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2012.10.01

フライング・ザ・《女朋友。男朋友》

馬鹿な奴だとお思いでしょうが、待ち切れず8月下旬に台北で楊雅[吉吉](ヤン・ヤーチェ)監督の最新作《女朋友。男朋友》を見てきました。映画の紹介記事や予告編映像を見る限り、また前作の好評を受けての監督作品の注目度と配役の話題性によって、映画祭にしろ一般公開にしろ日本でも必ず上映されるだろうと信じていましたし、現在でもそう信じてはいるのですが……。

Gfbf_e1現地に行ってでも見たいと思ったのは5月の終わりごろでしたか、台北電影節でこの映画が開幕上映されると知ってからですが、映画祭で2回ある上映は「秒殺」でチケットが売り切れてニュースになっているくらいでしたし、そうでなくとも海外の一般人がこの映画祭のチケットを買えるのかどうかわかりませんでしたので、そこで見ようというのは自分にとっては難易度の高い望みでした。それで一般公開が始まったら考えようと、8月3日の台湾での封切り以降、台湾の映画情報サイトで上映館と上映時間をチェックしていました。かろうじて行けることが決まった公開4週目ともなると、各館上映回数が減ってきていて、当初は3回ぐらいは見たいと考えていたのですが、実際に見られたのは2回。しかも目論んでいたように複数回見たからといって内容がよくわかったかというとそんなことは全くなく、せいぜいが50パーセント程度の理解度といったところに終わりました。自分の能力では、聞き取れる中国語はごく簡単な単語程度で、字幕の理解力も同程度です。劇場で観るのは、再生をストップして字幕を辞書で確認できるDVDでの鑑賞とは勝手が違うことを思い知りました。中国語字幕の下に小さな文字の英語字幕まで付いていたにもかかわらず、です。(右の画像は、映画館入口にあった大きなライトボックス型の映画看板@長春國賓影城)

とはいえ、楊監督の映画は説明的なものではないため、そんな不完全な状態であっても十分に楽しむことができました。しかも、3人の主役の中で特に重要な役柄であると言える陳忠良(張孝全)は、内向的で台詞の少ないキャラクター。今回の彼の演技の見せ場の多くは、無言あるいは静かな台詞まわしとともに動作や表情によってじっくりと表現されているため、言葉のわからぬファンであっても「何回見ても飽きないよ」状態になることは必定。5年前から切れたままだったパスポートを再発行してまで見に来た甲斐があったと、ホテルに戻って1人ほくそえみつつ祝杯を挙げました(×2回鑑賞分)。もちろん、台詞が非常に重要な場面もあります。「あの場面をきちんと理解したい」と思っても、もう今のところは日本での上映またはDVD発売を待つしかないのが辛いところです。

この状態で感想などを書くのはいかがなものかと、一度書き始めた感想をストップしたまま4週間以上が経ってしまいました。「言葉がわからず映画が理解できませんでした」というのは体の好い言い訳に過ぎず、実際にはたとえ台詞が理解できていたとしても、映画そのものを読み解く力の方こそ、自分にはないかもしれません。決して小難しい映画ではありませんが……。

しかし、映画の本当のテーマの部分を考えるのは日本語できちんと見てからということにして、これまでにインターネット上で目にしたさまざまな記事なども踏まえながら、今の状態で感じていることを取りあえず出してみることにしました。(何と理屈をつけようとも、要は、映画が非常に良かったので何か言わずにいられない、ということなだけですかね)

「ネタバレはダメ」とかそういう話は好きではないのですが、作品を見る前に前知識を入れたくない方は、ここでストップしておいてください。

何が「ネタ」かというあたりもいろいろ言いたいことはあるのですが、自分自身この映画を見る前からかなりな量の情報を入れてしまっていた(つもりだった)にもかかわらず、見てみたら全く予想外の成り行きであったことに驚いたと同時に、そのテーマの広がりに深く考えさせられるところがありました。台湾の観客の感想を検索すれば「ネタ」などすぐにわかってしまう文章が、今では沢山書かれています。でも映画の筋立てがわかったところで、「誰がどうしてどうなった」という部分はこの映画の本質ではなく、監督自身がインタビューや観客との質疑応答の中で、結末をはじめとするいくつかの重要な場面の解釈を観客に委ねており、固定的な見方を断固として否定しています。

いずれにせよ、以下では、自分が作品を見る前にあらかじめ知っていた以上のことには触れないつもりではおります。書いていることに間違いがあったら、それは筆者が「中国語を理解できていない/台湾の歴史を知らない/映画の読解力がない/誤記・勘違いの多いまぬけである」のどれかだと思って、「冷やかに笑う/こっそりメールで教える」等あなたのお好きになさってください(→できれば後者を歓迎します)


◆◆◆

『Orzボーイズ!』〈2008年〉の楊雅[吉吉](ヤン・ヤーチェ)監督の最新作《女朋友。男朋友》は、およそ30年にわたる現代台湾の社会情勢を背景に、林美寶(桂綸[金美](グイ・ルンメイ))、陳忠良(張孝全(ジョセフ・チャン))、王心仁(鳳小岳(リディアン・ヴォーン))という3人の高校の同級生が大学生から社会人へと人生を歩んでいく中での「友情」と「愛」の変相を描く「ポスト・青春ムービー」である。

主役たちの時空は、高校時代(1985年)から大学生(1990年〉、社会人(1997年)を経て現在(2012年)に及ぶ。

高校時代は、彼らの出身である南部の大都市高雄の、高校と夜市と緑色濃い自然の中で繰り広げられる。「夜明け前」の台湾の自由を求める世の中の空気は高校生の彼らにも決して無縁ではないらしく、林美寶は学校が終わると夜市の露店で古本を売りながら、こっそりと禁書である民主化運動系の雑誌も売っている。陳忠良(阿良)はその本屋を手伝っている。学校は全体主義的な統制を方針とした教師たちによる高圧的な指導が行われており、校内誌の編集長として威勢よく反抗を示しているのが王心仁(阿仁)。学校側が主催する全校集会で、教師の講話を拡声するマイクの元電源を切り、爆薬を職員室に仕掛けて放送設備を乗っ取り流行歌(『河堤上的儍瓜』→「儍」が表示されない方、すみません。的と瓜の間に[sha](第三声)という音の文字が入ります)のカセットテープをセットして校庭に響き渡らせた上、学校側にダメ出しをくらった校内誌の新刊を生徒たちにばらまく。教師に何度しぼられようとも懲りない強い信念と、周りを巻き込むカリスマをもった破天荒な少年だが、ただ1つなかなか彼の意のままにならないのが、彼の上を行く強さでしなやかに生きる美寶との関係だ。

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 高雄の夜市("商展")で古本を売る美寶&阿良のところに後からやって来る阿仁

映画は、高校生の3人が玉蘭を摘む何とも美しい夜の場面から始まる。この玉蘭の棚畑は阿良の家のものという設定とのこと(実際の撮影は新竹だそう)。玉蘭は、本作における監督こだわりの要素の1つであるようで「無音で香りのある映画がつくりたかった」と言っているインタビューもある。玉蘭は主に台湾の中南部で生産され、夜に摘花されて台北などの都市に運ばれて消費される「農産物」である。上品な芳香を放つ白く細長い清楚な花で、街中で売られたり、寺院で供花として売られていたりする。その香りは台湾の人々にとって、花売りの「おばちゃん」や、花を買う祖母を思い出させる懐かしいものだという。6月29日の台北電影節オープニング上映時には3D映画の向こうを張って"2D+玉蘭の香り"上映(「2D香氛放映」)と銘打ち、スタッフにより本編上映中、劇場内を香りで満たす試みがされた。

特定の香りを感じたときに、その場とは全く無関係な記憶が瞬時によみがえり、その鮮やかさに驚かされることがある。きっと嗅覚は、視覚や聴覚よりも原始的な力強さを備えているのだろう。《女朋友。男朋友》において玉蘭は、台湾の人に自身の出自とその歴史を頭ではなく体で感覚的に意識してもらおうという役割を担っているのではないか。

この冒頭のシーンにはもう1つの意味が込められている。監督によれば、この場面が表象するのは「3人の関係性の曖昧さ」だという。頭にライトをつけ暗闇の玉蘭の棚畑をうごめく高校生たちの姿はのどかで微笑ましい。単なる「友人の家業の手伝い」なのかアルバイトなのか。美寶を好きな阿仁が彼女の気を引こうとして何か話しかけている気配を、少し離れたところで背を向けて花を摘んでいる阿良が感じ取ってにっこり、いやにんまり笑う。はっきりとした台詞があるわけではない、たったそれだけの場面。

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 陳忠良は呉敏(ニエズ)と似たタイプで新鮮味がないという感想もあったが
 彼は呉敏よりももっと内にこもるタイプのように思える 最も大きな違いは
 本作においては、少年は成長し大人になるのである

阿良と美寶は幼馴染として一緒に育ち、美寶はおそらく映画で描かれる時代より前から阿良に対して幼馴染以上の深く強い想いを抱いている。2人は高校では同じ水泳部で、なぜかその部室らしき部屋の奥にある大時計(タイムを明確にするための試合用の時計だろうか?)の陰に、美寶は阿良へのちょっとしたプレゼントを隠している。それは食べ物だったり手紙だったり……。美寶はいつも実はけなげに阿良のことを想っているのだが(お笑いコンピよろしく阿良の頭をパカパカはたいているのは、彼女なりの親愛と占有の表現なんだろうかと思う)、阿良にとって美寶は姉であり妹のような大切な存在ではあるものの、恋愛感情に転じる余地は全くない(美寶と阿良と阿仁の3人が滝のある山中の川で遊ぶ場面で、観客はそれを理解させられる)。同級生たちと集まっていても、美寶が呼びに来るとついて行って美寶の運転するバイクの後部座席にまたがり一緒に帰宅する阿良。そんな風だから周りは皆、彼らが恋人同士だと思っている。

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 この2人乗りの場面の撮影中に、転倒して
 しまうメイキング映像(動画の中ごろ)

2人の関係を表していると思われる場面がある。美寶の腹痛のときに阿良が痛みを癒そうと寄り添う場面で、それは何度か繰り返され印象深いものになっている。美寶が腹痛で苦しんでいると、それはもう「いつものこと」とでもいうようにごく当たり前に、阿良は薬草である樟(クスノキ)の葉を揉んで彼女にその香りを嗅がせ、その手を取って痛みのツボでも押すかのように親指と人差し指の間をマッサージをする。スクリーンには彼の手の所作と2人の寄り添う姿が無音で映っている。美寶は複雑な家庭環境で育ったのだという(実はそのあたりの事情がよく理解できなかった)。彼女の腹痛に対するのと同様に、現実の人生の「痛み」をも分かち合い慰めてきたのが阿良なんだろうと想像する。活発で自立した(ように見える)美寶が、優しい阿良をどれほど頼りにし、どれほど想っているかを観客の心に刻む場面である。

高校時代の阿良の気持ちが、一体どこに向かっているのかということが明確に描かれる部分はほとんどなかったのではないか。ただ同級生たちと同じように、面白くて明るくリーダーシップのある阿仁に心酔しているのはわかる。もしかするといくつかの2人の会話の場面に、彼の気持ちを読み取れる部分があったかもしれない(が、理解できなかった)。高校の校内誌の編集室なのか何か特別教室なのか、男の子たちが集まってしゃべっている。もちろん阿仁も阿良もそこにいて、阿仁は阿良の腕に「我[イ門]是波……」で始まる詩を、タトゥーよろしくペンで刻んでいる。阿良は大人しく阿仁に腕を投げ出して、いたずら書きされるがままになっている。いやむしろ喜んで腕を差し出しているかのように見える。

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 女子(たぶん張心如という名前の役)もいた
 左奥が腕に詩を書かれる陳忠良

一方、阿仁は美寶が気になっている。だから、腹痛の美寶に寄り添って手を握る阿良を見て2人は恋愛関係にあると思いこみ、阿良に尋ねる。阿良はそれをきっぱり否定する。美寶が本当は阿良を好きなのをわかってはいて、それでも彼女に告白する阿仁。

友達とも恋人ともつかない曖昧な三つ巴の仲間としての「夜」は明けてゆき、大学から社会人になるにつれ、「友達」「恋人」……と定義される関係に変わっていく。

阿仁と阿良の大学進学とともに、舞台は1990年の台北に移る。1987年に戒厳令が解除され、台湾社会全体の動きと相まって「学園」にも体制への抗議の波が押し寄せている。阿仁はここでも学生運動の中心的人物として壇上で檄を飛ばしている。3人の主役たちをはじめ大勢の学生が集う抗議集会は体制側のバリケードに囲まれた緊張の中で行われている。1990年3月、台湾中の学生たちが台北の中正記念堂に集まり、国民党政権の在り方に反対して座り込みやハンガーストライキを行った「野百合運動」という実際に歴史に刻まれた事件である。監督もまさにそれを体験した世代とのことだが、映画の感想の中には、やはりこの事件の現場にいた人の「映画での描写とは違って、もう少し気軽な雰囲気だった」といった声もあった。大きな事件であればあるほど、個人の体験はそれぞれに異なるだろうが、社会的な抗議行動における体制の圧力の不気味さ怖さというのは、どんなにカジュアルな(ように見える)運動であっても存在するというのが、311以降の反原発運動を僅かに垣間見た中で得た自分の実感である。

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 中正紀念堂ロケ→記事

人生の転機とともに、3人の関係の転機もこの大学時代に訪れる。美寶と阿良の間に飛び込んできた阿仁という形で高校時代に始まった3人の関係は、故郷を出て大学に入学した阿仁とその恋人となった美寶との間から阿良が飛び出す形で終わりを告げる。阿良と美寶のプールでの悲痛な別れの場面はこの映画の前半の山場であり、2人が互いの手のひらに指で文字を書く場面もまたとても心に残る。その撮影風景は公式サイトの何本もの動画の中に編集されて使われており、「(撮影シーンの最後に泣き出し)『カット』の声がかかるとそのままトイレに飛び込んだが涙が止まらなかった」と張孝全自身が語っているほど真に迫った演技が見られる(撮影裏話としてはよくあるタイプのものではある)。

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 このスチールには
 「張孝全《女朋友。男朋友》劇照,神似張國榮」
 などという報道もあった

主人公たちが成長するにつれて、映画も、明るい若者たちの時代から大人の重苦しい世界へと次第にトーンを変えていく。香港映画界から「台湾映画なんてただの青春学園物ばかりじゃないか」と言われるのに反論したかったという監督が、青春を終えた世代に焦点を当てて作った映画。曰く「『あの頃、君を追いかけた』は若い人たちを笑わせるけれど、この映画は大人を泣かせるんだ」と(でも、いわゆる「泣ける映画」的安直さなど全くないので安心を)。だから、予告編の明るさ(主に高校と大学の学生時代の場面)を信じて見に行った人は「騙された」と感じるかもしれない、若い人は特に……。監督の映画作法はキャッチーでありながらストイックで、先に書いたように物語の重要なポイントの解釈を観客の想像に任せている。監督が「映画とは別のもの」との注釈付きで上梓したノベライズ本(楊監督と萬金油(作家)の共著)に見られるともすればメロドラマ的になりそうな物語性は映画では見事に排除されていて、登場人物の心理もモノローグや台詞などによる説明はない。台湾の観客層がどうかは知らないが、テレビドラマの懇切丁寧な「物語り」に慣れてしまうと、こういった形のフィクションを味わうことに違和感を覚えるかもしれない。台湾国内の興行成績は良かったようだが、億の単位には届かなかったのではないか(→未確認)。9月半ばからはシンガポールでも封切られ、今後は大陸でも上映されるという話(←本当か? でも大陸資本が入っているから上映もありか?)。釜山国際映画祭でも上映予定。いずれにせよ、意欲的で古くかつ新しい魅力的な映画であることには違いない。

大学を出た後にスキップするのは30歳を目前とした時代である。以降の内容をあまり細かく書く気はないが、この一区切りの中で最初に登場するのは、高校の同級生だった許神龍(演じているのは張書豪(ブライアン・チャン)。台北電影奨で最佳男配角奨(最優秀助演男優賞)を獲得)の同性婚披露パーティである。元々はシンプルな背景の中で撮影される予定だったこの場面を、プールと泡とダンスミュージックの派手なパーティシーンに変えたのは張孝全の提案によるものらしい(報道によると、彼が気に入っていた蕭亞軒(エルパ・シャオ)のMVの趣向を取り入れたとのこと→記事)。この場面は突飛に挿入されているわけではなく、パーティに参加した美寶が、その場の主役の許神龍から背中を押されるようにして、不参加だった阿良に電話して7年ぶりに話をするというエピソードを導くことになるわけだが、阿良の生きる「現実」との対比として、1996年台湾で初めてオープンに挙行された男性カップルの結婚式という実際の出来事を踏まえて提示された、もう一方の「現実」世界という位置づけになるのだろうと思う。

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 作中で印象的な張孝全の手&足
 演技のうち主要な場面の1つ

そして2012年の「今」の世界に登場するのは、40代半ばになった阿良と彼の双子の娘たちである。この2012年と1997年との間を結ぶ説明らしい説明はない。小樹が女子生徒たちを扇動して繰り広げる「スカートいらない。ショートパンツはかせろ」という抗議運動は、これもまた2010年3月に台南の女子中学生たちが厳しい服装規定に抗議して行った実際の事件を下敷きにしているという。自由への闘争は、社会的なものから個人的なものへとターゲットを変えてきてはいるが、今となってもまだ戦い取らなければならないものが存在する。国という観点においても、台湾は確かに中国語圏ではあるが、「中華圏」というくくりで大雑把にとらえるにはあまりに複雑で独自の背景(歴史)があることを、過去から現在に連なる台湾映画が教えてくれているように思う。

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 45歳の陳忠良と小樹&小雲(双子の娘たち)


監督や本人が何度も語っている話だが、張孝全は脚本を読んだ段階では鳳小岳が演じた王心仁役を望んでいたのだという。しかし、監督は脚本執筆の初期の段階から彼を陳忠良役にと考えていたと公式サイトのメイキング映像の中で語っている。楊監督は易智言(イー・ツーイェン)監督の助手として『藍色夏恋』の準備段階からその制作に携わり、ヒロインの桂綸[金美]は無論、高校生だった張孝全を易監督とともに発掘した人である(高校時代に台北MRTの忠孝敦化駅から忠孝復興駅間の車内でスカウトされたというエピソードは何度聞いても面白い)。この陳忠良役を振った監督は、張孝全の魅力を「さすがに良くわかっていらっしゃる」としか言いようがない。彼の男性的な外面の奥にある柔和と繊細を……。

張孝全が陳忠良を演じたくなかった理由は詳しくはわからないが、彼の経歴や日頃の発言から考えてもそれが「ゲイ男性の役だから抵抗があった」というようなものでは決してないだろうと思われる。彼はインタビューでゲイ役が多いことを問われるとよく「わかっていないから恐れたり抵抗感を持ったりするのであり、理解できれば恐怖や抵抗は小さくなる」と答えている。最近の雑誌インタビューでは「人と人との感情に男性女性の区別はない」とも言っている。

単なる憶測ではあるが、この論理から言うと彼は当初、陳忠良という「考えていることを表に出せない」性格のキャラクターを、脚本を読んだだけでは理解できず「何を考えているかわからない面白味のない役だ」と判断したのではないか。そこで監督は張孝全に陳忠良役を演じさせるために、役に似たプロフィールの男性を彼に引き合わせ、その人自身のことを語ってもらったのだという。そして、陳忠良という人がどのような人間かを理解したからこそ、彼はその役を引き受けたのだろう。それは「ある種の使命感」だった、とは本人の弁である。

その"リアル陳忠良"の名前こそ、台北電影奨での最佳男主角奨(最優秀主演男優賞)受賞の際に彼が謝意を表した「阿仁」である(王心仁ではない)。あの「自分とは無関係な人生が、自分の人生の一部分となった」という言葉(→報道記事)は、陳忠良という役が彼にとってどれだけ大きなものだったかを示していると思う。撮影が終わって2~3カ月後、撮影中に役作りのために聴いていた曲を耳にした張孝全は、自分の中にまだ陳忠良がいるのを発見して電話で監督を罵ったというエピソードがある(→報道記事)。陳忠良を演じたことの彼の内面への影響とともに、監督と張孝全の関係を物語るものとしても面白い。


【画像】以下のウェブサイトより
  ・公式フェイスブック
  ・MSN映画紹介ページ

【断りもなく参考にさせていただいた記事】
  ・"When Coming-of-Age Has Already Gone By"(ウォール・ストリート・ジャーナル)
  ・「放映週報」監督インタビュー(臺灣電影網)
  ・監督&桂綸[金美]インタビュー(『小日子』 BIOS Monthly)
  ・ブログ感想「電影《女朋友。男朋友》」(著者:Multipotent Womanさん)
  ・ブログ感想「為什麼我喜歡《女朋友。男朋友》?」(著者:Ryan Chengさん)
  ・雑誌 台湾版「GQ」2012年8月号 張孝全インタビュー(記事全文はウェブ上になし。公式サイト記事抜粋
ほか多数

【おまけ】
  ・YouTube「 《女朋友。男朋友》《愛》《星空》聯合慶功宴
台北電影奨授賞式後の祝典(というか宴会というか……)の映像。終盤で、郭采潔(アンバー・クオ)と張書豪の間にはさまれて鈕承澤(ニウ・チェンザー)の話を聞きながら、間がもたないのか何なのか、割り箸で思わず「ペン回し」を始めてしまうというナマな孝全クンが見られますw

  ・YouTube「電影【女朋友。男朋友】張孝全坎城影展初體驗
今年のカンヌ映画祭フィルム・マーケットに《女朋友。男朋友》で参加した際の取材映像。監督と張孝全が、カフェで陳忠良役の演技について語っています。個別のインタビューではなく、2人で話しているというところが面白いです。

  ・YouTube「 TVBS 看板人物 熱愛燃燒 10年星路 張孝全
45分に及ぶ個人インタビュー番組で、今年5月に放映されたもの。デビューから現在、未来までを語る孝全クン、「省話哥」の称号はどこへやら。この番組は、記事を書くのに毎度参考にさせていただいています。楊監督も何度も出てきます。

  ・監督インタビュー前篇および後篇(アジアンパラダイスPodcast)
通訳の方により日本語で聴けるアジアンパラダイスさんの有難く興味深い《女朋友。男朋友》についての監督インタビュー。音楽について上では触れませんでしたが(触れられるほどの知識がないためです)、この映画で音楽はとても重要な意味を持っています。そのあたりの深い話をこのインタビューで聴くことができます。映画中で使用されている楽曲は、書き下ろされたものも、時代に合わせて選ばれた当時の流行歌も素晴らしく、映画を見るとサントラ盤をぐるぐると聴くはめに……。

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コメント

ヒロシさん こんばんわ。
再び書き込んでいただき嬉しいです。

DVD、詳細はまだ発表されていないようですが、6月26日発売ですね。
2枚予約されたとはさすが。

>1本は自分のために、もう1本はいろいろなことで生きていくことに苦しくなった友人が
>いたらこの「女朋友。男朋友」をあげるために購入しました。

この言葉に、以前台湾の本作の公式サイトでみたエピソードを思い出したのですが
リンクしようと思ったら、見つからなくて……。

あとでまた見つかったら追記したいと思います。

自分はまだシネマート六本木に行けていません。
オープニングの真っ暗なところに光が浮き出す場面から胸が高鳴ります。

石公さん、こんにちは!
さっそく教えていただいた六本木シネマートに行き、「女朋友。男朋友」みてきました。
六本木で4回、下北沢で2回、高田馬場で1回、計7回みたことになります。
六本木シネマートは閉館だそうで、これが最後になり行けてよかったと思います。

7回観てもいまだに心をゆさぶる映画です。観るたびごとに新しい発見と感動があります。
張孝全ウオッチャーの石公さんの前でいうのも恥ずかしいのですが、僕にとっては(もしかして
世間一般でも)日本も含めて現在の最高の俳優ではないかと確信したことです。

DVDの発売日が本日決まったとのことです。さっそく2本注文しました。
1本は自分のために、もう1本はいろいろなことで生きていくことに苦しくなった友人が
いたらこの「女朋友。男朋友」をあげるために購入しました。

ヒロシさん

コメントをいただき本当にありがとうございます。

陳忠良と小樹と小雲が、血縁ではなく、それ以上に意味のあるもので結ばれた家族で、父(阿良)たちの歴史が子どもたち(双子)に、形を変えながら軽やかに受け継がれているところが大好きです。

阿良の決断(恋人との別離)、美寶の決断(命をかけての出産)など、人生にはターニングポイントがあり、そこでの選択は後の人生に大きな影響を与える「取り返しのつかないもの」ではあるのですが、ある意味また、人生はどのような形であれ、どこかで「決断」することで新しい局面をつくりだすことができる、「取り返しがきく」ものであると、教えてくれている映画であるようにも思います。

ヒロシさんが「勇気」とおっしゃったことの意味は違うかもしれませんが、自分はこの作品に、上のような意味で元気づけられる、襟を正される思いがします。

『GF*BF』は国内でのソフトリリースの情報がまだのようですが(自分が知らないだけかもしれません)、関東では、本日2015年4月18日からの「台湾シネマ・コレクション2015」という特集上映(シネマート六本木)でまた見ることができるので、一度は足を運びたいなと思っています。

張孝全の「俳優」としての仕事の中でも、この役は、今のところピカイチではないかと……。

よかったらまた書き込んでやってください。

僕がこれまでみた映画で一番感激したの「女朋友。男朋友」でした。
うまく言葉ではいえませんが、僕自身が今後ゲイとして生きていくうえでの勇気を
この映画は与えてくれました。今でもBGMを聞くと涙がでてしまいます。
石公さんの解説でより「女朋友。男朋友」を詳しく知ることができました。
本当にありがとうございます。

夏期休暇さん、1年ぶりになりますか? まさに『GF*BF』が公開中で、ファンの1人としては、こんな場所であっても、わずかでも盛り上げる助けをしなければいけないのに、すっかりへたばって惰眠をむさぼっているところに、コメントをいただきありがとうございます!

自分も、前売りを買い、シネマート六本木の大きなスクリーンで6月20日に一度見て参りました。会社帰りにギリギリで飛び込んだため、パンフレットを買い損ねましたので、必ずあと一度は、新宿か横浜で見ようと思っています。キネマ旬報6月下旬号の台湾映画特集でも大きく扱われていた本作ですが、その中に掲載された作品評は生きはいいけれどちょっと荒っぽいもので、もう少し手応えのあるものが読みたいなあと思い……(パンフレットには暉峻創三氏が書かれているようなので、間違いはないだろうと……)。

はい、今回は新しい字幕でしたね。3つめの字幕は、原語の台詞の細部まで、極力正確にわかりやすく日本語字幕に載せようと心を砕かれたのだろうと感じ取れるものでした。特に、映画の中の「名場面」の1つである、後半のスーパーでの阿良と美宝のシーンの台詞、「苦」という表現が少し硬いかなとも感じましたが、苦瓜のエピソードの意味するものと、そのあとの「苦を引き受ける」ということが重なっているのだなと、今回の日本語字幕のおかげで、今さらながらに気付かされました。

張孝全は本当に、こういう内向的な役が合うなと思います。特に、王心仁と2人のいくつかの場面の微妙な心の動きを表した表情は、例えば高校時代の爆薬遊びの夜の場面といい、大学時代の退学させられることになった王心仁との階段の踊り場での場面といい、社会人になって不本意ながら(?)再会し美寶の歌をバックにカラオケで踊る場面といい、とてもデリケートでリアルで「全然格好良くない」けれどとても惹きつけられます。

>手術台の上の美宝が手術を中止して欲しいと言うとき、彼女の脳裡に浮かんだ心配そうに自分を待っていてくれる高校生の頃の忠良のイメージ

同じ樹の下で、阿良が葉っぱを渡して彼の役目を阿仁に譲る場面がありますが、美宝の心にあるのは阿良が待っていてくれるところ。それが、そのまま「今」に変わるところが本当に美しくて、そしてうまいなと思います。

>観るたびにいろいろな発見がある、繊細な描写で綴られた強いテーマ性をもつ傑作だと思います。三人だけでなく許神龍も重要な役回りなのだと改めて感じましたし

そうなんです。どの登場人物の心理を追いながら見ても、小さなヒントのようなものを見つけて面白かったり、なぜだろうと考え込んだり、また、社会派作品と捉えても一見あっさり描かれているようでいて、かなりしっかりとした骨格を持っていることがだんだんわかってくる……。

『チョコレートドーナツ』のようにヒットしたら良いのになどとと思います。ヒットするかどうかで作品の価値が変わるわけではありませんが……。自分が見た回も、(混んでいる映画館で見るよりはガラ空きの映画館の方が好きだったりするので、自分的には快適だったのですが)とても空いていました。

さて、張孝全ですが、『失魂』のあとは、シルビア・チャン監督の《念念》でのボクサー役と、行定勲監督、三浦春馬主演の『真夜中の五分前』に、リンコ゜・ラム監督の香港アクション《暴走迷城》等々、撮影済みの出演作があり、また「発掘者」である易智言監督の久々の最新作にもグイ・ルンメイらとともに少しだけ顔を出しているそうです。出演予定の話もどんどん聞こえてきますが、1つでも記憶に残る良い作品に出てほしいと願っています。

 ご無沙汰しています。いま六本木と新宿のシネマートで上映している『GF*BF』をそれぞれの映画館で一回ずつ観ました。以前観たときには、王心仁に感情移入できなかったんですが、今回は彼の弱さや優しさ、人生の痛みのようなものに対して何の抵抗もなく感情移入できたのが不思議なほどでした。石公さんが書いていらしたことがはじめて理解できた気がします。
 観るたびにいろいろな発見がある、繊細な描写で綴られた強いテーマ性をもつ傑作だと思います。三人だけでなく許神龍も重要な役回りなのだと改めて感じましたし、手術台の上の美宝が手術を中止して欲しいと言うとき、彼女の脳裡に浮かんだ心配そうに自分を待っていてくれる高校生の頃の忠良のイメージにいつも強く心が動かされます。美宝にとっての忠良がどんな存在かが痛いほど伝わってきて。今回の上映では翻訳も新たになっていて、映画の世界がとても明瞭になったように感じました。
 自分が観たときには時間帯のせいもあって観にいらしていた人がそれほど多くなかったのが残念です。多くのかたに観て頂ければと思っています。

『我們都傻』、ご覧になったのですね。いかがでしたか? 

http://www.youtube.com/watch?v=q1RMdm4NCzo

実は自分は件のMVの存在を、ここにリンクした2年前の動画で知りました。これはレイニー・ヤンが『仰望』のプロモーションのために出演したテレビ番組の録画映像で、当時台湾で放映中で大人気だった『最後はキミを好きになる!(《醉後決定愛上[イ尓]》)の主演2人が正にそのテレビドラマの挿入歌のMVで共演するということで話題性が高かったためか、撮影中の様子やら本人同士の会話やらを結構しっかりと流してくれています。

撮影中のアドリブの冗談あり、「大勢の前では喋らないけど実は面白い」などとレイニーが彼を評していたり、彼がMVに出演した経緯をジョークにしていたり、レイニーのプロモーションでありながら張孝全のファンにもとても楽しい映像です。

このMVの撮影自体は多分2011年の7月ごろで、同年9月初旬には『GF*BF』の撮影に入っているはずですから、そろそろ陳忠良役の準備に入ろうかというころだったのかななどと、これを見るたびに想像したりします。

陳正道が監督であることを知ったのは、CDを買ってMV本編を見てからですが……。

さて、今回の大阪アジアン映画祭も終了しました。東京では普段多くの映画祭や特集上映が見られるので気づきませんが、大阪まで行ってみると、映画祭の開催地から遠く離れた場所に住む映画ファンの大変さがよくわかります。いや、福岡やら山形やらにもノコノコ出かけていったことはあるのですが……。

今日(もう日付が変わってしまいましたが)行われた『GF*BF』のファンミーティングで、どなたかがされた日本公開に関しての質問に対し、楊監督は「何も決まってはいないが、現在(日本の配給会社と)交渉中」と答えられていました。公開される可能性はあるようです。やはりDVDで見ると、当たり前ではあるのですが全く「絵」が面白くないのです。台湾で見たときの強烈な記憶を持って初めてDVDを見たとき、肩透かしを食らったようなその違いに驚いたぐらいです。おっしゃるとおり、ヒットは難しい現状がありますが、「形式上は兄でしかありませんが、実際は父親です」と言うときに大写しになる陳忠良の表情、夜に白木蓮(玉蘭)を摘むタイトルロール、水のないプールではしゃぐ大人になった林美宝と陳忠良……そんな場面を何度も大画面で見られたらと思います。

 自分の拙い感想に、丁寧なお返事をいただき、本当にありがとうございます。
 拝読し、改めて『女朋友 男朋友』をもう一度きちんと見直したいという思いに駆ら
れました。
 仕事の都合で今回の映画祭では、一回しか観に行くことができなかったことがつくづ
く残念です。日本語版のDVDの発売はもちろんですが、一般公開がされれば、本当に
うれしいのですが、台湾であれほどヒットした『モンガに散る』でさえ、平日の昼間と
はいえ、観に行ったときには、観客は数人しかいませんでしたから、台湾映画をめぐる
状況は厳しいようです。『悲情城市』公開の頃の熱狂がなつかしく思われます。

 そうですね。王心仁の側に立てば、彼なりの苦悩や痛みがあり、それはむしろ大勢の
人がどこかに抱え持つものであるはずですね。王心仁は通俗的な人生を選んだ人間であ
り、そのことを自覚し、そのことに傷つき続けている人であるように思いました。自分
は、そうした人物にどうしても心を寄せることができなかったのですが、王心仁のよう
な人物が三人の中に配されていることで『女朋友 男朋友』の世界が、いい意味での一
般性(広がり)を得ているのも確かだろうと思い返しました。

 文学や映画において、自分自身にとって忘れがたい作品となるものは、ただ作品とし
てすぐれているだけでなく、自分の魂によりそってくれるようなところのあるものでは
ないかと思っています。ですから、自分にとって、大切な作品を語ることは、つまると
ころ自分自身を語ることになってしまうわけですが。

  
レイニーヤンのMVに張孝全が出演していることは知りませんでした。
彼 の出ている台湾の雑誌や出演しているMVが収録されているCDはなるべく購入
するようにしているのですが……。
 早速購入し、いま、MVを流しながら、書いています。
 お知らせくださったことに、重ねてお礼申し上げます。
 
  

コメントをいただき本当にありがとうございます。

このブログは、最近でこそ1カ月に1度程度のふざけた頻度で更新をかけてはおりますが、3年ほど何も更新していない状態が続いたこともあり、通りかかった方や目的を持ってご覧くださった方からコメントをいただくこともなってしまっておりました。加えて、自分もそうですが、今やウェブサイトの閲覧においてかなりの割合の方がスマートフォンを利用されており、その多くが「専用キーボード」を備えていない画面フルタッチタイプのインターフェイスを採用した機種を使われているため、「見る」には便利でも「書く」のはやや面倒という状況があるのではないかと感じます。そのような中で、コメントをいただけたことがうれしいです、しかも思いのこもった長い文章を。

『花蓮の夏』は張孝全にとっても、兵役が終わり芸能界に復帰して最初の仕事という不安の中で、作品自体も俳優たちの演技も内外で非常に高い評価を受けたこともあり大切な作品となったようで、メディアのインタビューでニエズとともによくタイトルを挙げています。『花蓮の夏』も『GF*BF』(とりあえず第8回大阪アジアン映画祭で「邦題」がついたため《女朋友。男朋友》をこう呼ぶことにします。もし今後一般公開されることがあれば、またタイトルが変わる可能性もあるでしょうが……)も男性2人と女性1人の人間模様を描きながら、おっしゃるとおり『花蓮の夏』は正行と守恒の恋愛とも友情とも断じきれない関係が、『GF*BF』は陳忠良と林美寶の恋愛や友情を超えた関係が、より強く心に残ります。目指すところも演出も全く違う作品ながら『花蓮の夏』と『GF*BF』にはよく似た部分があります。『花蓮の夏』で張孝全と張睿家の役を入れ替えたという話を聞いたことがあり、『GF*BF』も(監督の意図はともかく)張孝全本人は当初、王心仁役をやるつもりだったというあたりも……。

確か、陳正道監督が『花蓮の夏』について「(俳優たちの年齢の点で)「今」でなければ撮れなかった」といったことをおっしゃっていたかと思います。その約6年後、まさか再び28歳の張孝全が高校生を演じるのを目にすることになるとは思ってもみませんでしたが、今度こそ「最後の高校生役」かもしれません。

「弱さとずるさ」についてですが、王心仁的な部分をどこかしらに持っていて、責められているような痛さを感じながら見る人は少なくないのではないでしょうか。「人生経験がないと、この映画を理解するのは難しい」と3月10日の大阪アジアン映画祭での上映後にどこかからそんな声が聞こえてきましたが、それはまさに監督が意図したところで、それぞれの経験によってそれぞれのとらえ方をすればいいとおっしゃっていたかと思います。古い話でお恥ずかしいですが、王心仁を見て思い出すのは『いちご白書をもう一度』のあの「就職が決まって髪を切ってきたとき、もう若くないさと君に言い訳したね」という歌詞です。社会体制を批判して学生運動に熱意を燃やした若者が社会人(=ものわかりのよいオトナ)に変わっていく。そうしなければ生き難い人生の皮肉。一方、ある意味「ずるずる」と不倫関係を続けてきたかに見える林美寶や陳忠良は、それぞれ「別れ」を決断し、新しい価値を求めるべく人生を歩み出します。人生の光と影、表と裏、喜びと悲しみ、豊かさとは何か……。あんなアイドル俳優たちを使いながら、へそ曲がりで出来損ないの中高年にすら深く深く考え込ませてしまうような映画をつくりあげた監督の力量は並大抵ではないと思います。

自分も3月10日に大阪で、夏期休暇さんと同じようにこの映画を見てきたのです。ツイッターでも書きましたが、上映終了直後の会場のピンと張りつめた空気感はほかの作品にはなかったものでした。見た方の感想ツイートもほとんどは賛辞。9日と10日で(疲れて集中しきれずにへたばった作品もありましたが)9本を見ました。その中で『GF*BF』は断トツの完成度だと決してファンの贔屓目でなく感じました。映画祭が終わったら、あらためて『GF*BF』の内容についての「感想」を書こうと思っています。またきっと書き出すまでに時間がかかると思いますが……。監督がおっしゃっていた「愛」と「自由」についてを考えてみたいと……。

『花蓮の夏』についてはまた感じるところがあるので、今更ながら何か書くかしてみたいと昨年からずっと考えていますが、これもまたなかなか実現できません。「晶晶書庫」は10年近く前に一度行ったことがあります。『花蓮の夏』でも正行が訪ねていますね。

>「花蓮の夏」における時間は永遠に循環し続ける時間だと思うのですが、自分もその時間の中に囚われてしまったのかもしれません。

そういう意味では、《盛夏光年》が初めて日本で映画祭上映されるときにつけられた『永遠の夏』という邦題の方がこの映画に合っているのかもしれませんね。そんな作品に出会われたことは幸せなことですね。自分は、映画冒頭の病院のような建物の中で守恒の張孝全がカメラ目線になるあの「メタ」な一瞬が大好きです。全く別の話ですが、(ご存知かもしれませんが)『最後はキミを好きになる!』で共演したレイニー・ヤンの『仰望』というアルバムにおさめられた『我們都傻』という曲のMVは、張孝全との共演で陳正道が監督です。

しばらくの間はこのブログも張孝全関連の記事が多いのではないかと思います。よろしければまたコメントなどいただけることがあればうれしいです。

 こんにちは。「女朋友。男友朋」の映画評、何度も頷きながら拝読しました。「花蓮の夏」をユーロスペースで観て以来、「花蓮の夏」の世界と張孝全に惹かれてやまず、こちらのブログも時折のぞかせていただいています。「女友朋。男朋友」の映画評もアップされていることは知っていたのですが、いつか映画を観てからと思い、今日になってしまいました。
 先日大阪に行き、「女朋友。男朋友」を観てきました。「花蓮の夏」のイメージが強すぎて見終わった直後は、どこか物足りない気がしていたのですが、少し時間のたったいまは、観に行ってよかったと心から思っています。
 物足りないと思ったのは、王心仁に惹かれる陳忠良の気持ちが、観ている自分には腑に落ちなかったからです。「花蓮の夏」では、ショウヘンの幼い孤独な魂にジェンシンの存在が刻み込まれてしまったこと。だからこそ、ショウヘンにはジェンシンを失うことに耐えられなかったことが痛いほど伝わってきました。ショウヘンがジェンシンの名前を繰り返し呼ぶ声が今でも耳に残っています。自分のそばにいてほしい、自分を見ていてほしい、そうした気持ちは「弱さ」かもしれませんが、そこには「無垢」なるものがあり、だからこそ、ジェンシンがそんなショウヘンに恋してしまうことにも何の疑問も抱かなかったのです。というより、映画を観ながら、自分はショウヘンに恋をしていたのだと思います。だからそれ以来「花蓮の夏」は一番大切な映画になり、ショウヘンを演じた張孝全さんはその影のようなものとして大切な存在になったのでした。「花蓮の夏」における時間は永遠に循環し続ける時間だと思うのですが、自分もその時間の中に囚われてしまったのかもしれません。
 「女友朋。男朋友」の登場人物はそれぞれ弱さを抱えています。そのなかで王心仁の弱さには「ずるさ」が感じられて、その弱さを受けいれることができませんでした。ですからどうしても林美寶と陳忠良の関係を軸に観てしまったのですが、映画では描かれていなかった幼い日々において、二人が互いに支え合って生きてきただろうことが思われて、胸が熱くなりました。林美寶が心から信頼し、気遣っていた存在が陳忠良であり、だからこそ、命よりも大切な存在を彼にゆだねることができたのだとも。そして陳忠良はそうした想いにこたえ、それが彼自身の支えにもなったのだと。
 張孝全さん自身のセクシャリティーや人となりはもちろん知るすべがありませんが(台北の「晶晶書庫」という同性愛関係の写真集やDVD等を扱うショップの店員さんは「彼はゲイではないが、ゲイに対して偏見のないナイスガイだ」とおっしゃってくださったので、それで満足しています)、張孝全という役者が演技において、ある美しいものを体現してくれる存在であることに、これからも惹かれ続けるだろうと思っています。
 自分はかつて中国人の恋人と二年ほど一緒に暮らしたことがありますが、その時きちんと中国語を勉強していればと悔やむことが多いです。覚えたのは中国語の「おやすみなさい」くらいでした。その人とは金銭を含むトラブルもあって別れ、ずいぶんたって、いまは結婚して南京にいるという便りをもらったのですが、返事を書く気になれず、そのまま音信も途絶えています。それもずいぶん昔のことになりました。そのときは、なぜあれほどひどいことをした人が平気で便りが書けるのだろうと思ったのですが、その人も弱い人であり、記憶のなかで出来事はずいぶん都合のいい形で脚色されているのかもしれません。もちろんこうしたことは彼だけでなく自分自身にも言えることですが。 
 「花蓮の夏」のことや張孝全氏のことをとりあげてくださっていることにいつも感謝しています。ありがとうございます。

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