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2008.03.31

花冷え

寒さで花見にも行かずじまい。

オスカー・ワイルドの戯曲『まじめが肝心』を、ルパート・エヴェレットのアルジャーノン、コリン・ファースのアーネスト(ジャック)、リース・ウィザースプーンのセシリーで、2002年に映画化したラブ・コメディ《The Importance of Being Earnest》が、何だか知りませんが今ごろ、国内盤DVD(タイトル『アーネスト式プロポーズ』)として4月4日に発売されます(DVDスルー、日本公開なしの模様です)。海外版でとっくに見てしまっているし、何ら特典もなさそうな感じなんですが、細かい言葉遊びの部分などは是非日本語字幕で見てみたい気がします。ガイ・ベネット母を演じたAnna Masseyも出演……というか、脇を固めているのはえらく豪華な方々ばかりです。

そして、ことしもまたEUフィルムデーズ2008がやってきます。ラトビア、リトアニア、スロヴェニアといった滅多に見られない国の作品もあります(一部、日本語字幕なしの上映もあるようですが)。5月16日~6月5日。

アラブ映画祭はその後、25日にラシード・マシャラーウィ監督の『Waiting』と、サミール監督の『忘却のバグダッド』を見ました。どちらもアンコール上映で、中東を知る上で非常に重要な作品です。『Waiting』は中東地域のパレスチナ難民キャンプを巡っていくドキュメンタリー仕立てのフィクション。『パレスチナ・ナウ』を読んで以来、見たかった作品の1つです。"Waiting"とは、ガザ地区で建設中の国立劇場の杮落としの芝居のために行う俳優オーディションで、俳優たちに与えられるテスト演技のテーマなのですが、登場するパレスチナの人々の多くが、日々の生活においても、人生においても、希望もなく、あるいはすがるような思いで、あるいはほかになすすべもなく、「待っている」「待つしかない」状態に置かれていることが見えてきます。国もないのに国立劇場、8年もつくり続け出来上がる保証もない劇場なのに杮落としの準備、そんなグラグラな足場の上で、ガザを出て各国のキャンプを回るオーディションを義理で引き受けた映画監督(主人公)が、徐々に真剣になっていく様子が興味深く、その真剣さを打ち砕くような結末がリアルです。でも基本的には、アイロニカルなコメディです。そのあとに見た『忘却のバグダッド』とともに、見るべきこと、読み取るべきことが沢山ある作品なので、1回見たぐらいで何かが書けるとはとても思えません。『忘却のバグダッド』は、インタビューと古い中東の映画の場面で綴るドキュメンタリー。登場するのは、全員がイラク系のユダヤ人。イラクにおいてはアラブ人として暮らしながらもユダヤ人として差別され、イスラエルに移住しユダヤ人として暮らせば、イラク人・アラブ人として差別されたという。ニューヨーク市立大学で教鞭を取るエラ・はビーバ・ショハットが、イスラエルのテレビ番組で「イスラエルに差別はある」と発言し、反発する司会者を尻目に、スタジオ内の観衆の支持を勝ち取る場面は圧巻です。ショハットの本で、日本語訳されたものはないのでしょうか(なさそうだ)。しかし、こんなことしか書けないのがもどかしいです。

2008.03.24

俳優萬歳

"バンコク明け"の半徹状態で、アラブ映画祭2008にて、かろうじて2本見る。10秒ほど意識が遠のいた時間はあったけれども、それ以外は、幸いにして全く眠くならず。楽しかった。

1本はシリア映画、『サービス圏外』(毎度のことながら、10分遅れで入場したため冒頭を見逃す。ごめんなさい)。刑務所で服役中の親友に代わり、親友の妻と娘の支えとして、生活費から日常の雑事までを手助けをしている妻子ある中年男が、親友の妻への愛に悩む話で、こう書くと意外に「よくある話」の感じがするが、日本人の感覚で驚くべきは、主人公の男が、親友の家庭と自分の家庭とを、まるで2人の妻を持っているかのように、公然と行き来することである。親友の娘を学校まで迎えに行ったりもする。そういう二重生活は、やましいところは何もないという表向きの前提で、互いの家庭で了解済みなのだが、男の妻は、夫がよその家庭に入り浸るのは面白くないし、親友の妻も、自分たちのために尽くしてくれる男が「家族」ではなく、自分の家庭を持っていることが何だか面白くない。その実、親友の妻と男の間の気持ちは、「夫の友人」「親友の妻」という以上のものになりつつあり、男の妻もそれを疑っているから、関係者は皆、自分の中の疑いと恐れと満たされぬ思いを抱えてボロボロである。しかし、映画はコメディ。絡まりあった2つの家庭の男と女の奇妙な日常を、からかうように慈しむように、映し出す。

今ひとつ、シリアの事情を知らないために理解しきれなかった部分もあるのだが、見どころは、映画祭パンフレットの紹介にもあるように、ロングで映し出されるダマスカスの風景。そして、主人公の男の八面六臂の仕事っぷり。多分本来の仕事である菓子作りのほかに、タクシーの運転もすれば、仕事かどうかは知らないが、シリア在住の日本人("シャンタニ"さん)にアラビア語を教えたりもする。タクシーに乗り込むヘンな客たちとのやりとりも面白いし、"シャンタニ"さんとの場面も何ともユーモラス。そんな軽妙な喜劇描写とともに、どうにもならない愛に悩む孤独な人間たちが濃く描かれている。一言で言ってしまえば、凝った不倫物コメディ。楽しいけれど、要素が多すぎるせいか、やや散漫に感じられた。

2本目は、たぶんこの映画祭の、いくつかある目玉の1つとおぼしきエジプト映画、『ヘリオポリスのアパートで』。いつもエジプト映画では俳優たちに「参る」のだが、今回も、芸達者な男優陣と魅せる女優陣に惹きつけられた。俳優たちの描き出す人間像の深さ、面白さ、陰影に感じ入るというのは、当然、監督の演出の力でもあるのだろう。女性の人生の愛や結婚に関する価値観をテーマに、20代後半の純朴な女性が、上エジプト(南部エジプト)の田舎からカイロを旅する数日間の体験を描いた、自己発見の物語。エジプトは、アラブ世界のハリウッドと言われる映画大国で、当然その主流は娯楽作品であり、作家性の強い芸術映画を作っていくのは大変なことだと、日本人が見たら十分ロマコメな娯楽作と言える『ベスト・タイム』『カット&ペースト』のハーラ・ハリール監督が東京国際映画祭で言っていたが、『ヘリオポリスのアパートで』は、どのあたりの位置にあるのだろうかと、ふと思う。

学生時代の音楽教師が語った運命的な恋愛観に感化されたまま大人になり、特定の恋人もできず、親の勧める縁談にも気乗りせずの、悩める夢子ちゃんが進退窮まって、カイロにいるはずの昔の音楽教師を訪ねて、田舎町からやってくる。まだまだ女性の自立などとは程遠い価値観を持つ人々の多い地方で暮らし、28年間の人生で初めての旅。しかし訪ねた相手は「失踪中」で見つからず、探し回る中で出会う人々から、恋愛や結婚の苦しみや喜びといった現実を学び取っていく。結局、家に帰って親の勧めるルートに乗ってしまうのか、それとも「誰か」と出会うのか、どちらにしても余り釈然としないなぁと思いつつ、練れた脚本にぐいぐい引っ張られて、ヒロインの奮戦を楽しんだ。終盤は、ハッピーエンドのラブ・ストーリー的な方向に向かっては行ったが、結局、ヒロインが夢子ちゃんを脱却し自信に満ちた自分の人生を歩み出すのだろうなと思わせる、含みのある旅立ち(帰郷)で、見事に終わってくれている。

都会で出会った運命の恋人とのハッピーエンドのラブ・ストーリーが悪いわけじゃない。けれどそれでは、彼女が少女のころに見た夢が実現しただけだ。先生の言ったことは正しかった。自分の人生は間違いじゃなかった。それでは、お話にならない。

とはいえ彼女の「自立」は、人にはそれぞれに悩みがあり、喜んだり悲しんだりしながら生きていることを知ったこと、人生とはそういうものであると悟ったこと、都会で出会った運命の恋人がありのままの自分を認めてくれたことからくるもので、彼女自身も、物語そのものも、恋愛や結婚という巨大なイリュージョンに掠め取られている、あるいはその域を出ないという意味では、やはり娯楽作品か。

これも映画祭パンフレットの紹介文にあるが、ムハンマド・ハーン監督、女性を撮らせたらビカ一だそうで、それはこの映画の地味でおどおどとしたヒロインが、画面の中でどんどん輝きを増すのを見ればわかる。旧作『ヒンドとカミリアの夢』の上映日に行けなかったのが悔やまれる。

2008.03.23

曼谷愛情故事

以前、近況で書いた《Bangkok Love Story》。ポット・アーノン監督の2007年公開のタイ映画。"曼谷愛情故事"は台湾の公開時のタイトルで、香港では"曼谷之戀"で公開されていたようです。今さらな話題ですが、自分のバカさ加減に呆れながらも、本日動画サイトでほぼ全編見てしまいました……。→公式サイト

雰囲気的には、『ブエノスアイレス』の設定を借りて、パラレルワールド黒社会モノの2時間ドラマをつくりました、それを甘ったるいバラードに乗せて長編MVにしてみました、といった感じもなきにしもあらずですが、主役2名が2枚目&素敵なボディ&無精ひげ面なのと、テレビドラマ的な、展開のための展開といったストーリーの合間に、視線と視線が絡み合うラブシーンがはさまり、まあ飽きさせはしません。音楽はうるさいですが、台詞が少ないのと、真摯に取り組んでいる感じは良いです。主演は、殺し屋がRattanaballang Tohssawat(ラタナパンラン・トーサワットと読むらしい)、ターゲットがChaiwat Thongsaeng(チャイワット・トーンセーンと読むらしい)。台湾での紹介記事を読んだときには、殺し屋と刑事の恋愛物と書かれていたような気がしましたが、それは記憶違いで、殺し屋とそのターゲットとして出会った男たちのラブストーリーです。最もホモソーシャルなジャンルを題材にしたところと、ラブストーリーの部分の力関係では、ターゲットだった男が追い、殺し屋が逃げる形になるところが新鮮味といいましょうか……。

フィリピンでも、ジェイ・マナロでマニラ・ラブ・ストーリーとか、だめですか? 監督はもちろんエリック・マッティ(笑)。

すっかり夜明けです。アラブ映画祭、爆睡してたらごめんなさい。

2008.03.17

この世がなければあの世がある

ノーカントリー』を見てきた。パンフレットは売り切れていて買えなかった。

この映画のことを書いた文のほとんどが触れている原題《NO COUNTRY FOR OLD MAN》は、コーマック・マッカーシーの原作を訳している黒原敏行氏のあとがきによれば、「老人の住む国にあらず」。イェーツの詩の一節だそうだ。

だが、この作品で最後まで残るのは「老人」ばかりだ。

山ではなく砂漠だが、『ブロークバック・マウンテン』同様、荒涼たる土地が舞台となるこの映画もまた、風のふきすさぶ音で幕が上がる。麻薬取引にまつわる殺人現場に残されていた現金を、ハンティング中にたまたま見つけ持ち逃げしようとする男モスと、それを追う殺し屋シガー、さらにその2人を追う保安官ベルの様子を、見事原作どおりに説明的台詞も最低限に押さえて、映像で綴る。ここまで忠実に再現してくれたら、原作者は嬉しいに違いないと思う。アカデミー賞のセレモニー番組で客席に映っていたマッカーシーの満足そうな笑顔に納得する。舞台は1980年代。映画では説明されていた記憶がないが、トミー・リー・ジョーンズ演じる保安官ベルは、第2次世界大戦に出兵し最前線で仲間を置いて逃げ帰り、自分だけ生き残ったという深い罪悪感を抱いて生きている。逃げる元・溶接工モス(ジョシュ・ブローリン)もベトナム帰還兵で、これも映画には出てこないが、復員後、戦死した同僚の家族を訪ねて回ったことがあるという。シガー(ハビエル・バルデム)にコインの表裏で生殺与奪を握られるのと変わらぬ、不確かな運命を生き延びて来た人間たちなのである。

映画でも原作中でも、非常に皮肉でユーモラスで好きな場面の1つが、メキシコからアメリカへ入る検問での国境警備員とモスとの会話だ。怪我をして入っていたメキシコ側の病院を抜け出して、病院で着せられた寝巻のままアメリカ側に入ろうとするモスを当然不審に思って止める警備員は、モスがベトナム帰還兵だということを知って、ころっと態度を変え、丁重な扱いで入国させてくれる。ベルが戦争でもらった勲章も同じで、個人的には辛く忘れたい体験が、社会的には信用となり評価される経歴となるギャップ。マッチョな国アメリカ、「厳しい国」アメリカの現実のを端的に表している1つの部分だと思う。

その国境もまた象徴的である。メキシコから麻薬を運んできて、テキサスの砂漠で車の外から撃たれて意識の残っていた男は、「水(アグア)」と言ってモスに助けを求めた。求めに応じようとしたモスは、しかし男を助けられなかった。メキシコ人に水を届けようと思ったことが災いして、その後モスは命を狙われることになるが、撃たれて、傷ついて逃げ込んだメキシコ側の街頭で、「病院(メディコ)」と言って助けてもらう。向こうから来た人、こちらから行く人。助けてもらえなかった人。助けられてた人。生と死の境目か、天国と地獄の分れ目か。原作者が国境に、そして国境の向こうに何を象徴したのか。国境3部作(映画化された『すべての美しい馬』、『越境』、『平原の町』だそうだ)には何かヒントがあるだろうか。

マッカーシーの邦訳を全作手がけ「専門家」とも言うべき訳者の黒原氏によると、原作はギリシャ悲劇や神話的な人間と世界の関係を描いているという。かつ、マッカーシーはアメリカという国を描いてきた作家でもある。

(映画『ノーカントリー』のことを書こうとしているのか、小説『血と暴力の国』のことを言っているのか、すでに渾然一体となってしまっていてすみません……)

作品から教訓めいたものを読み取る必要は断じてないと思う。ただ、死に向かって生きている人間(=すべての人間)についての物語だということはわかる。ハビエル・バルデムのシガーは、まさに「死神」のような顔をして、部屋の薄暗がりに座っていたり、我々の正面に立ったりする。

作品から現代社会アメリカを読み取ろうとすれば、シガーは、ベル保安官の嘆く「理解できない人種」(犯罪者)の代表であり、人間性や情といった価値観では既に捕らえきれない現実を象徴していると言えるだろう。神話的、ギリシャ悲劇的な構図を読み取るなら、黒原氏が書かれたようにシガーは「純粋悪」(←マッカーシーの言だそうだ)ということになるのだろう。そして、死(つまりは人生)いうものを考えるなら、シガーは「死神」、我々の人生の一本道のいたるところに転がっている死(の危険)と言えるのではないか。

神は来ないとベル保安官は言ったが、神は来ないけれども、死神は来るのだ。

けれど死は、死への恐怖の終わりであり、生への罪悪感(あるいは生の罪そのもの)の終わりでもある、とも言える。

映画は、原作よりも重苦しい。テキサスの風景のせいかもしれない。エンドロールで耳をすますと、バックにテキサスの風の音がする。それがいつしか、シガーの足音と受信機の音に変わる。少しずつ近づいてくる音。原作よりも、怖い。

少し前に、酔っ払ってことし2個めのカバンを落とした。幸い、もう携帯電話は落としてしまっていたし、クレジットカードもキャッシュカードも持って歩かないようにしているから、入っていたのは現金のみの財布と、細々とした物だけだった。が、その中には扶桑社ミステリーの文庫本『血と暴力の国』も入っていた。本自体は翌々日に買い直したが、警察に落し物の届け出をしに行き、カバンの中身として本の名を書くときに、「こんなタイトルの本を読んでいたら、逆に警察に目を付けられるんじゃないか」と思い、わずかに冷や汗が出たりした。

いや、バッグに発信機さえ入っていれば……(笑)。


※『ノーカントリー』と一緒に、『スルース』も見てきました。リメイクの本作、映画そのものあるいは脚本に賛否はあるものの、役者の演技とその緊張感は『ノーカントリー』に匹敵するものがありました。ここを読んでくれている方なら、絶対に見て損はないと思います。

2008.03.02

いろいろ

ごぶさたしております。

いつのまにやら外気にも春のやわらかさが混ざり始め、先月の半ばを過ぎたころから、国書刊行会のサイトでは白先勇の『台北人』の4月刊行という予定が発表されています。

アラブ映画祭2008も、もうすぐです。『ヤコービエン・ビルディング』(→感想)も再映されます。傑作とまでは言いませんが、エジプトの今と、エジプト映画に触れるに好適な1本だと思います。芸達者な俳優さんたちがたくさん出ていますし……。チャンスがあったら、足を運んでみてください。私も、休暇を取ってでも全作見たいものだと、あくまでも希望はしています。(でも、仕事がさらに忙しい時期でして……)

アン・リーの『ラスト・コーション』をやっと見てきました。ヒロイン王佳芝にスポットを当てれば、"ゾフィー・ショル"な物語であるわけですね。でも、ラストは、BBM同様、男の心に「思い出」として収まった愛という形で終わります。政治も恋愛も家庭もSMもひっくるめて、虚虚実実の腹の探り合いの中で、わずかに通う人間の心身……というか、殺るか殺られるかの瀬戸際にまで行って始めて触れる相手の心身の一角……というか、むしろその「愛のようなもの」の得がたさは、人の孤独の深さを見せ付けます。

湯唯は見事にはまっていたと思います。最初から出来上がった名女優ではないことが、見るものにそのまま「素人女スパイ」の危なっかしさを感じさせてくれ、またその「成長ぶり」にも目を見張らせられました。香港での最初の易との食事のときの、ワインを飲んだ彼女の妖艶さ。上海での「当日」直前の仲間のアジトで、トゥオ・ゾンファ(龍子さん!)の呉に向かって、易とのことを語る彼女の力強さ。惚れ惚れと見ていました。小さな唇のあどけない顔は、決して好きなタイプではないんですけれどもね……。

で、さらに決して好きではない梁朝偉。見ているときには、「珍しい役柄でなかなか良いなぁ」という程度にしか思わず、湯唯ばかりに気をとられていたのに、後になって頭に浮かび上がってくるのは、この人の重暗いシルエットと表情なんですね、くやしいけれど……(笑)。

BBMよりも複雑で、もっといろいろ考えていったら嫌いになる可能性すらある、素晴らしい工芸品のような1作だと思います。

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