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2006.10.26

クライマックス

午後会社を休み、オーチャードホールで『松ヶ根乱射事件』と『フォーギヴネス』を見る。夜はパークヒルズで『盛夏光年』。一応これで、残りチケットは2枚のみ。もう、きのうの『父子』ときょうの『フォーギヴネス』&『盛夏光年』で、心境的には映画祭は終わったようなものである。あす1作品、あさって1作品。土日は、前売りは買っていない(ところで、昨日の『父子』の当日券と、購入済みの前売り券と、値段が同じ。それでいいのか?)。

眠気がきざした度で並べると 松ヶ根>フォーギヴネス>盛夏光年。 夜が更けてゆくにしたがって、目が冴えた。

きょうも垂れ流してみます。

Matsu基本的に、前知識を入れないで見るほうが印象深く見られることが多いので、そうしているが、松ヶ根はやられた。山下監督がなんでこんな題材を、と思いながら見ていたら、全然まったく山下映画。自分がひき逃げをした相手(死には至らなかった)から脅され続ける双子の兄と、生まれ育った田舎町で警官をしている双子の弟を中心に、その家族や街の人々のそれぞれの問題、いらつく日常を描く。しらじらとした間(ま)も、情けなさも、ヘンな人たちの普通に変な日常も、衝撃のラストも……。チラシにも使われている、左の、警官が自転車にのっているスチール、この角度が不安感を煽って、すごく良いと思う(でも、本編はそんな「不安」な映画ではまったくない)。警官も、いかにもキレそうなあの新井浩文というよりも、えなり君のようで、そこがまたうまく肩すかしを食らわしている。TIFFの紹介文にある、「サスペンス要素」ってどこのことだ?(笑) 一応、映画は、雪道で小学生が女性の死体を見つけ、警官が電話で呼び出されるというところから始まる、なかなかに「事件」な感じなのだが、ところがどっこいその実態は、パンク系とほほ映画。そう思って見にいかないと、というか、そういうのが面白がれる人じゃないと、もしかしたら、見終えて怒る人いるかも……(笑)。自分は、あのオチは好きです、もちろん。

『フォーギヴネス』。上映後のティーチインは、次の映画を見るために六本木に移動せねばならず、前半の1~2問だけを途中まで廊下で聞いた。全部見たかった。タイトルの「許し」は、逆に"Unforgiven"でも良いのだと、ティーチインで(パレスチナとイスラエルの問題について)「許し」だけで事足りるのかと問われた監督が答えていた。原題のヘブライ語の"Mechilot"は、「許し」のほかに「地下の通路」という意味を持つとのこと。幼い頃イスラエルで暮らし、今はニューヨークに住むユダヤ人の若者(デビッド)が、自分のアイデンティティを確かめるためにイスラエルに戻り従軍し、任務中に誤って発砲。パレスチナ人の少女を殺してしまう。それをきっかけに精神に変調を来たしたデビッドは、1940年代のイスラエルのパレスチナ侵攻によって滅びた村の上に建つ精神病院に入院する。入院患者のユダヤ人たちは、滅ぼされた村のパレスチナ人の幽霊を見るという。デビッドも、彼が銃で殺した白いドレスの少女の幽霊(夢)に悩まされるようになる。それは、彼自身の罪悪感であり、イスラエル人としてのパレスチナ人への罪悪感の表れでもある。老齢の入院患者やデビッドの父は、ホロコーストを体験した世代で、監督がティーチインで語っていた、イスラエルとパレスチナの間で必要なこと、「地下の通路が開通する」=「つながる」ために必要な最終的なスタンスは「相手の痛みを我が事として感じる」ことだという部分が、人類未曾有の虐殺の悲劇を体験した民族だからこそ、逆にパレスチナ人の痛みを感じることができるはずだというところにつながっていくように思える。イスラエル(具体的な地名は、アラブ系の女性の出身地としての「ラマラ」のほかには出てきていない気がした。どこか不明)とニューヨークという2つ場所、デビッドの従軍前と従軍後、入院中と退院後という時間、そしてデビッドの幻想と現実と、それらが入り乱れるかたちで映画が進んでいく。もう一歩進んだら、ミュージカルとでも言えてしまいそうなぐらい、歌の場面が多い。印象に残るのは、入院患者たちが歌う幾つかの(たぶんヘブライ語の)歌。母語は英語であるデビッドが惹かれるのは、いつもアラブ系の女性。イスラエルのクラブで、デビッドが惹かれた女性が歌った悲しい歌は、たぶんアラビア語の歌。退院後のニューヨークで、デビッドの恋人となるパレスチナ人の女性が歌う歌も、同じ歌。その恋人には、過去の結婚生活により、女の子が1人いる。その女の子と、デビッドがイスラエルで殺したパレスチナ人の少女と、デビッドの中の「幽霊」の少女がだぶり、デビッドは錯乱。父の拳銃を盗み、自殺を図ろうとする。そのデビッドが従軍中のシーンでは、アラブ系のイスラエル人は、パレスチナ人に対してひとり優しく接している。民族も宗教も言語も入り混じり、日本人には余りにも複雑な、アレキサンダーの通った場所を故郷とする人々の、映画ならではの映像と音楽で満たされた、重くて幻想的で意欲的な映画だ。いろいろな意味で、重要な作品だと思う。

001_1『盛夏光年』。上映後のティーチ・インに登場したのは、『狂放』のときには来なかった陳正道監督と、主演男優の1人である張睿家。張睿家クンは会場から黄色い声が上がっていた。マニアなファンはどこにでもいるのだね~(←って言える資格があるのか、自分)。物語中では男子2人はほとんど同格だが、どちらか決めろと言われれば、張睿家クンの方が「主演」にあたるかもしれない。映画中では内向的な役柄だけれど、実際は明るいとは張睿家クン本人の言葉。見た目は、映画とほとんど変わらない様子だった。監督は、小型のパン・ホーチョン系というか、大変可愛くて丸っこい人だったのにびっくり。もっとマニアックな感じを想像していたのだけれど……(ティーチ・インで質問した人と、おまけのクイズで正解した人には、公式サイトでもおなじみの、左の画像のポスターを配っていた)。

それにしても、予告編を見たことを、映画を見ていて、これほど後悔したことはない。予告編に出てきた、主人公の男の子2人(守恆(張孝全)と正行(張睿家))のラブシーン。あの「ピース」が、話のどこに「はまる」のか。見ている時点では、どう考えても、あのシーンへの展開が考えられず、そんなことばかりが気になって仕方がなかった。実際ラストまで見ても、あのラブシーンは通常の展開では有り得ないと思えるし、なくても良い(無用の長物という意味ではなく、なくても全体が理解できるという意味)ものだったのではないかとさえ思えるのである。逆に、あのラブシーンがあることを知らずに見ていたら、どんなにかそれは、衝撃的だっただろう。もちろんあの場面が、正行と守恆の、友情とか愛情というような概念ではとらえきれない、かけがえのない関係を表していることはわかる。だからこそ、映画の時間を、正行と共に悩み、守恆と共に戸惑いながら、場面をリアルタイムに心に刻みたかったと思った。まあ、そんな残念さはあるのだが、だがしかし、クライマックスはラストシーンだ。浜辺で、主人公たちが距離を置いて叫びながら心中を吐き出しあう場面では、BBMの最後の逢瀬の苦しい場面が思い出されるようだった。冒頭の、病院の廊下の場面は、ラストシーンの直後の時間にあたるのだろう。そこから、守恆と正行の関係の始まりである子供時代を通り、彼らの関係の触媒役である香港から来た少女、惠嘉(楊淇)が登場する高校時代を経て、「今」の大学生の彼らの時間まで、ストーリーはシンプルに進んでいく。ああ、こうなるだろうなと、誰もが推察するとおりの展開だ。けれど、主人公の抑えに抑えた思いの行方と、映像の新鮮な美しさが、見る者の興味をそらさない。

惠嘉役の楊淇が本当にすばらしい。ちょうどスー・チーのような、生活感も浮遊感も出せる、超美人ではないが魅力的な、年齢を重ねても良い味の女優でいてくれそうな、そんな若い女優さんが中華圏には多いなあと思う(韓国なんかは、そういう若手女優って少ないよね)。逆に若手の男優の方が、若いうちだけアイドルで、一花咲かせて終わりそうな、そんな人が多い気がする。張孝全くんは、年齢のせいもあるだろうが、兵役を終えて、あのあどけなさが消えたことが、かえってこの役に良い作用を与えていたと思う。がさつで落ち着きがないスポーツマン。でも、寂しがり屋。正行を演じた張睿家クンは、「男の子を好きになったことがなく気持ちがわからないので、相手が女の子だと思って演じた」と言っていたが、それは張孝全くんがニエズのときに言っていたことと同じ。アドバイスしたのか?(笑) 微笑ましかった。

『狂放』を見た友人が余り良い印象を持たなかったようなので、実はかなり心配していたが、堂々たる青春ドラマに仕上がっていて安心、いやそれ以上の出来で、(見られたことの)幸福を味わった。映画祭で見られなかった人は、ティーチ・インの質問の中でも話されていたことだが、台詞が少なく表情や動作を重ねて感情を表していく映画なので、(台湾での公開後に発売されるであろう)台湾版のDVDで見てみても、充分登場人物たちの心情を追っていくことができるだろうと思う。『藍色夏恋』がよく引き合いに出されているが、『盛夏光年』も、日本で公開できる作品だと思う(願わくば、新宿某所でないところで……)。公開を祈る。

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コメント

いや正直、何が正しいか自信ないので、別に良いですよ~。気にしないで。

ああ、コメント欄無駄遣い状態に。今度はよく確かめてから投稿するよう気をつけます。ごめんなさい。
やはり記憶違いでしたね……誰かよく似た方と混同してたようです。だれと間違えたんだろう。

ウーさん、陳正道監督は、自分で「前回は来なかった。今回が初めてだ」という意味のことをおっしゃっていたと思います。何か違う問いに対する答えだったのかも知れません。


 『盛夏光年』、良かったですか。それは喜ばしいことです。今回スケジュールの不運で見られなかったことが本当に残念です。他の見られなかった映画もそうですが、二回上映ならどっちか土日にして欲しかったと自分勝手を承知ながらぼやいてみたくなるってもんです。
 やっぱりスクリーンで、日本語字幕で見たい……いつか公開してくれることを切に祈っております。たとえ新宿某所であろうとも。いやできれば地方でも。
 丸っこくて愛嬌のある陳正道監督は、たしか前回の映画祭にも来ていたと思ったのですが、あれ?記憶違いだったか。

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