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2008.09.29

The Leading Man

今でも、せめてDVDスルーでいいから邦盤が発売されないかと心から願っている《Infamous》。いい加減しつこいと思いながら、いつもDVDの発売スケジュールをチェックせずにはいられない。

Wittclその《Infamous》の冒頭、ニューヨークのナイトクラブで女性シンガーが歌い出す。彼女の名はキティ・ディーン。グウィネス・パルトロウが演じている。歌の世界が、弾むような恋の喜びから失恋の痛みに変わるにつれ、まるで歌詞が歌い手自身の辛い恋の告白の言葉そのものであるかのように、歌はテンポを落とし、ついには悲しさに飲み込まれたキティが声を止めてしまう。恋のゆくえ、いやステージ・パフォーマンスのゆくえを、心配顔で客席から見つめているのが、トルーマン・カポーティ(トビー・ジョーンズ)。伴奏が止まり、不安な静寂に満たされる店内。一瞬の静けさが自分を取り戻させたのか、キティは思い出を頭から振り払おうとするように顔を上げて、再び恋の不思議を歌い出す。安堵の空気とともに、店内は歓声につつまれ、カポーティも満面の笑みで力一杯の拍手をステージにおくる。

観客をカポーティの時代に連れて行くこの場面はとても印象的だが、特にその後の内容に関連しているわけではなく、映画の枕詞のようにポンと最初に置かれている。ややアップテンポにアレンジされた曲のタイトルは、『恋とは何でしょう(What Is This Thing Called Love?")』。これから始まるカポーティの「恋」――事件と創作とペリー・スミスへの執着――の物語を象徴するような、コール・ポーターの名曲である。

20世紀前半に活躍した音楽家コール・ポーターの後半生を、最期の近づいたポーター本人が、ミュージカル仕立ての舞台として客席から眺めては文句をつけるといった仕掛けで描く、映画『五線譜のラブレター』(原題:"De-Lovely")には、『恋とは何でしょう』をはじめ、ポーターの代表曲が目白押しだ。しかも、ナタリー・コールやエルビス・コステロ、アラニス・モリセットといった誰もが名前を知っている歌手たちが次から次へと登場しては歌ってくれるという、珍しくも貴重な映画である。(映画なので曲が短いのが残念だが、サウンド・トラック盤は至福の1枚と言えるだろう)

この『五線譜のラブレター』の中にジャックという名の若者が登場する。ちょっとした脇役の1人だか、彼を演じているのがジョン・バロウマン。以前DVD発売のニュースでも取り上げた、英国のSFドラマ『ドクター・フー』のスピンオフ作品 《Torchwood》(日本版DVDタイトル:『秘密情報部 トーチウッド』)で、結構トホホな秘密組織「トーチウッド3」のアナクロいリーダー、キャプテン・ジャック・ハークネスを演じている我らが主役である。(ずっと前に、彼の歌についても少し触れました→ほんの少しですが

ジャックは、初期のヒット・ミュージカル《The Gay Divorce(陽気な離婚)》の舞台稽古の場面で、ピアノを前に『夜も昼も("Night And Day")』のレッスンをしているが、音が低すぎて歌えないと怒り出す。初日を3日後に控え、客席側でステージをチェックしていたコール・ポーター(ケビン・クライン)は、あわててジャックに駆け寄るが、ジャックは曲を書き直せと言ってきかない。ポーターは、どうにかしてジャックに歌わせようと説得する。楽しんでいないから歌えないのだ、メロディーのことを考えず歌詞に集中しろ、これは恋に憑かれた歌だと……。

Nad「僕の目を見て、ほかのことは考えないで」と、『夜も昼も』の狂おしい恋の世界へ導くかのように、ジャックと一緒に歌い出すポーター。「夜も昼も浮かぶのはあなただけ」と訴えかける愛の歌を歌いながら見つめ合って、彼らは恋に落ちる。(という意味のことを、監督がコメンタリーで言っているのだから、そうなのだろう……)

ミュージカルのリハーサルは、歌の進行とともに切れ目なく本番の舞台の場面に移行し、ジャックはいつのまにか、コール・ポーターにではなく、本来の相手役(恐らく《The Gay Divorce》のヒロイン、ミミ)に向けて、主役ガイの扮装で燃えるような想いを歌いかけている。曲は、ガイとミミとの抱擁で締めくくられ、女優が役目を終えてほんの一足先に舞台上手へ下がっていく。引き続いて舞台から立ち去ろうという直前、ジャックは、コール・ポーターのいる客席の1点に、想いを込めた視線を投げかけて、そして消えていく。余韻を残すシークエンスである。

「余韻」は、ポーターと学生時代から最期まで親交のあった俳優、モンティ・ウーリーの「粋な計らい」へと引き継がれていく。《The Gay Divorce》の初日の幕が下り、オープニング・パーティへと誘う妻リンダを断って、ポーターはモンティの用意した馬車に乗リ込む。「君の初日祝いは手が込みすぎている」と文句を言うポーターに「リンダのシガレット・ケース(初日祝い)にはかなわないが、こっちのほうが君にあっている」とやり返すモンティ。夜の公園を駆ける馬車の上で、モンティがポーターに、御者席の男を紹介する。振り向いた御者はジャックだった……。「あとは、君たちの即興で」と馬車を降りるモンティ。

コール・ポーターの半生を描いた『五線譜のラブレター』は、ゲイである主人公と、それを承知で結婚した妻リンダの夫婦愛を主軸にすえてはいるが、劇中劇の中にまた劇があるような複雑な映画のつくりと同様に、単純に夫婦愛を謳い上げるようなことはしていない。人の人生の真実は、当事者以外にはわかりようもない。リンクして良いかどうかわからないので書けないが、ある方が、ミュージカル演劇鑑賞者の立場から、この映画に関する見事な評(鑑賞メモ)を書かれている。その中で最もうなずいたのは、歌や劇中劇を交錯させたフィクショナルな表現が、後世の脚本家が描き出したポーターの虚構の生涯に真実味を与えているという指摘だった(←自分の言葉で書き直してみたので、意味がブレてしまっているかもしれないが……)。そして、「あったかもしれない」「なかったかもしれない」と考えざるを得ないこのスタイルは、コール・ポーターその人とその真実の人生を、決して踏みつけにしたりしない。ポーター夫妻の人生の明暗、喜びと悲しみの振幅を、ポーターの曲に乗せて、確信を持って、しかし慎み深い態度で描き出している。ジャックのエピソードは、コール・ポーター個人の人生という面からは人生の愉しみを表すものだが、リンダという伴侶を持ったコール・ポーターの人生においては、2人の関係に差す影の1つである。

ジョン・バロウマンの歌う『夜も昼も』は、本来フレッド・アステアの持ち歌である。《The Gay Divorce》の舞台でも、映画版である『コンチネンタル』(原題:"The Gay Divorcee")でも、主演のフレッド・アステアが歌った。『五線譜のラブレター』のコメンタリーによれば、「こんな歌は歌えない」と怒ったのはアステアだったらしいが、アステアを役として登場させると、物語の進行上、アステアがゲイだということになってしまうため、ジャックに歌わせたのだという。

歌には相当な自信を持っていそうなバロウマンなら、どんなに難しい曲でも「歌えない」とは言いいそうにもないが、その彼が「歌えない」という台詞を口にするあたりが面白い部分でもある。この場面の撮影は長時間におよび、バロウマンは50回ぐらい『夜も昼も』を歌ったそうだ。「でも「もっと歌えるよ」とけろっとしていた」と言っていたのは、ケビン・クラインだったと思う。映画で使われたのは撮影時に同時録音した歌声なのだそうだが、何度聴いても、恋する想いが切実に伝わってくる迫力のある歌唱だと思う。ちなみに、ロケで使われた劇場は、何とオールド・ヴィック座だそうだ。

ジョン・バロウマンの『五線譜のラブレター』における出演シーンは、このエピソードと、オープニングとエンディングでの、コール・ポーターの「人生」の出演者全員が歌い踊る場面のみである。

本編出演者の中では無名に近いジョン・バロウマンだが、この映画で起用されたのは、監督によれば、彼がロンドンでコール・ポーター作のミュージカル『エニシング・ゴーズ』の舞台に立っていたことが1つのきっかけらしい。この映画がつくられた2004年の時点でウェストエンドとブロードウェイのミュージカルの舞台で10数年のキャリアを持ち、テレビやラジオでも活躍、2005年にはミュージカル版『プロデューサーズ』の映画化作品にも出演したジョン・バロウマンが、自分のキャリアの頂点だと語るのが、2005年に復活した『ドクター・フー』新シリーズのキャプテン・ジャック・ハークネス役である。その言葉だけで、逆に『ドクター・フー』というSFドラマの欧米での人気の凄まじさの一端が垣間見えたりもする。

そんな『ドクター・フー』の、脇役の1人であるキャプテン・ジャックを主役に据えたドラマ《Torchwood》ができると知ったときのバロウマンは、例えそれが『ドクター・フー』シリーズ間の穴埋め的な企画であろうと、相当に嬉しかったらしい。その日は2005年7月7日。ロンドン同時爆破事件が起きた日である(本人自伝による)。


ということで、このかなりヘンテコな英国ドラマ《Torchwood》について、日本版DVDもシリーズ2まで発売されて大分過ぎたけれど、ぽつりぽつりと書いてみたいと思っています。ヘンテコ具合をすべて理解して咀嚼できる自信など、これっぽっちもありませんが……。

2008.09.08

海洋映画祭。

奥さまは首相~ミセス・プリチャードの挑戦~』は面白い。でも、全6回なので9月中には終わってしまう。1回目はたまたま食事中にテレビをつけたら放映中で、最後の20分ぐらいを見た。2回目はやや意識的に見た。主人公(ミセス・プリチャード/地方都市のスーパーの店長)が首相として演説する場面は感動的だ。二世、三世議員が跋扈する日本の現実では考えられないような彼女の言葉。それがドラマとして成立するのだから、英国の現実だって苦々しいものなのだろう。あと4回、うまく見られれば幸運だ。

8月は映画館に足を運ばず。7月以来の映画館は、アジア海洋映画祭イン幕張。前売券を3枚申し込んであったので、いかにこのところ出不精気味とはいえ、すべてのチケットを無駄にする気にはなれず、頑張って出かけた。この映画祭は4回目だが、参加は初めてだ。幕張は地理的には自宅から決して遠い場所ではないのだけれど、乗り継ぎが悪いととんでもないことになる。帰りは1時間で帰れたのに、行きは1時間40分もかかり1本目の頭を見逃す始末だ(←いつものことだろ)。

インドネシア映画『フォトグラフ』と韓国映画『少年監督』、タイ映画『夏休み ハートはドキドキ!』の3本を見たが、噂にたがわぬ作品の質の高さの上に、故郷に帰ったかのような何ともしれぬ懐かしさのようなものが肌身に染みた「アジア」映画だった。

コンペティションのグランプリは、「エドワード・ヤンの弟子」だという魏徳聖(サミュエル・ウェイ)監督の『海角七号』だそうだ。スケジュールが合わず見られなかったが、あちこちで賞をとっている作品だそうだから、きっとまた上映されることもあるだろうと思う。

特に良かったのは、インドネシア映画『フォトグラフ』。東南アジア色の画面に、甘くない郷愁の漂う佳作だ。パンフレットによると、ロケは中央ジャワのチャイナタウンとのこと。過去にとらわれて生きる老いた男と、人生と戦う若い女の、血縁関係でも男女関係でもない人と人とのつながりが、アジア的な思いやりの中でおずおずと少しずつ深まっていく様子が、男の生業である写真館を舞台に展開する。老人の過去ゆえに、供物と線香を捧げ死者を弔う場面が全編を覆っているが、悲観的な人生観を持った作品ではない。何よりも写真館の跡継ぎが欲しかった老人は、その夢をかなえることはできなかったが、写真館の屋根裏の間借人であり、アカの他人である女性と彼女の娘の中で、思い出として支えとして生き続けることになる。

韓国映画『少年監督』も非常に良い作品だという評判にたがわぬ、幾つかの場面やイメージが様々な思いを呼び起こす力を持つ、基礎体力のある映画だと思う。江原道の夕焼け谷(←原語は忘れました。何とかコル)という村に暮らす小学生の少年が、映画作家を志していた亡き父の残した「壁画」を8ミリに収めようと、ソウルまで8ミリカメラの使い方を学ぶために出かけていくというロードムービー。イ・ウヨル監督はティーチ・インに参加された。場内でも質問者の方が指摘していたように、こちらは『フォトグラフ』と逆に、コメディタッチの明るい語り口でありながら、非常にシビアなラストが待っている。けれど画面からひしひしと伝わってくるのは、絶望感でも何でもない。伝播するほどの映画への情熱の不思議さと強さ。何度も登場する米研ぎシーンや食事の場面に表象される生活の大切さ、強く生きることの大切さ。そして人との縁。現実はぶちのめされるほど厳しいけれど、それをどうやって乗り越えて生きていくのかということを、少年の身を持って感じさせてくれる、辛いけれど元気になれる映画だった。

『夏休み ハートはドキドキ!』は女子が非常に可愛かったけれど、ハートがドキドキしない年頃には、余りに長い時間だった。とはいえ、純粋な若者たちの細やかな感情描写は素晴らしい。非モテ、非恋愛系、オタク寄りの人生を歩んできた身としてはやはり、オクテな大学生ジョーがキャンパスの美女シーに片思いするエピソードとか、台湾アイドルに熱中する菊池桃子似の追っかけ少女オーレックのエピソードがわかりやすいし好きだ。

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