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2006.11.27

意外と明るい

土日とフィルメックスで5本映画を見る。土日とも、見る予定だった午前中の回は寝坊して行けず(←やっぱり)。というわけで『ワイルド・サイド……』と『斬る』は見損ねました。

観客賞を受賞した文句なしの佳作『オフサイド』。登場する女の子たちが非常に身近に感じられると思ったら、そりゃ彼女たちが「サッカーおたく」であるからだった。おたくにとって、興味の対象はすべてに優先する。そうだ、行け行け! ……って、そういう映画ではない?(笑) ま、実際にはサッカーおたくも、実際の選手も、カレシがサッカー・ファンだった女の子もいるのだけれど、彼女たちがそれぞれに様々な方法で、ワールドカップ予選の最終戦の開催される競技場へ入ろうとして「女性だから」という理由で捕まって、会場外で場内の歓声だけを聞かされつつ、軍(革命防衛隊?)の兵士の監視下で拘束されることになる。面と向かって「どうして女性は会場に入れないのか」と問われれば、軍の兄ちゃん本人にだって納得できる答えなどあるはずはないために、力を振りかざしながらも今ひとつ弱腰な兵士たちと、へたすりゃ革命裁判所行きかという危機一髪な状況下にありながらも、あっぱれなサッカーファンぶりを見せつける女の子たちとのやりとりが楽しい(←楽しくていいのか?)。で、痛快だけれども、とっても心配だ、結末のその後が……。

『黒眼圏』。陳湘淇(チェン・シャンチー)は屋根裏&大型ネズミで大変だったみたいだけれど(@Q&Aによる)、映画的には台北ではなくクアラルンプールであることで、何だか知らないが、すこんと頭上が抜けたような開放感が味わえた気がする。傑作と言われる『楽日』より、自分は好きかもしれない。雨水が池のように貯まったビルの廃墟が登場するのだが、その水の風景が素晴らしい。蛾(自然科学の知識がないので、見ている最中「蝶」だと信じていたが、「蛾」だとQ&Aでは話されていた)が舞うシーン、そして何よりもラストシーン。意識不明の男の眠るカットのあとに、水面が映る。もうこのあたりで終わりだろうなと思っているところで、スクリーン一面の水面の上部から、少しずつ「何か」がやってくる。その「何か」が完全に見えたときに、えも言われぬ安心感というか、幸せな気持ちが心の中を満たしてくれる。この作品も、モーツァルト生誕250年の記念で制作されたもので、映画の中には様々な歌が使用されるけれど、特に意識不明の男を世話する家族たちの場面でかかる、古い中国語の歌謡曲?(←すみません、知識なしで)が良い。映画の中で印象的に表現される「水」や「煙」や「蝶」(←「蛾」だってば)のイメージが、漢詩のモチーフであるせいもあるのか、作中で使用される歌と心地よいハーモニーを奏でているようだ。

アビチャッポン・ウィーラセタクン作品、『世紀の光』。これもとっても面白かった。シンドローム・シリーズ第3弾にして、最終作とのこと(@公式カタログによる)。モーツァルト生誕250年記念作品としての見どころは、歯医者の歌うボサノバ風のささやくような歌と、その後のギター曲だろうか? 実は『ブリスフリー・ユアーズ』を何度も見逃しているので、どうも何とも言えないのだが、『トロピカル・マラディ』の漆黒の緊張感から一転、とてもユーモラスで明るい話になっている。自分を掘り下げると暗くなり(『トロピカル・マラディ』)、外に目をやれば(『世紀の光』は両親(監督の両親は医師)へのオマージュ)ほどほどな距離感を保てるというのは、誰にしても同じなのだろうか。Q&Aで、カメラ目線の年配の女医の件が話されていて、監督自身は、シーンそのものはその場の感覚で採用したということを言っていたが、タイトルロールでは「台詞」からはみ出たらしき会話なども聞かれたような気がしたし、「物事の二重性」の表現という監督のテーマは、そのために1本の映画の中に視点を変えた2つの話を用意しただけではなく、その2つの話(フィクション)の裏側(ノンフィクション)までを、とらえて見せようとしているように思えた。


で、張睿家クン(@『永遠の夏』)、金馬奨最佳新演員、おめでとう(←でも別に好きなわけではない)。→結果。全くの余談ですが、『マキシモは花ざかり』長男を見ていて、次はぜひ張孝全クンにも、あんなチンピラ系の役をやってほしいものだと……。(え、イメージそのまんまじゃないかって?(笑))

2006.11.24

My Mozart

22日夜、シネカノンで『半月』を見る。クルド人の老音楽家マモ一行が、クルド人を弾圧したフセイン政権崩壊後のイラク領クルディスタン(クルド人自治区)で、30数年ぶりにコンサートを行うべく、イランから旅をする話。

現在のところ、ことしのフィルメックスでは、この作品が最も好きだ。

クルド人やクルディスタンについて全く知識はない。イラクの北の方にいる山岳民族で、サダン・フセインの時代に大勢が殺害されたことぐらいしか頭の中に入っていることはなかった。(実際にはクルド人は、イラン・イラク・トルコにまたがる地域に暮らしており、その地図が頭に入っていないと、この映画の中で主人公たちが移動していく道筋はわかりにくいと思う)

バフマン・ゴバディの公式サイト(←多分……)があり、そこに、本作『半月』について、ことしのトロント国際映画祭で上映されたときのアメリカ人による監督インタビューが掲載されている。余りに面白いことが書かれているので、必死になって読んでしまった。

監督は、この映画の政治的な意味合いを何度も否定している。ただ、「政治的」な意味合いがあるとしたら、それはクルド人問題ではなく(とはいえ、監督自身クルド人であるからして、クルド人の登場するクルディスタン映画であることは第一義であるけれど)、女性による芸術活動を禁じているイランへの異議申し立て、ということであるらしい。

この映画の中で、きっと誰もが最も強い印象を受けるであろう、1334人の歌を禁じられた女性たちが捕らわれている村を、ヘショという歌手を探してマモが訪れる場面は、まさにこの映画の主題の1つを表す重要なシーンである。村は、イランそのもののシンボルなのだという。表現することは、芸術家にとっては生きることと同義である。監督は、イランでの検閲を通そうと、女性が歌うシーンをあらかじめ自らカットしたのだそうだが、そんな「努力」も空しく、さっさと国はこの映画の上映を禁止した。制作することは許されても、発表することが禁じられるなら、歌を禁じられた女性たちとの差は(女性の地位という大きな問題は別として)、捕らえられた牢獄の部屋の広さ、壁の高さの違いぐらいなものだろう。

この映画は、頭で考えずに、心で感じる見方の方が正しいようだ。詩的な映像に幻惑され、エキゾチックで懐かしい民俗音楽に酔う。社会的な視点よりはむしろ、人の生と死にまつわる哲学的な視点を……。

それでも劇中では、検問あり、インターネットあり、鳥インフルエンザあり、「アート」に寄せる「一般人」のロマンチックな思い入れに揺さぶりをかけるように、中東地域の現実が織り込まれ、そのギャップがふとした笑いを誘う。

クルド人たちのカリスマ・ミュージシャンであるマモの名のは、天才音楽家モーツァルトにちなんだ、「My Mozart」を縮めたもの。この映画が、モーツァルト生誕250年を記念する映画祭のために制作されたためである。そして彼をこの世からあの世へ導く「天使」が「半月」="Niwemang"(←ニウマンと読んだっけか?)。満月と新月の境目である半月、まさにその意味どおりの三途の川の船頭の役どころ。マモが捜し求めた女性歌手ヘショもまた、「天使」なのだと、監督はインタビューで語っている。バスの床下に隠れているヘショは、ちょうど棺の蓋の下で眠る死者のようだと……。思えばバスの床下のヘショが、ぐるっと首を横に曲げて、墓に横たわるマモの姿を眺めているような不思議な場面があった。現代的でシャープな顔立ちの美女である「半月」に対し、ヘショはキリスト教のイコンに描かれた聖人のような、落ち着いた容貌の忘れがたい女性である。

インタビューの中で語られる、インタビュアーを絶句させるような、監督自身の死生観、自分の寿命への諦念、死の予感には、読者も当然のことながら驚かされる。不安定で厳しい社会事情が、楽観的な人生設計を許さないのか。それとも、何かもっと超心理的なところからくるものなのか。まだ30代の若さで、死というゴールを間近かに感じながら、今を全力で映画制作に打ち込んでいるその真剣な姿勢が、シネカノンの舞台挨拶でも、リンクしたインタビュー同様に、自己検閲で10分の映像をカットしたことを惜しむ言葉が繰り返されていることに表れていると思う。

芸術家の死。音楽とステージで演奏することへの悲願とでもいうような強い想い。命を失っても離さなかったコートの下の楽譜。楽譜は、彼の息子の手に渡り、受け継がれていくだろう。ここでの「音楽」には、クルド人としてあること、クルド人としてのアイデンティティ、誇りというような意味も込められているのかもしれない。芸術家にとって、表現することが生きることだから……。

2006.11.22

重量級

会社を休んで『大菩薩峠』と『日本のいちばん長い日』を見てきた。主役から脇役に至るまで生きていて、映画の隅から隅まで本当に面白かった。昔の日本映画を見ると、いつもその豪華なキャストに驚くが(というか、今となれば当時の俳優はみな名優なのだから「豪華」に感じるのは当たり前なのだが)、特に『日本のいちばん長い日』などは、戦後生まれの人間には昭和史の授業のような内容(とはいえ授業では教えない部分)なのにもかかわらず、また息をもつかせぬ緊張の刻一刻を綴っている話であるのだけれども、そこに登場する軍部や閣僚、宮中の面々が年配者の役から若者の役に至るまで全ておなじみの、(鬼籍にある人も含め今ではみな)凄い人たちばかりなので、内容のヘビーさの一方で、オールスターキャストの中華圏のめでたい旧正月映画を見ているような感覚を覚えることがあった。監督の作品にいつも出演している俳優が、当然この2本の映画でも顔を見せてくれるのが、何だか微笑ましい(小川安三、好きです)。『大菩薩峠』は、雷蔵版も見ていないし、内田吐夢作品も見ていないので何も言えないが、主演の仲代達矢の現代的な個性は、主役が悪役であるこの奇妙な時代劇にはとても合っていると思う。舞台は余り見ないのでわからないが、テレビなどと比べると、俳優の存在感が格段にすばらしく感じられるのはスクリーンだ。新珠三千代の単なる綺麗さに留まらない妖気を帯びた美しさも、映画ならではだろう。こんなに魅力的な女優さんなのかと、改めて驚愕した。大河物語風に展開して行きながら、長い長い狂乱の大立ち回りでばっさりと終幕するいびつな終わり方は、どこか既存のカテゴリーにとても類別することなど不可能と言われる、中里介山が30年書き続けた大長編小説へのアプローチとして面白いと思う。小説の主題を観客の心に印象付けることにも成功している。

フィルメックスのパンフレットでトニー・レインズが書いている岡本喜八に関する文章を読むと、制作者側が要求する作品も撮れるし、自分のオリジナル脚本で撮りたいものも撮る職人監督という意味では、ジョニー・トーみたいなタイプなんだなと感じた。となると、オリジナル脚本の作品を見ないと片手落ちというものだろう。

そんなことより、いつかは中里介山の原作小説『大菩薩峠』をケツまで読むのだという思いが、じわじわ膨らんできていたりして……(プルースト読むよりは楽しいか?)。

2006.11.21

読売のカニンガム・インタビュー

ウチは勧誘の関係で、朝日新聞と読売新聞を交互に購読している。ということで、幸いに読売をとっているときに、初来日のマイケル・カニンガムへのインタビュー記事が載った(11月20日付朝刊文化面)。『星々の生まれるところ』に関する内容だから、基本的には先日の講演会と同じだが、カニンガムは現在、小説の第3部にあたる「美しさのような」映画化のための脚本(ナディア人!)やら、D・ボウイとミュージカルをつくる計画(!)だのを抱えているとのこと。ぼうっと聞いていて肝心なところを聞き飛ばしたらしい、講演での(好きな数字である11を使った)「11章から構成される新作」の執筆は、現在抱える仕事の後になるけれど、千年の時を越えるラブストーリーなのだそう。ちゃんと写真も載ってます。

と書いたら、YOMIURI ONLINEに全く同じWeb記事が出ていました→「米が見た「夢」と「現実」~「星々の生まれるところ」のカニンガム氏」(写真も拡大がききます(笑))。講演会に行けなかった方、すごく簡単になっていますが、話の内容はこんな感じでしたよ。

◆おまけ◆11月5日(日)の朝日新聞読書面に掲載された『星々の生まれるところ』の書評。あまり面白くはない書評です。

2006.11.13

奇策としてのファンタジー

ハリーポッターも指輪物語も(テレビ放映を見たけれど)、全然面白くないのにねぇ……。ファンタジーは王道なんだろうかねぇ……。

『グエムル -漢江の怪物-』に続き、必ず見ようと思っているいくつかの韓国映画のうちのやっと1つ、『トンマッコルへようこそ』を見ることができた。

チャン・ジン脚本の舞台の映画化である。チャン・ジン作品は大好きで、韓国で大ヒットしたこともあり、大いに期待していたのだが、自分にはちょっぴり退屈だった。もちろん、骨格はしっかりしたものなので、見てがっかりというようなものでは決してない。内容は、平和な村トンマッコルに、戦場から迷い込んできた連合軍兵士と国民軍兵士らが巻き起こす騒動記で、戦争という非人間的な緊張下に置かれる人間の不自然さ滑稽さと悲惨が、緊張などという概念のないのんびりした村人たちとの対比の中で浮かび上がってくる作品である。

世間では、宮崎アニメとの類似点やら似ていない部分やらが取り沙汰されているが、自分は宮崎アニメは1本しか見たことがない(し、宮崎アニメが好きではない)のでよくわからない。

過去に自ら何度もメガホンを取っているチャン・ジンが、今回は制作(&脚本)に回ったことに関して本人は、(韓国で)大ヒットしたのは自分が監督しなかったからだと、冗談か本気か知らないが言っているという。自分が退屈と感じたのもまさにそのあたりで、チャン・ジンが自分でつくった作品のチープさやアイロニカルなユーモアが抜け、「面白い」部分は大いに残っているものの、真っ向勝負のスタンダードな映画になっていると思う。誰にでも、素直に心に入ってくるからこそ、大ヒットしたのだろうが、「照れ」抜きで大真面目にファンタジーをやれてしまうところが、自分には「ちょっぴり退屈」だったのだ。

ただ、ファンタジーといっても、それは村が架空である、村人たちの様子が天上的な平和さであるというだけで、そこに放り込まれる兵士たちは、思い切りリアルに描かれている。これもどこかのレビューで書かれていたことで、自分も全く同感だったのだか、兵士たちの物語だけを切り取ると、状況的にはかなり『JSA』に似ている。状況だけではない。時代設定こそ違うものの、国家的対立の下に置かれた個々の兵士たちの緊迫感のポテンシャルは同じだ。

南北の対立を真正面から描いたもの、背景として使用しているものが韓国映画には沢山ある。当たり前だ。それは過去ではなく、現状なのだから……。でも、そのほとんどは映画としてはシリアスに描かれている。この作品の価値は、今も続くシビアな南北分断(とそこからくる緊張)という現実を、ファンタジーというとんでもない形で見事に描いてみせたところだと思う。

日本が知らぬふりをして良いはずのない朝鮮半島の現状は、だが今の我々には、実感という形でも、共感としいう形でも、なかなかピンと来ず、どんなタイプの「お隣」の映画を見ようとも、街並みや出てくる人の顔がやや似ているというだけで、それはやはり「遠い場所」の出来事だったりする。そんな日本人なら、この異様で新鮮なファンタジーを見ても、「宮崎アニメ」程度あるいは、「宮崎アニメに似たような何か」程度しか受け取れるものがないのは当然だろう(→「ちょっぴり退屈」と感じた自分も同じ)。「遠い国」の「遠い夢物語」に過ぎないのだから。

多くの人々が死んでいる。今でも様々な困難があり、不幸がある。そういう今を抱える人々にとって、こんな変な映画はなかったんじゃないか? こんな「ふざけた映画」は見たこともなかったんじゃないか? だから、面白かったんじゃないか? 賛否両論はあったというが、みんなびっくりして見にいったんじゃないか? 感動した人も、憤慨した人もいただろうが……。朝鮮半島の現実を、「オレならこうやるね」と奇策"ファンタジー"で描き出し成功させた「作者」チャン・ジンの少し得意気な微笑みが、見えるような気がするのだ。

最後の雪山の爆撃シーンの痛さと悲しさと美しさ、村人の見上げる「花火」、そして「天国」のラストシーンは、退屈なんかじゃなく、素晴らしかった。やっぱり、シン・ハギュンは良いよね(笑)。

2006.11.12

年末の大物

日本での紹介の際には必ず、「侯孝賢(ホウ・シャオシェン)作品の脚本家&姉妹(妹は朱天心)で著名な作家」などという言葉で修飾されてしまう作家、朱天文の長編小説『荒人手記』は、白先勇『孽子 げっし』の台湾での出版からおよそ10年の後に上梓され、第1回の時報文學百萬小説奨(首奨)を獲得した(1994年?)。台湾の同性愛文学というと『孽子 げっし』と共に書名の挙がる『荒人手記』。もちろん日本の朱天文研究の第一人者で、『台北ストーリー』中の朱天文の短編『エデンはもはや』なども訳しておられる池上貞子氏の翻訳で、いよいよ12月に発売とのこと。『孽子 げっし』同様に、「いつかは日本語で読める日が来るのだろうか」と、かねてから漠然と「その日」を待ち望んできた作品の1つである。こちらは『孽子 げっし』よりも、かなりハイブロウな様相。手に取る日が楽しみだ。

検索するとすぐに出てくる、『荒人手記』を英訳された方へのインタビュー(翻訳の傑作『荒人手記』の訳者にうかがう)も、技術的な話だけではなく、作品をどう読んだかなどとと尋ねている部分があり、面白い。

国書刊行会のサイトの「これから出る本」では、「親友をエイズでなくした40歳の男が、みずからの無軌道な半生を振り返り、現代に生きる人間の孤独を独白していく。レヴィ・ストロース、毛沢東、蒋介石、フェデリコ・フェリーニ、小津安二郎、成瀬巳喜男……、さまざまなジャンルのテキストを引用しつつ繰り広げられる、家族や性に関する省察。第二次大戦後大陸から台湾へ移住した父を持ち、侯孝賢監督の脚本家として日本でも知られている女性作家・朱天文が1996年に発表し、台湾最大の文学賞を受賞した長篇小説」と紹介されている。

国書刊行会 【新しい台湾の文学】 
荒人手記 朱天文/池上貞子訳 予価2400円(ISBN4-336-04532-1)
12月刊行予定

2006.11.09

遭遇報告

「近況」(右サイドバー)に書いていたのだけれど、思い出すまま書いていたら長くなってしまったので、中央に移動。

マイケル・カニンガムの講演会には開演後40分遅れで到着。半分諦めて行ってみたけれど、入場させてくれて感謝。でも、前半の本人の講演部分は残り15~20分程度しか聞けなかった。

作家の印象は、あの、いつも本の扉に印刷されている結構濃い目の写真と全く違い、とても柔らかで知的な雰囲気で、大学の先生のよう(実際にどこかで教鞭はとっているのか、作家専業なのかは自分には不明。どこかで教えているという情報は見たことはないが……)。席が遠かったので顔までは余りよく見えなかったが、落ち着いた年齢なりの全体的な印象とは裏腹に、表情などは、非常に若々しいように思えた。声も穏やで優しい。顔が似ているわけではないけれども、ダラス・ロバーツのジョナサンが年齢を重ねて精神状態が安定した……みたい(笑)な感じだ。

作家観や作品に対する考え方は、自分が思っていたころに近かったので、とても納得がいった。『星々の生まれるところ』で、ホイットマンの詩句を登場人物に語らせた意図というのが、とても面白かった(講演会がらみの、この辺の話については、核心に迫れるかどうか全く自信はないけれど、本の感想と合わせて改めてきちんと書きたいと思う)。

ナディア人の外見をトカゲにしたのは、「エイリアン」を登場させたかったことと、3章(「美しさのような」)を執筆していたイタリアの投宿先にトカゲがいて、書きながら日々関心を持って観察していたからだと、本当か嘘かわからないが、楽しそうに語っていた。

作品が3部構成だったり、主要登場人物が3人だったりするのは、3が好きだから。3は2よりも広がりがあって落ち着きが良い、というようなことを言っていた。11も好きだと……(笑)。

対談相手の(というよりもインタビュアーに近い感じだった)山本容子氏も、『星々……』について、読み返すと「初めて読むような」素晴らしい輝きを放っている部分に出会うと言っていたが、それは彼の過去の作品で、自分も都度感じてきたこと。ゴツゴツと消化しにくく、けれどしなやかな今度のこの小説は、その「ゴツゴツ」故に、もしかしたら読めば読むほど、多様で、鮮やかな展望をもらたしてくれるのではないかなと、そんな感じはしている。

『星々……』の文体については、3つの章でかなり意識して変えているのだそうで、1章は話の舞台(ホイットマンの生きた産業革命直後)に合わせた古い言葉を使い、2章はいわゆる探偵物の文体で、3章は飾らない平易な言葉でストレートに書いたそうだ。そのあたりを意識して読み返してみると、また面白いだろう。2章のミステリのような文体というのは、邦訳からも感じられた(もちろん、内容がミステリあるいはサスペンス系の話なので、文体以前のことなのかもしれないが……)。

文章を書く上で、カニンガムの師にあたる人から教えられた方法は、書いた文章を読み直し1行1行評価する、というやり方だそうだ。評価はAとB。自分で良く書けたと思うA評価の部文は全て削除し、「悪くない」程度のBの方を残せと……。Aの文は、物語にとっては、これみよがしな作家の自信過剰・自意識過剰部分でしかない。文章はあくまでも物語のしもべでなければならない、と……。でも、詩を愛し、本当は詩人になりたかったというカニンガムの小説の魅力は、単なる物語のしもべではなく、もしかしたら平凡すぎる物語に輝きを与える言葉の連なりとしての文章に寄るところは大きいと思う。もちろんそれは、「つくりすぎ」た言葉を削ぎ落とし磨き上げるからこそ生まれる「輝き」なのかもしれない。

9日に東大で行われる講演のタイトルでもわかるとおり、カニンガムは「過去のどんな偉大な文明も滅びたように、現在のアメリカの繁栄が先々まで続くことは有り得ない」と言う。9・11以降のアメリカ(を中心とした世界)は確かに変わったけれども、体制とか文明とか国というものは、時の流れの中で栄え滅びゆくものであり、そして個である人々は日々を生き、常に前(未来)に向かって進んでいることに変わりはないと……。

【追記】
傍流点景さん(←「さん」付けというのも何だか可笑しいが……)のレポートと合わせると、もう少し良く、当日の雰囲気が伝わるかと思いますのでリンクさせていただきます。
蜥蜴の紳士

『星々の生まれるところ』のショート・インタビュー(英語)→"Man of THE HOURS"

李安新作に龍子さん

TIFFで上映された『1年の初め』のキャストとしてトゥオ・ツェンホアと表記されているので、そう書くことにしよう。日本語の漢字がないので、いつも名前の表記に困っていた"龍子さん"ことトゥオ宗華(トゥオ・ツェンホア)の、李安(アン・リー)の新作《色,戒》への出演が決まったようだ→聯合報fromHiNet。いよいよトゥオ先生もワールドワイドである。(原作には詳しくは書かれていない、作品膨らまし系の脇役といったところなんでしょうか?)

リンクした記事には、トゥオ・ツェンホアと李安の、これまでの作品上でのつながりが書かれていて、劉若英(レネ・リウ)と共演した、張艾嘉(シルビア・チャン)監督作品《少女小漁》はプロデューサーが李安だとか(そんな記憶はなかったので、思わず台湾版DVDを掘り出してタイトルロールを確認してみたら、プロデューサーは徐立功(シュー・リーコン)と李安とドリー・ホールの3人)、『恋人たちの食卓』に出演していた呉倩蓮(ン・シンリン)の撮影中、当時彼女の恋人だったトゥオ・ツェンホアがお忍びで会いにきいてたとか、かなりこじつけ臭い。

《少女小漁》は非常に地味な映画ですが、好きです。

2006.11.07

本日の近況的な

きょうのasahi.comで見た、唐辛子缶のMP3プレーヤー→八幡屋礒五郎。同じ11月3日発売の「iPodシャッフル」より1000円安い、というのが朝日の記事だった。八幡屋礒五郎さんは、グッズ系もなかなか良い感じ。この缶のデザインが良いんだろうな。トートバッグが完売してしまっていて残念だ。

騒ぐつもりは決してないが、カニンガム氏は9日(木)も講演会(@東大)→「アメリカ抜きの未来を想像する」。どなたでも自由に聴講できますとのこと。「通訳なし」でもOKな方は、いいなぁ。新刊をひっさげてやってきているわけで、基本的には同じなんだろうけれど、こっちの演題の方が明確で面白そうではある。

岩波新書の『労働ダンピング』。泣けます! 本読んで泣くなんて、この本ぐらいじゃないのか?(笑)

2006.11.06

火ぐまのパッチョ

新潮文庫のYonda?やら、損保ジャパンダやら、クマ系のキャラクターは大概かわいい(前にもこんなことを書いたっけ……)。このところはずっとAIR DOのクマ(ベアドゥ)がお気に入りで、PC壁紙などを愛用していた。まあ、このあたりは取り立てて何と言うこともない、普通のかわいいクマである。

だが最近、自分的に最強のクマが登場した。東京ガスのキャラクター、「火グマのパッチョ」である。

東京ガスのテレビCMは、妻夫木クンの部屋に歴史上の人物が訪ねてくる楽しいものが印象的だが、見かける回数では、東京電力の「Switch」(鈴木京香出演)には及ばない気がする。地球温暖化防止の動きには、ガスは分が悪いかもしれないが、どうしても原子力発電の影がちらつく「電化」生活の推進キャンペーンに負けずにがんばってほしい、などと思ってしまう。まあ、そんな思いもあり、そんな思いもなし、いや関係なし。東京ガスの火グマのパッチョは不気味な魅力にあふれたゆかしい存在である。

何せ、顔が「火」の字なのである。サイトに行って、すっかりゲームで遊んでしまったが、その中に登場する、"ガス乾燥機「乾太くん」"を紹介するときの、湿った洗濯物を手に持ったパッチョは、顔が「水」の字になってしまって困った表情をしている。早く乾太くんで乾かして、「火」の顔に戻りたい、とでも言うように……。ちなみにパッチョは火の国からやってきた王子で、故郷に君臨する父王の顔は、「王」の字でできている(わかりやすい)。

このクマが最強である理由は、不気味でかわいいという上に、デザインの勉強もしたことのあるらしい妻子ある成人男性にも、こんな感想を抱かせてしまうという所にもある。
       ↓
東京ガスのクマが、無駄にセクシーな件。

そう、かわいい「ぬいぐるみ」系クマのイメージを裏切り、セクシーなんである(尻の造形が)。しかも、こいつの動画を見ると、いわゆる「天の橋立て」ポーズ――しっぽのない丸々とした尻の間から頭を覗かせて、「へーん」とでも言いたげに相手を小馬鹿にした態度――をとるのが癖らしい。ファンシーさから逸脱したリアルな尻に、ハッとさせられるポーズ、かわいい風に見せながら余りかわいくなさそうな性格が、我々の心を翻弄する。こ~の小悪魔グマめが。

下半身水色というのも良い。輪郭線のタッチも良い。顔が、「火」の字であるゆえの、造作のかわいくなさも良い。

唯一の欠点は、キンキンし過ぎた動画の声か?

ということで、PCの壁紙はベアドゥからパッチョになってしまった(この壁紙がまた、本当にかわいくなくて、素晴らしい!)。ガス展でパッチョのついた台所グッズももらってきたし♪……(笑)。

『星々の生まれるところ』、読み終えたんですが、これは一筋縄ではいかない作品です。右サイドにも書いたように、ホイットマンの言葉の力強さが際立って心を揺さぶるし、おなじみのカニンガム・スタイルで美しいのですが、やはり3つのパートの絡み合い方が、これまでの作品とは違っているのが、まだ自分の中で上手くこなれなくて、いろいろ感じることはあるのですが、文にできないでいます。何か言えるようなら、書いてみたいとは思っています。

2006.11.04

ビョウキジン

宇和島徳洲会病院の腎移植のニュースで、新聞の見出しには「病気腎」という言葉が使われていた。「鮭(サケ)」が切り身になったとたんに「シャケ」と化すごとく、病気腎ってすごくモノ(物)っぽいよね。

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