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2009.03.23

誰も寝てはならぬ

先週『ダウト~あるカトリック学校で~』を見た。今年初めて出かけた一般公開作品だが、1本目にして既に「今年のベストでは?」と感じるほど、好きなタイプの佳作だった。

内容はシンプルで……とあちこちで紹介されているとおり、ブロンクス(ニューヨーク)のカトリック系学校の校長(シスター・アロイシス=メリル・ストリープ)が、教師でもあるフリン神父(フィリップ・シーモア・ホフマン)に対し、ある男子生徒に性的な関係を強要しているのではないかという疑い(「ダウト」)を持つというだけの話である。

アロイシス校長のフリン神父への疑惑を形づくったのは、恐らくは日常の中の小さな違和感の積み重ねと、校長自身が目撃した一瞬の出来事だったろう。疑いを確信に変えたのは、校長に猜疑心という色眼鏡を授けられた「部下」シスター・ジェームス(エイミー・アダムス)からの、証拠以前の「異状」報告だ。が、フリン神父に尋ねたところで、シスター・ジェームスによる状況証拠には、一般的には十分に納得のいく釈明がなされるだけだ。

「開かれた教会」という新しい風を体現したフリン神父の教育と人柄に、日頃から信頼を寄せていたシスター・ジェームスは彼の説明を信じようとするが、学校の責任者であり信念を持っている校長は、神父の「言い訳」など信じない。獲物に喰らいついた獰猛な犬のように神父を疑うことを止めようとせず、男子生徒の母(ヴィオラ・デイビス)をも巻き込んで、「そっとしておいてほしい」大勢を鑑みることなく終幕へと突き進む。

映画を監督した脚本家ジョン・パトリック・シャンリィが2004年に発表した戯曲『ダウト――疑いをめぐる寓話』は、2004年にニューヨークで初演されて評判を呼び、2005年のトニー賞(4部門)とピューリッツアー賞(戯曲部門)を受賞した折り紙つきの本。台詞の応酬で綴る4人の舞台劇は、簡素ゆえの力強さと、多義的な台詞によるポテンシャルを保ったまま、理想的なキャストと素晴らしいスタッフ(撮影監督は『ノーカントリー』のハワード・ショア、編集は『ブロークバック・マウンテン』『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』のディラン・ティチェナー等々、詳しくは公式サイトへ)を得て、陰鬱な美しさと胸騒ぎに満ちた映画らしい映画になった。

時代は1964年とされている。映画冒頭のフリン神父の説教にも登場するとおり、ケネディ大統領が暗殺された1年後の晩秋。公民権法はまだ制定されたばかりで、翌年にはベトナム戦争に突入しようという年。キリスト教世界が現代社会に合わせて変わり始めようとしていた節目の年でもある。シャンリィによれば、(当時14歳だった)「私だけではなく、世界全体が、ある種の果てしない思春期を通り過ぎているような時期」だったという。

このような時代背景やキリスト教文化は、映画の内容そのものを理解するためにはもちろん重要だが、この作品の本質ではない。これは、9・11以降の現代アメリカに向けられた、原作戯曲のタイトルが示すとおりの、フリン神父の説教のような長い例え話なのだという。

映画を見終えた後には、作品の完成度から得られる充足感とともに、「ラストのアロイシス校長の台詞の意味は何だろう」、「映画の寓意は何だろう」といった幾つものクエスチョンマークが、ただの疑問ではなく、様々な思考とともに湧き上がってきた。実はそのクエスチョンマークが1週間持続していたのが、今ごろ感想を書いている理由の1つである。で、答えの「おこぼれ」にでもありつきたくて、原作戯曲を読んでみたりもした。

その原作戯曲の「訳者あとがき」の中に、この作品が「疑いを持つことの効用」を説いたものだという一節を発見した。我々のような普通の観客の感想からプロの文章に至るまで、この作品の主題である「疑い」を、「効用」というようなプラスの意味で解釈した文章は、多分ほとんど見なかったと思う。もちろん、ストリープ演じるアロイシス校長の最後の台詞を含め、この映画が、疑いの良し悪しなどと言う以前に、人間を見事にとらえた作品であることで十分見るに価するわけで、小学生の作文のような教訓をこじつけるのは馬鹿丸出しかもしれない。

が、原作戯曲の献辞はカトリック系修道女に向けたものであり、本国の映画公式サイトでインタビューに登場するのも、登場人物のモデルとなったシスターたちである。

原作戯曲に対するインタビューで、テーマを尋ねられたシャンリィはこう答えている。「(前略)ここ数年、ブッシュ政権になってから、国全体の雰囲気として、なんの理由もないのに人々が確信してしまうという傾向が見えてきた。テレビでも、他のヒトの言うことなんか聞いていなくて、ただ相手に打ち勝とうという傾向。これは、注意すべき点だと思った。それと、昔からの賢者たちの領域である「疑う」という行為が、いまの時代、我々の文化のなかでは弱点として捉えられているのは、大きな間違いだと感じたんだ。そこで、芝居を通じて観客が「疑う」という行為を体験してほしいと思った。そして、結論や解決をつけないで、観客にそのまま、その疑いを持って帰ってほしいと思ったんだ。単純な答えを出さないでね」。

また原作戯曲の序文では、「疑い」が物事を変え人々を成長させるとし、「疑いは信念よりも勇気がいります。また、もっとエネルギーを要します。なぜならば信念は休憩地で、疑いは永久に続く――情熱のいる修練だからです」と記している。

よくよく考えてみれば、アロイシス校長は校長と言えども、キリスト教会ではフリン神父よりも下の階層に位置している。それは作品の中でも、校長がフリン神父を問いただしたりすることはできないということや、呼び出された神父が当然のように校長の椅子に座ってしまうこと、最終的なフリン神父の処遇などから理解することができる。

シスター・アロイシスは老練な校長(権力者)として、同僚や部下を不当な疑いで追い込んだわけではない。自分たちにとって逆らう術のない上位者を、身を賭して糾弾したのだ。オープンで温かく新しい価値観を持ったフリン神父と旧弊なアロイシス校長の対決という図式では、現代人にはどうしてもフリン神父の方が正しく思えてしまうが、新しさも「お上」が取り決めた範疇のことなのである。

上からやってくる正しいはずの何かが本当に正しいかどうか、正しそうな顔をして上からやってくるからこそ、正しさを盲信して「巻かれて」いれば楽だからこそ、むしろその正しさを絶えず疑ってかかれという警鐘を、この作品は鳴らしている。

現代、教会(に限ったことではないが)における神父の児童生徒への性的虐待は大きく取り上げられてきているというが、その功績の一端は、シスター・アロイシスのような人々の勇気ある態度にあったのではないのか。

そんな風に考えると、アロイシス校長の最後の台詞が、映画を見た直後とは全く別の意味があるように感じられてくる。舞台版での最後の台詞は、メリル・ストリープのそれとは異なる表現だったらしいが、演じたチェリー・ジョーンズはその台詞を、信仰心の揺らぎ――つまり、自らの神への愛に対する疑いと解釈して演じたそうだ。それは、映画でストリープの台詞を聞いたときに自分が感じたものと同じだった。が、「疑い」をもっと積極的に評価したとき、あのストリープの台詞は、本当は心の平安がほしいのに、それでもまだ、子どもたちと関わる仕事をしているフリン神父に疑いを感じるという、疑惑の無限地獄の苦しみの中から発された言葉のように思えてはこないだろうか?(え、無理?)

そんなシリアスなこのドラマには、実は、コミカルな場面もいろいろある。頭スコーンから始まって、「ドミノ倒し」や「鼻血」に、お砂糖3つ事件など……。ちょっとした台詞や「間」だったりするので、聞き逃してしまいがちだが、原作戯曲で読んでいても、声を出して笑ってしまうぐらい可笑しい場面である。

最後に名前について。原作戯曲でも公式サイトでも、セント・ニコラス・スクールの校長名(Sister Aloysius Bauvier)は日本語では「アロイシス」(・ボービエ)と書かれているが、映画字幕では「アロイシアス」になっていたと思う。実際の発音は知らないが、ラテン語読みだの、英語読みだのといろいろと事情があるのだろうと思う。読みが気になってちょっと調べてみたら、聖アロイシスは16世紀イタリア生まれの聖人で、青少年(子どもたち)の守護聖人だという(←意味深だ)。一方、フリン神父の洗礼名はブレンダン。聖ブレンダンは5世紀アイルランドの聖人で、映画冒頭の疑いについての説教の中に出てくる海で迷った人の如く、長い間弟子たちと海を旅した人だった。当たり前なのかもしれないが、イタリア系移民とアイルランド系移民を中心としたブロンクスのカトリック系学校を象徴するような、登場人物2人の名前である。シスター・アロイシスは米国に渡る前、ヨーロッパでレジスタンス運動に携わっていたりしたんじゃないのかとか、ふと空想したりもした。

記事タイトルは、シスター・アロイシスの台詞から。
(ジェームス) 最近、夜、眠れなくなったからです。いろいろなことすべてに、確信が持てないんです。
(アロイシス) 我々は、あまりよく眠ってはいけないということなのかもしれません。(後略)

2009.03.10

春もありがとう

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秋はなかったはずなのに(ですよね?)、夏&冬に続き、春も郵便局にて「ありがとうフェア」開催中。3月2日~4月17日まで。

冬はシールが2枚集まったのに、応募ハガキを投函し忘れたまま期限が来て終了した。シールはかわいいし、シーズン中は、郵便局内にキャンペーンポスターやらノボリやら、にぎやかに飾られて盛り上がっている感じもなくはないが、ありがとうフェアでもらえるのは普通の賞品で、ポポックたちとは一切関係ないため、今ひとつ応募に気合いが入らない。

でも、サイトで見る春のCMは、映像も歌もなかなか可愛い。 ♪郵便局でシール、シールもらう。春、春、当たる。貼る、貼る、当たる♪ テレビ放映を見たことはないが……。

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