« 黒髪のヒト | トップページ | 2月の近況 »

2007.01.21

雪だるま,笹,ウォー,旅芸人

Yukidaruma
18日(木曜日)に仕事で終電を逃し、タクシー代を安く上げるために、疲れるまで歩けるだけ歩こうと、職場から帰宅途上の神保町を通ったときに見たのが、1月19日~21日まで神保町&小川町の靖国通り沿いで実施される「神田雪だるまフェア」の幟と笹。(上のひどい写真が午前2時過ぎの小川町)

面白かったのは、雪なんかない地域なのに、わざわざ雪を運んできて祭りをしようという無理矢理な企画とともに(といっても、知らなかったけれども、ことしで6回目)、「神田雪だるまフェア」の幟と一緒に街のあちこちに飾られた願い事の短冊つきの笹である。寒風吹きすさぶ中、色鮮やかな短冊と笹がさやさやと揺れる様は、季節感をかく乱されて何とも言えない。

最近は、クリスマスでも、ツリー&短冊に願い事というのがあるらしいから不思議ではないなぁ、などと思いながも違和感いっぱいで歩いていたら、徐々に、かつて祖母が語っていたことを思い出した。

東京下町エリアだけなのか、ウチの町内だけなのか、関東の習慣なのか、日本全国そうだったのか知らないが、昔(戦前、戦中から、終戦後数年間ぐらい?)は、門松などと同様に、正月近くなると家の角々に笹を立てたのだという。あちこちの路地は、左右に立ち並ぶ家々の笹でトンネルのようになり、笹の葉が風に吹かれて立てる音が、年の瀬と新年の風物詩だったらしい。笹も風情もなくなった「現代」に、暮れの銭湯帰りの道すがら、祖母はよく話してくれたものだった。

だから真冬の笹は、あながち季節はずれではないのだった。

(雪だるまフェアでは、コーヒー・お汁粉などが無料サービスだそうだから、近くまで行く方は寄ってみては……(笑))

で、まったくそれとは何の関係もないが、ボンドで名が売れたせいで、アノ人の過去のイギリスドラマの日本版DVDが、4月にまた出るらしい。しかも、しかも原作は、イヴリン・ウォーの最高傑作と言われる"Sword of Honour"(名誉の剣)である→DVDタイトル『バトルライン』。戦争ドラマといえども、ウォーの原作で、ヤツが出るとなれば買わないわけには……(涙)。ウォーの方を調べていて、こっちに当たってしまった訳で、非常に驚いて思わず書いてみた。いっそこの際、『氷の家』と《Our Friends in the North》あたりも、日本版DVDを出してほしい。まあ、ヒット映画のイメージで、戦争物とか、サスペンスなんかの方が、売りやすいのだろう。……しかし『バトルライン』、ジャケ写はまるで、ブルース・ウィリス@ジャスティス。

さらについでなので、14日にやっと見て、書きかけたままだった『王の男』の心象などを下にくっつけてみる。

『麦の穂をゆらす風』を見るつもりが上映開始に間に合わず、『王の男』を見た。

『王の男』は、さすが『黄山ヶ原』を大ヒットさせた監督(イ・ジュンイク)の作品、という感じだ。王も芸人たちも妓生も重臣も、誰もが丁寧に生き生きと描かれていて……。『王の男』というタイトルは煽りすぎだという声もあちこちで聞かれるが、これは下敷きとなった舞台劇《爾》の意味(=王の寵愛を受けた者)そのものであり、《爾》において、コンギルが主役(=王の寵愛のもと、富と権力によって堕落していく話)なのだから、むしろとても素直につけられたタイトルと言えるだろう(監督の話では、もう少し高級な意味を込めたようだ)。

何といっても、(「原作」である舞台劇では脇役にすぎなかったという)主役チャンセンを演じたカム・ウソンのエネルギッシュな存在感はすごい。あのぐずぐずうじうじの『スパイダー・フォレスト 懺悔』の主人公を演じたと同じ人がやっているとは、俳優とはすごいものだと思う(そんなところで感心していては、俳優さんに失礼か?)。また、この映画の最大の見所である、歴史上の大暴君、燕山君のキャラクターをどうつくり上げるか、どう解釈したのかという部分で、チョン・ジニョンの絶妙な「王」っぷりにも魅せられる。コンギルを演じたイ・ジュンギは、体当たりで芸人を演じていたが非常にさわやかで、そのさわやかさは本人の個性のみならず、(俳優経験の少なさのためか)台詞が少ないことから来ているようにも思える。映画は舞台版とは違いコンギルが主役ではない。コンギルと王との関係よりも、兄貴格であるチャンセンとのホモ・ソーシャルな関係に力点が置かれていたこと、つまり宮廷劇というよりはむしろ、旅芸人物の色合いが強いことにも、コンギルのさわやかさの理由があるかもしれない。

Oh1 Oh2

しかし、この映画のもっとも魅力的なキャラクターは、街角で大道芸人たちの芸を観察し、大道芸人たちの「身分」として歴史上初めて宮廷に上がるきっかけをつくった、「でかい顔」の黒幕的老重臣チョソン役のチャン・ハンソン(上画像左)と、「韓国映画にはこの人がいなくっちゃね」という、おなじみの脇をかためる俳優の1人であるユ・ヘジン(上画像右)だ。

チョソンは燕山君の側近であるが先王の側近でもあり、表立ちはしないが、王の父親的な役どころである。彼の大きな愛は、紙のように軽い運命の下で懸命に生きる旅芸人たちの姿とともに、映画の泣かせどころの1つである。一方、ユ・ヘジン演じる芸人は最期こそ悲劇的だが、一貫してコミカルな役回りで、最初からガンガン笑わせてくれる(のに、劇場にはお客さんも割合いたというのに、笑い声があがらないのはなぜだ?)。

ほかでも同じような感想を見かけたが、得意の「綱渡り」のラストシーンが、芸人たちの、ある意味自由で、ある意味「地」に足のついた生活から「浮いた」暮らしを象徴しているようで、そんな、実際は低い「身分」に貶められているが、だからこそ世の中を「俯瞰」しうるところにいる彼らが、彼らこそが、本当のことを言い得たのだなと思う。

やはり誰もがそう思うようだが、映画を見ていて、劇中劇として演じられる旅芸人たちの風刺劇に、この『王の男』という作品の、そして映画というものの、さらにフィクションの、成り立ちと役割、原初的な役割みたいなものを意識せずにはいられなかった。

辱められ虐待されても、高らかで力強い、チャンセンとコンギルのラストの「舞台」での即興の台詞の応酬。失うものは何もない。地位や財産はもとより、身体の自由すら奪われた。それでも失わない誇りと心の自由が、雲ひとつない青空のような爽快さだ。

« 黒髪のヒト | トップページ | 2月の近況 »

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/9120/13499155

この記事へのトラックバック一覧です: 雪だるま,笹,ウォー,旅芸人:

« 黒髪のヒト | トップページ | 2月の近況 »