り、なかなか簡単に書けるものではありませんね。日々書かれている方、頭が下がります。まあ、ぼちぼち行きます。

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2006.12.21

公開日決定

パレスチナ映画『パラダイス・ナウ』の劇場公開日が決定→UPLINK。2007年3月1日~東京都写真美術館&UPLINKにて。

20日発売の『キネマ旬報』の2007年を占う特集記事の中で、演劇がらみの作品群のあとについでのように挙げられていた、『レスリング・ウィズ・エンジェルス(Wrestling with Angels)』→米公式サイト。もう、米国では公開済みの地味なドキュメンタリー作品らしいが、何とこれがトニー・クシュナーのこれまでの生涯と作品を扱ったものらしい。日本で公開されることはなさそうだけれども、DVDにでもなる可能性はあるのか? (トニー・クシュナーといえば『ミュンヘン』の脚本家の1人でもあり、『パラダイス・ナウ』と並べる話題としては、はなはだ節操がないのだけれど……)

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2006.11.27

意外と明るい

土日とフィルメックスで5本映画を見る。土日とも、見る予定だった午前中の回は寝坊して行けず(←やっぱり)。というわけで『ワイルド・サイド……』と『斬る』は見損ねました。

観客賞を受賞した文句なしの佳作『オフサイド』。登場する女の子たちが非常に身近に感じられると思ったら、そりゃ彼女たちが「サッカーおたく」であるからだった。おたくにとって、興味の対象はすべてに優先する。そうだ、行け行け! ……って、そういう映画ではない?(笑) ま、実際にはサッカーおたくも、実際の選手も、カレシがサッカー・ファンだった女の子もいるのだけれど、彼女たちがそれぞれに様々な方法で、ワールドカップ予選の最終戦の開催される競技場へ入ろうとして「女性だから」という理由で捕まって、会場外で場内の歓声だけを聞かされつつ、軍(革命防衛隊?)の兵士の監視下で拘束されることになる。面と向かって「どうして女性は会場に入れないのか」と問われれば、軍の兄ちゃん本人にだって納得できる答えなどあるはずはないために、力を振りかざしながらも今ひとつ弱腰な兵士たちと、へたすりゃ革命裁判所行きかという危機一髪な状況下にありながらも、あっぱれなサッカーファンぶりを見せつける女の子たちとのやりとりが楽しい(←楽しくていいのか?)。で、痛快だけれども、とっても心配だ、結末のその後が……。

『黒眼圏』。陳湘淇(チェン・シャンチー)は屋根裏&大型ネズミで大変だったみたいだけれど(@Q&Aによる)、映画的には台北ではなくクアラルンプールであることで、何だか知らないが、すこんと頭上が抜けたような開放感が味わえた気がする。傑作と言われる『楽日』より、自分は好きかもしれない。雨水が池のように貯まったビルの廃墟が登場するのだが、その水の風景が素晴らしい。蛾(自然科学の知識がないので、見ている最中「蝶」だと信じていたが、「蛾」だとQ&Aでは話されていた)が舞うシーン、そして何よりもラストシーン。意識不明の男の眠るカットのあとに、水面が映る。もうこのあたりで終わりだろうなと思っているところで、スクリーン一面の水面の上部から、少しずつ「何か」がやってくる。その「何か」が完全に見えたときに、えも言われぬ安心感というか、幸せな気持ちが心の中を満たしてくれる。この作品も、モーツァルト生誕250年の記念で制作されたもので、映画の中には様々な歌が使用されるけれど、特に意識不明の男を世話する家族たちの場面でかかる、古い中国語の歌謡曲?(←すみません、知識なしで)が良い。映画の中で印象的に表現される「水」や「煙」や「蝶」(←「蛾」だってば)のイメージが、漢詩のモチーフであるせいもあるのか、作中で使用される歌と心地よいハーモニーを奏でているようだ。

アビチャッポン・ウィーラセタクン作品、『世紀の光』。これもとっても面白かった。シンドローム・シリーズ第3弾にして、最終作とのこと(@公式カタログによる)。モーツァルト生誕250年記念作品としての見どころは、歯医者の歌うボサノバ風のささやくような歌と、その後のギター曲だろうか? 実は『ブリスフリー・ユアーズ』を何度も見逃しているので、どうも何とも言えないのだが、『トロピカル・マラディ』の漆黒の緊張感から一転、とてもユーモラスで明るい話になっている。自分を掘り下げると暗くなり(『トロピカル・マラディ』)、外に目をやれば(『世紀の光』は両親(監督の両親は医師)へのオマージュ)ほどほどな距離感を保てるというのは、誰にしても同じなのだろうか。Q&Aで、カメラ目線の年配の女医の件が話されていて、監督自身は、シーンそのものはその場の感覚で採用したということを言っていたが、タイトルロールでは「台詞」からはみ出たらしき会話なども聞かれたような気がしたし、「物事の二重性」の表現という監督のテーマは、そのために1本の映画の中に視点を変えた2つの話を用意しただけではなく、その2つの話(フィクション)の裏側(ノンフィクション)までを、とらえて見せようとしているように思えた。


で、張睿家クン(@『永遠の夏』)、金馬奨最佳新演員、おめでとう(←でも別に好きなわけではない)。→結果。全くの余談ですが、『マキシモは花ざかり』長男を見ていて、次はぜひ張孝全クンにも、あんなチンピラ系の役をやってほしいものだと……。(え、イメージそのまんまじゃないかって?(笑))

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2006.11.24

My Mozart

22日夜、シネカノンで『半月』を見る。クルド人の老音楽家マモ一行が、クルド人を弾圧したフセイン政権崩壊後のイラク領クルディスタン(クルド人自治区)で、30数年ぶりにコンサートを行うべく、イランから旅をする話。

現在のところ、ことしのフィルメックスでは、この作品が最も好きだ。

クルド人やクルディスタンについて全く知識はない。イラクの北の方にいる山岳民族で、サダン・フセインの時代に大勢が殺害されたことぐらいしか頭の中に入っていることはなかった。(実際にはクルド人は、イラン・イラク・トルコにまたがる地域に暮らしており、その地図が頭に入っていないと、この映画の中で主人公たちが移動していく道筋はわかりにくいと思う)

バフマン・ゴバディの公式サイト(←多分……)があり、そこに、本作『半月』について、ことしのトロント国際映画祭で上映されたときのアメリカ人による監督インタビューが掲載されている。余りに面白いことが書かれているので、必死になって読んでしまった。

監督は、この映画の政治的な意味合いを何度も否定している。ただ、「政治的」な意味合いがあるとしたら、それはクルド人問題ではなく(とはいえ、監督自身クルド人であるからして、クルド人の登場するクルディスタン映画であることは第一義であるけれど)、女性による芸術活動を禁じているイランへの異議申し立て、ということであるらしい。

この映画の中で、きっと誰もが最も強い印象を受けるであろう、1334人の歌を禁じられた女性たちが捕らわれている村を、ヘショという歌手を探してマモが訪れる場面は、まさにこの映画の主題の1つを表す重要なシーンである。村は、イランそのもののシンボルなのだという。表現することは、芸術家にとっては生きることと同義である。監督は、イランでの検閲を通そうと、女性が歌うシーンをあらかじめ自らカットしたのだそうだが、そんな「努力」も空しく、さっさと国はこの映画の上映を禁止した。制作することは許されても、発表することが禁じられるなら、歌を禁じられた女性たちとの差は(女性の地位という大きな問題は別として)、捕らえられた牢獄の部屋の広さ、壁の高さの違いぐらいなものだろう。

この映画は、頭で考えずに、心で感じる見方の方が正しいようだ。詩的な映像に幻惑され、エキゾチックで懐かしい民俗音楽に酔う。社会的な視点よりはむしろ、人の生と死にまつわる哲学的な視点を……。

それでも劇中では、検問あり、インターネットあり、鳥インフルエンザあり、「アート」に寄せる「一般人」のロマンチックな思い入れに揺さぶりをかけるように、中東地域の現実が織り込まれ、そのギャップがふとした笑いを誘う。

クルド人たちのカリスマ・ミュージシャンであるマモの名のは、天才音楽家モーツァルトにちなんだ、「My Mozart」を縮めたもの。この映画が、モーツァルト生誕250年を記念する映画祭のために制作されたためである。そして彼をこの世からあの世へ導く「天使」が「半月」="Niwemang"(←ニウマンと読んだっけか?)。満月と新月の境目である半月、まさにその意味どおりの三途の川の船頭の役どころ。マモが捜し求めた女性歌手ヘショもまた、「天使」なのだと、監督はインタビューで語っている。バスの床下に隠れているヘショは、ちょうど棺の蓋の下で眠る死者のようだと……。思えばバスの床下のヘショが、ぐるっと首を横に曲げて、墓に横たわるマモの姿を眺めているような不思議な場面があった。現代的でシャープな顔立ちの美女である「半月」に対し、ヘショはキリスト教のイコンに描かれた聖人のような、落ち着いた容貌の忘れがたい女性である。

インタビューの中で語られる、インタビュアーを絶句させるような、監督自身の死生観、自分の寿命への諦念、死の予感には、読者も当然のことながら驚かされる。不安定で厳しい社会事情が、楽観的な人生設計を許さないのか。それとも、何かもっと超心理的なところからくるものなのか。まだ30代の若さで、死というゴールを間近かに感じながら、今を全力で映画制作に打ち込んでいるその真剣な姿勢が、シネカノンの舞台挨拶でも、リンクしたインタビュー同様に、自己検閲で10分の映像をカットしたことを惜しむ言葉が繰り返されていることに表れていると思う。

芸術家の死。音楽とステージで演奏することへの悲願とでもいうような強い想い。命を失っても離さなかったコートの下の楽譜。楽譜は、彼の息子の手に渡り、受け継がれていくだろう。ここでの「音楽」には、クルド人としてあること、クルド人としてのアイデンティティ、誇りというような意味も込められているのかもしれない。芸術家にとって、表現することが生きることだから……。

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2006.11.22

重量級

会社を休んで『大菩薩峠』と『日本のいちばん長い日』を見てきた。主役から脇役に至るまで生きていて、映画の隅から隅まで本当に面白かった。昔の日本映画を見ると、いつもその豪華なキャストに驚くが(というか、今となれば当時の俳優はみな名優なのだから「豪華」に感じるのは当たり前なのだが)、特に『日本のいちばん長い日』などは、戦後生まれの人間には昭和史の授業のような内容(とはいえ授業では教えない部分)なのにもかかわらず、また息をもつかせぬ緊張の刻一刻を綴っている話であるのだけれども、そこに登場する軍部や閣僚、宮中の面々が年配者の役から若者の役に至るまで全ておなじみの、(鬼籍にある人も含め今ではみな)凄い人たちばかりなので、内容のヘビーさの一方で、オールスターキャストの中華圏のめでたい旧正月映画を見ているような感覚を覚えることがあった。監督の作品にいつも出演している俳優が、当然この2本の映画でも顔を見せてくれるのが、何だか微笑ましい(小川安三、好きです)。『大菩薩峠』は、雷蔵版も見ていないし、内田吐夢作品も見ていないので何も言えないが、主演の仲代達矢の現代的な個性は、主役が悪役であるこの奇妙な時代劇にはとても合っていると思う。舞台は余り見ないのでわからないが、テレビなどと比べると、俳優の存在感が格段にすばらしく感じられるのはスクリーンだ。新珠三千代の単なる綺麗さに留まらない妖気を帯びた美しさも、映画ならではだろう。こんなに魅力的な女優さんなのかと、改めて驚愕した。大河物語風に展開して行きながら、長い長い狂乱の大立ち回りでばっさりと終幕するいびつな終わり方は、どこか既存のカテゴリーにとても類別することなど不可能と言われる、中里介山が30年書き続けた大長編小説へのアプローチとして面白いと思う。小説の主題を観客の心に印象付けることにも成功している。

フィルメックスのパンフレットでトニー・レインズが書いている岡本喜八に関する文章を読むと、制作者側が要求する作品も撮れるし、自分のオリジナル脚本で撮りたいものも撮る職人監督という意味では、ジョニー・トーみたいなタイプなんだなと感じた。となると、オリジナル脚本の作品を見ないと片手落ちというものだろう。

そんなことより、いつかは中里介山の原作小説『大菩薩峠』をケツまで読むのだという思いが、じわじわ膨らんできていたりして……(プルースト読むよりは楽しいか?)。

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2006.11.13

奇策としてのファンタジー

ハリーポッターも指輪物語も(テレビ放映を見たけれど)、全然面白くないのにねぇ……。ファンタジーは王道なんだろうかねぇ……。

『グエムル -漢江の怪物-』に続き、必ず見ようと思っているいくつかの韓国映画のうちのやっと1つ、『トンマッコルへようこそ』を見ることができた。

チャン・ジン脚本の舞台の映画化である。チャン・ジン作品は大好きで、韓国で大ヒットしたこともあり、大いに期待していたのだが、自分にはちょっぴり退屈だった。もちろん、骨格はしっかりしたものなので、見てがっかりというようなものでは決してない。内容は、平和な村トンマッコルに、戦場から迷い込んできた連合軍兵士と国民軍兵士らが巻き起こす騒動記で、戦争という非人間的な緊張下に置かれる人間の不自然さ滑稽さと悲惨が、緊張などという概念のないのんびりした村人たちとの対比の中で浮かび上がってくる作品である。

世間では、宮崎アニメとの類似点やら似ていない部分やらが取り沙汰されているが、自分は宮崎アニメは1本しか見たことがない(し、宮崎アニメが好きではない)のでよくわからない。

過去に自ら何度もメガホンを取っているチャン・ジンが、今回は制作(&脚本)に回ったことに関して本人は、(韓国で)大ヒットしたのは自分が監督しなかったからだと、冗談か本気か知らないが言っているという。自分が退屈と感じたのもまさにそのあたりで、チャン・ジンが自分でつくった作品のチープさやアイロニカルなユーモアが抜け、「面白い」部分は大いに残っているものの、真っ向勝負のスタンダードな映画になっていると思う。誰にでも、素直に心に入ってくるからこそ、大ヒットしたのだろうが、「照れ」抜きで大真面目にファンタジーをやれてしまうところが、自分には「ちょっぴり退屈」だったのだ。

ただ、ファンタジーといっても、それは村が架空である、村人たちの様子が天上的な平和さであるというだけで、そこに放り込まれる兵士たちは、思い切りリアルに描かれている。これもどこかのレビューで書かれていたことで、自分も全く同感だったのだか、兵士たちの物語だけを切り取ると、状況的にはかなり『JSA』に似ている。状況だけではない。時代設定こそ違うものの、国家的対立の下に置かれた個々の兵士たちの緊迫感のポテンシャルは同じだ。

南北の対立を真正面から描いたもの、背景として使用しているものが韓国映画には沢山ある。当たり前だ。それは過去ではなく、現状なのだから……。でも、そのほとんどは映画としてはシリアスに描かれている。この作品の価値は、今も続くシビアな南北分断(とそこからくる緊張)という現実を、ファンタジーというとんでもない形で見事に描いてみせたところだと思う。

日本が知らぬふりをして良いはずのない朝鮮半島の現状は、だが今の我々には、実感という形でも、共感としいう形でも、なかなかピンと来ず、どんなタイプの「お隣」の映画を見ようとも、街並みや出てくる人の顔がやや似ているというだけで、それはやはり「遠い場所」の出来事だったりする。そんな日本人なら、この異様で新鮮なファンタジーを見ても、「宮崎アニメ」程度あるいは、「宮崎アニメに似たような何か」程度しか受け取れるものがないのは当然だろう(→「ちょっぴり退屈」と感じた自分も同じ)。「遠い国」の「遠い夢物語」に過ぎないのだから。

多くの人々が死んでいる。今でも様々な困難があり、不幸がある。そういう今を抱える人々にとって、こんな変な映画はなかったんじゃないか? こんな「ふざけた映画」は見たこともなかったんじゃないか? だから、面白かったんじゃないか? 賛否両論はあったというが、みんなびっくりして見にいったんじゃないか? 感動した人も、憤慨した人もいただろうが……。朝鮮半島の現実を、「オレならこうやるね」と奇策"ファンタジー"で描き出し成功させた「作者」チャン・ジンの少し得意気な微笑みが、見えるような気がするのだ。

最後の雪山の爆撃シーンの痛さと悲しさと美しさ、村人の見上げる「花火」、そして「天国」のラストシーンは、退屈なんかじゃなく、素晴らしかった。やっぱり、シン・ハギュンは良いよね(笑)。

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2006.11.09

李安新作に龍子さん

TIFFで上映された『1年の初め』のキャストとしてトゥオ・ツェンホアと表記されているので、そう書くことにしよう。日本語の漢字がないので、いつも名前の表記に困っていた"龍子さん"ことトゥオ宗華(トゥオ・ツェンホア)の、李安(アン・リー)の新作《色,戒》への出演が決まったようだ→聯合報fromHiNet。いよいよトゥオ先生もワールドワイドである。(原作には詳しくは書かれていない、作品膨らまし系の脇役といったところなんでしょうか?)

リンクした記事には、トゥオ・ツェンホアと李安の、これまでの作品上でのつながりが書かれていて、劉若英(レネ・リウ)と共演した、張艾嘉(シルビア・チャン)監督作品《少女小漁》はプロデューサーが李安だとか(そんな記憶はなかったので、思わず台湾版DVDを掘り出してタイトルロールを確認してみたら、プロデューサーは徐立功(シュー・リーコン)と李安とドリー・ホールの3人)、『恋人たちの食卓』に出演していた呉倩蓮(ン・シンリン)の撮影中、当時彼女の恋人だったトゥオ・ツェンホアがお忍びで会いにきいてたとか、かなりこじつけ臭い。

《少女小漁》は非常に地味な映画ですが、好きです。

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2006.10.30

OPPAI星人 バビー

京橋のフィルムセンターで、1994年のオーストラリア映画『バッド・ボーイ・バビー』を見る。オーストラリア映画祭最終日。フィルムセンターのホームページに掲載されている、同映画祭での作品解説はこうだ。

バビーは「悪い子」だからと、母親に命じられるままに地下室に閉じこもったまま、母親と二人で30年以上暮らしていた。外に出ると空気中の毒で死んでしまうと信じ込んでいたバビー。父親が戻ってきたことから、外界へ出ることとなるが、そこは地下の密室以上に奇妙な世界だった…。オーストラリア映画界の鬼才、ドゥ・ヒーアの映画のなかでも特にカルトな作品。ヴェネチア映画祭審査員特別賞など多数受賞。

30がらみの、前髪の薄くなりかけた、ぼさぼさ頭のバビー。なぜ、地下で暮らし続けたのかは説明されないが、強烈な母権の下、あくまでも「子ども」として扱われている。遊び相手は、猫とゴキブリ。母が外界へ出かけている間も、「動いてはいけない」と母に命令されるがままに椅子に座ったきりで、小便をもらしてしまう。母とは性的な関係もある。もちろん母親主導の形で……。そんな異常な環境下で生きてきた男が、突然現れた父と愛する母との2人が亡くなってしまった後、好きだった猫のラップにくるんだ死体をバッグに詰めて、生まれて初めて外に出る。

そこからは、ホラー映画のようなおどろおどろしい雰囲気は一変。子どもが世界を発見していく、コミカルなロードムービーとなる。バビーは子どもである上に、何の教育も受けていないから、見るもの聞くものがすべて初めてだ。出会う人の言葉使いをすべて真似する。聖歌隊に出会えば、一緒に並んで歌ってしまうし、女性を見ればすぐに胸に手を触れる、母にしていたように、あるいは父が母にしたのを真似て……。女性に対する言葉は、父が母を口説いた台詞そのままで、ケーキ屋でエクレアを買っている人を見れば、(そうすれば食べ物が手に入ると思い)全く同じ口調で同じ物を注文する(金を払うことは知らない)。下手な文章では伝えられないが、このあたりは、場内、笑い声が絶えない部分だったりする。

酷い目にも遭うが、優しい人にも助けられる。特に運命的な出会いをするのが、売れないハードロック・バンドの気の良いメンバーたち。最初は「雑用見習い」として仲間に加わり、ある事件でバビーが投獄されてしまうことで離れるが、彼らのライブステージが行われていたバーで、運命の再会をする。ふらふらとステージに上っていったバビーは、面白がったバンドのメンバーにマイクを渡されるままに、曲の間奏で、覚えた言葉を片端から叫ぶように吐き出し、それが観客に受けて、一躍人気者となる。いつしか映画は、ロードムービーからロックバンド物に成り代わっている。また、そのバビーの、歌とも語りともつかないボーカルが良い。アルバムがあったら買いたいぐらいに良い(笑)。(全然違うけれど、何だかクラウス・ノミのステージを思い出したりした)

そのころ、バビーにはもう1つの出会いがある。バビーが座っていた公園のベンチの前を、障碍者と施設の係員が散歩で通りかかった。重度の障害を持つ女性(レイチェル)の発声が、バビーには理解できることがわかり、バビーは施設に招き入れられる。バビーは、レイチェルを担当していた係の女性(エンジェル)が好きになる。母のようなふくよかな胸を持つ彼女が……。そして、エンジェルを「美しい」と心から思うバビーとエンジェルとの間に、通い合うものが生まれる。

そんな映画の感動的な主旋律をあざ笑うかのように、例えばエンジェルの、ある意味サイコホラーまがいに悲惨な家庭での場面がある。バビーが、放浪の時代に出会った教会のオルガン奏者が説く過激な無神論の場面もある。バンドのメンバーがバビーに語る、宗教と戦争の歴史の話もある。宗教、哲学、死体、おかしな人々と、カルト映画の要素はてんこ盛りだ。

だがそれでも、映画はこれ以上にないぐらいの、明るいハッピー・エンディング。こんな結末が待っているとは、冒頭の地下室での髭剃りシーンからは、誰だって思いも寄らないに違いない。

この豊かで不気味でおかしな映画は一体何なのか。見事に作り込まれた脚本と、深い内容は何なのか。舞台俳優だったという、バビーを演じた俳優(ニコラス・ホープ)の凄みもすさまじい。今回のオーストラリア映画祭では、この作品の監督であるロルフ・ドゥ・ヒーア氏が2006年の新作をひっさげて来日していたという。知らなかったのが悔やまれる。

●海外版だがDVD有り
●ファンサイトらしきもの→リンク

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2006.10.28

掌中の玉

『2:37』で、TIFFの前売りのチケットは最後。最後を飾るにふさわしい佳作。内容については、「傍流点景」のshitoさんが丁寧に書いてくれている。

弱冠22歳のインド系オーストラリア人であるムラーリ K・タルリ監督は、友人の自殺をきっかけにこの映画の脚本を書き上げた。当時19歳。実際には、友人の死と映画制作の間には、少し間があるらしい。友人が自殺したとき、もちろん彼はショックを受けたが、亡くなった友人の苦しみへの共感よりも、自ら命を絶ったことへのいくばくかの非難の気持ちの方が強かったという。しかしその後、彼自身をいくつかの困難が同時に襲う。絶望し、死をも願いながら酒とドラッグに溺れる自棄の日々。自殺した友人の苦悩が、文字どおり我が事として実感された。そして、このまま眠ったら死ねるのではないかと思ったある時、朦朧とする意識の中で突然、死ぬのが怖いという感覚が湧き上がる。幸い数時間後に目覚め、生の貴さを自覚した彼は、「本当にやりたいことをやろう」と誓ったのだという。それが、映画制作だった。(恐らくは裕福で)古風なインド系の家庭では、子供は幼いうちから実業家や技術者(具体的に4つの職業の名前を挙げていたが、忘れた)になることを期待され、それ以外の職業選択の自由はない。だから、「映画をつくりたい」と親に告げたとき、その(親にとっては)非現実的な彼の夢を、まずは笑われたそうだ。が、どんなに反対されても、映画をつくる職業に就くのだという決意は揺るがなかった。ティーチ・インでは、ひとまずそこで話が終わったが、このころに、彼自身の体験と友人への想いを礎に、最初の脚本が書かれたのだろうと思う。

この映画に、プロデューサー兼監督兼脚本家としてクレジットされているムラーリ K・タルリは、では、肩書きも経験もない10代の若者として、どのように映画制作の資金を調達したのか。彼は税務事務所(会計事務所だったか?)に勤めていて、税法に詳しかった。それで、オーストラリアで発表される長者番付の上位者に会いにいき、税法の抜け道を説いて自分の映画への投資を勧めたのだいう。大方の資金を集めることに成功し、撮影を完遂。映画が出来上がった後、今度は映画祭に出品するためのフィルムをプリントする資金がない。オーストラリアでは、スタジオシステムはなく、映画産業の振興をかがる国の助成金によって年に10数本の映画が制作されている。そこで、彼もその助成金を受けようとするが、完成した映画を見せても、作品本位で評価することをしない国の担当者に、若さを理由に断られた上に馬鹿にされ、全く援助を受けられなかった。エンドロールの最後に、「この映画は国からの助成なしに制作された」という一文が入れられている。その言葉を見たときには、この作品に対する制作者の強い想いを感じただけだったが、ティーチ・インでの監督の言及により、それが、映画制作そのものへの彼の執念、国への怒りと作品への誇りを込めたものでもあったことを知る。

オーストラリアの高校で女子生徒が自殺する。若者たちが隣り合い、袖すり合う学校という場所で、しかし若者たちの心は通わず、すれ違うばかり。そのあたりを、映像そのもので見せていく。言葉で説明しなくても、それが見事に伝わってくるのが素晴らしい。監督は、命の大切さを伝えたいと言っていた。命の大切さと言ってしまうと、日本語ではかなり限定された意味に受け取れるが、人生の大切さ、他者との出会いや触れ合いということを含めた「生」の大切さと言い換えれば、より映画のテーマに近づけるような気がする。学校というのは、社会の縮図。残酷で、くだらなくて、建前ばかりの空しい場所。青春時代に戻れと言われても、2度と戻りたくはないとすら思う。でも、そこで時と場を同じくする生徒たちは、それぞれの苦悩を抱え、孤独にあえぐ。もう少しだけ、表面的でもいいから、お互いに優しい言葉がかけられたら、相手のことを気遣ってやれたら……。青春を描いた珠玉の小品は、大人社会への教訓をも含んでいる。

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2006.10.27

息を抜く

『不完全恋人』を見たのは、ただただ、ボクカレの陳映蓉(DJ・チェン)監督の作品だから……。力を入れて見るような映画ではなく、実際、アジアの風部門で見る作品を迷う人なら絶対に見る必要のない作品だし、他愛のない悲恋物にすぎないのだが、これが意外、帰路、このところの重厚な作品の連続で疲れていた頭が、すっきりと軽く(←もともと軽いけど)なった気がしたのだった。

ティーチインにはメインのキャストと監督が登場。この映画は元々、プロデューサーでもある台湾の歌手、張信哲(ジェフ・チャン)が自分の新しいアルバム用に書いたいくつかの曲を元に映像でストーリーをつくってみようという思いつきから始まっていて、知っていた陳映蓉監督に声をかけて実現したということだ。だから全編を張信哲の音楽が流れ、スピーディーに展開するMVのような映画になっている。主演の阿部力もティーチインで、当初は単発のテレビドラマ(のようなもの)を撮影していたはずが、出来上がってみたら「映画」になっていて、映画祭で上映されていることに驚いているというようなことを言っていた。

自分自身は見ていて、「ああ、音楽がうるさいなぁ」と感じた。音楽が主体の映画なのだから、それを言ってはいけないのだけれど……。ヒロインの女優役のシー・クー(史可)が、さすがの大陸女優っぷりを見せつけ、非の打ちどころのない美しさである上に、しっかりした演技を見せてくれていただけに、軽いMV風映画になってしまっていることが、ちょっともったいない。

監督も、ニュースで見る写真どおり、さわやかで格好良く、作品も外見も全くタイプがちがうけれども、アリス・ワン監督姉御を久しぶりに思い出した。台湾=中国合作映画とのことで、台湾の音楽、台湾の若手女性監督、大陸の女優、日本人の男優、台湾人の男優、大陸の男優が登場し、撮影された舞台は北京。タイトルロールもエンドロールも簡体字。TIFFで紹介されているようなミュージカルではないけれど、合作(しかも中国と台湾)の音楽映画という面白い成り立ちと、「これから」の監督なのだろうが、今までの台湾映画のイメージとは明らかにちがう、フレッシュな感覚の作品をつくるという「期待株」的な意味で、映画祭でセレクトされたのかなと思った。

自分は張信哲も阿部力も、知っているのは名前程度のものなので驚いたが、本日もまた、ファンの熱気がそここに充ちるティーチ・イン会場だった。上映後、映画の内容に不満を漏らしていたお隣さんが、ティーチ・インで指されて、開口一番「すばらしい作品をありがとうございました」というのが、面白かった。あれは、心からの賛辞ではなく、質問の前の儀礼的枕詞なんですね(笑)。大人の礼儀ですか?

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2006.10.26

クライマックス

午後会社を休み、オーチャードホールで『松ヶ根乱射事件』と『フォーギヴネス』を見る。夜はパークヒルズで『盛夏光年』。一応これで、残りチケットは2枚のみ。もう、きのうの『父子』ときょうの『フォーギヴネス』&『盛夏光年』で、心境的には映画祭は終わったようなものである。あす1作品、あさって1作品。土日は、前売りは買っていない(ところで、昨日の『父子』の当日券と、購入済みの前売り券と、値段が同じ。それでいいのか?)。

眠気がきざした度で並べると 松ヶ根>フォーギヴネス>盛夏光年。 夜が更けてゆくにしたがって、目が冴えた。

きょうも垂れ流してみます。

Matsu基本的に、前知識を入れないで見るほうが印象深く見られることが多いので、そうしているが、松ヶ根はやられた。山下監督がなんでこんな題材を、と思いながら見ていたら、全然まったく山下映画。自分がひき逃げをした相手(死には至らなかった)から脅され続ける双子の兄と、生まれ育った田舎町で警官をしている双子の弟を中心に、その家族や街の人々のそれぞれの問題、いらつく日常を描く。しらじらとした間(ま)も、情けなさも、ヘンな人たちの普通に変な日常も、衝撃のラストも……。チラシにも使われている、左の、警官が自転車にのっているスチール、この角度が不安感を煽って、すごく良いと思う(でも、本編はそんな「不安」な映画ではまったくない)。警官も、いかにもキレそうなあの新井浩文というよりも、えなり君のようで、そこがまたうまく肩すかしを食らわしている。TIFFの紹介文にある、「サスペンス要素」ってどこのことだ?(笑) 一応、映画は、雪道で小学生が女性の死体を見つけ、警官が電話で呼び出されるというところから始まる、なかなかに「事件」な感じなのだが、ところがどっこいその実態は、パンク系とほほ映画。そう思って見にいかないと、というか、そういうのが面白がれる人じゃないと、もしかしたら、見終えて怒る人いるかも……(笑)。自分は、あのオチは好きです、もちろん。

『フォーギヴネス』。上映後のティーチインは、次の映画を見るために六本木に移動せねばならず、前半の1~2問だけを途中まで廊下で聞いた。全部見たかった。タイトルの「許し」は、逆に"Unforgiven"でも良いのだと、ティーチインで(パレスチナとイスラエルの問題について)「許し」だけで事足りるのかと問われた監督が答えていた。原題のヘブライ語の"Mechilot"は、「許し」のほかに「地下の通路」という意味を持つとのこと。幼い頃イスラエルで暮らし、今はニューヨークに住むユダヤ人の若者(デビッド)が、自分のアイデンティティを確かめるためにイスラエルに戻り従軍し、任務中に誤って発砲。パレスチナ人の少女を殺してしまう。それをきっかけに精神に変調を来たしたデビッドは、1940年代のイスラエルのパレスチナ侵攻によって滅びた村の上に建つ精神病院に入院する。入院患者のユダヤ人たちは、滅ぼされた村のパレスチナ人の幽霊を見るという。デビッドも、彼が銃で殺した白いドレスの少女の幽霊(夢)に悩まされるようになる。それは、彼自身の罪悪感であり、イスラエル人としてのパレスチナ人への罪悪感の表れでもある。老齢の入院患者やデビッドの父は、ホロコーストを体験した世代で、監督がティーチインで語っていた、イスラエルとパレスチナの間で必要なこと、「地下の通路が開通する」=「つながる」ために必要な最終的なスタンスは「相手の痛みを我が事として感じる」ことだという部分が、人類未曾有の虐殺の悲劇を体験した民族だからこそ、逆にパレスチナ人の痛みを感じることができるはずだというところにつながっていくように思える。イスラエル(具体的な地名は、アラブ系の女性の出身地としての「ラマラ」のほかには出てきていない気がした。どこか不明)とニューヨークという2つ場所、デビッドの従軍前と従軍後、入院中と退院後という時間、そしてデビッドの幻想と現実と、それらが入り乱れるかたちで映画が進んでいく。もう一歩進んだら、ミュージカルとでも言えてしまいそうなぐらい、歌の場面が多い。印象に残るのは、入院患者たちが歌う幾つかの(たぶんヘブライ語の)歌。母語は英語であるデビッドが惹かれるのは、いつもアラブ系の女性。イスラエルのクラブで、デビッドが惹かれた女性が歌った悲しい歌は、たぶんアラビア語の歌。退院後のニューヨークで、デビッドの恋人となるパレスチナ人の女性が歌う歌も、同じ歌。その恋人には、過去の結婚生活により、女の子が1人いる。その女の子と、デビッドがイスラエルで殺したパレスチナ人の少女と、デビッドの中の「幽霊」の少女がだぶり、デビッドは錯乱。父の拳銃を盗み、自殺を図ろうとする。そのデビッドが従軍中のシーンでは、アラブ系のイスラエル人は、パレスチナ人に対してひとり優しく接している。民族も宗教も言語も入り混じり、日本人には余りにも複雑な、アレキサンダーの通った場所を故郷とする人々の、映画ならではの映像と音楽で満たされた、重くて幻想的で意欲的な映画だ。いろいろな意味で、重要な作品だと思う。

001_1『盛夏光年』。上映後のティーチ・インに登場したのは、『狂放』のときには来なかった陳正道監督と、主演男優の1人である張睿家。張睿家クンは会場から黄色い声が上がっていた。マニアなファンはどこにでもいるのだね~(←って言える資格があるのか、自分)。物語中では男子2人はほとんど同格だが、どちらか決めろと言われれば、張睿家クンの方が「主演」にあたるかもしれない。映画中では内向的な役柄だけれど、実際は明るいとは張睿家クン本人の言葉。見た目は、映画とほとんど変わらない様子だった。監督は、小型のパン・ホーチョン系というか、大変可愛くて丸っこい人だったのにびっくり。もっとマニアックな感じを想像していたのだけれど……(ティーチ・インで質問した人と、おまけのクイズで正解した人には、公式サイトでもおなじみの、左の画像のポスターを配っていた)。

それにしても、予告編を見たことを、映画を見ていて、これほど後悔したことはない。予告編に出てきた、主人公の男の子2人(守恆(張孝全)と正行(張睿家))のラブシーン。あの「ピース」が、話のどこに「はまる」のか。見ている時点では、どう考えても、あのシーンへの展開が考えられず、そんなことばかりが気になって仕方がなかった。実際ラストまで見ても、あのラブシーンは通常の展開では有り得ないと思えるし、なくても良い(無用の長物という意味ではなく、なくても全体が理解できるという意味)ものだったのではないかとさえ思えるのである。逆に、あのラブシーンがあることを知らずに見ていたら、どんなにかそれは、衝撃的だっただろう。もちろんあの場面が、正行と守恆の、友情とか愛情というような概念ではとらえきれない、かけがえのない関係を表していることはわかる。だからこそ、映画の時間を、正行と共に悩み、守恆と共に戸惑いながら、場面をリアルタイムに心に刻みたかったと思った。まあ、そんな残念さはあるのだが、だがしかし、クライマックスはラストシーンだ。浜辺で、主人公たちが距離を置いて叫びながら心中を吐き出しあう場面では、BBMの最後の逢瀬の苦しい場面が思い出されるようだった。冒頭の、病院の廊下の場面は、ラストシーンの直後の時間にあたるのだろう。そこから、守恆と正行の関係の始まりである子供時代を通り、彼らの関係の触媒役である香港から来た少女、惠嘉(楊淇)が登場する高校時代を経て、「今」の大学生の彼らの時間まで、ストーリーはシンプルに進んでいく。ああ、こうなるだろうなと、誰もが推察するとおりの展開だ。けれど、主人公の抑えに抑えた思いの行方と、映像の新鮮な美しさが、見る者の興味をそらさない。

惠嘉役の楊淇が本当にすばらしい。ちょうどスー・チーのような、生活感も浮遊感も出せる、超美人ではないが魅力的な、年齢を重ねても良い味の女優でいてくれそうな、そんな若い女優さんが中華圏には多いなあと思う(韓国なんかは、そういう若手女優って少ないよね)。逆に若手の男優の方が、若いうちだけアイドルで、一花咲かせて終わりそうな、そんな人が多い気がする。張孝全くんは、年齢のせいもあるだろうが、兵役を終えて、あのあどけなさが消えたことが、かえってこの役に良い作用を与えていたと思う。がさつで落ち着きがないスポーツマン。でも、寂しがり屋。正行を演じた張睿家クンは、「男の子を好きになったことがなく気持ちがわからないので、相手が女の子だと思って演じた」と言っていたが、それは張孝全くんがニエズのときに言っていたことと同じ。アドバイスしたのか?(笑) 微笑ましかった。

『狂放』を見た友人が余り良い印象を持たなかったようなので、実はかなり心配していたが、堂々たる青春ドラマに仕上がっていて安心、いやそれ以上の出来で、(見られたことの)幸福を味わった。映画祭で見られなかった人は、ティーチ・インの質問の中でも話されていたことだが、台詞が少なく表情や動作を重ねて感情を表していく映画なので、(台湾での公開後に発売されるであろう)台湾版のDVDで見てみても、充分登場人物たちの心情を追っていくことができるだろうと思う。『藍色夏恋』がよく引き合いに出されているが、『盛夏光年』も、日本で公開できる作品だと思う(願わくば、新宿某所でないところで……)。公開を祈る。

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2006.10.24

小説より奇なるものは「事実」か

日曜日、シネマライズでかかっていた映画予告編のうちの3本が、ドキュメンタリーあるいはドキュメンタリー・ドラマだった。単館系公開とはいえ、ドキュメンタリーの隆盛というのは本当なのだなと実感する。11月18日から公開される『エンロン』など、――売上高13兆円、全米第7位の巨大企業が、なぜ46日間で崩壊したのか!? 負債総額2兆円、失業者2万人。世界を震撼させた事件の全貌を暴く! 今世紀最大の企業スキャンダルを暴く衝撃のドキュメンタリー!! ――こんなイケイケな煽り方で、NHK「クローズアップ現代」のようなテーマを、見たくてたまらなくさせてくる。ここに出てくる数字は嘘ではないはずだ。なのにハリウッド大作のキャッチのようなこの派手さはどうだ。


で、本日は、インドネシアの津波(の被害を受けた人々の復興までの足取り)を題材にしたドキュメンタリー・ドラマ『セランビ』を、オーチャードホールで見た。インド映画などもそうだが、東京国際映画祭に限らず、アジア圏の映画が上映されるときには、日本在住のその国の方とおぼしき人々が沢山足を運んでいたりして、会場は独特な雰囲気となる。きょうのオーチャードホールも、もちろん『セランビ』の直接の関係者の方もいたのだろうが、インドネシアの民族衣装を身につけた方が何人も見かけられて、席数の多い会場であるゆえ満杯とはいかないが、それなりに盛況な感じだった(でも上映後のティーチ・インでは、観客がボロボロと抜けてしまって、上映前の賑わいはどこへやら……)。

アチェとアジアのための特別上映と題された『セランビ』の上映は、津波被害からの復興のためのチャリティ上映でもある。プロデューサーと監督の舞台挨拶の後、インドネシア舞踊が披露され、会場にはゆったりとした空気が流れたが(ゆったりしすぎて意識を失うことしばし)、本編の上映が始まるやいなや、本物の津波のビデオ映像の迫力に目玉がぎっと開く。水害の怖さは、水の怖さというよりは、水の力の強さの怖さなのだなと、様々なモノが大量に押し寄せる映像を見て感じた。水が引いた後に残るのは、瓦礫の山と、流されて力尽きた沢山の人々(の遺体)。生存者は、悲しみ混乱し呆然としている。時折、行方不明の家族を探す人々の声が挿入される。

カメラが追うのは、妻子を失った中年男と、両親や姉妹を失った少女と、常にチェ・ゲバラのTシャツを身につけている学生。別々に登場し、それぞれの現状の中で心境を語るのだが、吐き出されるわずかな言葉が、特別なことを言っているわけではないのに、まるで詩のように「美しく」響く。青い空と青い海と浜辺と椰子の木を背景にして、いつも映像の中心を占めるのは、半壊の建物や瓦礫、屋根のない土台だけの住宅跡、避難所のテントといった殺伐たる無機物と、人々の押し殺したように静かな表情だ。

上映後のティーチ・インで、この作品が津波被害に関する作品というだけでなく、アチェ州の長い独立運動と無縁ではないことを知る。学生の着るチェ・ゲバラのTシャツは、独立への強い信念の表れで、彼は、ガールフレンドに携帯電話で撮りためた、アチェの歴史を写した写真を見せる。ティーチ・インで専門家が答えていたが、アチェの人々は長い間の独立抵抗運動で培われた強さを持っているのだそうだ。それは、土地の歴史であり現実なのだから無視できるはずはないのだが、津波被害についてのドキュメンタリーだという先入観を持っていた自分には、それが描かれていることが本当に驚きだった。その時点で、この映画の持つ意味が自分にとって全く違うものとなった。アチェの人々の頑固さ、強さ、穏やかさ、その裏にある歴史。チェのシャツを着ていた学生以外は、アチェの歴史なんてことは一言も口には出さないけれど、生き方にはすべてが表れているのだろう。あどけない少女ですら……。そして、それこそが作品の魂なのだ。

『セランビ』とは、アチェを例える有名な言葉で、向こうの建物の、玄関、前庭、ベランダ(1階)といった類のものを指す。津波の最前線(セランビ)で被害を受けたアチェの人々の、これもまた1つの、静かでガンとした「抵抗」の宣言である。

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2006.10.23

さわやかな1日(笑)

日中、東京国際女性映画祭に行こうと思っていたけれど、とても見たかった作品は平日昼間だったり、平日夜のほかの予定とかぶっていたりで……(『ダブルシフト』とか『ショッキング・ファミリー』(韓国映画!)とか『ドバイの恋』(フィリピン映画 !! )とか、見たかった~。日曜から木曜なんてスケジュールじゃなくて、土日とやってほしかったなあ)。悩んだ挙句、ことしはあきらめ、前売りを買ったまま見損ねていた『サムサッカー』に行く。その後、オーチャードホールで『浜辺の女』、六本木で『エクソダス 魔法の王国』を見る。3本とも、全く違う話ではあるものの、後味はさわやか。楽しい1日となった。

『浜辺の女』。ホン・サンス監督の(たぶん)7作目の長編映画。どんどん「軽み」を帯びてきている。『豚が井戸に落ちた日』の「不快な感じ」が好きだったが、このところそれが感じられなくて、物足りなかった。ところが、今回は軽さが、物足りなさよりはむしろ滑稽さを生み、これまで監督の作品に期待してきたものと全く別のところで、肩すかし的な納得のさせられ方をしてしまった。いや、面白かった。これなら、普通に(笑)公開できそうだ。朝鮮半島の西側の景勝地の浜辺へ出かけて、シナリオを仕上げようという映画監督と、彼のスタッフとその彼女、そしてそこに遊びに来た女性観光客がからむ、いつもの、アーティスト系の駄目男とその友人と、複数の女性との恋愛沙汰。例によって、押したり引いたりぼっーとしたり、おかしな行動あり、どこか哲学的な言葉あり、というパターンなのだが、会話が多く、繰り返しが少ないあたりが、「見やすい」のかもしれない。ホン・サンスの描く女性像は、見ていてどこか気持ち良い。恋愛下にあっても、サクサク自分で行動するからか。恋愛ばかりをテーマにしている割には、女に対する一方的な思い込みがないからなのか。「わかんねぇよ」と、主人公の映画監督よろしく、理解しようなんていう幻想はとうに捨てて、そのまんま撮ってくれている感じが、さわやかなんだろうな。

『エクソダス 魔法の王国』。フィリピンのエリック・マッティ監督の、ロードオブザリング的悪と戦い国を守るファンタジー系フィリピン映画。ガガンボーイのときにも書いた気がするけれど、やはりマッティ監督は、東京国際ファンタスティク映画祭あたりの、会場大盛り上がりの拍手と爆笑と失笑の渦の中で見たい。クオリティも、笑える度も、キャラクター造形も、ガガンボーイよりパワーアップしている。主人公エクソダスが、四元素のメンバーたちと合体するクライマックスあたりは、本当に素晴らしかった(素晴らしいのか?)。ジェイ・マナロがいなくて寂しいと思っていたが、主演のラモン・レビリャ・Jr.は、ややモンゴロイド系の顔のジェイ・マナロといった感じ&立派なボディ(というか太めなだけか)で満足させてくれたし、おなじみオーブリー・マイルズも猫目のコンタクトでがんばった。キャラクターでは、ベンジー・パラス(この方、元バスケットボール・プレイヤー?)の演じた、見た目はアラジンのランプの精のディズニーキャラクターのような地の精霊(名前、忘れました)の、スペシャルにマッチョ&コワモテなのに妙に可愛いいという、安田大サーカス系の面白さと、「永遠の子供」シラブという神がかりな役なのに、演じたBJフォルベスが「どこをどう見ても、目付きの悪い普通のガキ」なところが、印象的だ。前半、まさにロードオブザリングみたいに、戦場となっている城と広野と、戦いに赴かんとする人々が映る。メジャーなハリウッド映画に比べれば、すっごい小規模(笑)で、ちゃちな遠景のカットだ。そして、俳優たちは、皆フィリピン(あるいは近隣のアジアの国の)人で、フィリピンの言葉を話し、その虚構の「全世界」が悪の手に落ちようするのを防ぐために戦おうとしていることが語られる。全員がアジア人の顔なのに……。そこで笑ってしまって初めて、ハリウッド映画だって同じく可笑しいんだということに気付く。オリバー・ストーンの『アレキサンダー』で、アレキサンダーの妻ロクサネをロザリオ・ドーソンが演じていたのをおかしいと言っていた人がいたが、そもそもがあの映画は全編が英語でできている。フランスの歴史物だって、イタリア物だって、ハリウッドがつくればみんな英語を話す。虚構の世界でも、その「世界」の中心は白人が演じていることが多い。それなら逆に、どんなにチープだって、B級だって、その国その国の、虚構世界を描いた映画があっていいし、あるべきだし、そこでは、その国の人ばかりの「世界」が描かれるべきなんじゃないか、その国の言葉だけで成り立つ世界があって良いんじゃないか。そういうものが、いろいろ見られたら、そりゃあ面白いんじゃないかと、超娯楽作の"エクソダス"を見ていて考えた。いやとにかく、物すごく進化してるんです、エリック・マッティの世界は!

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2006.10.22

地味目の始まり。

夜から六本木へ。TOHOシネマズのトイレは、盛装(正装、じゃないよね?)のきらびやかな老若女々でいっぱい。だが、見たのは『クブラドール』と『Love Story』という、アジアの風部門でもかなり地味目な作品。

垂れ流しで感想を書いてみます。

フィリピン映画『クブラドール』は、ティーチインでの脚本家の弁では、ドキュメンタリードラマとして書いた作品なのだという。フィリピンの貧民街で夫と暮らす、クブラドール(フエテンという違法な賭けの賭け金を集めて歩く集金人のことらしい)の女性(息子を亡くし、娘には子供(つまり孫)もいる元横綱・曙のような風貌の年配の女性)の日々を、ドキュメンタリー風に描いた作品で、フィリピンの低所得者層の厳しい現実を映しながらも、その中で生きる人間の強さ、美しさを表現しようとしたものだという。ティーチインで語られていたが、やはりフィリピンでも商業映画が主流で、このようなテーマ性のある作品を商業ベースに持っていくことは難しいのだそう。先週フィリピン国内で封切られたが、確か上映は1週間で終わってしまったとの話があった。しかし、この作品の見事さについて言うなら、主演のジーナ・パレーニョの素晴らしさはもちろんのこと、理不尽な現実に翻弄される人間たちの日々という内容とはうらはらに、映像的には充分見ているだけで「楽しめる」仕上がりであるという点は大きいと思う。メインストリームの映画とはもちろん違うけれども、決して重いだけのドキュメンタリー風社会派映画でも、独りよがりのアート映画でもない。

ティーチインで複数の観客がほめていたが、ヒロインが日々集金して歩き回るフィリピンのスラム街の路地裏の風景がとても魅力的で、まるで『きらめきの季節~美麗時光』の少年たちの暮らす川べりの街のように美しかった。冒頭の「フエテン」のガサいれで警官が男を追い回す屋根上のシーンなどは、何だか『欲望の翼』が思い出された。カメラがごく近く、賭け金を集めるヒロインを追っていく。チェーンスモーカーの彼女は、肺の具合が悪いらしく、動きながら、常に苦しそうな息づかいをたてている。太めの体格のせいで喉が渇くのか、たばこの吸い過ぎのせいなのか、もしかしたら別の病気なのか、街角で立ち止まってはミネラルウォーターを買って猛烈な勢いで飲む。水を飲むと、すぐにまた、たばこに火を点ける。「おばさん」の日常を丹念に追っているだけなのに、彼女が雨の日にビニールコートを着込む様子や、履いている粗末なサンダルで何かを踏んづけてしまい底面から汚れを取ろうとしている様子など、ごくごく些細な動作が、彼女そのものを良く表していて、見ているだけで面白い。敬虔なキリスト教徒でもあり、亡くした息子のことが忘れられない母でもあり、近所で人が亡くなれば埋葬費用を募金して歩く良き隣人でもある。幸運も不運も訪れるが、総じて、彼女に訪れるのは圧倒的に不運の方。その彼女の不運の原因がフィリピンという国の体制にあることを軽く糾弾しつつも、描かれるのは、不運の中でたくましく生きている人間である。人生経験に裏打ちされた、ヒロインのキャラクターの深みが、魅力的な映像とともに、とても強い印象を残す映画。面白い作品なので、ぜひ機会があったら見てください。


どうして見ようと思ったのか、覚えていない『Love Story』。これは香港映画なのか、シンガポール映画なのか。とりあえず、メインは簡体字を使う中国語(マンダリン)を話す人たちの物語。恋愛小説がそこそこ売れている若い男性作家の、彼をめぐる女性たち(現実の恋人でもあり、作家の小説中の恋人でもある)についての告白という形をとっている。途中まで、これはもしかしたらメタ・ラブストーリー、あるいはメタ・メタ・ラブストーリーなのかと非常に新鮮な感触で見ていたが、結果的には孟京輝的で、しかも結局「恋愛」から抜け出せず、映画そのものが「恋愛」にとらわれてしまう結末には、ちょっとがっかりだった。表現はとても緊張感があって、特に中盤までは面白かった。母から禁書を遺言された女の子の話は良いと思う。いっそ「禁書」を最終テーマにしちゃった方が面白かったんじゃないだろうか。見どころは、セクシー婦警さん(←こういう言葉、使っても良いのか?)と、相手が誰であれ常に「受け」な主人公の作家。そんなあたりと、B級に足をかけているところは、軽く李志超風味……?(笑)。イ・ビョンホン似の、カントニーズ・スピーカーの編集者のお兄ちゃんが少し気になる。

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2006.08.27

一足お先に遭遇

23日(水)に試写会にて、『グエムル 漢江の怪物』を見る。

(公開前で、多くの人が期待を寄せている作品なので、ほとんど当たり障りなく書いてみる)

ポン・ジュノ映画の特徴は、『ほえる犬は噛まない』ならドタバタコ喜劇の、『殺人の追憶』なら刑事物サスペンスの、そして『グエムル 漢江の怪物』なら怪獣パニック映画のスタイルをきっちり踏んで、その形で楽しませながら、実はすべて、その実体は人間ドラマであると言われる。

今度の『グエムル』の中で驚かされるのは、そのスピード感ではないかと思う。何よりも「怪物」の速さたるや驚異であり脅威である上、撮影中の話などからもよく聞かれたように、出演者もほとんど走りっぱなし、動きっぱなしなのである。内容は、監督自身以前から語っていたように、ソウルという大都市を流れる川(漢江)に出現した怪物にふりまわされる人間の話であり、主演のソン・ガンホを中心としたパク一家の話。既に言われる「ポン・ジュノ節」といったスタイルは、語り口や映像だけではない。音楽も、いかにも彼らしい、『殺人の追憶』同様の感触を持つ、せつなさと美しさと悲しみのないまぜになった器楽曲だ。

パク一家の長男で、中学生の娘ヒョンソの父でもあるカンドゥを演じるソン・ガンホや、その父(ヒョンソの祖父)であるヒボン役のおなじみピョン・ヒボンの達者さ、見事さは言うまでもないが、今回も、強烈な人間的魅力(←「良い人」という意味での魅力ではなく、欠点を含めた人間臭さの魅力)で素晴らしいキャラクター造形を見せるのが、カンドゥの弟、ナミル役のパク・ヘイルである。今回もまたこれまでと全く違う印象を残す演技で、ソン・ガンホを頂点とする三角形の底辺の一角をピョン・ヒボンとともにがっちり支えて、劇の陰影を深めていると思う。ペ・ドゥナ(カンドゥの妹ナムジュ)は、パク一家の男性3人が形作るキャラクター大三角形からはじき出されてしまっている印象もあるが、この人の役はこの映画において大きな役割を背負っているので、それだけでもう十分だと言えるかもしれない。

中心になるのは怪物とパク一家との戦いなのだが、時には異様な可笑しさすら見せながら戦う、「丸腰」のパク一家の死にもの狂い、その異常な状況下の人としての正常さ(確固たる「個」としての意志)が、彼らを取り巻く世間(行政府だったり、マスコミだったり、国家だったり、病院だったり、「市民」だったり)の「ヘンさ」をじわじわっと感じさせる。あくまでも、「じわじわっ」となのがうまいところだと思う。

そして父と娘の物語だと思ってみていたら、気付いたら最初から最後まで、三代にわたる「父と子(息子)」の物語だったりもする。ラストまで超特急で引っ張っていかれながら、『殺人の追憶』よりも「ほっこり」と終わったりして……。

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2006.08.07

凝固中

ニュースネタも、書きたいことも、このところ山ほどあるのだが、文を綴る頭(というか手)が固まってしまっているのと、日々襲ってくる強烈な睡魔に抗えず……という状況。書きかけの文章が貯まるばかり。

浜離宮朝日ホールで行われた『二重被爆』の上映会(&トークショウ)および『ハードキャンディ』@シネマライズに行く。

二重被爆』については、今朝たまたま読んだ朝日新聞の社説で紹介されていて気になり、『ハード・キャンディ』の前にちょうど時間がぴったりはまったこともあり、見に行ったに過ぎないのだが、およそ1時間の記録映画に、かなり幅広い層の大勢の人が見に来ていて驚いた。

二重被爆者とは、広島と長崎両方で被爆した人のこと。実はそんな、地獄を2度も見るような苛酷な運命を負わされた人が、人数にして3桁もいるのだという。広島に仕事で赴任していて被爆し、長崎の自宅に帰って被爆した人。広島で被爆し家族を失い、身寄りを頼って長崎に向かって被爆した人……。

その人々が60年もの間、どんな思いを抱えて生きてきたのか。近親者を喪失した悲しみと、大勢の人々が阿鼻叫喚の中で命を落とす様を目の当たりにした衝撃と、後遺症の苦しみの中で、PTSDなどという概念も言葉もなく、日本中が生き延びるだけで精一杯の戦後を、心と身体にどうしようもないハンデを負いながら、さらには、社会的偏見すらあったというのに、同じように生きぬかなければならなかった被爆者の人々。その被爆体験が2回もあるというのは、一個の人間にとって一体どんなことなのか。

映画は、その体験を語り続けて来た人、この映画をきっかけに語り始めた人、長崎の平和祈念館に集められた1000人の被爆者のインタビューテープの中から掘り起こされた「二重被爆」の体験を持つ人、広島の原爆資料館で公開された被爆者の手記の中から見つかった「二重被爆」した人々などのインタビュー映像と、米国、中国、フランスなどでそのインタビュー映像を見せた取材映像からなる。

米国では、「戦争を終わらせるために必要だった」という大義名分が今も主流である原爆投下だが、それならば、すでに抵抗もできないような状態だった日本に、どうして2回も新型爆弾を落とす必要があったのか。そのあたりがこの映画のミソだったりするのだが、そこいらへんは、もう1つ弱かったような気もする(というか、もう1時間ぐらいないと追及しきれないだろう)。

でも、そんなこと以上に、二重被爆を体験した山口さんの言葉、姿、そして彼が発刊した『人間筏』という歌集に収められた数々の短歌は極めて重く、見る側に訴えかけるものがある。 (※『二重被爆』はUPLINKXにて9月2日より公開)

見損ねた映画だが、エドワード・ノートンが主演したスパイク・リー監督の映画『25時』の原作者で脚本も書いたデイヴィッド・ベニオフの『99999(ナインズ)』という短編集(新潮文庫/田口俊樹訳)の中に、『幸福の排泄物』という短編があり、最近読んだ。2人ともにHIVに感染したゲイのカップルが登場する、いくつか非常に印象的なシーンのある、なかなか良くできた小説なのだが、その終盤、恋人を失った主人公アレクサンダーが、彼らの主治医キスリアニーの娘のことに考えを及ばせながら語る。

「今のぼくは彼の娘にも幸せな長い人生が待っていることを祈っている。それでも、彼女には知ってほしい。彼女が歩く草の下には美しい男たちの腐った体が何体も埋まっていることを。きみたち死体にはこう言いたい。きみたちはいい肥やしだと思う、と。排泄物から育ったものがぼくたちを育んでくれる。ぼくたちは墓の上で滋養を摂っているのだ。キスリアニーの娘にはそのことを知ってほしい。国じゅうの人間にも知ってほしい」

恋人の死の原因というのがこの短編の鍵であるわけで、上記の引用も、そのあたりがわからないと意味がない部分もあるのだが、広い意味で解釈すれば人の運命ということに収斂されていくと思い、取り合えず引用してみた。どうしてかと言えば、これが『二重被爆』と『ハードキャンディ』をつなぐのだと、(こじつけがましいけれど)思えたから。

人の生死を分かつ運命の残酷さ、紙一重で生き残った人間のある種の罪悪感、命のはかなさ、恐怖……広島や長崎でも、天安門でも、世界貿易センタービルでも、そこをくぐり抜けて生きてきた人々は、足元に、自分と同じ時を生き、同じ時の中で死んでいった人々の存在なき存在を、いつも感じて生きているに違いない。(ふと、失った近親者とともに生きていたボビー・モローのことが頭に浮かんだりもする)


そして『ハードキャンディ』。『ヒストリー・オブ・バイオレンス』には衝撃を受けたが、これも面白かった。非常に良く出来た作品で、好みは分かれると思うが、個人的には大好きな映画だ。見に行ったのは、何ともはや、たまたま見た予告編で、主演の1人、14歳の少女に縛り上げられて去勢されるという30男の役をやっていたのが、『エンジェルス・イン・アメリカ』でロイ・コーンの流れをくむリパブリカン&モルモン教徒(←ドラマ中、『ラター・デイズ』のモルモンの彼と同じようなアンダーウェアを身に着けていた。「第2の皮膚」と言う場面があったが、あれは一種の制服のようなものなのだろうか?)の悩めるゲイ男性(ジョー・ピット)を演じたパトリック・ウィルソンだったからだ。ちなみに彼は、ジョエル・シューマッカー監督の『オペラ座の怪人』にも出ていたという(大ヒット映画であることを考えれば、日本ではオペラ座……のメインキャストとして認知している人が多いのだろう)。

ハードキャンディ』は、ネットで知り合った14歳の少女ヘイリー(エレン・ペイジ)と、32歳のカメラマン・ジェフと、ほとんどは2人だけのセリフとアクションの応酬で綴られる密室劇で、その緊張感と2人の演技と映像のセンスが素晴らしく、最後まで全く飽きるところはない。彼女はフードのついた赤いパーカーで登場し、そのスタイルでスクリーンから消えていく。つまり「赤ずきん」、狼を切り裂いておばあさんを救い出し、狼に復讐した赤ずきんちゃんなのだ。

で、ジェフのパトリック・ウィルソンを見にいったつもりが、少女ヘイリーを演じたエレン・ペイジのボーイッシュでキュートな魅力に参った。ちょうど、キリアン・マーフィを若い女の子にしたような風貌で、イノセンスと知性の中に常軌を逸した部分を感じさせ、実は最後までつかみどころのないヘイリーのキャラクターを、リアルに生き生きと演じている。

パンフレット(←内容ペラペラなのに700円は高すぎ)内には、本来は悪いはずの大人の男の側にだんだん同情するほど少女が残酷であると書かれていたりする文章がいくつかあるのだが、ヘイリーの魅力にはまると、そんなことは全くなく、「行け行けどんどん」モードに入る。実際は監督も言うとおり、映画は「ほのめかす」だけで、決定的な真実を白日のもとにさらしたりはしないし、少女にも男にも加担しない。

それでも、男をペドフィリア(小児性愛者)と呼び、すべての「彼ら」の犠牲になったすべての「少女たち少年たち」
のために、「彼ら」の代表であるジェフに、スレンダーでショートヘアの少女にも少年にも見えるヘイリーが復讐していくさまは、そんな逆転劇はこれまで見たことがない故に驚愕しつつも心地よい。むしろ心につかえるものがあるとすれば、男への同情ではなく、復讐などという行為をローティーンの少女にさせてしまったことだろうか。

ネットで知り合い、リアルに知り合った中年男と少女の足元には、数多くの少年少女たちの屍が眠っている。実際に殺された子どもたちも、自ら命を絶った子どもたちもいるだろうし、深く心に傷を負った子どもたちもいるだろう。『エディンバラ……』のピーター・オハンロンも、ザックも、アフィアスも……。

とはいえ『ハードキャンディ』は、重いテーマをのぞかせながら、がっちり構築された見事なサスペンスであり、小づくりな寓話である。

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2006.07.17

a crimson mark

Acrimsonmark
『脣痕(シンコン)』(A Crimson Mark) 
2004年韓国 パク・ヒュンジン監督 13分(短編)
東京国際レズビアン&ゲイ映画祭2006(星に願いを ボーイズ短編集)にて上映 

2004年の香港の映画祭のサイトで、韓国古装のこの短編映画の存在を知って以来、頭の片隅に引っ掛かっていて、「ついに見た」という作品。

朝鮮王朝のある時代(←ってどこだよ?いつだよ?)、宮廷では、崩御した先帝に対する服喪の期間をめぐり、3年派と1年派とが激しく対立していた。その3年派の高級官僚(大臣か?学士か?)の1人と、対立する1年派の若手官僚が愛を交わし……という内容。

短編なのに起承転結度外視で、シリアスなのに、ラストでは場内で微妙な笑い声が上がっていたというお粗末系な脚本な上、恥ずかしいぐらいお耽美な映像で、衣装の色どりなどももちろん、そりゃあ大変美しいのだが、まあ「困ったもんだ」……という感じがした、確かにした。

が、シンプルで何にもオチのない、この「しょうもない」作品に、強烈な皮肉とメッセージ性を感じたりしたので、ちょっぴり調べてみたら、監督は1972年生まれの女性で、作品に対しては、「この映画は、極端な父権社会が男性間の同性愛の要因となるという仮説を映像化してみた(試してみた)ものである」というようなことを言っていて(多分……→元記事"Indiestory")、そのあたり、自分が感じた方向と(同じではないが)やや近かったので、納得がいった。

人権主義とは対極にある王権社会の中枢部に、語られず、歴史の表に出ず、でも確かに彼らは存在した。現代においても、特に男性(男権?父権?)社会であると言われる韓国の中で生きる少数派の人々を、まさにその「今」を、実はこの短編映画は見せようとしたんじゃないかと……。

→画像がたくさんある2006年LondonLesbian&GayFilmFestivalの作品紹介ページ

主演はOH Dae-suk(オ・デシク?)と、LEE Dong-gyu(イ・ドンギュ)。オ・デシクはよくわからなかったけれど、イ・ドンギュは、いつもお世話になっている、韓国映画の日本版IMDBとでも言うべき「輝国山人のホームページ」に行ってみたら、すぐ出てきた。『ワイルドカード』などにも脇で出ていたようだが、あの《欲望》(未公開)に、主人公夫婦の、夫側の恋人役で出ていた人らしい。


……クエスチョンマークだらけの無責任な文章、すみません。

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2006.06.21

霧暗2

《RED EYE》は公開されてなかっただろうか? これはDVDスルー? →『パニック・フライト』。ちなみにプルート……は公開翌日に見たのだけれど、天気が悪かったということもあるかもしれないが、混雑覚悟で出かけたら、あにはからんや劇場は非常に空いていて不安になってしまった。今はもう大丈夫?

『ファザー、サン』は、「アレクサンドル・ソクーロフ DVD-BOX」として、『孤独な声』、『日陽はしづかに発酵し・・・』とともに8月26日発売。うーん、『マザー、サン』も入れてほしかった。かろうじて5月に劇場で見たのだけれど、『マザー、サン』を見ると、『ファザー、サン』の見え方が変わると思う。

この閑古鳥サイトのアクセス・ログ、検索ワードのナンバーワンが、もうここ1~2カ月ずっと『変態村』なんです。映画の方はまだ、ゆうるりと全国を回っているらしく、7月も8月も、公開される地域がまだまだあり、地鳴りのように不気味で地味な変態人気が全国に蔓延しているようだ(?)。検索している多くのみなさん、探している(待っている)のは、きっと自分も同じ、DVD発売情報ですよね?  (監督コメンタリー、ついたりすると非常に嬉しい)

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2006.06.07

霧暗

プルートで朝食を』(ニール・ジョーダン監督)が今週公開の、キリアン・マーフィーが出演する2006年カンヌ国際映画祭のパルムドール受賞作『麦の穂を揺らす風(仮題)』(ケン・ローチ監督/原題:The Wind That Shakes the Barley)は、調べてみたらもう日本公開(今秋)が決まっていた。(関係ないけれど、『グエムル』(ポン・ジュノ監督)も好評のようだ。大傑作と言われる前作によって世間が注視する中で、期待どおり(あるいは期待以上?)のものをつくれるとしたら、これは本当にもう、凄い人なんだなと思う)

プルート……といえば、原作者であり、監督とともに脚本も書いているアイルランド人作家・パトリック・マッケーブの『ブッチャー・ボーイ』(同監督/1998年作品)もビデオになっているそうで、これもまたクオリティの高い作品だという評判だけれど、ついでに公開されないだろうか……。というか、パット・マッケーブの本自体、(どの作品でもいいけど)邦訳出版されないのか?

(華流なんとか……として)六本木でやっている『エンター・ザ・フェニックス』は、中国に行ったときにVCDを買ってきた映画だけれど(香港映画なのに、大陸で買うからいけないんだろうが)、観客の笑い声入りの代物だった。海賊版は多いと知っていて、気をつけて気をつけて買ったつもりでも、かなり大きなちゃんとした(と思われる)店で買ったつもりでも、大陸で買ったドラマVCD以外の映画VCDや音楽CDのほとんどは海賊版だったりしているわけで、例え旅行に行っても、もう大陸では絶対に媒体は買うまいと思う。通販なら、北京から直接購入しても、海賊版だったためしはないのに……。

さて日曜日に『ココシリ』と共に見たもう1本は、『13歳の夏に僕は生まれた』というイタリア映画。金持ちのボンボンの13歳イタリア少年が、社長である父親と出かけたマリン・クルーズの船上から誤って海に落ち、溺死寸前、アフリカ、東欧、中東といった様々な国から仕事を求めてやってきた人々を山のように乗せた密航船のルーマニアの若者によって助けられる。少年は、船上や難民収容所で苛酷な生活を体験し、全く異なる環境下で生きる人々と触れ合う中で、多くの矛盾や問題を抱えながら様々な人々が生きている「世界」というものを認識し始めるという、シンプルで力強い、ある意味ビルドゥングスロマン系の物語だ。まあ少年の成長というよりも、少年の目を通して、経済的な要因から引き起こされる民族の越境が生む社会の軋轢や矛盾、機会の不平等を描き出すことが主眼だと思うけれど……。

日本語のタイトルは、ちょっとひっかかるけれども悪くないとは思う。原題は、劇中でも素晴らしいエピソードとして使用されている「生まれたからには逃げも隠れもできない」という言葉(マリア・パーチェ・オッティエーリの原作『生まれたからには逃げも隠れもできない──埋もれた民族をめぐる旅』のタイトル)である。この言葉を、映画のかなり早い段階、主人公の少年が、公衆電話の受話器の向こうに必死で叫んでいる外国人の口から異国の言葉として聴きつけ、意味もわからないまま暗記して、後の出来事の中で何度か繰り返すことになる。

たまたまその場に居合わせた少年が言葉を丸暗記してしまった理由はもちろん、公衆電話に書かれた「故障中」というイタリア語がわからず、通じもしない電話に必死に叫ぶ外国人労働者のせっぱつまった様子がよほど強いインパクトを与えたからだろうが、外国人の窮状に反して、電話が壊れていることを知ることもできない「外国人」という存在それ自体の心もとなさが、恵まれた環境にある少年の心に何らかの影を落としたから……ということもあるのではないかと自分は思う。そしてそれが、その後のストーリーのきっかけとしての意味合いを持つ。

まるでイクラの軍艦巻きのように人であふれかえっている密航船は沿岸で保護されて、人々は難民収容所に向かう。収容所の責任者は神父(←名前失念)で、非常に人間性の豊かな人物だ。彼が居室の壁の巨大な落書き文字を指さして語るエピソードは面白い。曰く、収容所で暴動が発生したときに、あちこちを壊されたりしたので修理をしたが、壁の「神父のバカヤロウ」という落書きは消さなかった。なぜならばそれは「真実だからね」と……。

宗教と福祉が結びついて機能している国は少なくないだろうし、日本だって近世以前は寺が福祉の役割を担ってきた。この映画に特別に宗教的な描写があったりするわけではないし、この映画だけがそうだというわけではないのだが、現代っ子の主人公が折にふれ祈りを捧げる姿などには、自然な文化としての宗教が生活や人生観の基底となっていると感じられるし、特にラストシーンの、ルーマニアから密入国した少女アリーナ(←オルネッラ・ムーティを思わせる野性的でセクシーな瞳の少女)と主人公の少年が「パンを分け合う」姿には、どうしようもない現実の中で、せめてできる部分で助け合って共存していこうという結論的なものと同時に、宗教的なものをも思い起こさせられた。

ただ、自分には年齢的なものか、どうしても近いところに思いが及びやすく、少年の両親の立場が最も身近だった。もし、自分の子どもの命の恩人が国家的に正当に認められない難民の少年や少女だったら、そして自分の子どもが、自分に向かって「彼らと一緒に暮らしたい」といったらどうするのか。人道的に考えたら「かくまう」べきなのかもしれないが、国内の法律や少年たちの将来、また国家間の問題までを考えたとき、法を犯しても女性たちの人生を守ろうとしたヴェラ・ドレイクのような人でもない限り、悩みは深いと思う。

映画を見ていると、ある台詞や字幕の文字をきっかけに違うことを考え始めてしまい、映画の世界から全く離れて、気がついてみるとストーリーの重要な部分を見落としていたなどということがよくある自分にも、重い内容にもかかわらず一気に見せられてしまった見事な演出に、ジョルダーナ監督の(6時間という長さに見るのをひるんだ)前作『輝ける青春』のDVDを買おうかと思い始めている。

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2006.05.25

映画祭続々

ドイツ映画祭2006の公式ページと、福岡アジア映画祭のラインナップ発表。

ドイツ映画祭、ことしもえらく興味深い作品がたくさんです。

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2006.05.22

これもまたファザー、サン

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岩波ホールで『家の鍵』を見る。

誕生から15年会ったことのなかった、父ジャンニと障碍を持つ息子パオロが、「出会い」、関係を築いていこう手探りをする映画だが、障碍者と家族、親になることについてなど、重いテーマを淡々と突きつけてくる。

監督はジャンニ・アメリオ。監督の過去の作品を見たことはないが、調べてみると、人間味あふれる題材をリアルに描く作風らしく、本作も「映画紹介」レベルでは「愛と涙の感動作」的雰囲気を想像したりするが、実は非常に厳しい。そこが素晴らしい。父と子がぎくしゃくしながら少しずつ信頼を深めていく、という流れに間違いはないが、だからその後はうまくいくだろう、なんてことはひとことも言っていないし、父と子の様子を暖かい視線でとらえてはいるが、不安や罪悪感などから生まれるマイナスの感情も明確に描かれている。

特にそのマイナスの現実を、年輪を重ね洗いざらしたような美しさで語るのが、パオロの入院するベルリンの病院で出会う、障碍を持った女性ナディン(アッラ・ファエロヴィック)の母ニコール(シャーロット・ランプリング)である。

ニコールは、主人公の少年の父ジャンニと病院の休憩室で初めて出会うシーンから、障碍を持った子どもの面倒を見るのは女親であることが多く、男親は逃げてしまうという「現実」を語る。20年の長きにわたって娘のためだけに生きてきた彼女の、障碍を持っている家族に対する心構え、そして向き合わざるを得ない「母として人間として望ましくない」自己を表現する言葉は、日々の生活の中から出てきたはずのものなのに、抑制された台詞なのに、とても劇的だ。

「障碍者の家族」のベテラン、ニコールの落ち着きとは反対に、ジャンニはなかなか息子との間合いが計れない。それは当然だ、親子とはいえそれまでまったく会ったこともなかったのだから。そんな揺れる父親像を見事に演じているのが、ガエル・ガルシア・ベルナルを縦に伸ばしたような、美しいキム・ロッシ=スチュアートである。

「なついてくれた」と思ったら、黙っていなくなってしまったり、病室から追い出されたり、「ジャンニ」と紙に名前を書いてくれたと思ったら、家(それまで育ててくれたローマの家族の家)に帰ると言い出したり、ジャンニと息子パオロとの関係は、血がつながっているからといってそう簡単にいくものではない。

パオロを演じているアンドレア・ロッシの、ゆったりとしたペースで吐き出される詩のような言葉の1つ1つが感動的なのだが、見ている方は、この少年が、いきなり「父親」を名乗って現れた男を本当に信用するのか、愛するようになるのか、ジャンニが父親らしくしようとすればするほど、パオロが子供らしい顔を見せれば見せるほど、心配とともに醒めた目になっていく。

ラストシーンは、たとえ親子でも、守る者と守られる者であっても、人間関係は対等であり、人は(程度の差こそあれ)互いにもたれあって生きていることを教えてくれる。生まれたばかりの子供を置き去りにした罪悪感もあり、障碍を持つ家族への接し方の難しさもあり、パオロの父親として生きる覚悟を決めるまでに時間のかかったジャンニと息子パオロは、しかしむしろ父親と息子としてではなく、どちらがどちらを保護するということではなく、一個の人間対人間として互いに弱みをさらけだし慈しみながら、徐々に絆を深めていくのだろう。そんなことを考えさせてくれる終わり方である。

イタリア映画で、主人公たちはイタリアに住みイタリア語で話すが、舞台であるヨーロッパの面白いところは、行く病院がベルリンにあり、そこに行けば当然使われている言葉はほとんどドイツ語で、入院患者の1人であるナディンと母ニコールはリヨンから来ているフランス人。後半、ジャンニとパオロが車で出かけるのは、ノルウェー。異なる国、異なる民族、異なる言語が同居するヨーロッパだからこそ、個の重さとコミュニケーションの重さが説得力を持つ。

重たい内容でも、監督の本当に見事な手さばきと、パオロ(アンドレア・ロッシ)の可愛さと、ジャンニ(キム・ロッシ=スチュアート)の美形っぷりと、ニコール(シャーロット・ランプリング)の存在感と美しさによって(かどうかは知らないが)、イタリアでは大ヒットしたのだそうだ。

いや、ソル・ギョングとムン・ソリの絵柄(←失礼か?)で大変な評価を受けた『オアシス』の作品としての力は、さらにさらにすごいものだったのだなと、キム・ロッシ=スチュアートとシャーロット・ランプリングが余りにきれいだったので、まったく違う内容なのに思わず比べてしまったバカである。

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2006.05.06

ジャージ、隣人、バスの若者

日比谷で『ブロークン・フラワーズ』を見る。

結構混んでいた。窓口前に並んでいたときに、『ブロークン・フラワーズ』の回と『ブロークバック・マウンテン』の回の切符を続けて買っていた自分の前の老夫婦が、楽しまれたことをせつに祈る。

『ブロークン・フラワーズ』には、気になる俳優が出ている。ジェフリー・ライトと、ライアン・ドナヒューである。

Brokenflowers01ジェフリー・ライト(画像左)は、自分にはベリーズ(@『エンジェルス・イン・アメリカ』)の印象が強すぎて、またベリーズの人間性が大好きで、その印象がそのまま俳優に憑依してしまっている感じなのだが、今回は主人公のジャージ親父(ビル・マーレイasドン・ジョンストン)の隣人(ウィンストン)に相応しい、生活臭とコミカルな俗物っぷりを振りまいていて、またまた素晴らしかった。隣に住む、彼女に棄てられたやもめ男を思いやってのことか、単なる興味の趣くままにか、本来他人事であるピンクの手紙の真相究明計画を真剣に立てるウィンストンと、いやだ、やらないと口では言いながら、どんどん言われるがままに動き出す主人公2人の、「間」が楽しい。まあ、映画そのものが、そのおかしな「間」に支えられていたりするのだが……。

そしてもう1人は、俳優というよりもミュージシャンであるらしいライアン・ドナヒュー(Ryan Donowho)。《A Home at the END of the World》で、ボビーの兄カールトンを演じた超絶美形の若者で、今回の『ブロークン・フラワーズ』でもほとんど通行人に毛の生えた程度の、「バスの中の若者」という名もない役でちらっと登場するだけである。が、それにしては、バスに乗り合わせた若い女の子2人が彼を見て「カルバン・クラインのモデルみたい」と噂してくれたりして、このあたりは、主人公が今まさに息子(の母)探しの旅ようとする場面で、若い男を見ると「自分の息子かもしれない」と、微妙に意識し始めるその心理を、美しい彼が画面に登場することでより強く印象付ける形になる。別に美形が好きなわけではないので、ライアン・ドナヒューが好みだとか、演技が良いとかそういう話ではまったくないのだが、やっぱりAHATEOTWメンバーズは気になるのである。すっかり、ダラス・ロバーツも好きだし。

どこがジャームッシュかと言われても、過去に彼の映画を1本しか見ていないのでわからない。外しつつ、スタイリッシュな感じか、白~い感じか。映画を見て「人生は……」とか言わなくても、主人公が、最後に街で出会う若者に語っている言葉で十分な気がする。

Brokenflowers02メインディッシュというか、豪華女優陣演じる「昔の彼女たち」と主人公の場面よりも、前菜やデザート(現実)の場面、旅立つ前のウィンストンとのやりとりや、終盤、住んでいる街に戻ってきてから出会う旅の若者を息子と思い込むところなどの方が面白い。でもやっぱり、ビル・マーレイの、立っているだけでおかしい無表情の存在感は、映画の隅々にまで行き渡っている。キーワードの「ピンク」の色彩は、『アメリカン・ビューティー』の赤のように、全体に彩度を落とした映像の上にアクセントを添える。良い意味で、思ったとおり、予告どおりの映画である。

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2006.04.20

韓国アート系映画の上映館

カンヌ国際映画祭の上映作品の発表は20日らしい。きょうの夜にはわかるだろうか。


中央日報(ウェブ)の19日の記事中によると、韓国の映画振興委員会が18日に発表した国際振興事業計画の1つとして

「今秋、いわゆる「単館系」韓国映画を日本に紹介する専用の映画館が、東京中心部に設けられる」

とのこと。

また、その国際振興事業計画に関連して

「東京・渋谷のアート系ミニ・シアター「シアター・イメージフォーラム」は今月初旬、同シアターで年に12週間、韓国映画を上映することで合意した。同シアターでは、双方の合意のもと選ばれたアート系・インディーズ映画を年間4~6編、上映する。最近、日本に公開された映画が韓流スターを掲げた映画だったのとは異なる方向だ」

とも。日本の市場原理にまかせておくと、韓流スター映画という観点からしか作品選びがされないもんなぁ。韓国インディペンデント2004とか2005で上映された作品には、(受けにくいかもしれないけれど)強烈なインパクトを持ったものがたくさんあったし、そういうものがこの計画がらみで見られるとしたら嬉しい。

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2006.04.18

世俗的な欲望

ちょっぴり心躍る情報を1つ。

4月30日(日)~5月7日(日)まで新宿パークタワーホールで行われるイメージフォーラム・フェスティバル2006で上映される海外招待部門の作品の1つとして、タイのアピチャッポン・ウィーラセタクン監督の2004年の短編『ワールドリー・デザイアーズ』(42分のビデオ作品)の名が挙がっている。

韓国映画とハングルで発行されている「シネマコリアNEWS」(2006年4月14日発行のメールマガジン)中の記事によれば、この『ワールドリー・デザイアーズ』は、アジア映画ファンにはおなじみの、全州国際映画祭制作の『三人三色』2005年版の、3短編のうちの1つ。(イメージフォーラム・フェスティバルで上映されるわけではないが、残り2つは、先日公開されていた塚本晋也監督の『HAZE』と、2005年の東京フィルメックスで上映されたソン・イルゴン監督の『マジシャンズ』の40分のオリジナル・バージョン)

この2005年版『三人三色』が、昨年11月の台湾金馬影展(金馬奨映画祭)で上映されたときの作品紹介記事がこれ。今度もまたジャングル。

さらに『ワールドリー・デザイアーズ』としては、今年1月末から2月にかけて行われたロッテルダム国際映画祭でも単独で上映されていて、こちらがその作品紹介。説明読んでると、くらくらするほど魅惑的なんですが……。


次の《Intimacy and Turbulence》(どうやらモーツァルト生誕250年を記念して制作された、モーツァルトのトリビュート映画らしいのだが、蔡明亮をはじめとする6人のアジア監督のコラボレーションによる作品→ソース)や、新作《Utopia》が見られるのはいつのことなんだろう。


Tropicalmaladydvd【追記】……そして驚くなかれ、『トロピカル・マラディ』のDVD(北米版)が、2005年11月に発売されていた。amazon.comでも買える! BBM(US版)ですらついていなかった監督コメンタリーも、削除シーンも収録されている。あの、ジャングルの漆黒の闇は、テレビのちゃちな映像と音響ではとても再現できなかろうが、でも、これは欲しいだろう。もちろん英語字幕つき。(BBM予約時にわかっていれば1度で済んだものを……(涙))

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2006.04.17

地獄の女とだめ男

Mythos
ギリシャのビールを飲む。「Mythos」という名前の(意味はもちろん「Myth」だろう)。ベルギーあたりの高アルコール度数&濃い口のそれの後には、水のよう(でも、アメリカあたりのビールよりはましか)。さっぱり系では、生姜味のビールは美味しかった。

苦手なBunkamuraル・シネマにて、めったに見ないフランス系映画を気まぐれに見る。『美しき運命の傷痕』。正確にはフランス・イタリア・ベルギー・日本合作映画。また例によって華麗なる邦題がついているが、原題は"L'ENFER"(地獄)というシンプルなものだ。亡くなったポーランドのクシシュトフ・キェシロフスキ監督が残した『神曲』を基にした地獄、煉獄、天国3部作の企画のうちの地獄篇を、ダニス・タノヴィッチが脚色、監督した。

日常全く接点を持たず別々の人生を歩んでいる3人姉妹のそれぞれの日々を描きながら、次女に訪れた1つの出会いをきっかけに、彼女たちの心に深く刻まれ人生に影響を与えながらも触れられずに来た、父親の「ある事件」に端を発する父母の愛憎の末の悲劇を、3人が老いた母の前で再確認するという物語。

サスペンスだ何だと言われているし、確かにそういうつくりではあるが、事件の真相や心の傷が彼女たちに与えた影響を見せるというよりも、もっと原初的な、感情(愛)にとらわれて生きざるを得ない人間というものの地獄、つまりは人間が生きることそのものを描いていると思う。3人姉妹の母を演じたキャロル・ブーケが公式サイトのインタビューで言っていたように、劇中、3女アンヌの恋人であるソルボンヌ大学の教授が行う運命と偶然に関する(「合理主義による「偶然」という概念は空しく、「運命」こそ人が人らしく在ることのできるもの」という)講義は面白く、その内容が映画の重要なテーマになっている。

エマニュエル・ベアール演じる長女ソフィの、浮気中の夫への執着の描写は、この映画の最大の見どころと言っていいと思う。彼女の結婚生活の成り行きは、彼女の両親のそれのコピーのようになっていく。次女セリーヌは、父と母とのいさかいの中で立ちすくみ動けなかった少女のときと同じように、今も不眠に苦しみ、自分の殻に閉じこもる日々を送る。三女のアンヌは大学生となってもなお、不在の父を恋うかのように、友人の父親であり自身の教授でもある年かさの男を恋し、拒まれても追い続ける。

今も3人姉妹の生き方に影響を及ぼしている父と母との不和(というよりも闘争)の、その原因となった出来事の真相が、ほんの「偶然」から生まれたものだったとしたら……。このあたりのことを直接的に書けないのが辛いが、これも実は偶然などではなく、「父」という人間の中にその「偶然」を引き寄せる何かがあったのかもしれない。そして、後から現れたキーパーソンによる「告白」ですら、それはあくまでもその人の側からの真実であり、「父」側の真実は「父」以外の誰にもわかり得ない。だから、ラストシーンの、瞳だけに昔どおりの信念(執念)をたたえている老いた母の「でも私は後悔していない」という強い言葉は、運命とも偶然とも言うような出来事に翻弄される人間の生きる術は、自分の中の真実を信じることなのだと告げている気がする。

うーん、ここでもまた「地獄」は自分の中にあるのか。イニスだな……(←って、自分の頭の中にそれしかないだけだろう)。

素晴らしいキャロル・ブーケや胸と腰にばかり目がいってしまうベアールなど、メインの女優陣4人の実力と美しさは言わずもがなだが、男優陣も、若手からじいさんに至るのまで皆なかなかにさり気なく色っぽく、心情的にはとてもきつい物語の中の華やぎとなっていた。


そして、見逃してくやしい『ARAHAN アラハン』のリベンジで、リュ・スンワン監督の韓国映画『クライング・フィスト』も見た。いわゆるボクシングものだが、面白いのは、普通なら1人のボクサーの側から様々な苦難を乗り越えて試合で戦う(または試合で勝つ)までを描いていくところを、この映画は、最後の試合で戦う2人(チェ・ミンシク、リュ・スンボム)がどちらもともに映画の中の主人公となっていて、それまでの経過も2人分並行して描かれていくことだ。

ボクシングだからもちろん、主役の2人は「どん底」から這い上がることは決まりである。チェ・ミンシク演じるカン・テシクは、元アジア大会の銀メダリストという実績を持つボクサーだが、家財を失い妻子に出ていかれ、日々の糧にすら困窮して、路上で「殴られ屋」をしている中年男。一方のリュ・スンボム演じるユ・サンファンは、貧乏な家庭に育った悪さばかりしている「不良」学生で、事件を起こして入れられた刑務所で、暴れたところをボクシング部に誘われる。

韓国映画だからもちろん、主役の2人のそれぞれの家族との関係が細やかに描かれる。中年男カン・テシクは、出ていった妻子と再び心を通わすことができるのか。チンピラ学生ユ・サンファンは、肉体労働を続けて彼を育ててきた父と祖母の愛に報いることができるのか。

主役を演じるチェ・ミンシクもリュ・スンボムも大好きだ。また、脇役陣もキ・ジュボン、ピョン・ヒボン、オ・ダルス、イム・ウォニといったおなじみの人たちばかりで、とても嬉しい。サンファンの祖母を演じたナ・ムニも強さと慈愛の同居した見事なばあちゃんっぷりで、やはり「韓国映画の「おばあちゃん」ってのは良いなあ」と思う。

リュ・スンボムは、鍛え上げられた身体を持つ二枚目という韓国男優のステレオタイプにはまらぬ、貴重な軽みをもった個性的な若手俳優で、この先きっと幅広い役柄を演じることができるタイプの人だと思う。『品行ゼロ』や『ムッチマ・ファミリー』など、出た作品ではどれでも必ず強い印象を残すが、とりわけ『20のアイデンティティー』の中の恋人の両親に試される若者の話は強烈だった。今風の若者を演じれば、何とも言えない「間」とセンスでその役柄を印象付けるリュ・スンボムの今回のサンファンの演技は、ダメな自分に対するやり場のない怒りを原動力として、不気味なエネルギーをたたえた若者の屈折した表情が、いつもの役柄とは別人で、彼の演技力を思い知らされた。

チェ・ミンシクは、「ダメ中年男」ここに極まった。『ハッピーエンド』も『パイラン』も『春が来れば』も『オールド・ボーイ』も、すべてうらぶれた中年男の役ではないか。そりゃあ素晴らしいことこの上ないし、見ていても飽きないが、たまにはうらぶれていない役も見てみたい気もする。ほら、『甘い人生』のビョンホンみたいな……(って、うらぶれてるか、あれも)。もちろん物語としては、うらぶれた男の話の方が深みがあって面白い場合が多いだろう。かわいいし(笑)。

こんな素晴らしいキャストで、涙をふり絞る設定もばっちりで、ボクシング競技というアクションシーンも満載なわけだが、もう1つこざっぱりしている感じがするのは、やはり主役が2人だからか? 設定の最も面白い(主役2人が闘うという)部分が、エンタテイメントを盛り上げる足かせになってしまったような気もするが、韓国映画の王道を踏まえながらも、最後の試合の音楽といい、何だか新しい、軽やかな韓国映画の息吹のような気もするのである(ってなようなことを、『甘い人生』のときにも言ったか)。


で、連休はやはり「イタリア映画祭2006」でありましょう。

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2006.04.07

スティーヴ、スティーヴィー

Steviecat

スティーヴィー』はどんな映画か。

親族の幼女への性犯罪により有罪判決を受けた若者の生い立ちを描いた作品。

幼児期に母親から虐待とネグレクトを受け、貧困と孤独といじめの中で育った青年の人生を追った作品。

どちら側から紹介されるかによって、見る側の最初の意識は全く違うだろう。でも、これは加害者であり被害者でもある20代半ばの若者、スティーヴィー・フィールディングを映した1本のドキュメンタリーである。

そして監督みずから悩みながらスティーヴィーの側に寄り添い、人がどうやって人と関わっていくかを模索しつづける日々の記録でもある。スティーヴ・ジェームス監督は、傑作と言われるドキュメンタリー『フープ・ドリームス』(1994年)やジャレッド・レト主演の劇映画『プリフォンティーン』(1997年)を送り出した人で、この『スティーヴィー』(2002年)は、監督自身が1980年代の大学時代に、米イリノイ州で「ビッグ・ブラザー」(※)として出会った11歳の少年スティーヴィーとの、10年後の再会の場面から始まる、プライベートな人間関係を題材にした映画だ。

(※)虐待や貧困といった環境下にある少年少女の「友人」(ビッグ・ブラザー/ビッグ・シスター)として人間関係を結ぶことにより、子供たちを精神的に支えようとする米国のボランティア制度

というような書き出しでもう大分前に感想を書こうと思って、挫折した。上には、この『スティーヴィー』というドキュメンタリーの中でもっとも寂しく、もっとも印象に残った、スティーヴィーの子ども時代の画像を貼ってみた。

もう1回見にいこうと思っていたのに、終わってしまっていた。

と思ったら、大阪での上映の後、東京でも数日間の短い再上映(場所は前回のポレポレ東中野から変わって、渋谷アップリンクX)があるそうだ(スティーヴィー通信による)。

犯罪の加害者側の人間像を丁寧に追っているという点で画期的な作品、ということで上映が難しかったり、逆にその真価を認められて上映に至ったり、このドキュメンタリーもまた "controversial" な作品の1つである。

監督は、映画制作とは別の部分で、なりゆき上、性犯罪の加害者の側の人間関係の中に立っていた形なのだが、主人公スティーヴィーのガールフレンドの親友を訪ねる場面で、ガールフレンドの親友が語る切実な体験によって、被害者側の人生と心に刻み付けられる傷がどのようなものなのかということも、映画の中に収めることに成功した。

犯罪者となってしまったスティーヴィーを虐待した母親もまた、傷を負っている人間である。映画の終盤、収監されているスティーヴィーと母親の面会シーンがあるが、長い間ぎくしゃくした関係にあった母子が、しっかりというよりはどこかおずおずと抱きしめ合う映像は、不幸な境遇の中であえぐ人間に、細く弱いながらも何か希望の蜘蛛の糸のようなものを落としてくれている気がする。

この映画は親子や兄弟姉妹という家族関係についてだけではなく、何よりも、(血縁という意味に対しての)「他人」が人にどうかかわるかという、かかわり方の1つを、監督みずからが示してくれているように思う。とにかく寄り添うこと、とにかく側にいること、とにかく関心をもつこと、そしてそう告げること。簡単なようで難しい。でも、難しいようでいて、単純なことなのだ。

スティーヴィーにはほかにも、祖母や妹、彼を愛してくれた里親といった彼の人生の上での重要な存在がまだまだある。もう1度見たら、何か書けるだろうか。ぐうたらだから、なかなか感想をまとめられないのだが……。

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2006.03.22

受難

見る前は、邦題の『変態村』というタイトルの煽っている感じが決して嫌いではなかったのだが、映画を見たら、(これから見る人に)誤解されるだけだという気がしてきた……。ファンタでやって、これ、受けたのか? ファンタで受けるか?

ということで、記事のタイトルの「受難」は、原題《CALVAIRE》のことである。邦題『変態村』。2004年フランス・ベルギー・ルクセンブルグ合作のフランス語映画。2004年カンヌ映画祭の批評家週間で上映され、上映中には席を立つ人が続出だったという。監督は1972年ベルギー生まれの新鋭ファブリス・ドゥ・ヴェルツ。

で、その実は、立派なアートカルト系欧州映画。ホラーでは決してない。サスペンスでもない。そんなスリルや緊張感はほとんどない。退屈系アート映画が嫌いで、グロいのが嫌いな人には勧めない。監督自身もパンフレットで言っているが、詩――そう、最初から「詩」だと思ってみれば、違和感は少ないと思う。自分は後から、散文詩だと感じた。

歌手の青年(といっても中年に足をかけている男)が、ほとんど老人施設の慰問のような旅回りの巡業の途中で道に迷い、たどりついた村の宿屋で監禁される話だ。

オープニングは、主人公の男が鏡の前でステージ用のメイクをしている場面。ステージ用のメイクだが、「鏡の前での化粧」というのが、その後、くだんの村で自明のことのように、「あの女」呼ばわりされてしまったりする展開を暗示しているかのようだ。

話は十分B級で、何も満足のいく説明はされない。ギラギラした老人たちと、うつろな中年男たちしか出てこない中にあって、主人公の青年(しつこいようだが若く美しかったりするわけではない)は、最初から最後まで、キャラクター的にもビジュアル的にも、明らかに無垢な少女のような扱いで画面の中に収められている。

それでも、老人たちを演じている俳優の素晴らしい存在感と、その「想い」と、映画の至福(←大げさか?)をもたらす印象的な色彩を持つ美しい映像が、話の無茶苦茶さとグロさを吹き飛ばして、どこか説得力のある映画になっている。

当初、映画に対するスタンスの取り方がわからずやや戸惑っていたが、後半、クリスマスパーティの室内シーンでカメラがぐるぐる回り出すあたりから、俯瞰の暴力シーン、そしてパンフレットの中でタルコフスキーに例えられていた幻想的な森と沼の風景の中の終盤(じいさんと、血みどろ坊主頭でスカートをはかされた主人公との、せつない場面で、しかもその老人に関して映画では何の説明もなく、あるのは、ただ目の前の「女」(としての主人公の男)への「想い」ばかりだ)に至って、この映画がただの「変態村」なんかではなく、漆黒の夜空に見えるか見えないかの、密やかに輝く小さな星なのだと思い当たる(←大げさか?)。

ラストシーンはどうやら不吉な音がして終わるのだが、その、ラスト直前の森と沼のシーンの、映画における主人公最後の台詞には、「何でそんな言葉をかけるんだよ」と理性の方は叫ぶものの、感性が静かに納得する。いや、あれは『変態村』における"Jack,I swear"みたいなものだなと、もう、その場面と風景を見ただけで、「よかったよ」と言えるような……(←大げさか?)。

淡々と撮られた作品で、想いの重さと、人々の異様さの割りに、あまり主観的に入り込むような場面はないので、だから散文詩と言ったのだけれど、過度の期待をせずに、だまされたと思って見ていてください、見に行く人は。


【追記】
「話は十分B級」などと書いてみたものの、時を経るにつれ、説明をすっとばしているジャンル映画的な部分にこそ、かえって何か哲学的な、根源的な命題が含まれているような感じがしてきた。肉体と知覚が衰えた老人に残るのは、錯乱の形で発現する愛と、燃え残った欲望、そして嫉妬。それは歳月を重ねた人間の行き着く果てなのか。それとも人の本質なのか。煩悩の坩堝に投げ入れられた1人の男は、磔刑のキリストであり、いけにえの処女でもある。うーん、大げさか?

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2006.03.15

年度末ということで

今さらながら、2005年に見た映画の中から、印象に残った作品、人などなどを挙げてみる。……ほんと、今さらです。

~2005年に見た映画から~

【文句なく今年の、思い入れマイベスト】
 リンダ リンダ リンダ (2005年日本)

【過去に戻れたら会いたいのは、弘法大師とこの人
            (でも一目見たら、石にされそうな……)】
 アレキサンダー (2004年アメリカ)……アレクサンドロス大王

【展開に驚愕した映画祭上映作品2本】
 月光の下、我思う (2004年台湾) 東京国際映画祭
 アヒルを背負った少年 (2005年中国) 東京フィルメックス

【フーテンの寅、新シリーズをつくるなら主役はこの人、となぜか確信】
 大統領の理髪師 (2004年韓国)……ソン・ガンホ

【「父」3態】
 サマリア (2004年韓国)
 ベアー・パパ (2004年スペイン) 東京国際レズビアン&ゲイ映画祭
 マイ・ファーザー (2003年イタリア・ブラジル・ハンガリー)

【全く異質な2本ながら、女性が印象に残る珍しい韓国映画】
 大韓民国憲法第1条 (2003年韓国) シネマコリア
 マジシャンズ (2005年韓国) 東京フィルメックス

【やっぱりこの監督も、「一生ついていく」1人】
 結果 (2005年中国)……章明(チャン・ミン) 東京フィルメックス

【カウボーイは辛かったが、ボート少年も苦しんだ】
 夏の突風 (2004年ドイツ) ドイツ映画祭

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2006.03.12

断背山雑感3

(ただの雑感ですが、映画の内容に触れていますので、未見の方はパスした方がいいです。やはりあまり情報をいれずに、一度は自分の心で自分の感じ方で見る方が、映画は心に残るかと……。大きなお世話ですが)

実を言うとまだ、原作を駆け足で一度読んだきりだし、映画館で買ったパンフレットも、雑誌も読み終えていなし、スクリプトなど見てもいない。

もともと孤独な人間が孤独に生きる話が好きだ。1人でもいいのだと、安心するから。

だから自分には、『ブロークバック・マウンテン』も原作どおり、孤独な男の回想の物語に過ぎない。孤独で、そして彼の両親がたった1つしかない曲がり角を曲がりきれずに事故で亡くなったのと同じように、不運で不器用で臆病な男の胸の中の思い出話だ。

1人暮らしの中年男の主人公、イニス・デルマーが、ラストシーン直前、結婚を知らせにきた長女アルマ・ジュニアの忘れていったセーターをたたむ。彼のそれまでの粗野で朴訥な雰囲気と裏腹な几帳面さで、丁寧に……。そんな場面で何とはなしに浮かんでくるのは、若き日のブロークバック山での、黙々と料理をし、雨の日には木彫りの馬をつくる彼の姿であり、もう1人の主人公、ジャック・ツイストにすがるように身を寄せていた彼の姿である。イニスの本質はきっと、寡黙で強い西部の男などではなく、牧場で暮らす2人の男の一方が「処刑」されたのを見せられ恐怖した9歳のときそのままの、内気で細やかな神経を持った少年なのだろう。彼の人生は、周囲からの「男らしく」あることへの暗黙の期待と、自分を守るために進んで身につけたであろう「男らしさ」によって、鎖帷子のようにがんじがらめされ、ひたすら耐え続ける日々となった。

映画の始まりのイニスとジャックの出会いの舞台は、シグナルという町である。プルーの作品には、暗喩めいたおかしな固有名詞がよく登場するのだが、シグナルというのはのっけから象徴的だ。よくある「信号しか目印のないような」そんなところなのだろうか。それは、2人の運命の交差点であることを示したシグナル(信号)なのかもしれないし、その先の人生への警鐘(黄信号)だったかもしれない。いずれにせよ彼らは、シグナルで出会い、シグナルを越えて先へ進んだ。

映画の中盤は、むしろジャックのおおらかさが救いだろうか。ロデオ・クラウンや(これは後半になるだろうが)牧場経営者の男に、明らかに秋波を送っているあたりが面白い(でも、牧場経営者の男に「湖で釣りをしてウイスキーでも飲んで」と誘われる場面のジャックの瞳は、そのときに彼の心に去来したものを如実に映していた)。夫としての身勝手さばかりが連続するイニスの家庭の場面の苦しさとは対照的だ。実際のところ、イニスの夫としてのあり方は、「仕事人間」で家庭を顧みぬ夫という形で一般的におなじみの男性像である。しかも自身の精神的な無理が、不寛容という形で妻を圧迫する。デルマー家のシーンからは、DV、アルコール依存、幼児虐待、ネグレクトといった家庭の中で起こりうる様々な問題の根っこの一部が、うっすらと見えてくるような気がする。イニスの妻アルマを演じたミシェル・ウィリアムズの抑え目ながら感受性豊かな表情と演技は、とてもリアルで説得力があったと思う。

映画の後半は、特にイニスとジャックの会話の真意がいまだ自分にはすっきりと理解できない。きちんと原作を読み原書にあたり、スクリプトも読み、もう一度ぐらい映画を見にいったら、何か答えが得られるだろうか。中年にさしかかり、後悔と、いつも一緒にいられないことへの苛立ちで、イニスとジャックの間に少しずつ波風が立ちはじめる(自分にとっては難解な)あたりから、ラストに至るまで、ヒース・レジャーのイニスの演技は、痛いほどに見る者を引きつけて離さない。どんどん無口に、どんどん鈍い動きになり、その鈍重さが人生の重さすら感じさせる。米国の批評家が公開直後、マーロン・ブランドやショーン・ペンに匹敵すると評したことが心からうなずけるパフォーマンスだ。まさに、40代で老ビトー・コルレオーネを演じたブランドを思い起こさせる……。

映画のあと、同行の友人にラストシーンの台詞("Jack, I swear")について得意げに自分の解釈を語った記憶があるが、登場人物が話す言葉がそのまま日常感覚でわかる海外のファンの間でも、このラストの台詞をどう受けとめるかには様々な解釈があり、いまだに話題になっていることを知った。アニー・プルーの公式サイトのフォーラムでも、最後の台詞に対し「イニスが誓ったことは何なのか」というスレッドが立っている。原作と映画では、ラストの台詞の意味合いは違うようだが……。

自分の、初見での知ったかぶりな感想では、あの台詞は、イニスの娘の結婚報告に心理的な影響を受けた彼の、密やかな彼自身の結婚と同等の愛の誓いだというものだった。そう思ったのは、映画の流れと、日本語字幕の方向性と、単なる「単語の意味」的な語釈により、"I swear"が結婚の宣誓で使われる言葉なのではないかと推測したことによるものだった。後から調べて、(宣誓の言葉云々は)間違いだったとわかったが、それでも今でも、少なくとも映画では、イニスは自分の本当の心をあの言葉に乗せて初めて外に出したのだと、自分は信じている。

ジャックのシャツと絵葉書を飾り、愛を誓ったその場所はまた、恋人の死を悼む祭壇(日本で言うなら仏壇)めいても見える。ジャックの家から持ち帰った形見のシャツの上から自分のシャツを重ねたのは、もちろん彼の恋人に対する想いだろうが、ほかに誰もいないトレーラーハウスのクローゼットの中にあってまだ、自分の気持ちを隠そうとしたかのようにも思え、悲しかった。小さな絵葉書は、そこが彼の「リトル・ブロークバック」であることを示している。妻と子を失い、社会的に孤立し、2006年の現代でも「馬に乗っても誰にも会わない」ワイオミングの、おそらくは人里離れた場所に置いたトレーラーハウスの中でやっと、当の恋人すら失って初めて、彼は本当の自分と自分の恋を受け入れることができたのだ。

自分の中では「結婚」や「永遠の愛」などという概念が浮かぶことは余りないのだが、ちょうど少し前に『フロント・ランナー』(パトリシア・ネル・ウォーレン著)を読み返したばかりだった。そう、映画『ブロークバック・マウンテン』の成功で、お蔵入りしていたいくつかのゲイをテーマにしたベストセラー小説が再び映画の題材として脚光を浴びているという記事を読んでから……。

あの古典的な小説は(説明すべくもないのだが)、イニスとジャックの20年のちょうど折り返し点あたりの時代設定となる。ほぼ同時代と言っていいだろう、ワイオミングとは反対側、アメリカ大陸の東の端ニューヨークを中心としたゲイの人々の物語だ。その中で最も強烈に自分の頭に焼き付いていたのが、「人間としての尊厳と安定とを渇望するゲイの心情を、自分から理解できるストレートはほとんどいない」という一節(北丸雄二訳、第三書館発行の邦訳版より引用)――それは、主人公の結婚式の章の冒頭を飾るセンテンスだった。映画のラストの"Jack, I swear"を聞いたときに、そんないろいろな思いが湧き上がって、そして膝が震えたのだった。

社会的に祝福されない恋愛の純度が高まったとき、一般的な恋愛物語では、恋人たちの関係は外(社会)よりも内(相手)に向かい、世界は閉じて死の方向に歩み出すことが多い。文学の世界でも三文小説でも、比ぶべくもないが日本の演歌の不倫物の歌詞など、女が嘆いて泣き寝入りか、2人で死ぬか、そんなものばかりだ。

『ブロークバック・マウンテン』はもちろん、宗教的・文化的な背景と、原作者アニー・プルーの作風とがそうさせたのだろうが、主人公たちは、死などよりもずっと苦しい「生」を生きている。運命の風に吹かれればあっけなく飛ばされてなくなってしまうような、どうにもならない「生」を生きている。小説の読者も、映画の観客も、ヒロイックにならない主人公たちに深い共感を覚えるのに違いない。

恋人たちがヒロイックに愛をさけびながら、不可抗力に引き裂かれていく安っぽい純愛映画は、そりゃあ、お手軽に泣きたい人には素晴らしいアミューズメント・メディアだろう。でも、誰がどうしてこうなったという「ストーリー」ではなく、愛も欲望も猜疑心も喜びもいらだちも醜さも落胆も恐れもすべてさらし、失敗や敗北を通り過ぎながら、それでも生き想い続ける「人間の姿」を見せつけられるから、我々は共に映画の時間を生き、映画の外の自分の人生を歩き続ける勇気をもらうのだと思う。

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2006.03.11

プルーのレポート

英ガーディアン紙のウェブサイトに、3月11日付けでアニー・プルーがオスカー授賞式についての文章を載せている。シニカルで痛烈。(彼女も当然あの場にいたわけだ……)

Blood on the red carpet

"And rumour has it that Lions Gate inundated the academy voters with DVD copies of Trash - excuse me - Crash a few weeks before the ballot deadline."

"If you are looking for smart judging based on merit, skip the Academy Awards next year and pay attention to the Independent Spirit choices."

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2006.03.08

スローエンタテイメント

ファザー、サン』の封切日は、4月29日に決まったそう。寝不足ででかけると、あまりの静けさとあまりの映像美に、爆睡必至の傑作が、それだけでも危険なレイトショー。よく寝てから行くべし。


米アカデミー賞の結果に、ブッシュ再選や小泉自民大勝のときの、砂をかむような思いを味わった向きも多かったと思う。自分が思い出したのは、オリバー・ストーン版『アレキサンダー』の米国での「公開失敗」に関する悔しい思いだった。『アレキサンダー』は、米国公開の前から知っていたわけではないのだが、でも、もう1度やり直せたら、もっと状況は違っていただろうか、もう1度、もっと別のやり方をしたら、あのとても公平とは思えない「酷評」はなかったんじゃないだろうか、と……。

そういう取り返しのつかない、何か「間違ったことが起きてしまった」感じが、今回のアカデミー賞についても感じられたのだ。もちろん、それまでの数々の受賞実績や、批評家による絶賛や、当のオスカーのほかの部門での評価(得賞)もわかっている。「賞なんかで作品の価値は左右されないよ」という意見ももっともだ。「ハリウッドなんてこんなもんだよ」というのもうなずける。それでも……。


さて、いつも読ませていただいている「映画館ブログ」という、映画の興行に関する話題を主なテーマとしたブログで2月に読んで以来、ずっと気になっている記事がある。

DVDの発売はなぜ早くなったのか?

この記事の筆者の方は次のように書いている。

「ウインドウの速さを歓迎する自称マニアな消費者さんを散見するが、別に歓迎するのはよいとして、外国映画の日本での公開が遅い!とか公開後のパッケージ発売が遅い!とプレッシャーをかける人は、それ本当に映画好きなの?早く見たり手に入れたりすることって本当に大事?」(原文より引用)

論旨は、映画公開→DVD発売というような商業展開サイクルが短いものになってきているのは、「別に消費者サービスでもなんでもなくて、単に投資回収を早めたいという製作サイドの需要にすぎませんよ」(原文より引用)ということで、そのサイクルの短さが、本来あるべき劇場売上や本来あるべきDVD売上を実は食いつぶし合ってしまっているのではないか、実は結果的に映画産業にとってマイナスなのではないか、という問いかけを行っているのだと思う。

まあ、売る側の勝手なんだから関係ないじゃん、と言ってしまえばそれまでなのだが、この文章が言っていることと別の部分で、「早く見たり手に入れたりすることって本当に大事?」という言葉がとっても引っかかったのだ。

自分自身は、気になるものについての情報を集めるのが好きで、この記事の冒頭でも、好きな作品の公開日決定のことを記したばかりなので、まったく「言っていることとやっていることが違う」ことになってしまうが、「早く見たり手に入れたりすることって本当に大事?」という言葉に照らすと、そんな「情報」すら、「物をすり減らす」という意味での「消費」に加担しているような気分にさせられる。

映画に関する制作情報を知る。完成した作品が海外の映画祭で公開されるという情報を得る。日本公開の日程をいち早く知ろうとする。海外発売のDVDを買う。公開された映画を劇場で見る。「次はDVDだね」。「発売はいつかな」。「こんな雑誌が出たよ」。――自分がいつもやっていることだ。

そんなふうに、ファンとして普通に行っていること、期待していることが、映画と出会い、味わい、心の中にしまわれるというシンプルで豊かな経験とまったく反対方向の、浅ましい行いに思えてくる。

『アレキサンダー』では図らずも抑えがたく夢中になったことをさらしてしまったが、「夢中になった」ことを表に出すのは恥ずかしいことだという、やせ我慢根性というか、ひねくれ根性が自分の中にはある。「江戸っ子」だからか?(←正確には自分の生まれ育ったところは江戸圏内ではない) 洋楽ファンの友人がかつて言っていたことには、好きなバンドの全国ツアーについてまわると、観客のノリに「地方色」があるのがわかるのだそうだ。東京公演はクールな反応。大阪公演は超ホットな反応。京都は「最初はクールだが、だんだん火がつく感じ」。だからアーチストは一般的に関西で行われる公演の方が嬉しそうだと……。

夢中になったものに対する熱烈な思い入れがあっても、その「もの」に対するマクロで相対的でクールな視点を、必ず同時に持っていたいと思うし、「思い入れた自分」を相対化する視点も持っていたいと思う。

ん? 何を言っているかわからない? 自分もわからない(笑)。(いちおう自分的には、筋は通っていないかもしれないけれども、めざす筋道はあるのです)

いや、BBMに対するアンビバレンツな想いを書きたかっただけで……。

つまり、ここまで見事で、ここまで本質的で、ここまでど真ん中で、ほとんどの映画ファンなら絶賛するだろう作品に、「ディープにはまる」のはかっこ悪いかなと思う。私ごときが思い入れずとも、応援しなくても、文句なしに素晴らしい作品であることはゆるぎない事実だ。見た人たちの中に、あの映画を愛する人たちがたくさん生まれるだろう。 (とはいえ、そういうことと一般に認識されているかどうかは別の話で、「県庁」や「ナルニア」は認知されていても、特定の映画ファン以外ではBBMのことを知っている人に会ったことなどない。アカデミー作品賞をとらなかったことで、日本で、「ミニシアター作品として以上に」ヒットする可能性は低くなったのではないかと思う)

でも、最初に見た5日の翌日の夜も、仕事をおっぽって映画館にいた自分もいるわけで……(でも、軽々しく何度もリピートできるような映画ではない)。

それでも今度ばかりは、「DVDの発売はいつだろう」とか「海外版のDVDの特典映像は」なんていう、餓鬼(←子どもではなく、飢えた亡者の方の意)のような振る舞いはやめようと思っている。コマーシャリズムや情報や自分の欲望に踊らされることなく、あの映画と、じっくり向き合っていたいと、醒めた頭で静かに蜜月を過ごしたいと思うのだ。(ってなことを、公開前にも書いたな)

「雑感3」はもうちょっとまともに、映画本体への感想を書きたいと思っている。

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2006.03.07

断背山雑感2

このまま雑感ばかり3つも4つも続いて、終わったりして……。

アカデミー賞のノミネートの段階で、誰か映画評論家が言っていたのが、自分の記憶違いでなければ「編集賞にノミネートされなかった作品賞はない」ということだった(勘違いだったら申し訳ない。書き終えたら、ソースを探してみます←書く前に探せよ)。そのジンクスは当たったのか。

『クラッシュ』が編集賞を取った時点で、既にいやな予感はした。

BBMの訴えるものの強さは尋常ではない。出てくる人は、プルー作品の登場人物だから、ほとんどが不運な"loser"だ。それなのに作品は王者の風格を漂わせ、「ミニシアターで上映される小品」、「アート系映画」、「インディーズ」などの枠からはみだし、堂々とメインストリームで戦える幅広さを持っている。「(作品賞だったら)世界を変えたかもしれないのに」と、どこかで誰かの書いた言葉がオーバーだと切り捨てることのできないぐらいの、革新性と品質を持っているのに……。

ということで、みなさんご存知ですが、米アカデミー賞でBBMは、監督賞、脚色賞、作曲賞をとりました。

上記の文句は、『クラッシュ』を見てから言えって?

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2006.03.06

断背山雑感

アカデミー賞の授賞式はNHKBSでも18日(土)にダイジェストが放映されるそう。よかった。

昨日、5日の夕方の回にBBMを見た。

緊張するままに劇場に入り、いつのまにか引き込まれ、ラストの台詞に膝が震えたが、映画館を出ると、イニスが乗り移って歩きが蟹股に……。

さまざまな角度からさまざまなテーマを読み取れる映画であり、普遍的であることはもちろんだが、やはり、本当に素晴らしい出来の"ゲイ映画"だと、自分は思った。これがアカデミー賞の作品賞にノミネートされるほどの取り上げられ方をしていることに、本当に何か革新的な、震撼するほどの衝撃を感じた。すごいことだね、これは。そして全くそれにふさわしい品格を持った映画であることも間違いない。

こんな見方は無意味かもしれないし、感受性の強い人たちには怒られるかもしれないが、物語や感情的な部分を脇に置いて、映画の映像的な部分、つくりの部分も、『ミュンヘン』と同じくらい、いやそれ以上に「渋くてかっこいい」。オープニングから、どの絵を見ても、どこを切り取っても、無口なイニスが全身で漂わせた想い同様に、映像が物語を物語るのだ。

いろいろなものを見聞きしすぎたこともあり、それ以上に多くのことを語っている映画なので、簡単に何かを書くのは難しい。ジャックとイニスの最後の逢瀬の場面、特に読み解きが難解だ。スクリプトを読んだら、「わかる」だろうか?

ということで、これから原作を読んでみよう。スクリプトも……。この筆不精状態で何か書き表せるような、まとまったものが胸の中に湧き上がるかどうか、全くわからないけれど……。

アニー・プルーの世界は、ブロークバック山のように峻厳で、イニスの姿勢のようにうつむき加減だが、この映画は、ブロークバック山のように堂々と、我々の前に、ただ「ある」。全てを投げ出して、全てを覚悟の上で。

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2006.02.20

全国超拡大公開

ということで、米オスカーは『クラッシュ』が終盤形勢逆転してきているとは言われつつも、まだまだ本命であるには変わりない『プロークバック・マウンテン』。日本でも公開館が増えている。→公式サイト参照。"シブヤで単館公開"なんて言っていた大昔が嘘のように、ウチの地元なんぞにも来てしまうことがわかった。きっとあなたの街にもやってくるはず。

で、3月号の「CUT」、本屋でパラパラとめくっていたら膝が崩れ落ちそうに……。いや、見ればわかる。2月号もなかなかだったのだが、今回もきっちりと載ってます。でかい雑誌は置き場に困るので買いたくないのだけれど、これはやはり、いつも見ているスチールとはいえ、大判ならでは。立ち読みの際には、覚悟してご覧ください(→そして一目見たら、いつのまにかレジに並んでいる自分が)。

ちなみに「キネマ旬報」も、次号(封切日の3月4日発売)はBBMが巻頭特集だそうで……(まあ、映画雑誌・情報誌などあちこちに出るのだろうけれど)。

しかし、自分がかなり楽しみにしている『変態村』、公式サイトと上映館サイト以外は、雑誌などでも何も見ないのだが……。

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2006.02.19

ベルリン2006閉幕

もう少しで保存、というところで間違って記事を消してしまい再現不可能。がっくり。もともと近況に書いていたものを、リンクなどが増えたのでこちらに移動してきたのだったが、気を取り直してもう一度やってみる。近況的には、このところ2冊の本の間を永久ループ状態で、見たい映画もあるくせに足がなかなか外に向かない……という。で、きょう19日は英アカデミー賞の発表。

ベルリン国際映画祭の2006年の金熊賞は、欧州4カ国合作の《GRBAVICA》が受賞した。ついさっきラジオのニュースでもアナウンスされていたが、ボスニア紛争の際に暴行を受けた女性とそれにより生まれた子供のその後の人生を描いた物語とのこと。こちらのサイトでもレポートされている。

リンクしたサイトによると、アウグスト・ディールの 《SLUMMING》もなかなか面白いよう。ドイツ映画祭あたりでやらないだろうか。

テディ賞は、フィリピンのオリオス・ソリト監督の 《ANG PAGDADALAGA NI MAXIMO OLIVEROS(The Blossoming Of Maximo Oliveros)》。マニラのスラム街の貧困と腐敗の中で生きる12歳の少年の初恋のお話。これもどこかの映画祭か何かでぜひ見てみたい作品だ(ベルリンの公式サイトに出ている作品紹介ページの写真がとてもかわいい)。監督によれば、デジタル革命は映像の世界における国家間の貧富の壁を突き崩す可能性を持っているとのことで、インドや香港や日本、韓国といった映画制作の盛んな国以外の、アジアの国々の映画が近年勢いを増してきているのは、デジタルカメラという、フィルム撮影より低コストの撮影技術が広がったからなんだろう。振り返れば、昨年の東京国際映画祭のフィリピン映画や東京フィルメックスの中国映画、カンボジア映画など、個性的で圧倒される作品がいくつもあった。

公式サイトの結果ページ

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2006.02.12

ベルリン

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ベルリン国際映画祭でコンペに出ている彭浩翔(パン・ホーチョン)の《 Isabella 》、スチールがえらくきれいです(画像はベルリン国際映画祭公式サイトより)。何枚かスチールが見られるのですが、まるで陳果作品みたいな、パン・ホーチョンにはあるまじき(?)美しさです。

ほかに画像では、ガエル・ガルシア・ベルナルin着ぐるみバンド(中央 The Sience of Sleep)とか、アリストテレス(←違うって The New World)とか、アウグスト・ディール(右端 Slumming)とか……。

三池崇史監督の『46億年の恋』も、11日最初の上映がありました。

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Go for more 'Broke'? Maybe

タイトルは、ひとつきほど前のこんな内容の記事です。

10日、いつも拝見しているこちらのWeblogで、ついに「二遊間の恋―大リーグ・ドレフュス事件」ようやく映画化へ?」というエントリが上がった。ソースは記事内のリンクのとおり、小説の作者ピーター・レフコートのホームページからだろう。このトップページの左サイドのレフコート本人からの「近況報告」欄は、この手のサイトにはめずらしく割合まめに更新されていて、今回の朗報の内容は、多分2回ほど前の更新で可能性として漏らされていたもの(プロデューサーの名前とか、脚本のこととか)の確定バージョン、という感じだ。原作者の手による映画の脚本もすでに出来上がっているそうで、5回目の企画にして今度こそ本当に、愛娘に晴れの日が訪れるか(←この比喩は本人が前に書いていたもの)といったところ? ブラッド・ピットがゲイの役柄を演じることに興味を示しているらしい、という本当か冗談かわからないニュースもあったが、5年ぐらい前までならランディの役あたり最適だっただろうが、今はちょっと無理だよね。

実際、断背山もそうだが、これらの映画化企画はほとんどがみな「構想10年」レベルの長いタームのもので、トップにリンクした記事の中にも作品名が挙がっていた、パトリシア・ネル・ウォーレンの『フロント・ランナー』もまた同じだ。実は、きのう初めてその『フロント・ランナー』の公式サイトに行ってみたのだが、断背山全米公開の数日前の日付で、作者ウォーレンが " The Front Runner vs. Brokeback Mountain? " というタイトルの、断背山に関するコメントを出していてびっくりしてじっくり読んでしまった。レフコートも何度も自サイトの「近況報告」欄で断背山について触れているが、ゲイをテーマにしたベストセラー小説の作者にとって、『ブロークバック・マウンテン』という小説の映画化は決して対岸のできごとではないのだろう。ウォーレンのコメントの論旨は、彼女の30年前の名作の熱狂的なファン――小説『フロント・ランナー』がゲイをテーマとした作品として、ポルノでもインディーズでも単なるアート作品でもなく、メインストリームで成功した最初の映画としてのフロント・ランナーたりえなかったこと(=『フロント・ランナー』より後に発表されているプルーの『ブロークバック・マウンテン』に先を越されたこと)への失望の声をあげた多くのファンに向けて、映画『ブロークバック・マウンテン』をサポートしていこうよというもので(記事は封切前にアップされたもの)、それが映画『フロント・ランナー』の実現につながっていくことを説いていた。

コメントの中で面白いのは、過去に『フロント・ランナー』の映画化に興味を示したプロデューサーたちはみな、(断背山がそうだったように)ロウ・バジェットの制作者だったが、1976年のモントリオール五輪がクライマックスの舞台となるこの小説の映画化には、「低予算」では無理なのだというあたりだ。映画化に関しては、そういった予算の問題だけでなく、社会背景とラブストーリーと陸上の世界が深くからみあってできあがっている小説だけに、脚色もまた難しいのではないかと思われる。

折りしも今はトリノ五輪の開幕直後。そして、米アカデミー賞では断背山のライバルである『ミュンヘン』、――オリンピックでの暗殺事件と言われたら、背景こそ違うものの『フロント・ランナー』を思い浮かべずにはいられないエピソードから始まるその映画が公開中だ。スピルバーグの映画は、テレビ放映を見る以外では劇場まで見にいったことは一度もないのだが、過去の五輪をどうやって映画で描くのか、そんな角度からなら興味がわく。

最初にリンクした記事やレフコートのコメントで述べられていたのは、断背山の作品評価以上に、特に低予算作品としては非常に効率的な興業成果を挙げていることが、ほかの「まだ見ぬ」映画の実現につながるのだということだ。制作者たちは、ホモフォビックではなくリスクフォビックなのだという。まあ、確かに「もうかるなら、つくるよ」というのはわかるが、ちょっとこのあたりの制作者の言い分はレトリックくさい感じもする。断背山は、好評を受けてぐっと公開館数が増えたあたりから、集客率がだいぶ落ちてきているという。今後、ハリウッドで同性愛をテーマとした映画の制作が増えていくのかどうかはわからないが、冒頭の記事やレフコートのコメントで書かれていたことの中に、もう1つ、断背山の影響として確実ではないかと思われることがある。曰く、断背山以後、ハリウッドの俳優たちにとって、ゲイの役柄を演じるということは、実力を示すことにつながりこそすれ、決して過去に言われてきたようなキャリア上の傷になるというようなことはなくなっていくだろうと……。

かつての映画化の企画の際、ハーラン・ブラウン役はポール・ニューマンだったそうなのだが、どうだ、ブラピ?(笑)←いや別に、自分はブラピは好きではないです

下の画像は、2月10日朝日新聞夕刊の全面広告。
BBM20060210A

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2006.01.25

本日記者会見

って、ライブドアでもヒューザー(→絶対、ライブドア捜査&堀江逮捕のこのタイミングは耐震偽装事件隠しだろう……)でもなく、本日、李安導演の来日会見があるそう。→「海から始まる」さんの記事。こちらのブログはプロの方が書いておられるのだが、このピックアップはさすがだ~と(BBM関連で)思ったのは、早い段階でミシェル・ウィリアムズをとりあげていること→記事。自分も、『ランド・オブ・プレンティ』での彼女の不思議な魅力にびっくりし、さらにBBMの予告編やスチールなどから垣間見る『ランド・オブ・プレンティ』との全く異なる雰囲気に驚いたクチで、この女優さんの動きは注目かもしれない。BBMは賞レースだけでなく、BOX OFFICEでも世界的に好成績で、台北では公開初週の週末は1位。イギリスでは4位だし、全米でも5位に上がってきた。どこまでいくのか。

【追記】1/25記者会見のレポート(CINEMA TOPICS ONLINE

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2006.01.17

Paradise Now

……が外国語映画賞(ゴールデン・グローブ)ですね。作品賞、監督賞、脚本賞と主題歌賞は断背山がとりました。

主演男優賞はフィリップ・シーモア・ホフマン、主演女優賞はフェリシティ・ホフマン(ホフマンのペア……)。

http://ent.sina.com.cn/m/2006-01-17/0645961750.html

【追記】訂正
漢字が似たようなものだからって、幾ら職場の昼休みの、こっそりエントリだからって、適当な記憶でいいかげんなことを書いちゃあいけません……。
フィリップ・シーモア・ホフマン→ Philip Seymour Hoffman
フェリシティ・ホフマンハフマン→ Felicity Huffman
ですね。
そして作品賞、主演男優賞、主演女優賞は、それぞれドラマ部門(ご存知のごとくコメディ・ミュージカル部門は別)。
監督賞、脚本賞、主題歌賞は映画部門(テレビドラマ部門は別)。

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2006.01.14

集英社文庫『ブロークバック・マウンテン』2月17日発売

E・アニー・プルーの原作が、集英社文庫にて『ブロークバック・マウンテン』というタイトルで2006年2月17日に発売予定(集英社のサイトより)。ああ、ハードカバーじゃなくてよかった(通勤読書にハードカバーはつらい)。訳は、プルーの『オールド・エース』の訳者でもある米塚真治氏。

でも、まさか、よもやまさか、1編だけじゃないだろうな、これ……。「短編集」だろうな~。"Close Range"の短編全部収録されているんだろうな~。されてなかったら、怒るよ。といいつつ、実はこの400円という価格とタイトルに、「短編集」ではない匂いを感じ、かなり諦め気分の自分である。ワイオミングの11の物語を全て日本語にしてくれるのは金原さんだけなのか!(笑)→自分の記事

まあとにかく、彼女のほかの作品を読んでいない方、ぜひこの機会に『ブロークバック・マウンテン』で、その独特の文章世界を味わってください! もちろん、映画を見てからでもいいでしょうが……。


通勤読書といえば、電車やバスの中で、側に来た人が読んでいる本のタイトルを予想するのは、ちょっとした楽しみでもある。中がちらっとでも見えればその字面から、中が見えなければ装丁などから……。

先日は、大好きな『ドクトル・ジバゴ』のジュリー・クリスティのような髪型をした若いお嬢さんが、自分の立っている前の座席に座って、それは熱心にひざの上のハードカバーに視線を注いでいた。彼女の髪型だけでも自分的には好感度大なのだが、ハードカバーを真剣に読んでいるとなれば、さらに興味が湧く。本の上の文字に目をこらしてみる。するとそこには「オカン」の文字。ええ゛ーー。リリー・フランキーかよ~。

幸運にも、彼女はラストページを読んでいたらしく、その場で自分の予想の当たり外れを確認するチャンスを得た。奥付の文字はもちろんあの大ベストセラー。読んではいないが、別に『東京タワー』に恨みはない。ただ、せっかくの「知的な美女風」も、ベストセラー本を読んでちゃ台無しだと、偏屈な自分はがっかりしたのであった(笑)。え、大きなお世話?

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2006.01.12

書きかけの感想、断背山など

◆断背山、日本では3月4日に封切日が決定(シネマライズのサイトより)。日本公式サイトもできた(日々お世話になっている劇場公開映画リンク集のサイトより)。

町山智浩氏は自分のサイトでも断背山について書かれているが、抜群に面白いのは毎週出演しているTBSラジオ『ストリーム』の「コラムの花道」のコーナーでの本作の紹介。ダウンロードしてたっぶり聞ける。論旨はほとんどみうらじゅん状態だ(笑)。

このあたりの話をさらにシリアスにグレードアップして論じているのは、海外小説の翻訳などもされているジャーナリスト、北丸雄二氏の自身のサイトでの記事。ヤオイ女に厳しいこんな記事もアップされている。職業として物を書いている人間の心構えとなれば「他人事」かもしれないが、ヤオイ根性のお気楽さへの指弾と取れば、(自分を含め多くの人が)読んで馬耳東風ではいられないだろう。


◆今さらながら、昨年のフィルメックスの書きかけの感想などを、このままだと決して続きが書けそうもないので載せてみる(すみません!)。このほかにも何本か見ているのだけれど……。

『サグァ』。カン・イグァン監督。韓国映画。2005年作品。シネカノン有楽町で見たのでQ&Aはなし。平凡に始まり、どんどん怖くなり、愛の幻想を描いたものかと思いながら見ていたら、やや甘めのラストがやってきて、自分の解釈が違っていたと気付く。カタログなどを読んでも、確かに監督は「人が誰かを愛する過程」と「それがどういうことなのか」を描いたと言っているが、うーんそんなテーマだとしたら、(こんなことを言うのは差別的かもしれないが)男性的だなぁ、甘いなぁ、と思った。まあ、そんなふうに思ったのはラストだけで、それ以外は、女性(妻)が妊娠していようが、子どもを産もうが、そういう状況と男女の関係を全く切り離し、夫婦や夫婦のまわりの人間たちの「固対固」の関係に的を絞った描写が非常に新鮮で、面白いと感じた。ムン・ソリのすごさはもちろんだが、相手役のキム・テウもすごく良い。でも、あんなリアルな人間関係を2度は見たくない気がする。見た人は誰もが、胃の腑の重くなる思いがしたんじゃないかと思う。……でも、監督意図どおり、(ラストを、ある意味での到達点として)愛にたどり着く過程を描いていると思えば、作品全体の見え方も変わってくるのだろう。自分は監督意図とは別の見方をする方が、殺伐とはしてしまうがぐっと興味深いと思った。

『地獄』。中川信夫監督。日本映画。1960年作品。おなじみの、閻魔様がいて、業火が燃えたぎり、血の池があり、賽の河原のある、あの地獄を描いた後半よりも、登場人物が地獄に落ちる因果を描く前半の、人の世の生臭さ、はかなさ、冥さの方が、まさに「地獄」といった感のあるカルトな作品。ぜひ『思春の泉』とともにぜひDVD化してほしい(笑)→追記:DVD化されている。今回のフィルメックスでは『私刑(リンチ)』と合わせて3本の中川作品を見たが、たった3本でも同じ監督の作品とは思えないこのジャンルと表現の幅広さは何なんだ。主人公の清水四郎(天地茂)を、悪魔のささやきで地獄へ誘う大学のクラスメイトの田村(沼田曜一)が素敵♪ 地獄という概念は人間が本来持っている罪の意識を救済するために人が生み出した概念で、だから、どの宗教にも必ず地獄思想があると、映画の冒頭、主人公清水の学ぶ大学の教授(清水の婚約者の父でもある)が講義で述べる言葉が印象的だ。しかし、三ツ矢歌子って、あんなに可愛かったんだ~。びっくりだ。 追記:中川信夫監督の作品は、2006年2月のベルリン国際映画祭のForumで特集上映される。

『落ちる人』。フレッド・ケレメン監督。ドイツ/ラトビア映画。2005年作品。中川監督の『地獄』を見た直後、フィルムセンターから急ぎ足で朝日ホールに向かったのだが、上映開始に間に合わず、肝心の冒頭の人が「落ちる」部分を見逃す。しかし、ほとんど『地獄』の続きとも思えるような、これまた因果がめぐる不思議な話で、しかも「落ちる」がキーワード。落ちる先は地獄かもしれないし、日常かもしれない。そんな意味でも面白かった。河から身投げをする女性を目撃した文書保管所の事務員が、見ず知らずの彼女の身投げの原因を探っていくという映画。Q&Aの中で監督が語っていた「落ちる」に関してと、なぜ警察でも探偵でもない男が事件を追っていくのかについての話が、作品をほとんど言い表していたように思う。「落ちる」とは女性の身投げを指すだけではなく、登場人物すべてが今の状況から別の状況に落ちていく(あるいは「落ち着く」)と言えるのだそうで、ある者の落ちゆく先は死という無の世界であり、ある者の落ちつく先は家族の元であり、おる者が落ちた後は日常に戻る。

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2006.01.10

BROKEBACK has Mormon mountain to climb

「ブロークバック・マウンテン」を上映中止 ユタ州の映画館(CNN)

きのうあたりから沢山出ているニュース。日本語を発見。

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ことし最初の見世物小屋へ

ということで、何も書かずにすっかりバカになっている頭で、見た映画の雑感を並べてみます。

●『ロード・オブ・ウォー』(@地元シネコン)。――やっと見た。もともとは、『アレキサンダー』でヘファイスティオンを演じたジャレッド・レトの出演作(武器商人である主人公ユーリー・オルロフ(ニコラス・ケイジ)の弟ヴィタリー役)という意味での興味だっが、作品は強烈に皮肉の効いた社会派エンタテイメントで、その意味で資金調達の苦労などもあったというが、鳴り物入りのブロックバスターの興業が今ひとつ伸びない米国映画の中で、社会派作品が少しずつ脚光を浴び出しているというこのところの、まさに時流の作品の1つと言える。主人公は、「武器商人」の持つイメージを上手く戯画化したキャラクターで、しかもリアルに人間臭く描かれている。実際、(ステレオタイプな連想で申し訳ないが)笑うせえるすまんよろしく、アタッシュケースにダークスーツで、一国の要人にサシで「商品」を売り込むために身体1つで世界を飛び歩く、絵に描いたような「商人」なんているわけないだろうに、まさか……。でも、それはそれ。主人公のユーリーが武器セールスマンとなるいきさつは、「オルロフ家サーガ」として物語れそうなほどしっかりしているし、彼の職業へのスタンスや、家庭人としてのあり方、「平和的」で近視眼的現実的な性格描写は、そんな彼の仕事を必要とし、需要も供給もある巨大な世界(=戦争の火種の絶えない世界)を強烈なアイロニーで彩っている。世界の戦場を股にかける商人が登場し、結末もでかいことを言っている割には、映画としてはプライベートなサスペンス物の趣きだが、ウクライナのエピソードやアフリカでの自家用飛行機のエピソードあたり、迫力もあり、非常にコワ面白かった。ジャレッド・レトはタイプキャストというか何というか、まあイメージどおりの役どころですが、コック姿もかわいくて、出演作としても全く悪くないし、良かったんじゃないすか?(やっぱり、兄にすがる病院行きの車中とか、注目しなきゃいけませんかね?)

●『秘密のかけら』(@シャンテ)。やはり、秘密は秘密であり、秘密にしたい人間がいる以上、暴いてはいけないのだ。自分はそう思った。もちろんそれは、プライバシーの話。社会的に暴かれなければいけないものは、公にすべきだろう。原題(原作タイトル)は"Where The True Lies"。日本語にすると「真実のありか」なんだそうだ。「秘密のかけら」でも「真実のありか」でも何でもいいが、それを探していたのがヒロイン、アリソン・ローマン演じるジャーナリスト志望の教員カレン・オコナー。彼女が、自身のアイドルだった1950年代ハリウッドのエンターテイナー、ラニー・モリス(ケビン・ベーコン)とヴィンス・コリンズ(コリン・ファース)のコンビにまつわる殺人事件のなぞを究明し出版しようと画策するというサスペンス映画。あけすけな人々、あけすけなセックス、あけすけな死体、あけすけな薬物依存が、そのえげつなさを忘れさせてくれるほど美しい画面、まるでラニーとヴィンスのステージのようにきらびやかに美しく演出されて差し出される。でも、出演者に対する興味もなく、監督の趣味とも合わない人には、絶対的に「長い」1時間48分に違いない。ヒロインのアリソン・ローマンは、自分は『ホワイト・オランダー』で見て以来だったが、20代半ばにしてあの童顔の、トレンチ・コートでヒールはいてもアイリス(ジョディ・フォスターin『タクシー・ドライバー』)にしか見えないヤバい感じは、この映画にはうまく作用していたと思う。彼女の2つのベッド・シーン、監督の十八番なんだろうが、本当に美しかった。原作は、全編コミカルなタッチで、しかもどうやらハッピーエンドなのだと言うが、映画のこのラストの、にがいような苦しいような安堵のような諦めのような「不味い」感じは、アトム・エゴヤンならではの期待にそうもの。展開そのものが、なぞ解きよりも、虚像が壊れては生き続けられない芸能界の人々の、スポットの当たってしまった人生の中の特殊な心理状態と、本当の自分とイメージの自分に引き裂かれていく人間のどうしようもないありように焦点が当てられているからだろう。コリン・ファースより、ケヴィン・ベーコンの方が色っぽいし、ぐっとおいしい役どころだが、コリンは静かに作品を支えたと思う。ヴィンスのラストシーンは、冒頭のショーのシーン(および暴力シーン)を振り返るとぐっと切ない。

●『ブレイキング・ニュース』(@シアターN渋谷)。『ロード・オブ・ウォー』同様に、情報操作を行う当局をシニカルに描いて見せた作品だが、こちらは社会的な問題意識など大してなさそうだ。もちろん『ミッション』同様の美意識と、『PTU』同様のユーモアは健在。ケリー・チャンも、『インファナル・アフェア』のお飾り系の女医役より、かわいそうなぐらい面白くてよかったんじゃないかと……。結局は、強盗さんと殺し屋さんの「火事場」のお料理シーンを、ほろりほっこり描きたかったのかね、ジョニー・トー。いやだ、いやだと思いながらも、映画としてあまりにかっこよく、酔わされてしまうので、ついつい見てしまうのであった。でも、今回結構穴が……。

映画館まわりついでに、『白バラの祈り-ゾフィー・ショル、最後の日々』と『変態村』と『ブロークバック・マウンテン』の前売りを買いました。各作品ともポストカードがおまけだったのですが、BBMはA4に近い巨大なサイズのはがきでした(図柄は、あの帽子をかぶってうつむいた2人のおなじみのもの)。せっかくシアターN渋谷に行ったのに、『ホテル・ルワンダ』の前売りを買い忘れました。

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2005.12.18

05年私のアジア映画ベストワン投票

アジア映画ファンなら多くの人が知っている、毎日インタラクティブの紀平重成氏の「銀幕閑話」で、「05年私のアジア映画ベストワン」のメールでの投票が呼びかけられている(1月3日締め切り)。

記事をご覧いただければおわかりのように、「あくまでも1本。地域は東の日本から西のトルコまで。また公開作品だけでなく、映画祭の上映作品も加えます。コンペのある大きな映画祭だけでなく「韓流シネマ・フェスティバル2005」のような特集イベントの作品もOKです」とのこと。

うーーん、「1本」と言われると、今頭に浮かぶのはアジア圏の映画じゃないんだけどなぁ。

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2005.12.13

Critics Love BBM

"断背山"こと『ブロークバック・マウンテン』は、12月9日にニューヨーク、ロサンゼルス、サンフランシスコの3都市の5館で小規模に限定公開されたが、LA批評家協会賞から始まって、American Film Instituteの2005年のMOVIES OF THE YEAR の10本にも選ばれ、ボストン批評家協会賞、そして歴史あるNY批評家協会賞(作品賞、監督賞、主演男優賞(ヒース・レジャー))もとり、アカデミー賞まで続いていく米国の賞レースの本命作品となってしまった。まだまだ賞はあるので、これからも何かニュースが聞けるに違いない。封切直後の週末で54万ドルを超えた興行成績も、R指定のアメリカ映画のアベレージとしては新記録だそうだ(→台湾聯合晩報)。「混んでて入れなかったよ」という書き込みを、向こうのblogでも目にしたし……。このあたりのことは「オスカーノユクエ」さんが詳しく書いてくださっている。特に作品内容に触れた部分、なるほどと納得。
(※)ちなみにNY批評家協会は、外国語映画賞と撮影賞に『2046』を選んでいる。

作品賞に《Good Night, and Good Luck》を選んだ全米映画評論委員会(The National Board of Review)では、監督賞(李安)と助演男優賞(ジェイク・ギレンホール)を獲得→記事。なおここでは、助演女優賞は『SAYURI』の鞏俐(コン・リー)、新人女優賞は《The New World》で、ポカホンタスとして14歳にしてコリン・ファレルと情熱的なラブシーンを演じリテイクを食らったと言われる Q'Orianka Kilcher(でもきっとコリン・ファレルのせいだろう(笑))。で、最も気になる作品が、主演女優賞をとったフェリシティ・ハフマンの《Transamerica》。日本では見られるか?

さらに、サンフランシスコ批評家協会賞(作品賞/監督賞/主演男優賞)も。


"断背山"は来週以降全米各地で公開され、オーストラリアでは1月、また台湾でも1月に公開予定。日本は3月に渋谷のシネマライズ、新宿武蔵野館、シネリーブル系などで公開予定とのこと。
(リンクはワイズポリシー(NEWSページ参照))


そんな中、こんな苦い記事も書かれていた
  →"A "Mountain" of Uncomfortable Laughter"。

これは作品評ではなくコラムである。筆者が『シリアナ』の上映館で、BBMの予告編上映のときに聞いた笑い声――主人公たちの抱擁の場面で劇場内に広がった笑いを耳にした体験から書き起こされた、ちょっとしたコラムである。

記事のタイトルを見たときに、米国での『アレキサンダー』の上映時(といっても必ず全ての劇場でというわけではないだろうが)、幾つかのシリアスな場面で笑いが起こったという、ファンにとっては非常に辛い話を思い出したが、この記事の中でショックだったのは、笑いが起こったということだけではない。

この劇場で上映されていた『シリアナ』(スティーブン・ギャガン監督、ジョージ・クルーニー、マット・デイモン主演、日本では2006年2月公開予定)は、アメリカの石油産業と中東情勢、先進国で起こるテロなどを一連のものとして告発した社会派のハードな作品で、決して単なる娯楽作品ではない。そういう映画を選んで見に来る観客たち――しかも、保守層の多い地域ではなく、住民の90%が大統領選で反ブッシュ票を投じたという圧倒的にリベラルなエリアにある劇場の観客たちが、見るつもりのなかった男性同士のラブシーンのワンショットに反射的に笑ったのだという。……「道のりは遠い」と筆者は書いている。

もちろん、カナダでの11月の試写でも出演俳優はとても良い感触を得たようだし、プロデューサーの非常に鷹揚な態度も頼もしい。ちょっとした記事だから軽くまとめらている感じだが、だかしかし、考えさせらるところは多い。いや日本だったら、笑いという情動よりは、しーんと白けちゃったりするんじゃないかと、『アレキサンダー』に来ていた高齢の男性客層なんかを思い浮かべて想像したりする……。米国でも日本でも、映画本編を見る人たちは、『アレキサンダー』と違い、映画の内容をある程度知って見にくるわけだから、笑いも白けもしないだろう。このあたりはBBMの強みだ。嫌な人は最初から見に来ないだろうから。でも、だからこそ「見に来ない人」たちにも見せてしまう予告編への「ナマなリアクション」が、「劇場中に広く巻き起こった笑い」だったなら、それは、作品を愛する人たちや笑わない側にいる(という言い方はあまりよくないかもしれないが)すべての人々にとって、何と言うか、やはり確かに――厳しいと言えば日常はもっと厳しいし、うんざりするとも言えるし、がっかりしたと言っても期待していたわけではないし――記事のとおり、"Unconfortable" としか言いようがないのかもしれない。

記録を打ち破るほどの興行成績といっても、今の規模はミニシアター公開に毛の生えた程度のものなのだろう。映画ファンと批評家たちに支えられた芳しい評判が、これから広い範囲で様々な層に見られていくにしたがい、作品への評価とは別の部分で、人々にどう受けとめられていくのか。(必ずや存在する「アンチ」の人々の影を見つけるにつけ)、ひっそりと騒がずに、原作者の小説のように静かに、動向を気にかけていようと思う。自分の「受け止める」順番が来るまで。(いやあ、もう、賞レースの結果は追っかけたくないですし……)


(おまけ)
"断背山"のことを考えていて、どうしても考えてしまい見てみたのだが――内容は全く関係ない――ピーター・レフコートのサイトがある。そこに彼は、ファンからしばしば受ける『ニ遊間の恋』の映画化に対する質問に関して、簡単な文章をアップしている。映画化のチャンスは、出版から現在に至るまで4回ほどあったそうだ。しかし、いまだ実現しないことを例えて、自分は父親のようだと、魅力的で始終デートに誘われてはいるが、なかなか結婚しない娘を持っている父親のような気分だと言っている。でも、まだ遅すぎはしない、と。(ここで、読者も深~く、うなずいた)

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2005.12.11

ロサンゼルス批評家協会賞

bbm_dt2005年のロサンゼルス批評家協会賞が発表に。作品賞が『ブロークバック・マウンテン』、監督賞も同作で李安(アン・リー)に決定した(李安の作品は『グリーン・デスティニー』もこの作品賞を受賞している)。ほかは、主演男優賞が『カポーティ』のフィリップ・シーモア・ホフマン(ヒース・レジャーが次点)、主演女優賞は《Down to the Bone》のヴェラ・ファーミガ、助演男優賞はウィリアム・ハート(『ヒストリー・オブ・バイオレンス』)、助演女優賞はキャサリン・キーナー(《The 40-Year-Old Virgin》、『カポーティ』、《The Ballad of Jack and Rose》、『ザ・インタープリター』)。また美術賞(Production Design)は『2046』で張叔平(ウィリアム・チョン)、外国語映画賞は、この間ヨーロッパ映画賞でも作品賞を受賞していた《CACHE》(ちなみに外国語映画賞の次点も『2046』)。→2005年LA批評家協会賞

"断背山"の評判は、賛否両論というが総じて良いものが多い感じを受ける。大作のような大々的な公開ではないということだし、アメリカでは封切り時点では『SAYURI』の方が上映館数は多いらしいが、お客さんの入りも悪くないようだ。『アレキサンダー』も楚々とした公開のインディーズ映画だったりしたら、それなりなカルト作として面白がられたりして受け入れられたんだろうかとか、また失った子どもの年齢を勘定するようなことを考えたりして……(泣笑)。映画評論家によるキネマ旬報のヴェネチアレポートには、そつのない造りの李安よりも、(当初監督として名前の挙がっていた)個性の強いガス・ヴァン・サントで見たかったという評もあった。ヴェネチアではことしは全体的に作品のレベルが低かったのだなどという噂もあるが、ヴェネチアもLA批評家協会賞も獲ったということは、"断背山"が一般の観客にも批評家筋にもある程度の満足をもたらすバランスのとれた作品であるということなのだろう。そういえばエニスの妻を演じる、ミシェル・ウィリアムズって、『ランド・オブ・プレンティ』の主演女優ではないか……ときょう初めて気付いたバカである。それから、当初ガス・ヴァン・サントとともに映画化に興味を示していたというもう1人の映画監督ジョエル・シューマッカーが監督していたら、どこかの海外サイトで冗談(?)のようにつくられている画像のように、コリン・ファレル&ジョシュ・ハートネット主演だったりしただろうか、などと思う……。

で、ブッシュも夫人とともに見たという(笑)→Unconfirmed Sorces ("Unconfirmed Sorces"というサイトの記事なのでUnconfirmedですよね?)

単なる映画評ではないけれど、この辺も気になった。上の小さい画像はTelegraphのサイトの記事より。

と、ところで……ちょっと前のニュースですが、テネイシャスD映画化って(ウーさん、どうなの?)。


【追記】
E・アニー・プルーの公式サイトで、原作者本人が"断背山"公開に伴うインタビューぜめにキレて、「もうインタビューは受けない」との声明とともに、FAQとして、親切にも(始終聞かれてうんざりしたであろう質問に)すばらしい答えを載せてくれている。特に最後に書かれている、最初に映画を見たときの感想が嬉しい。小説そのものの淡々とした語調で、映画化に対し、いかに自分が描いた世界が損なわれるのが恐ろしかったかを書いている(語っている)。でも、映画を見たらびっくりしたと。そんな自分の心配したようなことは全くなくて、むしろジャックとエニスという登場人物、自分の想像力から生まれた2人の人間への、もうずっと過去のものになっていると思い込んでいた想い(愛情)がよみがえってきて驚いたと……。自分はアメリカで最初の、小説世界が完全に無傷で映画化された原作者かもしれない、というようなことすら言っている。いや~これは、迷っていた映画本(洋書)も欲しくなってきた。脚本家のエッセイなどのほかに、彼女のコメントも載っているということで……。(原作本はついに先週発注済み、ああ)

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2005.12.04

イスマイル・マーチャント最終作

先ごろ亡くなったマーチャント・アイヴォリー・プロダクションのプロデューサー、イスマイル・マーチャントの最後のプロデュース作品でJ・アイヴォリー監督作《The White Countess》がもうすぐ公開される。1930年代の上海が舞台でカズオ・イシグロが脚本を書き、主演はレイフ・ファインズ、真田広之も出ているという作品だが、いや~、何と撮影が、クリストファー・ドイル&黎耀輝なのである。トレイラーを見ると、すっかりアイヴォリー映画になっているが、映像面でも楽しみである。カズオ・イシグロ脚本ではあるけれど、特に小説の映画化ではなさそうで、マーチャント・アイヴォリー企画のオリジナル脚本らしい。日本でも来年公開(?)。

ツボヤキ日記さんで大変詳しくレビューされてます。

ソニー・ピクチャーズ・クラシックスといえば、あちこちで話題のキリアン・マーフィが女装でがんばる(?)あの《Breakfast on Pluto》もここだっけ。

すみません、内容なくて……。

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2005.11.22

ファザー、サン 公開決定

きょうは『霧笛』を見てきたのだが、ちょっと自分のせいでショックなことがあり、あまり映画に身が入らず。何も書けません。反省。(昨日見た『サグァ』はすごかったので、後で何か書ければ書いてみたい)

さて、まだリンクも何もないですが、パンドラのHP(新着情報参照)によると

●アレクサンドル・ソクーロフ監督作品「ファザー、サン」 2006年初夏、ユーロスペースにて公開決定!!

だそう。やった~。あの、フィルメックスの日本語字幕付きで見てさえも何だかわからなかった、全編映像詩と言えるようなひたすら美しい映像と、ひたすら美しい父ばかりが印象に残っているくだんの作品に再びチャレンジできるとは、この上なき幸せ。


【追記】(2005/11/23)
米国での公開を12月9日に控え、ずっとComingSoon状態だった『ブロークバック・マウンテン』のサイトがオープンしたよう。カントリー満載の音楽も良いし、壁紙がまた……。会社PCの壁紙は、サリッサひしめく美しい大王軍の遠景から、ジャックのシャツになるのか?

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2005.11.21

色とりどり

20日。東京フィルメックス2日目はすべて違う毛色の映画で、見応え抜群の1日。どの作品も最初は平凡な印象なのに、見ているうちに「何だかわからないが、今、自分はすごいものを見ている!」と興奮した。 ん? それは映画祭レートだよって?

『思春の泉』。中川信夫監督。1953年作品。こんな映画である(←いいかげんにしろ)。原作は石坂洋次郎の『草を刈る娘』で、1961年には吉永小百合と浜田光夫でも映画化されたという(いや、吉永小百合では都会的過ぎるでしょう、これは)。文学の香り高いラブコメディ……というより嫁取り話の喜劇。見終わるや、顔も心もスーパーにこにこ状態になってしまう大変気持ち良い作品で、単純な話なので『私刑(リンチ)』のようなトンデモな部分は残念ながらない。お目当ての左幸子は撮影時には22~23歳のはずだが、見事に18歳の快活な「生娘」を演じている。一方、相手役の宇津井健(やはり当時21~22歳のはず)は、范植偉ファン必見と言えるぐらい(下手さまで(?))小偉を思い起こさせられて楽しかった。上目遣いの表情やら、髪の硬そうなところやら、1人で立っているだけで絵になってしまうあたりやら、今ひとつはっきりしない台詞やら……。ただし宇津井健の方が大柄な感じだ。彼らの縁組の仕掛け人である2人の「おばあ」たちや、騒動をしずめ映画を締めくくる村の駐在さんや、物売りの男や、村唯一の芸者さんといった登場人物がみな、人情に溢れ良い味を出している。劇中何度かモヨ子(左幸子)が語る人生観が、若い女性のそれとしては今では考えられないもので、それはそれは新鮮で興味深かった。彼女の夢は、結婚して、一生懸命働いて、たくさん子どもを産んで、身体の中の子種を全て産み出して、からからっとさっぱりした年寄りになったら、縁側で煙草をやり、どぶろくなども飲んで楽しく過ごすというもの。煙草は年寄りになるまでは喫わないという。「なんぼでも働く」という台詞が何度かでてくる。彼らにとってはきっと、「働いて金を貯めること」ではなく「一生懸命働くこと」それ自体が、人として価値あることであり、生きる意味でもあるのだろう。自分の祖父母や父母の世代の多くが持っていた価値観だ。ところが、相手役の時造(宇津井健)は違う。少し「目覚めた」人で、子どもをたくさん持つよりは、人数を絞って「丁寧に」育てることの方が大切だと考えているし、農業にしても「ただ働いてただつくる」のではなく、いろいろな農産物をつくり「経営」ということを考えるべきだと思っている。2人が夢を語り合うシーンは、きっと原作にあるに違いない文学的な台詞が飛び出して面白い。古典的な田舎の風習、生活、人々の考え方は、まだ少数派である時造の考えるような方向に徐々に転換していくのだろう。それが幸せなのか不幸せなのかはわからないが……。あっけらかんとした心温まる喜劇のベースに、そんな大きな視点の見える作品だ。ラストシーンで、モヨ子が時造からもらった貴金属製のライターを愛しそうに持っている。村の者はほかには誰も持っていないそのライターは、とにかくやってくるだろう新しい時代の始まり象徴しているかのようだった。

『SPL<殺破狼>』。葉偉信(ウィルソン・イップ)監督。香港映画。2005年作品。監督のメッセージの中の「男の映画です」というのに最初から大変引っかかったが、本当に素晴らしいそして古臭い「男」の映画だった。サモ・ハンも、ドニー・イエンも、サイモン・ヤムも、まあ色っぽいこと、色っぽいこと。格闘シーンも、(自分にとってかつてないことだが)身を乗り出して見るほど見応えのあるもので、というか……そこだけだよ、見どころは。で、監督曰く「父の日に考えた」映画だというのが、成り立ちからして既にうさん臭い。妻は家で待つだけ。子どもは電話で「パパ帰ってきて」と言うだけ。男は「パパは仕事で帰れないんだ」と言うだけ。これが2005年の映画か? 男の美学? 男の友情? 笑わせるなよ、と。半端な考えで「家族」を出すぐらいなら、いっそ一切出さなきゃ『シルミド』になれたのに(笑)。こんなストーリー、今つくる意味がさっぱりわかりません(怒)。……と言いつつ、ラストの2つのドニー・イエンの格闘シーン(サモ・ハンの部下の刃物男との格闘&サモ・ハンとの格闘)と、サイモン・ヤムがいぢめられて顔をゆがめる場面を見るためだったら、何度でも見る見るぅ(←バカ)。

『マジシャンズ』。ソン・イルゴン監督。韓国映画。2005年作品。 95分ワンカットで撮影というのが最も大きな話題の「命日」映画。「マジシャンズ・カフェ」だったか、元バンドのドラマーが雪深い山中でやっている店に、大晦日の晩に元メンバーたちが集まり、3年前の同じ日に投身自殺したメンバーのギタリストの女性を悼む話で、彼女の死以来ぎくしゃくしている人間関係、沈みがちな日々、癒えない傷を語りながら、少しずつ自分の人生を取り戻していくという、前回の『スパイダー・フォレスト/懺悔』とは違うタイプの映画である。結果的に外へ向かっていくか、内へ向かっていくかという違いだけで、人の心の中を掘り進んでいくということや、死というものが大きな影を落としているという意味では、やはり同じテーマであるとも言えるかもしれない。隣の席で見ていた知らないお兄さんが、その隣の連れのお兄さんに「演劇的だ」と語っていたが、カットなしに台詞で組み立てていく芝居なだけに、当然舞台を見ているような感じを受ける。美術や色彩の美しさは、さすがソン・イルゴン作品だ。監督の言うとおり、僧侶が出てきてからの会話の間(ま)など、非常にユーモラスで笑わせていただいた。早くも公開が決まっているそうだが、後味もいいし、ロマンチックだし、これは(ソン・イルゴン作品にしては)意外といけるんじゃないかと思う。小づくりな話が大好きなこともあるが、命日で僧侶でしかも軽妙さを持っている映画とあらば、自分的にはお気に入り登録必至。アイディアと、撮影における多大な努力と熱意と、若いのに渋い俳優の演技の魅力の勝利と言おうか……。

『あひるを背負った少年』。應亮(イン・リャン)監督。中国映画。2005年作品。デジタルビデオ撮影の作品なので、見たとたんにデジタルビデオ撮影とわかる、ぼやけた画面。特に美しい景色が写るわけでもない。「結末」もこれでは問題があるだろう。でも、こういうプリミティブなパワーを感じさせる作品に出会い、頭を殴られたような衝撃を受けるのが、フィルメックスという映画祭の面白さ。いや、びっくりしました(フィルメックスのカタログどおりの感想で恥ずかしいが、そうとしか言いようがないのだ!)。四川省の農村の少年が背にあひるを詰めたかごを背負って、都会に出稼ぎに出かけた父親を探しにいくという話なのだが、もう、そんな『山の郵便配達』的絵葉書映画とは全く違う、「作者」の強い気持ちを感じさせる映画だった。ジャ・ジャンクーでもまだまだ綺麗。(続きはまた後で訂正更新します……すみません)

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2005.11.20

フィルメックスに追いつかれる

TIFF関連で見た映画のたった1本の感想を書きかけているうちに、東京フィルメックスが始まった。フィルメックスは作品セレクトの重点が芸術性・作家性の高さにあるため、見た作品が自分に合えば猛烈に「はまる」し、逆に自分には合わなくて「は?」としか思えない作品にも出会う。それでもとにかく、びっくりさせられる作品が多く刺激的な映画祭である。

ということで、今回も雑感で終わってしまいそうな情けない予感がするが、感想を一節。

『私刑(リンチ)』。中川信夫監督。1949年作品。こんな映画である(←手抜きだよ)。今ひとつ穴のあるヘンな話で、うまい俳優さんも大してうまくない俳優さんも出ていて、チープな部分もあるのに、何でか面白く、何でか(映画的に)かっこよく、何でか安っぽいテレビドラマ的な