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2007.03.17

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Chizu_1『パラダイス・ナウ』。2005年、フランス・ドイツ・オランダ・パレスチナ合作。『ブロークバック・マウンテン』が台風の目だった昨年の米国での映画賞レースにおいて外国語映画部門で注目され、世界各地の映画祭でも評価されたパレスチナの映画(フィクション)である。イスラエル占領下のナブルス(ヨルダン川西岸地区)の街に住むパレスチナ人の若者2人が、自爆攻撃の実行者に選ばれてからの48時間を描く。(左の地図は公式サイトの解説ページより)

様々な映画祭で賞をとったのは伊達ではない。テーマの重さや、ドキュメンタリー的なリアリティによる「意義深さ」だけの映画ではなく、(本国からクレームを受けたという問題もあり、所詮ハリウッド作品だという声もあるが、厳しい現実を描きながらも、エンタテイメントとして充分面白いと賞賛された『ホテル・ルワンダ』のごとく)映画館のスクリーンで見る価値のある映画であると思う。例えば、ナブルスの街並みを見下ろすショットの白い家々を染める夕景。ゴミの散乱する夜の街角。悲壮で不思議な「最後の晩餐」。運動家たちのアジト……。ハニ・アブ・アサド監督によれば、どこに行っても隔離壁が目に入る閉塞感に覆われた街だからナブルスを選んだのだそうだが、そんな「美」などという価値観からは遠い「舞台」においても、主人公たちの行動とともに記憶に鮮烈な情景がある。

定職につけず、近くの自動車修理工場で働く2人の若者、サイードとハーレドのところに、それぞれに知人が訪ねてきて、明日決行する自爆攻撃を彼ら2人が実行することに決まったと告げる。それ以外の「状況」は、ごくわずかのエピソードでしか描かれない。まるで『白バラの祈り―ゾフィー・ショル、最期の日々』のように、刻々と終焉に向かう抗いようのない現実に唖然呆然としながら、どんどん高まっていく緊張感と絶望感。

自爆攻撃(日本で一般的な「自爆テロ」という言葉は、「テロとの戦い」を標榜する陣営側からの色のついた言葉だそうだ)をすることになってしまった主人公の若者たちは、我々がイメージするような狂信的なイスラム教徒などではなく、もちろん普通に敬虔なイスラム教徒ではあるのだろうが、いわゆるアラブ服を身につけていたりもせず、Tシャツ、ジーンズ、ジャージである。バリバリな運動家(活動家?)でもなさそうだ。信仰に殉ずるためになどと自ら志願するわけではなく、運動家の幼なじみがいたというだけで、たまたま「選ばれちゃった」という感じで事が運んでいく。

だから、覚悟ができているわけではない。観ている側にも十分感情移入の可能な主人公たちである。

選ばれたことを口外するのは家族にすらも厳禁。告げられた翌朝にはもう、運動家たちのアジトに連れていかれる。「神聖な儀式」と言うよりは、かなり事務的に「最後の言葉」をビデオに撮られ、全身を洗われ、頭髪もヒゲもそり落とされてしまう。自分では外すことのできない「装備」の上に、フォーマルなスーツを着せられ、「最後の食事」までごちそうされて、いよいよ覚悟を決めざるをえなくなる。

監督は日本の、特攻隊として死んでいった若者たちの手紙を読んだという。理不尽な自らの死を、理にかなったものと納得させなければならなかった苛酷な運命は、この映画の主人公たちと通じるものがあるだろう。

だが特攻隊員たちと、自爆攻撃を行うパレスチナの若者の間には、大きな違いがある。「狂信的なイスラム兵士」には見えない「普通の若者」だからとはいえ、単純に「みんな同じなのね」と共感するだけでは済まない、絶対的な違いがある。

それは、「選ばれちゃった」ことで、自分の生を賭して人を殺すことを強いられる理不尽よりも、彼らの日常の方がもっと理不尽に満ちているということだ。その理不尽は敢えて説明はされない。日常の風景の中に威圧的に侵入してくる隔離壁の異様さや、街のいたるところに立ちはだかる検問、突然の爆発音にも日常茶飯事のように平然と身を低くする人々の姿などが、ただ見る者にそれを感じさせるだけである。

日本人なら皆そう感じるかどうかはわからないが、あのフェンスの向こうには、何だか高層ビルの建築現場でもあるような、そんな気がしてしまう。でも、その「工事中」な感じ、「あれ」が取れないかぎり何かが「始まらない」、そんな感じは、さほど的外れではないのかもしれない。パレスチナの若者たちにとって、本当の自分の人生は、あの壁が街から消えない限りは始まらないのだから。

映画の終盤、主人公の1人サイードが、英雄アブ・カレムの前で吐露する思いの中に、『ホテル・ルワンダ』で我々の胸につきささったと同じ種類の台詞がある。「世界は遠巻きに眺めているだけだ」。世界への苛立ちがこの映画を形づくったとしたら、サイードとハーレドの結末は、世界へのまさにアンビバレントな思いを込めたものだと言えるろう。

日曜日(11日)の最終回を写真美術館で見て以来、こんな凡庸な感想を、日々少しずつ、書いては消し消しては書いてきたのだが……。

ユダヤ人のジェノサイドなど本当はなかったと主張する歴史修正主義者という人たちがいるということを、何十年も前に初めてテレビで知って驚愕した。南京大虐殺だって、日本軍が殺した一般市民たちの人数の上での論争だったりもするが、なかったことにしたい人たちが存在する。過去の出来事は、意識して語り継がない限り、語り継がれると都合の悪い側にねじ曲げられてしまうか、あるいは自然と時の彼方に忘れ去れてしまう。ところが、パレスチナの問題は、過去の歴史ではなく、ここ半世紀にわたり刻々と起きている今の問題だ。イスラエルの「入植」により、パレスチナ人が暮らしてきた歴史ある村や町が次々と破壊され、当然住民たちの多くも殺されて、土地の名前も残らない。でも、「世界は遠巻きに眺めているだけだ」。

そんな現実の上に立つ、イスラエル側からの罪悪感の悲鳴とでもいうべき珍しい作品が、2006年の東京国際映画祭で上映されたイスラエル映画『フォーギヴネス』である。まだまだ弱い立場のようだが、"Breaking for silence"という、元イスラエル軍兵士たちによる、真実を語ろうとする活動が起こってきていることも、先日テレビで知った。マスメディア経由の認識に過ぎないが(それ以外にどんな手立てがあろう)、わずかながらでも加害者側の声があがること自体が、起きていることの不当さ、シビアさを裏付けるものだと思う。

『パラダイス・ナウ』について、パレスチナ人の側からは、その苦しい状況が描ききれていないという評価もあったという。監督は、苦しい状況を最前面に押し出した映画をつくるつもりはなかった、つまり苦しさを叫ばないのは意図したことだとのことだが、やはり渦中から語ろうとすると、当事者以外には(努力しない限り)理解の難しい状況説明よりは、観客が何らかの形で自分の経験の中から理解し共感できる部分を見つけやすい、当事者の内面を中心としたミクロな視点での表現になっていくものなのだろうかと、『幽閉者(テロリスト)』を浮かべたりもした。そういえば『ヒトラー~最期の12日間~』も、そうか。

今や、テロと戦う陣営にどっぷりくっついている日本ゆえ、パレスチナもイラクもアフガンも、「イスラム原理主義者のテロリスト」的十把一絡げなイメージに覆われて、個別な関心を寄せる人は一部に過ぎないが、かつて日本赤軍という、パレスチナへのシンパシーを強烈に抱いた人たちもいた。だから今も日本では、アラブ方面について良いイメージがないという面もあろうが……。『パラダイス・ナウ』は、萌え系な向きの鑑賞にも十分に耐えられる(十二分に応えてくれる?)映画である。パレスチナ人俳優たちは魅力的だ。その目ヂカラには、トニー・レオンの眼が鯖の目のように思えるかもしれない(笑)。特に、主人公たちが頭髪とヒゲを落とされた後の変貌は、衝撃的だ。子どものころから、パレスチナといえば難民とゲリラ、という悲惨なイメージしか抱いた覚えがないが(←馬鹿だ)、この映画は、我々の頭の中にある「イメージ」のカーテンを開いて、見えざるパレスチナ人に引き合わせてくれる。見てみてください。

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