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2008.07.27

オレが書かなくとも

7月半ばに発表された2008年の東京国際映画祭のポスターを見て、ただでさえ心もとないこのイベントが、ますます不安に感じられた方はきっと少なくないはず……。

たまにしか出てこないから、鮮度の落ちたネタばかりで情けないですが、さらにもう少し前の話を……。

退会しようしようと思いつつ、毎年連絡しそびれて、何か良いことがあるやらないやらわからぬ「会員」資格が継続され会費が引き落とされ、自動的にやってきてしまう「香港電影通信」。先月来た号(6月号)をぼんやり見ていたら、DVD紹介のコーナーに、どこかで見た名前が……。それは7月4日発売のアクション映画『ソードキング』というタイ製のアメリカ映画で、16世紀、Geographical Discoveryの時代のタイ王朝を舞台にした権力抗争物。そこに(おそらくは主演格として)最初に書かれていた俳優の名が、ゲイリー・ストレッチ。どこかで聞いたと思いながら、ピンと来るまでに、ひと呼吸。思えばそれは、クレイトス、あの「黒のクレイトス」の中の人の名前ではないか。 紹介文によると、なかなかに引き締まったエンタテイメントのようで、どこかで縁があったら見てみたいものだと、そして我が"マイティ"クラテロス兄貴はどうしているのかと、思いを馳せた。……クレイトスの衝撃的な最期は、大王の栄光に満ちた短い人生の影の部分を象徴するような辛い事件であるだけに、その名前を思い出すと、ずっと時代を下ったこんなミーハー者でもちょっと胸が痛い。


Background_map25日、山形で見損ねて危うくまた見損ねそうになった『バックドロップ・クルディスタン』の、ポレポレ東中野での最終上映(最終日最終回)に間に合った。25歳の監督が処女作として世に問うた、この求心力の強いドキュメンタリーをどう書こうかと思っていたら、パンフレットに阿部嘉昭氏の余りにも見事な、詳説とでも言うような評論が載っていて、読んでただひたすら「そのとおりだ!」とうなずき、満足してしまった(←バカ)。同じパンフレットの佐藤忠男氏の文章がすっかり前座の趣である。

映画は、映画制作の専門学校で学んだ野本大監督が地元埼玉で知り合ったクルド人難民カザンキラン一家の、日本での闘いを描いた前半と、カザンキラン一家を迫害したトルコとそこに住むクルド人を現地で取材した後半からなる。しかし、そんな言葉でまとめられるような単純な内容では決してない。

大体、日本人には難民そのものが遠い存在である。クルド人にいたってはさらに遠い存在である。でも、「何も知らなかった日本人としての私」=監督自身の視点から描かれていることと、カザンキラン一家を、難民という、社会問題を背負った単なる取材対象としてではなく、監督自らが彼らと関わる日々の中で信頼を深めた結果としての、日本で困窮している身近な「友人」一家として描いているため、日本人の観客にも入り込み易い。

恥ずかしいことだが自分自身、クルド人がどのあたりに住んでいる民族で、どのような歴史的背景を持っているかということを、ごく簡単にとはいえ知ったのは、2006年の東京フィルメックスで上映されたイラン映画『半月』(バフマン・ゴバディ監督)を見てからだ。それ以降は、新聞の国際面に載るトルコでのクルド人弾圧の記事なども目にとまるようになった。『バックドロップ・クルディスタン』には、『半月』に出てきたような、死んだように静まり返った貧しい村が登場する。取材費用などごくわずかだったであろうに、監督はそんな山奥にまで行って、クルド人のアイデンティティ、いや、友人であるカザンキラン一家がどういう人たちなのかを知ろうとした。

でも、クルド人難民を追い、トルコで現地取材までしたこの映画が訴えかけるものはクルド問題ではなく、日本という国の閉鎖性と日本人の無関心だ。

トルコから逃げて来て何年も日本に住み、日本語も覚えたクルド人一家が、日本では移民として認められた形で暮らし続ける術がなく、国連からの難民認定を持って別の国へ行くことしかできない。その国連の難民認定ですら、国連大学前での座り込みによってやっとの思いでもぎとったものなのに、一家揃っての第三国への出国前に、一家の父と長男だけが、入国管理局での仮放免申請(不法滞在とされないための日本での在留資格の申請)時に突然収容され、特別な理由もなくトルコへ強制送還されてしまう。残された母と娘たちは、再び一家が揃う日を夢見て、自分たちだけで第三国へ旅立つことになる。

パンフレットによれば、日本の難民受入状況は、欧米諸国の年間数千~数万人に比べ、年間数十人という少なさで、クルド人難民に至っては、およそ500人ほど住んでいるにもかかわらず、1人として難民認定されていないのだという。

日本を舞台とした前半は、カザンキラン一家の人間としての叫びが画面を支配し圧倒するが、主役の一家が姿を消し、舞台をトルコに移してからは、友人家族が安心して暮らせる国に行こうという矢先に引き離された上、その命までを危険にさらすような目に合わせる理不尽が、監督自身の母国の政府によってなされたという憤りとやるせなさ――「何でなんだよぉぉ!」という叫びと、その国を形づくっている国民の1人である自分への深い自責の念が、映画を引っ張っていく。

ラストシーンは、カザンキラン一家の父アーメットが、監督に向けて語りかける「日本人は悪くない。クルド人も悪くない。悪いのは日本のシステムだ」という声で締めくくられている。

この映画の、たった2人のチームである野本大監督と、撮影と編集とプロデューサーを兼ねた大澤一生氏は、阿部嘉昭氏の批評が言うように「慎ましく」、父アーメットの最後の言葉を「目を伏せて」聞いている。目を伏せてというのは、話をしているアーメットと視線を合わせない、つまりカメラがアーメットの顔を映さないということだ。「日本人は悪くない」という言葉に居心地の悪さを感じて戸惑うかのように、フレーム(視線)をアーメットからそらし、目を泳がし続けて映画は終わる。アーメットの表情を映した部分もあったのかもしれないが、選んだのならなおさらに、あのもじもじとした画面は、「悪いのは日本人ではない」という言葉に納得せずに行く、という厳しく慎ましやかな意志表明であると思う。

映画の中には、ジャーナリスティックな状況分析の部分もある。そんなあたりも含めて、世界各地で続けられている民族紛争が、歴史や宗教の問題というよりも多分に、経済的政治的な要因が強いのではないかということを、何となく考えさせられたりする。そしてその「政治」のあり方を選択しているのは、国民なのだということも……。

【公開予定】
◆横浜・シネマジャック&ベティ(8月16日(土)~29日(金))
◆広島・横川シネマ       (9月6日(土)~)
◆名古屋シネマテーク     (公開決定)
◆大阪・第七藝術劇場     (公開決定)

舞台挨拶での野本監督を見たら、全然似てないのに、なぜかポン・ジュノ監督を思い出しました。若いからか?

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コメント

【社会】外国人の生活保護世帯急増、登録外でも37自治体が対象に★3
http://mamono.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1217146789/

外国人が日本人の税金で贅沢三昧か・・。
確か在日朝鮮人の生活保護だけで、数兆円だっけ??日本人はおにぎりが食べたいって言う言葉を残して餓死したっていうのに・・
月17万がただで貰えるんだから羨ましい限りですよねぇ。
それなら、中国韓国北朝鮮が好きな人に、彼らの生活保護費を払ってもらばいいと思いませんか?
彼らとは無関係の日本人が、彼らに貢ぐ理由がこれっぽっちもありませんからね。
それに彼らは年金の掛け金もなしで、年金が貰えるんですよね・・。良いなぁ。

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