2008.01.23

本当なのか!

町山さんのサイトが第一報で、

ヒース・レジャーが死んでしまった!

検索してみたら、本当らしいんですけれども……。

「ご冥福を祈ります」などと書ける落ち着いた心境には、今はまだ至れません。

驚愕です。

2006.07.19

Lust, Caution(色,戒)

毎日チェックしていたわけではないので、既に出回っているニュースなのかも知れないけれど、李安(アン・リー)の次の作品(張愛玲の短編小説《色,戒》の映画化)のキャストが、梁朝偉(トニー・レオン)、大陸の新人女優、湯唯(タン・ウェイ)、王力宏(ワン・リーホン)らに決定したとのこと→TheHollywoodReporter

湯唯を中心に人間関係の絡まりあう、第二次大戦下上海を舞台にしたスパイ・サスペンス物で、梁朝偉が演じるのは大物政治家、王力宏は学生。湯唯は直接的には「若い女性」としか説明されていないが、「メイン・キャラクターは、日本政府のスパイをおとしいれ暗殺しようとする」とあり、もしかしたらそういう役なのかもしれない。(中国語のわかる方、検索すると出てきますので、原作を読んでみてください(←無責任))

プロデューサーはビル・コン、ジェームス・シェイマスは今回はエグゼクティブ・プロデューサーにまわる。原作を脚色するのは、『恋人たちの食卓』や『グリーン・デスティニー』の脚本家の1人である王蕙玲(ワン・フイリン←読みがあっているかどうか自信なし)。

梁朝偉はもちろん国際的な俳優だから説明するまでもないが、今回の発表で注目をあびたのは、何と言っても(たぶん)主演女優(であろう)湯唯だ。可能性を秘めた多芸な才人と、李安もジェームス・シェイマスもほめちぎっているが、実際彼女は、北京の名門、中央戯劇学院の「表演系」(演技コース)ではなく「導演系」(監督コース)を卒業しており、17歳でプロのモデルとして活躍し(?)、卒業後は舞台の演出や映画監督のほか、テレビドラマや舞台で女優としても活動しているのだそう→新浪網の記事

Tangwei彼女の写真を見ていたら、キャシー(リンダ・カーデリーニ)を思い出した、全然違うけど。(この画像も新浪網より)


※「allcinema ONLINE」で脚本家(王蕙玲)を調べていたら、別に深い場所でもなんでもなく普通~に出てきたのが、謎の李安脚本のテレビ作品『恋のトルティーヤ・スープ』。テレビドラマで、監督もマリア・リポルという人なのだが、オリジナル脚本が李安、ジェームス・シェイマスそして王蕙玲の3名の手によるもの。出演者だって、ラクエル・ウェルチぐらいしか、自分には名前のわかる人がいない……。何ですか、これ?

2006.05.24

The Movie's Most Famous Line

5月19日に発売された、香港の歌手・何韻詩(デニス・ホー)のニューアルバム"Our Time Has Come"に、黄偉文(ワイマン・ウォン)作詞の "願我可以學會放低[イ尓]" という曲が収められている。

実はこのタイトルは、『ブロークバック・マウンテン』で後半ジャック・ツイストが吐く、あの有名な苦しい台詞 "I wish I knew how to quit you" の意味だという。

'Brokeback Mountain' inspires pop song (Turkish Daily News (AP通信の報道に基づいた22日付のトルコ紙の記事))

リンクした記事は、米国同様"Brokeback"が流行語(隠語)化したほどの(広がりを見せた)香港にあって、タイトルのとおり、BBMに影響を受けた歌までが生まれたという簡単な内容だが、マスコミが面白がって安易に使用する"Brokeback"(斷背山)という言葉が、ゲイの人々に対する特別視を助長するものだとする声もあると締めくくる。

記事には、BBMを思い起こさせるような内容の歌詞の一部を英訳したものが紹介されている。著作権に触れるので原詞をここに書き写すわけにはいかないが、曲のタイトルで検索をかけると、歌詞全文を載せちゃっている香港(?)の個人サイトなども幾つかあるようなので、中文がわかる人は興味があったら探して見てみてください。(もちろん自分には読解不能。でも記事中の "I can't control myself, I have made too many mistakes because of you, I know if I look for you again I'll have to give up my happiness" が原詞ではどこにあたるのかは、何とかわかった……(笑))

試聴のできるサイトで曲の一部を聴いてみると、これがまた、あの台詞がこんな日向ぼっこのような呑気なテンポの歌になっていいんかい……というような常道中華ポップスモード。冒頭しか聴けなかったので、その先旋律がどう変わっていくか実際にはわからないが、とりあえず歌い上げ系の大バラードではなさそうな感じで、それだけはよかった、かもしれない。それにしても、見事に歌詞のイメージなどどこ吹く風の曲調である。救いは、デニス・ホーの可愛くて落ち着いた良い声かな?

2006.05.13

キスシーン賞最有力!?

"MTV Movie Awards 2006(MTVムービー・アワード2006)"の受賞者が6月3日に決定する。MTV主催で1992年から開催されているこの賞の面白いところは、すべて一般のファンの投票で決まるというところと、通常の作品賞や俳優の演技に対する賞のほかに、"Best Kiss(キスシーン賞)"とか"Best Villain(悪役賞)"とか"Best Frightened Performance(恐怖演技賞)"とか"Best Fight(バトル賞)"などという変わった賞のあるところ。

(詳しくは allcinema ONLINE の「MTVムービー・アワード」の解説ページ(トップページの左サイドバーのリンクより)などをご覧ください)

で、この賞のからみで米国のギャンブル情報サイトに、「『ブロークバック・マウンテン』、MTVキスシーン賞なるか?Can Brokeback Mountain take Best Kiss at this year's MTV Movie Awards?)」という記事が出た(笑)。なぜギャンブル情報サイトかというと、米国にはオンラインで賭けをオーダー(?)できるサイトがあるらしく(記事中にはそのウェブサイトへのリンクがある)、この賞も賭け対象となっており、オッズが発表になっているからである。(この賞に限らず、競馬とかスポーツといったよくある賭け対象のほか、『ダ・ヴィンチ・コード』の全米初登場のBOX OFFICEがどうなるかを賭けるものまで存在する)

リンクした記事にあるように、ことしの"MTV Movie Awards"の"Best Kiss(キスシーン賞)"のノミネート作のうち『ブロークバック・マウンテン』は、他の追随を許さず断トツの一番人気。記事の中からオッズの部分を書き出してみると……

ジェイク・ギレンホール&ヒース・レジャー~『ブロークバック・マウンテン』 / 1 to 6.67
タラジ・P・ヘンソン&テレンス・ハワード~《 Hustle & Flow 》 / 4 to 1
アナ・ファリス&クリス・マーケット~《 Just Friends 》 / 6 to 1
アンジェリーナ・ジョリー&ブラッド・ピット~『Mr. & Mrs. スミス』 / 6 to 1
ロザリオ・ドーソン&クライヴ・オーウェン~『シン・シティ』 / 4.5 to 1

ということなのだが、自分はこの右側のオッズの数字の見方がわからず、さっぱり意味不明だったので調べてみた。

BBMのジェイクとヒースのキス・シーンは "1 to 6.67"で、これは「 6.67賭けると1増える(もうかる) 」ということらしい。賭け金の単位は1ドルなのか100ドルなのかよくわからないが……。2番人気の《 Hustle & Flow 》のタラジ・P・ヘンソンとテレンス・ハワードのキスシーンは "4 to 1"で「1賭けると4増える(もうかる)」の意味。『シン・シティ』のロザリオ・ドーソンとクライブ・オーウェンのキス・シーンは "4.5 to 1"。「1賭けると4.5増える(もうかる)」わけで、大きな数字が先に来ている場合は、単純に大きな数字が「倍率」というイメージでいいようだ。逆にBBMのように1が先に来ているオッズは、非常に人気が高い(から賭けとしてはもうからりにくい)わけで、こんな数字にも、米国でBBMがいかに話題になったかがよく表れている。

ついでにすごく気になるのが、キス・シーンを演じている俳優の名前の表記順……。(だって、ほかの映画、みんな女優さんが先なんだよ。これ、どういう意味だよ。気にしすぎか?) MTVの公式サイトも同様の表記→Best Kiss。(リンクした公式ノミネートのページでは、各映画のキス・シーンが見られる)

ほかに"MTV Movie Awards 2006"では、BBMは"Best Performance(パフォーマンス賞)"でジェイク・ギレンホールがノミネートされている。作品賞にはノミネートされず、俳優部門もヒース・レジャーじゃないあたり、若い人たちの人気投票という色合いが強いというこの賞ならでは、ということか。面白いです。

※2006年の全部門のノミネート→MTV JAPAN.comのシネマニュース。(MTVの米公式サイトでは、投票もできる)

MTV JAPAN.comによると、授賞式は6月24日(土)22時~25時にMTVでオンエア予定とのこと。セクシー演技賞でノミネートされているジェシカ・アルバが司会を務めるというニュースも出ていた。セクシー演技賞には、ジェシカのほかに『SAYURI』でチャン・ツィイーもノミネートされている。個人的には、ヒーロー賞と悪役賞を『バットマン・ビギンズ』になどと思うが、このジャンルは強敵が多いから難しいところだろうなあ。

2006.04.02

断背山雑談2

数日前に、米国のサイト(ミニコミサイトだろうか?)に書かれた私的なコラムがかわいかった。

Understimating My Parents and Power of 'Brokeback Mountain'

遠くに住む老いた両親に、『ブロークバック・マウンテン』は見ないほうがいいと忠告した娘(たぶん)=書き手の心配をよそに、世間では何をそんなに騒いでいるのかとの好奇心で、映画を見にいってしまった80代(たぶん)の夫婦が娘に感想を語る、というちょっとした文章。

リンクした記事のタイトルは、「両親とBBMパワーを見くびってたよ~」というようなものだと……(違う?)。

実はこのタイトルの言葉は、娘が、かの映画を見るにあたり最も心配していた父親の鑑賞後の言葉でもある。母親に関してはさほど心配していなかったらしいが、父について書き手は、「80代の共和党支持者の心臓麻痺を誘発するきっかけになるようなことからは遠ざけておきたかった」とまで書いていたのだが……。

で、見にいってしまった母はといえば、"I love it" と軽く言ってのけ作品を絶賛。 "Those men were in love, no question about it" という言葉も素晴らしい。

彼女の、"the story-well it explained a lot of things for me" とは、この映画、人生経験が豊富だと、さらに受け取るものが多いということだろうか。

じっくりとして抑制された描き方も、ハイスピードの娯楽映画に慣れ生活ペースのめまぐるしい若者たちよりも、より上の年齢層に受け入れやすいのかもしれない。(もちろん、若い人たちには理解できないだろうなどと決め付けるつもりは毛頭ない)

そして真打、父の登場。

そりゃあ、ストレートに暮らしてきたリパブリカンであるからして、男同士が愛し合うというのを理解するのはきつい、見るに耐えない部分もある。でも、彼は言う。 

"but they really did care for one another, and that's what's important. It was about love and they couldn't express it, and it made their lives hell" 

しごくまっとうな感想。堂々たる理解力。さすが人生の熟達者である。また、これこそBBMという作品自体の力かもしれない。

続けて書き手の父は、記事のタイトルの言葉を言ったのである。「おまえは、おまえの父さんと母さんを過小評価しているよ」と。(オチもかわいくて笑えるので、読んでみてください)


日本では、そんな世間を騒がすようなことには全くなっておらず、このようなことはまず起きないのだろうと思う。オスカー(作品賞)をとっていれば……と、やはり思わざるを得ないのだ。自分が知る限り、日本で最も早くからBBMに注目し、BBMに最も深いこだわりを持ってきたあるサイト(←ブログではなく一般サイトなので、勝手にリンクできない)の書き手は、オスカーの授賞式直後に、アン・リーが監督賞をとったことの重みは「(同性愛を描いた)映画が作品賞を獲る重みにはかなわなかったはずだ」との言葉をサイトにアップした。


2週間ほど前だったか、親しかった高校時代の友人に通勤途中でばったり会い、たまたま持っていたプルー原作の文庫本を渡した。最も信頼する本の読み手でもあり、感服する随筆家の魂を持つ(普通の会社員の)友人なので上げてしまったのだが、すぐにメールが送られてきた。

メールは「久しぶりに力強く泥臭い、野性味のある文章。情景や匂いや登場人物が(女は除外して) 立ちのぼるような描写。短編でこれほどの圧倒的な存在感……(後略)」という書き出しの感想だった。

折り返しこちらも、スパムのような、原作と映画制作からアメリカでの騒ぎ、そしてオスカーの経緯までを書いた長文の迷惑メールを送りつける。もちろん、「(子育てで忙しいだろうが)時間を見つけて映画を見てほしい」と。

小説を気に入ってくれた様子の彼女は、映画を見てみると言ってくれた。でもメールの中には、こんな言葉があった。

「『ブロークバック・マウンテン』 と同時に、『クラッシュ』も観てみようと思います。どうして作品賞が取れなかったのか、『クラッシュ』にあって「ブロークバック」にないもの。「ブロークバック」にあり、多くの人々に支持され、「『ブロークバック・マウンテン』が作品賞を取らなかった年」と言わしめたもの。(オスカーの決定に政治的なものが絡んでいるのかどうかはわかりませんが)」

自分のメールには、『クラッシュ』については、「作品賞は『クラッシュ』がとった」と書いただけだ。特に映画ファンでもなく仕事と家庭に忙しい中、『クラッシュ』の内容はおろか、恐らくは作品名も知らなかっただろう彼女に、『クラッシュ』も見てみようと思わせてしまう、「作品賞をとったんだから、何か特別なものがあるんだろう」と思わせてしまう、そういうものがあの賞にはあるのだろう。何度も言っているけれど、本当の作品の価値とは全く別の部分で。

日本では、(「マスコミが取り上げないからね」という程度の意味で)話題性の部分が弱い以上、「オスカーをとった作品だから見にいこう」という層を失ったのは、やはり痛いよね(←しつこい?)。


(余談)
ちなみに、NHKで放映したアカデミー賞授賞式のダイジェストをテレビで一緒に見ていた自分の父親は、BBMの紹介シーンが来るとテレビの前から何気なく姿を消していた。まあ、男女のラブシーンでもチャンネルを変える男だからして、不思議はない。授賞式の流れと話題の振られ方で何か感じたのか、最後の作品賞の発表の前に「どうせアレだろう」と否定的な声音で小さくつぶやいたのだが、『クラッシュ』との発表を聞いて、まるで孫が生まれたかのように、「そうか『クラッシュ』か!」と明るい声を出した。『クラッシュ』なんか見ているわけでもないのに、おやぢ……。

(でも『クラッシュ』は好きだ。最も印象的だったのは後半の、若い警官が車中で同乗していたアフリカ系アメリカンを撃ってしまうくだり。そこで、なぜかイニスを思い出した。嫌悪や抑圧は外から来るのではなく、個々の心の中に植えつけられ、それが悲劇を生むのだと……(これは先に書いた、BBMに関して日本で最もこだわりを持っているところの1つであると自分が信じているサイトの書き手の方が言っていたことなのが)。あの映画の数々のエピソードのうちの1つを、1人の人生に焦点を当て、じっくり長い時間をかけて追っていったら、それはBBMのようになったかもしれないと漠然と感じた。そういう意味では逆に、『クラッシュ』は物量作戦(数多くの人々の数多くのエピソードの積み上げ)で来たな……という感慨もなきにしもあらずだった。でもそういう街なんだろうね、あそこは……)

2006.03.16

断背山雑談

(近況に書きかけたが引越し)

もう、「その後」を日本語で報道してくれるところは Newsweek 日本版しかないのか。3月8日号に引き続き、3月22日号(15日発売)にBBMのオスカーの結果の記事

で、「YES」も発売に……。BBMの特集では、毎週火曜日の朝にTBSラジオで映画情報を語ってくれている今野雄二氏(BBM劇場販売パンフレットにも評を書かれていた映画評論家)が、いかにも「らしい」、優しい原作評を寄せられている。今野氏といえば、ラジオのBBMの回のときには、封切に合わせて、BBMとシリアナをガイドされたのだが、シリアナに比べてBBMを語る時間が余りに長く余りに熱く、司会の森本毅郎氏に揶揄されていたっけ……(笑)。

面白いのは、もう1人、同誌のBBM特集に映画について書かれているおなじみの北丸雄二氏も、文中で今野氏と同じ原作の一節を引用していること。例の最後のジャックの回想の「立ったまま眠る」あの場面だ。しかも北丸氏は、(映画評ということもあり)自身の言葉で原作のその箇所を訳されている。米塚氏の訳文と比べてみるのも一興。短いけれど、人によって訳す言葉はこんなに違うんだなぁと……。で、やはりあの場面は、あの小説の1つの核であるのだろう。

その「YES」に載っていたBBM雑学によると、ラストのシャツの重ね方は、ヒース・レジャーのアイディアだったそうなのだ。

でも自分は最近、それについてつまらぬ冗談を考えていた。それは……実は、イニスの生活は困窮していたため、トレイラーのクローゼットの中には、針金ハンガーが1本しかなかった、というもの。ジャックの形見のシャツを飾ってみたのは良いものの、自分のシャツをかけるところがなくなったので、仕方なく上に重ねてかけた、と。自分のを上にかけておけば、時折、着るのに簡単だし……(笑)。

(ああ、でも原作じゃあ、シャツは釘に引っ掛けていたという描写があったから、別に自分のシャツをかけるのにハンガーなんかいらないのか……)

プルーの、ワイオミングの風土のような厳しく荒涼たる小説の中の、さりげなく差し出された動かしがたい感情の断片を、よくぞあの映画はすくい上げ、あそこまでエモーショナルな作品に仕立て上げたなと、本を読んでいてつくづく思う。小説世界と映画の両方をどちらも享受できることは、何と幸せなことか。

多分、原作者のプルーだってそう思ったに違いない。(あの映画ができたことを)「幸せ」だと。だから、あの記事を書いたのだろう、またも世界中で物議をかもしているあの記事を……。

英文を普通に読める人なら何でもないことなのだろうが、辞書を引き引き読んでいる記憶力のおとろえつつある中年には、知らない言葉を1つ覚えるだけでも時間がかかる。でも、余りにあちこちのニュースやコラムでBBMの形容詞として見かけたため、最も早い段階で覚えた単語が、今やBBMの枕詞にようになってしまった "controversial " だった。静かな小説世界とは裏腹に、どこまでも controversial なBBM周辺である。

2006.03.12

断背山雑感3

(ただの雑感ですが、映画の内容に触れていますので、未見の方はパスした方がいいです。やはりあまり情報をいれずに、一度は自分の心で自分の感じ方で見る方が、映画は心に残るかと……。大きなお世話ですが)

実を言うとまだ、原作を駆け足で一度読んだきりだし、映画館で買ったパンフレットも、雑誌も読み終えていなし、スクリプトなど見てもいない。

もともと孤独な人間が孤独に生きる話が好きだ。1人でもいいのだと、安心するから。

だから自分には、『ブロークバック・マウンテン』も原作どおり、孤独な男の回想の物語に過ぎない。孤独で、そして彼の両親がたった1つしかない曲がり角を曲がりきれずに事故で亡くなったのと同じように、不運で不器用で臆病な男の胸の中の思い出話だ。

1人暮らしの中年男の主人公、イニス・デルマーが、ラストシーン直前、結婚を知らせにきた長女アルマ・ジュニアの忘れていったセーターをたたむ。彼のそれまでの粗野で朴訥な雰囲気と裏腹な几帳面さで、丁寧に……。そんな場面で何とはなしに浮かんでくるのは、若き日のブロークバック山での、黙々と料理をし、雨の日には木彫りの馬をつくる彼の姿であり、もう1人の主人公、ジャック・ツイストにすがるように身を寄せていた彼の姿である。イニスの本質はきっと、寡黙で強い西部の男などではなく、牧場で暮らす2人の男の一方が「処刑」されたのを見せられ恐怖した9歳のときそのままの、内気で細やかな神経を持った少年なのだろう。彼の人生は、周囲からの「男らしく」あることへの暗黙の期待と、自分を守るために進んで身につけたであろう「男らしさ」によって、鎖帷子のようにがんじがらめされ、ひたすら耐え続ける日々となった。

映画の始まりのイニスとジャックの出会いの舞台は、シグナルという町である。プルーの作品には、暗喩めいたおかしな固有名詞がよく登場するのだが、シグナルというのはのっけから象徴的だ。よくある「信号しか目印のないような」そんなところなのだろうか。それは、2人の運命の交差点であることを示したシグナル(信号)なのかもしれないし、その先の人生への警鐘(黄信号)だったかもしれない。いずれにせよ彼らは、シグナルで出会い、シグナルを越えて先へ進んだ。

映画の中盤は、むしろジャックのおおらかさが救いだろうか。ロデオ・クラウンや(これは後半になるだろうが)牧場経営者の男に、明らかに秋波を送っているあたりが面白い(でも、牧場経営者の男に「湖で釣りをしてウイスキーでも飲んで」と誘われる場面のジャックの瞳は、そのときに彼の心に去来したものを如実に映していた)。夫としての身勝手さばかりが連続するイニスの家庭の場面の苦しさとは対照的だ。実際のところ、イニスの夫としてのあり方は、「仕事人間」で家庭を顧みぬ夫という形で一般的におなじみの男性像である。しかも自身の精神的な無理が、不寛容という形で妻を圧迫する。デルマー家のシーンからは、DV、アルコール依存、幼児虐待、ネグレクトといった家庭の中で起こりうる様々な問題の根っこの一部が、うっすらと見えてくるような気がする。イニスの妻アルマを演じたミシェル・ウィリアムズの抑え目ながら感受性豊かな表情と演技は、とてもリアルで説得力があったと思う。

映画の後半は、特にイニスとジャックの会話の真意がいまだ自分にはすっきりと理解できない。きちんと原作を読み原書にあたり、スクリプトも読み、もう一度ぐらい映画を見にいったら、何か答えが得られるだろうか。中年にさしかかり、後悔と、いつも一緒にいられないことへの苛立ちで、イニスとジャックの間に少しずつ波風が立ちはじめる(自分にとっては難解な)あたりから、ラストに至るまで、ヒース・レジャーのイニスの演技は、痛いほどに見る者を引きつけて離さない。どんどん無口に、どんどん鈍い動きになり、その鈍重さが人生の重さすら感じさせる。米国の批評家が公開直後、マーロン・ブランドやショーン・ペンに匹敵すると評したことが心からうなずけるパフォーマンスだ。まさに、40代で老ビトー・コルレオーネを演じたブランドを思い起こさせる……。

映画のあと、同行の友人にラストシーンの台詞("Jack, I swear")について得意げに自分の解釈を語った記憶があるが、登場人物が話す言葉がそのまま日常感覚でわかる海外のファンの間でも、このラストの台詞をどう受けとめるかには様々な解釈があり、いまだに話題になっていることを知った。アニー・プルーの公式サイトのフォーラムでも、最後の台詞に対し「イニスが誓ったことは何なのか」というスレッドが立っている。原作と映画では、ラストの台詞の意味合いは違うようだが……。

自分の、初見での知ったかぶりな感想では、あの台詞は、イニスの娘の結婚報告に心理的な影響を受けた彼の、密やかな彼自身の結婚と同等の愛の誓いだというものだった。そう思ったのは、映画の流れと、日本語字幕の方向性と、単なる「単語の意味」的な語釈により、"I swear"が結婚の宣誓で使われる言葉なのではないかと推測したことによるものだった。後から調べて、(宣誓の言葉云々は)間違いだったとわかったが、それでも今でも、少なくとも映画では、イニスは自分の本当の心をあの言葉に乗せて初めて外に出したのだと、自分は信じている。

ジャックのシャツと絵葉書を飾り、愛を誓ったその場所はまた、恋人の死を悼む祭壇(日本で言うなら仏壇)めいても見える。ジャックの家から持ち帰った形見のシャツの上から自分のシャツを重ねたのは、もちろん彼の恋人に対する想いだろうが、ほかに誰もいないトレーラーハウスのクローゼットの中にあってまだ、自分の気持ちを隠そうとしたかのようにも思え、悲しかった。小さな絵葉書は、そこが彼の「リトル・ブロークバック」であることを示している。妻と子を失い、社会的に孤立し、2006年の現代でも「馬に乗っても誰にも会わない」ワイオミングの、おそらくは人里離れた場所に置いたトレーラーハウスの中でやっと、当の恋人すら失って初めて、彼は本当の自分と自分の恋を受け入れることができたのだ。

自分の中では「結婚」や「永遠の愛」などという概念が浮かぶことは余りないのだが、ちょうど少し前に『フロント・ランナー』(パトリシア・ネル・ウォーレン著)を読み返したばかりだった。そう、映画『ブロークバック・マウンテン』の成功で、お蔵入りしていたいくつかのゲイをテーマにしたベストセラー小説が再び映画の題材として脚光を浴びているという記事を読んでから……。

あの古典的な小説は(説明すべくもないのだが)、イニスとジャックの20年のちょうど折り返し点あたりの時代設定となる。ほぼ同時代と言っていいだろう、ワイオミングとは反対側、アメリカ大陸の東の端ニューヨークを中心としたゲイの人々の物語だ。その中で最も強烈に自分の頭に焼き付いていたのが、「人間としての尊厳と安定とを渇望するゲイの心情を、自分から理解できるストレートはほとんどいない」という一節(北丸雄二訳、第三書館発行の邦訳版より引用)――それは、主人公の結婚式の章の冒頭を飾るセンテンスだった。映画のラストの"Jack, I swear"を聞いたときに、そんないろいろな思いが湧き上がって、そして膝が震えたのだった。

社会的に祝福されない恋愛の純度が高まったとき、一般的な恋愛物語では、恋人たちの関係は外(社会)よりも内(相手)に向かい、世界は閉じて死の方向に歩み出すことが多い。文学の世界でも三文小説でも、比ぶべくもないが日本の演歌の不倫物の歌詞など、女が嘆いて泣き寝入りか、2人で死ぬか、そんなものばかりだ。

『ブロークバック・マウンテン』はもちろん、宗教的・文化的な背景と、原作者アニー・プルーの作風とがそうさせたのだろうが、主人公たちは、死などよりもずっと苦しい「生」を生きている。運命の風に吹かれればあっけなく飛ばされてなくなってしまうような、どうにもならない「生」を生きている。小説の読者も、映画の観客も、ヒロイックにならない主人公たちに深い共感を覚えるのに違いない。

恋人たちがヒロイックに愛をさけびながら、不可抗力に引き裂かれていく安っぽい純愛映画は、そりゃあ、お手軽に泣きたい人には素晴らしいアミューズメント・メディアだろう。でも、誰がどうしてこうなったという「ストーリー」ではなく、愛も欲望も猜疑心も喜びもいらだちも醜さも落胆も恐れもすべてさらし、失敗や敗北を通り過ぎながら、それでも生き想い続ける「人間の姿」を見せつけられるから、我々は共に映画の時間を生き、映画の外の自分の人生を歩き続ける勇気をもらうのだと思う。

2006.03.09

ワイオミング

(近況報告より引越し。ごめんなさい)

7日の晩、テレビ(NHKBS)の海外ニュースで、ワイオミングのどこにブロークバック山があるのかという海外テレビ局取材のニュースをやっていた。まあ、あれが架空の山であることは有名だが、あえて、おとぼけに取材をした番組で、実際、BROKEBACK山はないけれど、BROKENBACKという名前の牧場やら池やら山やらはあるらしい。

ワイオミングに映画館はほとんどなく、ワイオミングの人々のほとんどは劇場で当の映画を見ることはないだろうという。地元の人も、「映画が映画館でかかるまでに、テレビで3回ぐらい放映されるだろう」と話していた。

映画中の山岳風景はカナダで撮影されたものだが、ワイオミングに行けば、あの雄大な自然は確かに存在する。「馬に乗って歩いたって、人になど1人も出会わない」と地元の人が言う。そんなところだからこそ、唯一の彼らの「居場所」となりえたのだろう。行き場なきものの行き場とは、何と皮肉な場所なのだろう。

-Wyoming Stories-、ワイオミングの物語と名づけられた短編集のサブタイトルそのままに、物語の成り立ちの根拠がワイオミングの風土にある。

2006.03.08

スローエンタテイメント

ファザー、サン』の封切日は、4月29日に決まったそう。寝不足ででかけると、あまりの静けさとあまりの映像美に、爆睡必至の傑作が、それだけでも危険なレイトショー。よく寝てから行くべし。


米アカデミー賞の結果に、ブッシュ再選や小泉自民大勝のときの、砂をかむような思いを味わった向きも多かったと思う。自分が思い出したのは、オリバー・ストーン版『アレキサンダー』の米国での「公開失敗」に関する悔しい思いだった。『アレキサンダー』は、米国公開の前から知っていたわけではないのだが、でも、もう1度やり直せたら、もっと状況は違っていただろうか、もう1度、もっと別のやり方をしたら、あのとても公平とは思えない「酷評」はなかったんじゃないだろうか、と……。

そういう取り返しのつかない、何か「間違ったことが起きてしまった」感じが、今回のアカデミー賞についても感じられたのだ。もちろん、それまでの数々の受賞実績や、批評家による絶賛や、当のオスカーのほかの部門での評価(得賞)もわかっている。「賞なんかで作品の価値は左右されないよ」という意見ももっともだ。「ハリウッドなんてこんなもんだよ」というのもうなずける。それでも……。


さて、いつも読ませていただいている「映画館ブログ」という、映画の興行に関する話題を主なテーマとしたブログで2月に読んで以来、ずっと気になっている記事がある。

DVDの発売はなぜ早くなったのか?

この記事の筆者の方は次のように書いている。

「ウインドウの速さを歓迎する自称マニアな消費者さんを散見するが、別に歓迎するのはよいとして、外国映画の日本での公開が遅い!とか公開後のパッケージ発売が遅い!とプレッシャーをかける人は、それ本当に映画好きなの?早く見たり手に入れたりすることって本当に大事?」(原文より引用)

論旨は、映画公開→DVD発売というような商業展開サイクルが短いものになってきているのは、「別に消費者サービスでもなんでもなくて、単に投資回収を早めたいという製作サイドの需要にすぎませんよ」(原文より引用)ということで、そのサイクルの短さが、本来あるべき劇場売上や本来あるべきDVD売上を実は食いつぶし合ってしまっているのではないか、実は結果的に映画産業にとってマイナスなのではないか、という問いかけを行っているのだと思う。

まあ、売る側の勝手なんだから関係ないじゃん、と言ってしまえばそれまでなのだが、この文章が言っていることと別の部分で、「早く見たり手に入れたりすることって本当に大事?」という言葉がとっても引っかかったのだ。

自分自身は、気になるものについての情報を集めるのが好きで、この記事の冒頭でも、好きな作品の公開日決定のことを記したばかりなので、まったく「言っていることとやっていることが違う」ことになってしまうが、「早く見たり手に入れたりすることって本当に大事?」という言葉に照らすと、そんな「情報」すら、「物をすり減らす」という意味での「消費」に加担しているような気分にさせられる。

映画に関する制作情報を知る。完成した作品が海外の映画祭で公開されるという情報を得る。日本公開の日程をいち早く知ろうとする。海外発売のDVDを買う。公開された映画を劇場で見る。「次はDVDだね」。「発売はいつかな」。「こんな雑誌が出たよ」。――自分がいつもやっていることだ。

そんなふうに、ファンとして普通に行っていること、期待していることが、映画と出会い、味わい、心の中にしまわれるというシンプルで豊かな経験とまったく反対方向の、浅ましい行いに思えてくる。

『アレキサンダー』では図らずも抑えがたく夢中になったことをさらしてしまったが、「夢中になった」ことを表に出すのは恥ずかしいことだという、やせ我慢根性というか、ひねくれ根性が自分の中にはある。「江戸っ子」だからか?(←正確には自分の生まれ育ったところは江戸圏内ではない) 洋楽ファンの友人がかつて言っていたことには、好きなバンドの全国ツアーについてまわると、観客のノリに「地方色」があるのがわかるのだそうだ。東京公演はクールな反応。大阪公演は超ホットな反応。京都は「最初はクールだが、だんだん火がつく感じ」。だからアーチストは一般的に関西で行われる公演の方が嬉しそうだと……。

夢中になったものに対する熱烈な思い入れがあっても、その「もの」に対するマクロで相対的でクールな視点を、必ず同時に持っていたいと思うし、「思い入れた自分」を相対化する視点も持っていたいと思う。

ん? 何を言っているかわからない? 自分もわからない(笑)。(いちおう自分的には、筋は通っていないかもしれないけれども、めざす筋道はあるのです)

いや、BBMに対するアンビバレンツな想いを書きたかっただけで……。

つまり、ここまで見事で、ここまで本質的で、ここまでど真ん中で、ほとんどの映画ファンなら絶賛するだろう作品に、「ディープにはまる」のはかっこ悪いかなと思う。私ごときが思い入れずとも、応援しなくても、文句なしに素晴らしい作品であることはゆるぎない事実だ。見た人たちの中に、あの映画を愛する人たちがたくさん生まれるだろう。 (とはいえ、そういうことと一般に認識されているかどうかは別の話で、「県庁」や「ナルニア」は認知されていても、特定の映画ファン以外ではBBMのことを知っている人に会ったことなどない。アカデミー作品賞をとらなかったことで、日本で、「ミニシアター作品として以上に」ヒットする可能性は低くなったのではないかと思う)

でも、最初に見た5日の翌日の夜も、仕事をおっぽって映画館にいた自分もいるわけで……(でも、軽々しく何度もリピートできるような映画ではない)。

それでも今度ばかりは、「DVDの発売はいつだろう」とか「海外版のDVDの特典映像は」なんていう、餓鬼(←子どもではなく、飢えた亡者の方の意)のような振る舞いはやめようと思っている。コマーシャリズムや情報や自分の欲望に踊らされることなく、あの映画と、じっくり向き合っていたいと、醒めた頭で静かに蜜月を過ごしたいと思うのだ。(ってなことを、公開前にも書いたな)

「雑感3」はもうちょっとまともに、映画本体への感想を書きたいと思っている。

2006.03.07

断背山雑感2

このまま雑感ばかり3つも4つも続いて、終わったりして……。

アカデミー賞のノミネートの段階で、誰か映画評論家が言っていたのが、自分の記憶違いでなければ「編集賞にノミネートされなかった作品賞はない」ということだった(勘違いだったら申し訳ない。書き終えたら、ソースを探してみます←書く前に探せよ)。そのジンクスは当たったのか。

『クラッシュ』が編集賞を取った時点で、既にいやな予感はした。

BBMの訴えるものの強さは尋常ではない。出てくる人は、プルー作品の登場人物だから、ほとんどが不運な"loser"だ。それなのに作品は王者の風格を漂わせ、「ミニシアターで上映される小品」、「アート系映画」、「インディーズ」などの枠からはみだし、堂々とメインストリームで戦える幅広さを持っている。「(作品賞だったら)世界を変えたかもしれないのに」と、どこかで誰かの書いた言葉がオーバーだと切り捨てることのできないぐらいの、革新性と品質を持っているのに……。

ということで、みなさんご存知ですが、米アカデミー賞でBBMは、監督賞、脚色賞、作曲賞をとりました。

上記の文句は、『クラッシュ』を見てから言えって?