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2007.03.26

His name is Perry

「びっくり」な初見の印象は、寝ぼけていた割には、さほど的はずれでもなかった。

ジョージ・プリンストンの『トルーマン・カポーティ』を原作として表看板に出しながら、自分なりの答えを出したのが 《Infamous》。その肝をすえた「オレ流」が、見事な脚本に結実した。ユーモラスで、胸を打つ台詞の数々。構成も冗長なようでいて、無駄がない。

映画は、小説『冷血』とクラッター事件そしてトルーマン・カポーティに関して、我々の多くが最も気にしながら見ない振りをしてきた部分を、「答え」として取り出して、納得できるよう丁寧に描いている。

クラッター事件で4人を殺したのは誰なのか? 
殺害の直接的なきっかけは何だったのか?
カポーティが『冷血』の後に作品を完成できなかったのはなぜか?

ベネット・ミラーの『カポーティ』とは何度も比較されてきたし、この作品自体、『カポーティ』より後に完成し公開も遅かったことで、「こっちが本物のカポーティ」という、はったり半分の煽り文句を打ち出していたりもしていたようだが、要は好みの問題で、例えば『カポーティ』冒頭の見事なホルカムの田園風景の荒涼、それが《Infamous》では、突飛で都会的なシルエットのトルーマン・カポーティ自身がその風景のど真ん中に立つことにより、ユーモラスなものに変わる。『カポーティ』の中で、ペリー・スミスと自身に関して「同じ家で育ち、彼は裏口から出て、ぼくは表から出た」というカポーティの重要な台詞があるが、これは『カポーティ』と《Infamous》にも言える気がする。

『カポーティ』が、作家としての苦悩を描き出したカポーティ自身の映画だとすれば、《Infamous》は、カポーティとスミスのコミュニケートを克明に追い、関係が深化していく様子を見せながら、ヒコックとスミスの処刑後、カポーティの世界に開いた穴(スミスの喪失)の巨大さを観客に実感させる映画で、スミスの比重が大きくなっている。ダニエル・クレイグを見たい観客には堪えられない、嬉しい作品だ。

Infamous_perry
(懲りずにまた貼る) 

そんなわけで、今やジェームス・ボンドが英国の霧の彼方に吹っ飛んでしまった感あり(笑)。いや誰だって、銃を構えてタキシードひるがえし、スリリングに戦って敵を倒すなんていうお膳立てがあれば、ある程度格好良く見えるに決まっている(まあ、22作目を楽しみにはしています。いますが……)。 カポーティを演じるトビー・ジョーンズもダニエル・クレイグも、共に英国俳優で、それが、非常にアメリカ的な2人の人物を演じることになったのが面白いと監督のダグラス・マッグラスが言っていたが、ダニエル・クレイグにとっても、出演映画の中では格別にやりがいのある役の1つだったのではなかろうかと思う。おなじみの犯人系の役柄ではあるにしても、主役の鏡像とも言える重要人物であり、共演者にだって不足はない。

ペリー・スミスが芸術を志向したのは、悲惨な境遇による学歴コンプレックスのゆえか。絶望的な孤独からくる、他人に受け入れられたい、関係を築きたいという渇望。その上に、常識の壁を乗り越え、凶悪犯罪の世界に足を踏み入れてしまうほどのポテンシャルを持つ。どの作品だったか忘れたが、ダニエル・クレイグの出演映画の監督が、俳優としての彼を評して同じようなことを言っていたと思う。俳優としての技量の内側に、大きなエネルギーのようなものの存在を感じさせ、それが正義感として表出するにせよ、怒りや暴力のようなものに変わっていくにせよ、説得力のあるものとなる。

カポーティがスミスに抱いた親近感の理由の1つに、カポーティ同様の小柄な体格があったことは明らかだろう。「こびとのような半おとな」。小説『冷血』の終盤の処刑シーンで、吊るされたスミスを表現したこの言葉は、カポーティ自身を表した言葉でもあり、自己を客体化し突き詰めていく作家の厳しさを感じさせ、とても印象深かったのだが、この点に関してダニエル・クレイグがスミス役を演じるに当たり背負ったハンディは大きかったはずだ。

『カポーティ』の中で最も好きなシーンは、先に述べた冒頭の田園風景ともう1つ、カポーティが保安官住宅の女囚用の監房に入れられたスミス(クリフトン・コリンズ・ジュニア)を最初に訪ねる場面だ。スミスが壁際から振り返って、脚の痛みを止めるアスピリンを要求するあたりは、『カポーティ』におけるペリー・スミス像――小柄で繊細で孤独で、世の中に対し静かな苛立ちを感じている、そんな面が良く表されていたと思う。

ダニエル・クレイグは決して大男ではないが、スミスの人となりに関する重要な要素である「小柄さ」はない。それをカバーするのは、演技の技量は言わずもがな、役づくりと言う面では、やはり彼の中からにじみ出る熱のようなものしかない。金髪を黒く染めダークなコンタクトをつけた彼が、場面によっては誰なのかわからない(ぐらい別人として役になりきっていた)という声を、監督は多く聴いたそうだ。スミスの内面を表側に出していくことによって観客を納得させようとする、「こびとのような半おとな」的なスミスのイメージとは全く違う、新鮮で力技なペリー・スミス像。

自分の中では、コリン・ファレルのボビー・モロー役と張りますね(笑)。

2007.03.24

アラブ映画祭雑感

17日から18日にかけて、アラブ映画祭2007で3本と半分の映画を見た。(もう1週間過ぎちゃったじゃん)

サウジアラビアの『沈黙の影』は、大分遅れて途中から入場したので「見た」とはいいがたいが、近未来設定の社会風刺のきいたサスペンス映画で、展開は猛烈にゆるいけれど、中東版未来世紀ブラジル的趣あり。サウジアラビアでは政策によりここ20年間映画自体が禁止されてきたが、2005年に初めて女性と子ども限定のアニメーション専門の映画館ができたということで、この映画はサウジ初の長編作品。アヴドゥッラー・アル=ムヘイセン監督自身が所有するスタジオで、自身の制作により完成。ということは、いわゆる「アラブの大富豪」か?

自分が見たうちで、もっともお客が殺到していたのが、ヨーロッパ各国とチュニジアの合作映画『バーブ・アジーズ』。ハーブ・アジーズ(アジーズじいちゃん)と孫娘イシュタールが砂漠を旅しながら出会う人々とのエピソードと、じいちゃんが語る昔話が交錯する幻想的な物語。アラブがつくる「アラブ的幻想譚」は、朝日選書『ハリウッド100年のアラブ』の言う、西欧社会の作り上げた「富と愛欲と不思議のアラブ」のイメージとは全く違う、
生と死に関する哲学的な話になっていくのは、フィルメックスで見た『半月』なども同じだなと思う。厳しい自然環境の砂漠に生きるということは、常に死と背中合わせということであり、生死について、人生について、考えざるをえないということなのか。『バーブ・アジーズ』でじいちゃんの語る、水面を見つめたまま人生を悟ってしまった若き王子の話に登場する、王子役の俳優の美しいこと!

これもまた初の長編になるイエメン映画『古きサナアの新しき日』は、現代のメロドラマで、身分相応の婚約者のいる富裕層の若者と、労働者階級の女性との悲恋と、彼らをとりまく昔ながらの「村」的なイエメンの社会の様子を、ヨーロッパから来たカメラマンという外の視点から描いた作品。外国人視点特有のエキゾチズムのあざとさを感じないこともないが、夢のように美しい古都サナアの街並みはもちろんのこと、忍者のような目以外は全て布で覆った女性の民族衣装とか、婚礼のしきたりや衣装とか、頭にカゴを載せた卵売りとか、ジン(魔物)に関する風説などに、やはり心ひかれるし、「古の街サナアの不思議」に酔っていいように映画もつくられている。新しい朝は毎日やってくるが、本当の意味での新しい朝、「新しき日」はサナアにはやってくるのだろうか。待っているのはヒロインである。

アラブのハリウッドと言われるエジプトの新作映画『ヤコービエン・ビルディング』は165分の大作で、1930年代に高級住宅として建てられ、今は様々な階層の人々が住むヤコービエン・ビルディングの住人たちの群像劇だ。様式美にさほどこだわらず、個々の登場人物たちの「今」の生活とその心理を丁寧に追っているので、テレビドラマの3時間スペシャル物を見ているような感じを受けた部分もあったが、オールスターキャストでつくられたベストセラー小説の映画化で、エジプト映画史上最大の予算を注ぎこんだ作品なのだそうだ。監督は30歳のマルワーン・ハーミド。高名な脚本家ワヒード・ハーミドの息子で、長編は初監督となる。

『ヤコービエン・ビルディング』の主な登場人物は、上流階級から、社会の底辺に生きる人々まで5人。

ビルに事務所を持つ初老の男は、若き日に過ごしたパリを思いながら、女性との色恋沙汰にうつつをぬかす「有閑」男で、酒場の女性との情事の後、相手の女性に金目の物を一切合財持ち逃げされたのをきっかけに、実の姉からも家を追い出され殺伐たる日々に身を埋めていく。

高官(パシャ)の息子として裕福な環境で育った彼が、軽蔑しながら成り上がる様を見てきた、自動車会社を経営する実業家がいる。金にまかせて政治権力の中枢を目指すその男は、性欲亢進気味で、妻に隠れて、イラクで夫を亡くした子持ちの美女を2番目の妻としてヤコービエン・ビルディングに住まわせる。子どもと引き離され、ヤコービエンの部屋の中にほぼ軟禁状態の2番目の妻が妊娠を告げると、「約束が違う」と、数名の手下を使って彼女を強制的に病院に運び中絶させてしまう。

エジプト映画史上初という、ゲイの中年男も登場する。ヤコービエン・デルディングに住む彼は、エジプトを代表する雑誌の編集長で、頭髪は後退し腹の出かかったインテリである。彼がゲイであることは近所でも職場でも公然の秘密となっていて、映画では、アフリカ系の兵士と街で出会い、故郷に妻子のあるその兵士を「落とし」て、兵士の妻子をも巻き込み、悲劇的な結果を迎える顛末が中心になる。子ども時代、両親から疎まれ、唯一自分を心配してくれる存在だった召使いの若者(下男)に心を寄せるようなったエピソードも描かれ、彼の指向が理由づけされる形だが、最後には、街で出会った男に寝首をかかれ命を落とす。女好きの初老の男も、権力欲にまみれた悪徳政治家(実業家)も生き残るのに、彼が死んで終わるのは納得しがたいが、イスラム圏ではここまでが精一杯なのだろうか。

この映画の主要な登場人物のうち、命を失くして終わるのは、前述の同性愛者の男と、もう1人、ビルの管理人の息子である。息子の物語は、彼が「ビルの管理人」の家庭の出自ゆえに希望する仕事にもつけず、大学でも多数はである上流階級の子弟たちから嫌がられ、学内の宗教活動に救いを求めたことがきっかけで、イスラム過激派の兵士になっていく様子を描き、エジプトの階級社会の厳しさを見せつける。彼のエピソードは、何だかエジプト版『パラダイス・ナウ』とでもいう感じだった。最後は、過激派として政治家の暗殺の任についた彼が、仲間たちと、ターゲットの政治家と、そのガードたちとの路上の銃撃戦で、銃弾に倒れて終わる。

死んだ管理人の息子が幽かな恋心を抱いていた、ビルの屋上に住む若い女性がいる。彼らは恋人同士とまではいかなかったが、とても親しい友だちだった。女性を演じたヒンド・サブリーはエジプトの人気女優で、長谷川京子似のさわやかな美人である。ヤコービエン・ビルディングの屋上には、貧困層がひしめきあうように暮らしている。彼女がソファに座ってテレビを見るシーンでは、屋上なので屋根などない。父を失い、病弱の母と年下の兄弟たちを養う彼女の「職場」の現実は、どこにいってもセクハラづくめだ。身体を触られるのが嫌で辞めた職場の次に、友人の紹介で就職した洋品店では、局部を触ることを強要する店主がいた。その彼女が、秘書として勤めることになるのが、一番最初に書いた女好きの初老の男の事務所である。びっくりするような彼女の結末は、ラストシーンともなって、映画の最後を締めくくる。

登場人物のプロフィールを書いただけで大河ドラマのようになってしまったが、まさに圧巻の物語だ。ヤコービエン・ビルディングが象徴するのは、ビルディングの名のとおりの「階層」。エジプト社会のがっちり組みあがった階層の中で、ある者はのさばり、ある者はあえぐ。のさばっている奴らが「処罰」されないのが、とてもリアルだ。

2007.03.17

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Chizu_1『パラダイス・ナウ』。2005年、フランス・ドイツ・オランダ・パレスチナ合作。『ブロークバック・マウンテン』が台風の目だった昨年の米国での映画賞レースにおいて外国語映画部門で注目され、世界各地の映画祭でも評価されたパレスチナの映画(フィクション)である。イスラエル占領下のナブルス(ヨルダン川西岸地区)の街に住むパレスチナ人の若者2人が、自爆攻撃の実行者に選ばれてからの48時間を描く。(左の地図は公式サイトの解説ページより)

様々な映画祭で賞をとったのは伊達ではない。テーマの重さや、ドキュメンタリー的なリアリティによる「意義深さ」だけの映画ではなく、(本国からクレームを受けたという問題もあり、所詮ハリウッド作品だという声もあるが、厳しい現実を描きながらも、エンタテイメントとして充分面白いと賞賛された『ホテル・ルワンダ』のごとく)映画館のスクリーンで見る価値のある映画であると思う。例えば、ナブルスの街並みを見下ろすショットの白い家々を染める夕景。ゴミの散乱する夜の街角。悲壮で不思議な「最後の晩餐」。運動家たちのアジト……。ハニ・アブ・アサド監督によれば、どこに行っても隔離壁が目に入る閉塞感に覆われた街だからナブルスを選んだのだそうだが、そんな「美」などという価値観からは遠い「舞台」においても、主人公たちの行動とともに記憶に鮮烈な情景がある。

定職につけず、近くの自動車修理工場で働く2人の若者、サイードとハーレドのところに、それぞれに知人が訪ねてきて、明日決行する自爆攻撃を彼ら2人が実行することに決まったと告げる。それ以外の「状況」は、ごくわずかのエピソードでしか描かれない。まるで『白バラの祈り―ゾフィー・ショル、最期の日々』のように、刻々と終焉に向かう抗いようのない現実に唖然呆然としながら、どんどん高まっていく緊張感と絶望感。

自爆攻撃(日本で一般的な「自爆テロ」という言葉は、「テロとの戦い」を標榜する陣営側からの色のついた言葉だそうだ)をすることになってしまった主人公の若者たちは、我々がイメージするような狂信的なイスラム教徒などではなく、もちろん普通に敬虔なイスラム教徒ではあるのだろうが、いわゆるアラブ服を身につけていたりもせず、Tシャツ、ジーンズ、ジャージである。バリバリな運動家(活動家?)でもなさそうだ。信仰に殉ずるためになどと自ら志願するわけではなく、運動家の幼なじみがいたというだけで、たまたま「選ばれちゃった」という感じで事が運んでいく。

だから、覚悟ができているわけではない。観ている側にも十分感情移入の可能な主人公たちである。

選ばれたことを口外するのは家族にすらも厳禁。告げられた翌朝にはもう、運動家たちのアジトに連れていかれる。「神聖な儀式」と言うよりは、かなり事務的に「最後の言葉」をビデオに撮られ、全身を洗われ、頭髪もヒゲもそり落とされてしまう。自分では外すことのできない「装備」の上に、フォーマルなスーツを着せられ、「最後の食事」までごちそうされて、いよいよ覚悟を決めざるをえなくなる。

監督は日本の、特攻隊として死んでいった若者たちの手紙を読んだという。理不尽な自らの死を、理にかなったものと納得させなければならなかった苛酷な運命は、この映画の主人公たちと通じるものがあるだろう。

だが特攻隊員たちと、自爆攻撃を行うパレスチナの若者の間には、大きな違いがある。「狂信的なイスラム兵士」には見えない「普通の若者」だからとはいえ、単純に「みんな同じなのね」と共感するだけでは済まない、絶対的な違いがある。

それは、「選ばれちゃった」ことで、自分の生を賭して人を殺すことを強いられる理不尽よりも、彼らの日常の方がもっと理不尽に満ちているということだ。その理不尽は敢えて説明はされない。日常の風景の中に威圧的に侵入してくる隔離壁の異様さや、街のいたるところに立ちはだかる検問、突然の爆発音にも日常茶飯事のように平然と身を低くする人々の姿などが、ただ見る者にそれを感じさせるだけである。

日本人なら皆そう感じるかどうかはわからないが、あのフェンスの向こうには、何だか高層ビルの建築現場でもあるような、そんな気がしてしまう。でも、その「工事中」な感じ、「あれ」が取れないかぎり何かが「始まらない」、そんな感じは、さほど的外れではないのかもしれない。パレスチナの若者たちにとって、本当の自分の人生は、あの壁が街から消えない限りは始まらないのだから。

映画の終盤、主人公の1人サイードが、英雄アブ・カレムの前で吐露する思いの中に、『ホテル・ルワンダ』で我々の胸につきささったと同じ種類の台詞がある。「世界は遠巻きに眺めているだけだ」。世界への苛立ちがこの映画を形づくったとしたら、サイードとハーレドの結末は、世界へのまさにアンビバレントな思いを込めたものだと言えるろう。

日曜日(11日)の最終回を写真美術館で見て以来、こんな凡庸な感想を、日々少しずつ、書いては消し消しては書いてきたのだが……。

ユダヤ人のジェノサイドなど本当はなかったと主張する歴史修正主義者という人たちがいるということを、何十年も前に初めてテレビで知って驚愕した。南京大虐殺だって、日本軍が殺した一般市民たちの人数の上での論争だったりもするが、なかったことにしたい人たちが存在する。過去の出来事は、意識して語り継がない限り、語り継がれると都合の悪い側にねじ曲げられてしまうか、あるいは自然と時の彼方に忘れ去れてしまう。ところが、パレスチナの問題は、過去の歴史ではなく、ここ半世紀にわたり刻々と起きている今の問題だ。イスラエルの「入植」により、パレスチナ人が暮らしてきた歴史ある村や町が次々と破壊され、当然住民たちの多くも殺されて、土地の名前も残らない。でも、「世界は遠巻きに眺めているだけだ」。

そんな現実の上に立つ、イスラエル側からの罪悪感の悲鳴とでもいうべき珍しい作品が、2006年の東京国際映画祭で上映されたイスラエル映画『フォーギヴネス』である。まだまだ弱い立場のようだが、"Breaking for silence"という、元イスラエル軍兵士たちによる、真実を語ろうとする活動が起こってきていることも、先日テレビで知った。マスメディア経由の認識に過ぎないが(それ以外にどんな手立てがあろう)、わずかながらでも加害者側の声があがること自体が、起きていることの不当さ、シビアさを裏付けるものだと思う。

『パラダイス・ナウ』について、パレスチナ人の側からは、その苦しい状況が描ききれていないという評価もあったという。監督は、苦しい状況を最前面に押し出した映画をつくるつもりはなかった、つまり苦しさを叫ばないのは意図したことだとのことだが、やはり渦中から語ろうとすると、当事者以外には(努力しない限り)理解の難しい状況説明よりは、観客が何らかの形で自分の経験の中から理解し共感できる部分を見つけやすい、当事者の内面を中心としたミクロな視点での表現になっていくものなのだろうかと、『幽閉者(テロリスト)』を浮かべたりもした。そういえば『ヒトラー~最期の12日間~』も、そうか。

今や、テロと戦う陣営にどっぷりくっついている日本ゆえ、パレスチナもイラクもアフガンも、「イスラム原理主義者のテロリスト」的十把一絡げなイメージに覆われて、個別な関心を寄せる人は一部に過ぎないが、かつて日本赤軍という、パレスチナへのシンパシーを強烈に抱いた人たちもいた。だから今も日本では、アラブ方面について良いイメージがないという面もあろうが……。『パラダイス・ナウ』は、萌え系な向きの鑑賞にも十分に耐えられる(十二分に応えてくれる?)映画である。パレスチナ人俳優たちは魅力的だ。その目ヂカラには、トニー・レオンの眼が鯖の目のように思えるかもしれない(笑)。特に、主人公たちが頭髪とヒゲを落とされた後の変貌は、衝撃的だ。子どものころから、パレスチナといえば難民とゲリラ、という悲惨なイメージしか抱いた覚えがないが(←馬鹿だ)、この映画は、我々の頭の中にある「イメージ」のカーテンを開いて、見えざるパレスチナ人に引き合わせてくれる。見てみてください。

2007.03.11

そりゃないだろう

『007/カジノ・ロワイヤル』を最初に見たとき、ルシッフル一味による監禁事件から入院を経て、目覚めたボンドとヴェスパー・リンドの最初のラブシーンで「そりゃないだろう」と思い、話がこのまま真面目に進行するなら席を立って帰ろうかと思ったものだった。いや、エヴァ・グリーンの演じたヴェスパーにやきもちを焼いたわけでは決してなく、むしろこの映画のヴェスパーのキャラクターは大好き(エヴァ・グリーンも好き)なぐらいだ。そうではなく、それまであれだけ「つっぱって」いたヴェスパーの心境の変化が、どう考えても不自然で説明不足だ、と感じたからで……。

だが、それは単に自分が007の見方を知らないだけで、見慣れた人なら、既にあそこで「ふふ~ん。それではこいつは……」とにんまりし、その後の、ジャンカルロ・ジャンニーニ演じるマティスが、なぜボンドとヴェスパー・リンドだけが生き残ったのかと問いかけるシーンで、ある程度「理解」できるはずだ。見慣れる見慣れないの問題ではなく、自分があさはかな馬鹿であるというだけかも知れないが……。

で、《Infamous》初見。 大王もマホメットも長いので、まずはクレイグ兄貴を選ぶ。

とりあえず字幕解読もほとんどせず、すっ飛ばして見ていったら、クライマックスシーンで「そりゃないだろう」と思わず声を上げてしまった(笑)。もちろんそれは、そこまでのやり取りがきちんと理解できていないからだろうと思う。後で字幕を解読しながら見ていけば、きっと腑に落ちるはずだ。そうでなければ、この映画は陳腐に過ぎてしまう。と、今は作品を信じておくることにする。

トビー・ジョーンズは凄く良い。フィリップ・シーモア・ホフマンよりずっと、(リアルなカポーティなんか知らないけど)「リアル」な感じを受けた。それはたぶん、《Infamous》が『カポーティ』よりも感情の動きを表現することに重点を置いている映画だからだろう。実は、そのあたりを含め、この映画の主題に驚愕しているところなのである。いろいろ読んではいたが、まさかここまで来ているとは……(笑)。ダニエル・クレイグ演じるペリー・スミスも、脂ぎっていて良い感じだ。1つの新しいペリー像だと思う。初見(しかも内容を把握できていない)なので、間違っている可能性は大きいが、『カポーティ』が文学なら、《Infamous》はタイトルどおりの週刊誌的な裏事情暴露話だ。あくまでも、映画のつくりのことではなく、テーマが……。でも、《Infamous》の方がずっと心を揺さぶってくるし、映画としてはこっちの方がいろいろな意味で「面白い」。

こんな映画だとは……。 (←マイナスの意味では決してない)

本当にびっくりした。 (きちんと見たらまた報告します)

2007.03.10

ドヨンさん……

この日曜日(3月11日)に結婚するというチョン・ドヨンさんだが、やはり楽しみなのは、グレートなイ・チャンドン監督とソン・ガンホ、チョン・ドヨン共演の《密陽(secret sunshine)》の完成だろう。もう2月に撮影が終わっていて、現在はポスプロ、5月完成の予定だそうだ。(→ここで見たのだけれど、そのソースはここらしい)

で、きょうやっと海を越えて、"Alexander Revisited"と《Infamous》のDVDが届いた。声も姿も映らない人(マホメット)が主役の映画、『ザ・メッセージ』のDVD(180分!)も落手したのだが、今週は、『パラダイス・ナウ』は封切りだし、『チョムスキーとメディア』は終了が近いし……。う~ん、どこから手をつけるか。(アラブ映画祭は多分来週だな……)

2007.03.05

はや3月

韓国映画"No Regret"は、『悔いなき恋』というタイトルで上映→アジアン・クイア・フィルム&ビデオ・フェスティバル・イン・ジャパン2007。昨年のTIFFやフィルメックスで上映された、『分かち合う愛』、『マキシモは花ざかり』、大陸の『タンタン』、中国系アメリカ人家族を描いた『紅門-べにもん-』など興味深い作品が幾つも上映される。チケットはすでに発売されているが、まだ完売はしていないよう。……などと、上映情報ばかり書いていて、自分は全て見損ねていたりするきょうこのごろ……。ほとんど映画館に行けていない。

『アレキサンダー』ロングバージョンと《Infamous》のDVDは、先週やっと発送元を出て我が家に向かった模様。遅くとも来週には届くはずだ。

くしゃみ鼻水と腰痛を抱えたまま、昔の職場の上司の墓参の帰りに、東京駅八重洲地下の「吟醸バー」に寄った。吟醸系の冷たくして飲む日本酒は、自分には繊細に過ぎ、香り高過ぎて、嫌いではないがやや苦手だったのだが、チケットを購入し少量の利き酒的に飲んでいくこの店では、いろいろなタイプの吟醸酒に出会え、さっぱりした味のものも、気取らない味のものもあることもわかり、とても楽しかった。何が良いって、少量の肴しかないので、食べ物に金をかけずに飲めるというのがすごく良い。立ち飲みだし……。

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