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2006.10.30

OPPAI星人 バビー

京橋のフィルムセンターで、1994年のオーストラリア映画『バッド・ボーイ・バビー』を見る。オーストラリア映画祭最終日。フィルムセンターのホームページに掲載されている、同映画祭での作品解説はこうだ。

バビーは「悪い子」だからと、母親に命じられるままに地下室に閉じこもったまま、母親と二人で30年以上暮らしていた。外に出ると空気中の毒で死んでしまうと信じ込んでいたバビー。父親が戻ってきたことから、外界へ出ることとなるが、そこは地下の密室以上に奇妙な世界だった…。オーストラリア映画界の鬼才、ドゥ・ヒーアの映画のなかでも特にカルトな作品。ヴェネチア映画祭審査員特別賞など多数受賞。

30がらみの、前髪の薄くなりかけた、ぼさぼさ頭のバビー。なぜ、地下で暮らし続けたのかは説明されないが、強烈な母権の下、あくまでも「子ども」として扱われている。遊び相手は、猫とゴキブリ。母が外界へ出かけている間も、「動いてはいけない」と母に命令されるがままに椅子に座ったきりで、小便をもらしてしまう。母とは性的な関係もある。もちろん母親主導の形で……。そんな異常な環境下で生きてきた男が、突然現れた父と愛する母との2人が亡くなってしまった後、好きだった猫のラップにくるんだ死体をバッグに詰めて、生まれて初めて外に出る。

そこからは、ホラー映画のようなおどろおどろしい雰囲気は一変。子どもが世界を発見していく、コミカルなロードムービーとなる。バビーは子どもである上に、何の教育も受けていないから、見るもの聞くものがすべて初めてだ。出会う人の言葉使いをすべて真似する。聖歌隊に出会えば、一緒に並んで歌ってしまうし、女性を見ればすぐに胸に手を触れる、母にしていたように、あるいは父が母にしたのを真似て……。女性に対する言葉は、父が母を口説いた台詞そのままで、ケーキ屋でエクレアを買っている人を見れば、(そうすれば食べ物が手に入ると思い)全く同じ口調で同じ物を注文する(金を払うことは知らない)。下手な文章では伝えられないが、このあたりは、場内、笑い声が絶えない部分だったりする。

酷い目にも遭うが、優しい人にも助けられる。特に運命的な出会いをするのが、売れないハードロック・バンドの気の良いメンバーたち。最初は「雑用見習い」として仲間に加わり、ある事件でバビーが投獄されてしまうことで離れるが、彼らのライブステージが行われていたバーで、運命の再会をする。ふらふらとステージに上っていったバビーは、面白がったバンドのメンバーにマイクを渡されるままに、曲の間奏で、覚えた言葉を片端から叫ぶように吐き出し、それが観客に受けて、一躍人気者となる。いつしか映画は、ロードムービーからロックバンド物に成り代わっている。また、そのバビーの、歌とも語りともつかないボーカルが良い。アルバムがあったら買いたいぐらいに良い(笑)。(全然違うけれど、何だかクラウス・ノミのステージを思い出したりした)

そのころ、バビーにはもう1つの出会いがある。バビーが座っていた公園のベンチの前を、障碍者と施設の係員が散歩で通りかかった。重度の障害を持つ女性(レイチェル)の発声が、バビーには理解できることがわかり、バビーは施設に招き入れられる。バビーは、レイチェルを担当していた係の女性(エンジェル)が好きになる。母のようなふくよかな胸を持つ彼女が……。そして、エンジェルを「美しい」と心から思うバビーとエンジェルとの間に、通い合うものが生まれる。

そんな映画の感動的な主旋律をあざ笑うかのように、例えばエンジェルの、ある意味サイコホラーまがいに悲惨な家庭での場面がある。バビーが、放浪の時代に出会った教会のオルガン奏者が説く過激な無神論の場面もある。バンドのメンバーがバビーに語る、宗教と戦争の歴史の話もある。宗教、哲学、死体、おかしな人々と、カルト映画の要素はてんこ盛りだ。

だがそれでも、映画はこれ以上にないぐらいの、明るいハッピー・エンディング。こんな結末が待っているとは、冒頭の地下室での髭剃りシーンからは、誰だって思いも寄らないに違いない。

この豊かで不気味でおかしな映画は一体何なのか。見事に作り込まれた脚本と、深い内容は何なのか。舞台俳優だったという、バビーを演じた俳優(ニコラス・ホープ)の凄みもすさまじい。今回のオーストラリア映画祭では、この作品の監督であるロルフ・ドゥ・ヒーア氏が2006年の新作をひっさげて来日していたという。知らなかったのが悔やまれる。

●海外版だがDVD有り
●ファンサイトらしきもの→リンク

2006.10.29

感想だっていいじゃないか

きょうは京橋でオーストラリア映画を見る予定。別に、『2:37』でオーストラリア映画づいた、というわけではない(笑)。

映画祭や特集上映での、ゲストとの質疑応答を何度も見てきた。特にこのごろ思うのは、日本に限らず世界中のどこでも、まだ公開されていなかったり、公開されていても小規模で終わってしまっていたりする作品や、未評価の作品で、特に意欲的につくられた映画の監督さんや、プロデューサーの方が質疑応答に登場した場合、どんなに本質的でなかったり、的を外しているように思われる質問であっても、答える方は、必ずや自分の土俵に持っていき、自分の言いたいことを得々と語ってくれる。こだわりを持っている作り手であればあればあるほど、質問などどうあれ、聞いていて面白い話を聞かせてくれるし、その作品を理解する手がかりや、世界を考えるヒントを幾つも出してくれる。

もちろん「良い質問」なら、さらなる化学反応によって、もっと面白い話が聞けるかもしれない。

作品ですべてを語りつくしているから、何も言葉で説明するなどない、という作り手もいるだろう。そんな場合は、素人も混じる映画祭の質疑応答など、どんなに良い質問が出てきたって歯が立つわけはない。よほどの名インタビュアーでも連れてこなければ、面白い話など引き出せないだろう。

でも作り手の多くは、作品にこだわりを持っているし、「作品」として抽出したものの裏に、何十倍・何百倍もの思念が隠されているはずだ。俳優がゲストに出てくる場合は話は違うが、監督やプロデューサー、脚本家などのスタッフ側の人々が登場した場合、質問の質などに関係なく、作り手は語るべきことを語ろうとするだろうし、実際、質疑応答を聞いていると、脱力するようなしょうもない質問であっても、応答の側からは、質問に対する答えとは全く違った方向で、思わず耳を傾ける話が聞かれることも多い。本当に多い。

そして、そういう作り手であればあるほど、「感想でも良いですから、ぜひ皆さんの声を聞かせてほしい」と、質疑応答の前に言ってくれたりする。質問もせずに傍で聞いている場合には、他人の感想など聞きたいとは思わないが、「長々とした感想&平凡な質問が最後にちょっぴり」な「質疑」であっても、作り手からは良い話が聞けたりする。自分はよく質問はするほうではないが、「感想だか質問だか、わけのわからない長々とした質問」というのをやってしまったことがある。不慣れな上に、緊張で考えをうまく言葉にまとめられず、無様なことになった。多分、その「くだらない長い話」が呆れられたせいに違いないが、通訳さんに、(本人はしっかり述べたつもりの)「質問」の方を見事にすっとばされ、司会者にも揶揄されてしまったという苦い経験がある。これはかなり悲しかった。基本的には、質問をするよりも、他人からの質問とゲスト側の答えを聞きながら、静かに自分の中で内容について考えたいと思う方なので、よほどの理由がない限り質問はしないのだが……。

今回の東京国際映画祭で見た『セランビ』や『フォーギヴネス』や『2:37』のティーチ・インでは、監督やプロデューサーの作品にかける思いが非常に良く伝わってきて、とても参考になったし、その場にいられる幸せ(直接作り手の声を聞くことのできる幸運)を有難く思った。『フォーギヴネス』の海外のプレスからの質問にしたって、本質的ではあったが概念的な質問で、決して「上手い」性質のものではない。それでも監督は、深い話を語りつづけた。常識外のものは別として、質疑応答での実りは、質問の質(質問者の側)に左右されるものではないのだなと、心から感じた。

もちろん、過去の『蝴蝶 羽化する官能』(蝴蝶)や『楽日』(さらば、龍門客棧)や『プロスティ』のときみたいな、映画祭での作品鑑賞態度として信じられない狭量な倫理観や、映画への固定観念に満ち満ちた、同じ国民として恥ずかしくなるような耐え難い質問も、あることはある。それは論外だ。

進行時間の問題も大きいのだろうから、それはわかる。でもまあ、それはそれとして、「くだらない質問」だって「長い感想」だって、質疑応答の本来の目的をそぐようなものでは決してないのだと思う。

(業界による業界のためのイベントであると言われる映画祭の場合は違うのかも知れませんが……)

2006.10.28

掌中の玉

『2:37』で、TIFFの前売りのチケットは最後。最後を飾るにふさわしい佳作。内容については、「傍流点景」のshitoさんが丁寧に書いてくれている。

弱冠22歳のインド系オーストラリア人であるムラーリ K・タルリ監督は、友人の自殺をきっかけにこの映画の脚本を書き上げた。当時19歳。実際には、友人の死と映画制作の間には、少し間があるらしい。友人が自殺したとき、もちろん彼はショックを受けたが、亡くなった友人の苦しみへの共感よりも、自ら命を絶ったことへのいくばくかの非難の気持ちの方が強かったという。しかしその後、彼自身をいくつかの困難が同時に襲う。絶望し、死をも願いながら酒とドラッグに溺れる自棄の日々。自殺した友人の苦悩が、文字どおり我が事として実感された。そして、このまま眠ったら死ねるのではないかと思ったある時、朦朧とする意識の中で突然、死ぬのが怖いという感覚が湧き上がる。幸い数時間後に目覚め、生の貴さを自覚した彼は、「本当にやりたいことをやろう」と誓ったのだという。それが、映画制作だった。(恐らくは裕福で)古風なインド系の家庭では、子供は幼いうちから実業家や技術者(具体的に4つの職業の名前を挙げていたが、忘れた)になることを期待され、それ以外の職業選択の自由はない。だから、「映画をつくりたい」と親に告げたとき、その(親にとっては)非現実的な彼の夢を、まずは笑われたそうだ。が、どんなに反対されても、映画をつくる職業に就くのだという決意は揺るがなかった。ティーチ・インでは、ひとまずそこで話が終わったが、このころに、彼自身の体験と友人への想いを礎に、最初の脚本が書かれたのだろうと思う。

この映画に、プロデューサー兼監督兼脚本家としてクレジットされているムラーリ K・タルリは、では、肩書きも経験もない10代の若者として、どのように映画制作の資金を調達したのか。彼は税務事務所(会計事務所だったか?)に勤めていて、税法に詳しかった。それで、オーストラリアで発表される長者番付の上位者に会いにいき、税法の抜け道を説いて自分の映画への投資を勧めたのだいう。大方の資金を集めることに成功し、撮影を完遂。映画が出来上がった後、今度は映画祭に出品するためのフィルムをプリントする資金がない。オーストラリアでは、スタジオシステムはなく、映画産業の振興をかがる国の助成金によって年に10数本の映画が制作されている。そこで、彼もその助成金を受けようとするが、完成した映画を見せても、作品本位で評価することをしない国の担当者に、若さを理由に断られた上に馬鹿にされ、全く援助を受けられなかった。エンドロールの最後に、「この映画は国からの助成なしに制作された」という一文が入れられている。その言葉を見たときには、この作品に対する制作者の強い想いを感じただけだったが、ティーチ・インでの監督の言及により、それが、映画制作そのものへの彼の執念、国への怒りと作品への誇りを込めたものでもあったことを知る。

オーストラリアの高校で女子生徒が自殺する。若者たちが隣り合い、袖すり合う学校という場所で、しかし若者たちの心は通わず、すれ違うばかり。そのあたりを、映像そのもので見せていく。言葉で説明しなくても、それが見事に伝わってくるのが素晴らしい。監督は、命の大切さを伝えたいと言っていた。命の大切さと言ってしまうと、日本語ではかなり限定された意味に受け取れるが、人生の大切さ、他者との出会いや触れ合いということを含めた「生」の大切さと言い換えれば、より映画のテーマに近づけるような気がする。学校というのは、社会の縮図。残酷で、くだらなくて、建前ばかりの空しい場所。青春時代に戻れと言われても、2度と戻りたくはないとすら思う。でも、そこで時と場を同じくする生徒たちは、それぞれの苦悩を抱え、孤独にあえぐ。もう少しだけ、表面的でもいいから、お互いに優しい言葉がかけられたら、相手のことを気遣ってやれたら……。青春を描いた珠玉の小品は、大人社会への教訓をも含んでいる。

2006.10.27

息を抜く

『不完全恋人』を見たのは、ただただ、ボクカレの陳映蓉(DJ・チェン)監督の作品だから……。力を入れて見るような映画ではなく、実際、アジアの風部門で見る作品を迷う人なら絶対に見る必要のない作品だし、他愛のない悲恋物にすぎないのだが、これが意外、帰路、このところの重厚な作品の連続で疲れていた頭が、すっきりと軽く(←もともと軽いけど)なった気がしたのだった。

ティーチインにはメインのキャストと監督が登場。この映画は元々、プロデューサーでもある台湾の歌手、張信哲(ジェフ・チャン)が自分の新しいアルバム用に書いたいくつかの曲を元に映像でストーリーをつくってみようという思いつきから始まっていて、知っていた陳映蓉監督に声をかけて実現したということだ。だから全編を張信哲の音楽が流れ、スピーディーに展開するMVのような映画になっている。主演の阿部力もティーチインで、当初は単発のテレビドラマ(のようなもの)を撮影していたはずが、出来上がってみたら「映画」になっていて、映画祭で上映されていることに驚いているというようなことを言っていた。

自分自身は見ていて、「ああ、音楽がうるさいなぁ」と感じた。音楽が主体の映画なのだから、それを言ってはいけないのだけれど……。ヒロインの女優役のシー・クー(史可)が、さすがの大陸女優っぷりを見せつけ、非の打ちどころのない美しさである上に、しっかりした演技を見せてくれていただけに、軽いMV風映画になってしまっていることが、ちょっともったいない。

監督も、ニュースで見る写真どおり、さわやかで格好良く、作品も外見も全くタイプがちがうけれども、アリス・ワン監督姉御を久しぶりに思い出した。台湾=中国合作映画とのことで、台湾の音楽、台湾の若手女性監督、大陸の女優、日本人の男優、台湾人の男優、大陸の男優が登場し、撮影された舞台は北京。タイトルロールもエンドロールも簡体字。TIFFで紹介されているようなミュージカルではないけれど、合作(しかも中国と台湾)の音楽映画という面白い成り立ちと、「これから」の監督なのだろうが、今までの台湾映画のイメージとは明らかにちがう、フレッシュな感覚の作品をつくるという「期待株」的な意味で、映画祭でセレクトされたのかなと思った。

自分は張信哲も阿部力も、知っているのは名前程度のものなので驚いたが、本日もまた、ファンの熱気がそここに充ちるティーチ・イン会場だった。上映後、映画の内容に不満を漏らしていたお隣さんが、ティーチ・インで指されて、開口一番「すばらしい作品をありがとうございました」というのが、面白かった。あれは、心からの賛辞ではなく、質問の前の儀礼的枕詞なんですね(笑)。大人の礼儀ですか?

2006.10.26

クライマックス

午後会社を休み、オーチャードホールで『松ヶ根乱射事件』と『フォーギヴネス』を見る。夜はパークヒルズで『盛夏光年』。一応これで、残りチケットは2枚のみ。もう、きのうの『父子』ときょうの『フォーギヴネス』&『盛夏光年』で、心境的には映画祭は終わったようなものである。あす1作品、あさって1作品。土日は、前売りは買っていない(ところで、昨日の『父子』の当日券と、購入済みの前売り券と、値段が同じ。それでいいのか?)。

眠気がきざした度で並べると 松ヶ根>フォーギヴネス>盛夏光年。 夜が更けてゆくにしたがって、目が冴えた。

きょうも垂れ流してみます。

Matsu基本的に、前知識を入れないで見るほうが印象深く見られることが多いので、そうしているが、松ヶ根はやられた。山下監督がなんでこんな題材を、と思いながら見ていたら、全然まったく山下映画。自分がひき逃げをした相手(死には至らなかった)から脅され続ける双子の兄と、生まれ育った田舎町で警官をしている双子の弟を中心に、その家族や街の人々のそれぞれの問題、いらつく日常を描く。しらじらとした間(ま)も、情けなさも、ヘンな人たちの普通に変な日常も、衝撃のラストも……。チラシにも使われている、左の、警官が自転車にのっているスチール、この角度が不安感を煽って、すごく良いと思う(でも、本編はそんな「不安」な映画ではまったくない)。警官も、いかにもキレそうなあの新井浩文というよりも、えなり君のようで、そこがまたうまく肩すかしを食らわしている。TIFFの紹介文にある、「サスペンス要素」ってどこのことだ?(笑) 一応、映画は、雪道で小学生が女性の死体を見つけ、警官が電話で呼び出されるというところから始まる、なかなかに「事件」な感じなのだが、ところがどっこいその実態は、パンク系とほほ映画。そう思って見にいかないと、というか、そういうのが面白がれる人じゃないと、もしかしたら、見終えて怒る人いるかも……(笑)。自分は、あのオチは好きです、もちろん。

『フォーギヴネス』。上映後のティーチインは、次の映画を見るために六本木に移動せねばならず、前半の1~2問だけを途中まで廊下で聞いた。全部見たかった。タイトルの「許し」は、逆に"Unforgiven"でも良いのだと、ティーチインで(パレスチナとイスラエルの問題について)「許し」だけで事足りるのかと問われた監督が答えていた。原題のヘブライ語の"Mechilot"は、「許し」のほかに「地下の通路」という意味を持つとのこと。幼い頃イスラエルで暮らし、今はニューヨークに住むユダヤ人の若者(デビッド)が、自分のアイデンティティを確かめるためにイスラエルに戻り従軍し、任務中に誤って発砲。パレスチナ人の少女を殺してしまう。それをきっかけに精神に変調を来たしたデビッドは、1940年代のイスラエルのパレスチナ侵攻によって滅びた村の上に建つ精神病院に入院する。入院患者のユダヤ人たちは、滅ぼされた村のパレスチナ人の幽霊を見るという。デビッドも、彼が銃で殺した白いドレスの少女の幽霊(夢)に悩まされるようになる。それは、彼自身の罪悪感であり、イスラエル人としてのパレスチナ人への罪悪感の表れでもある。老齢の入院患者やデビッドの父は、ホロコーストを体験した世代で、監督がティーチインで語っていた、イスラエルとパレスチナの間で必要なこと、「地下の通路が開通する」=「つながる」ために必要な最終的なスタンスは「相手の痛みを我が事として感じる」ことだという部分が、人類未曾有の虐殺の悲劇を体験した民族だからこそ、逆にパレスチナ人の痛みを感じることができるはずだというところにつながっていくように思える。イスラエル(具体的な地名は、アラブ系の女性の出身地としての「ラマラ」のほかには出てきていない気がした。どこか不明)とニューヨークという2つ場所、デビッドの従軍前と従軍後、入院中と退院後という時間、そしてデビッドの幻想と現実と、それらが入り乱れるかたちで映画が進んでいく。もう一歩進んだら、ミュージカルとでも言えてしまいそうなぐらい、歌の場面が多い。印象に残るのは、入院患者たちが歌う幾つかの(たぶんヘブライ語の)歌。母語は英語であるデビッドが惹かれるのは、いつもアラブ系の女性。イスラエルのクラブで、デビッドが惹かれた女性が歌った悲しい歌は、たぶんアラビア語の歌。退院後のニューヨークで、デビッドの恋人となるパレスチナ人の女性が歌う歌も、同じ歌。その恋人には、過去の結婚生活により、女の子が1人いる。その女の子と、デビッドがイスラエルで殺したパレスチナ人の少女と、デビッドの中の「幽霊」の少女がだぶり、デビッドは錯乱。父の拳銃を盗み、自殺を図ろうとする。そのデビッドが従軍中のシーンでは、アラブ系のイスラエル人は、パレスチナ人に対してひとり優しく接している。民族も宗教も言語も入り混じり、日本人には余りにも複雑な、アレキサンダーの通った場所を故郷とする人々の、映画ならではの映像と音楽で満たされた、重くて幻想的で意欲的な映画だ。いろいろな意味で、重要な作品だと思う。

001_1『盛夏光年』。上映後のティーチ・インに登場したのは、『狂放』のときには来なかった陳正道監督と、主演男優の1人である張睿家。張睿家クンは会場から黄色い声が上がっていた。マニアなファンはどこにでもいるのだね~(←って言える資格があるのか、自分)。物語中では男子2人はほとんど同格だが、どちらか決めろと言われれば、張睿家クンの方が「主演」にあたるかもしれない。映画中では内向的な役柄だけれど、実際は明るいとは張睿家クン本人の言葉。見た目は、映画とほとんど変わらない様子だった。監督は、小型のパン・ホーチョン系というか、大変可愛くて丸っこい人だったのにびっくり。もっとマニアックな感じを想像していたのだけれど……(ティーチ・インで質問した人と、おまけのクイズで正解した人には、公式サイトでもおなじみの、左の画像のポスターを配っていた)。

それにしても、予告編を見たことを、映画を見ていて、これほど後悔したことはない。予告編に出てきた、主人公の男の子2人(守恆(張孝全)と正行(張睿家))のラブシーン。あの「ピース」が、話のどこに「はまる」のか。見ている時点では、どう考えても、あのシーンへの展開が考えられず、そんなことばかりが気になって仕方がなかった。実際ラストまで見ても、あのラブシーンは通常の展開では有り得ないと思えるし、なくても良い(無用の長物という意味ではなく、なくても全体が理解できるという意味)ものだったのではないかとさえ思えるのである。逆に、あのラブシーンがあることを知らずに見ていたら、どんなにかそれは、衝撃的だっただろう。もちろんあの場面が、正行と守恆の、友情とか愛情というような概念ではとらえきれない、かけがえのない関係を表していることはわかる。だからこそ、映画の時間を、正行と共に悩み、守恆と共に戸惑いながら、場面をリアルタイムに心に刻みたかったと思った。まあ、そんな残念さはあるのだが、だがしかし、クライマックスはラストシーンだ。浜辺で、主人公たちが距離を置いて叫びながら心中を吐き出しあう場面では、BBMの最後の逢瀬の苦しい場面が思い出されるようだった。冒頭の、病院の廊下の場面は、ラストシーンの直後の時間にあたるのだろう。そこから、守恆と正行の関係の始まりである子供時代を通り、彼らの関係の触媒役である香港から来た少女、惠嘉(楊淇)が登場する高校時代を経て、「今」の大学生の彼らの時間まで、ストーリーはシンプルに進んでいく。ああ、こうなるだろうなと、誰もが推察するとおりの展開だ。けれど、主人公の抑えに抑えた思いの行方と、映像の新鮮な美しさが、見る者の興味をそらさない。

惠嘉役の楊淇が本当にすばらしい。ちょうどスー・チーのような、生活感も浮遊感も出せる、超美人ではないが魅力的な、年齢を重ねても良い味の女優でいてくれそうな、そんな若い女優さんが中華圏には多いなあと思う(韓国なんかは、そういう若手女優って少ないよね)。逆に若手の男優の方が、若いうちだけアイドルで、一花咲かせて終わりそうな、そんな人が多い気がする。張孝全くんは、年齢のせいもあるだろうが、兵役を終えて、あのあどけなさが消えたことが、かえってこの役に良い作用を与えていたと思う。がさつで落ち着きがないスポーツマン。でも、寂しがり屋。正行を演じた張睿家クンは、「男の子を好きになったことがなく気持ちがわからないので、相手が女の子だと思って演じた」と言っていたが、それは張孝全くんがニエズのときに言っていたことと同じ。アドバイスしたのか?(笑) 微笑ましかった。

『狂放』を見た友人が余り良い印象を持たなかったようなので、実はかなり心配していたが、堂々たる青春ドラマに仕上がっていて安心、いやそれ以上の出来で、(見られたことの)幸福を味わった。映画祭で見られなかった人は、ティーチ・インの質問の中でも話されていたことだが、台詞が少なく表情や動作を重ねて感情を表していく映画なので、(台湾での公開後に発売されるであろう)台湾版のDVDで見てみても、充分登場人物たちの心情を追っていくことができるだろうと思う。『藍色夏恋』がよく引き合いに出されているが、『盛夏光年』も、日本で公開できる作品だと思う(願わくば、新宿某所でないところで……)。公開を祈る。

2006.10.25

少しだけ

『一年の初め』には間に合わず。ついたのは上映の終わる15分ほど前だったので、諦めた。チケット発売と同時にとった、たったの3枚の内の1枚であったにもかかわらず……。残念。

で、元気があったら当日券で見ようと思っていた、鬼才パトリック・タムの15年ぶりの新作という謳い文句の『父子』を見る。先週後半あたりから、このところすっかり夜更かし朝駆け(?)で眠いので、長く書くつもりはないけれど、これは凄すぎ。映画の格は、『殺人の追憶』とか『ブロークバック・マウンテン』にも匹敵するような堂々たるもの。昨日か一昨日だったかに発表された台湾金馬奨の作品賞にもノミネートされていたが、2006年の収穫というにとどまらず、中国語映画の歴史の1ページを飾る作品だろうと思った。

一番最初の絵から、その美しさと物語とにぐいっと引っ張られたまま、まるで、まばたきもせずに150分を見通したかのような感じ。舞台挨拶に立った監督は、すばらしくエレガントな方です。

あ、映画の中で使われていた沢山の音楽や歌のうちの1つ、マレーシアの歌姫シティ・ヌルハリザの歌声は、映画を見ていてわかったので、嬉しかった(←関係ないよ)。

2006.10.24

小説より奇なるものは「事実」か

日曜日、シネマライズでかかっていた映画予告編のうちの3本が、ドキュメンタリーあるいはドキュメンタリー・ドラマだった。単館系公開とはいえ、ドキュメンタリーの隆盛というのは本当なのだなと実感する。11月18日から公開される『エンロン』など、――売上高13兆円、全米第7位の巨大企業が、なぜ46日間で崩壊したのか!? 負債総額2兆円、失業者2万人。世界を震撼させた事件の全貌を暴く! 今世紀最大の企業スキャンダルを暴く衝撃のドキュメンタリー!! ――こんなイケイケな煽り方で、NHK「クローズアップ現代」のようなテーマを、見たくてたまらなくさせてくる。ここに出てくる数字は嘘ではないはずだ。なのにハリウッド大作のキャッチのようなこの派手さはどうだ。


で、本日は、インドネシアの津波(の被害を受けた人々の復興までの足取り)を題材にしたドキュメンタリー・ドラマ『セランビ』を、オーチャードホールで見た。インド映画などもそうだが、東京国際映画祭に限らず、アジア圏の映画が上映されるときには、日本在住のその国の方とおぼしき人々が沢山足を運んでいたりして、会場は独特な雰囲気となる。きょうのオーチャードホールも、もちろん『セランビ』の直接の関係者の方もいたのだろうが、インドネシアの民族衣装を身につけた方が何人も見かけられて、席数の多い会場であるゆえ満杯とはいかないが、それなりに盛況な感じだった(でも上映後のティーチ・インでは、観客がボロボロと抜けてしまって、上映前の賑わいはどこへやら……)。

アチェとアジアのための特別上映と題された『セランビ』の上映は、津波被害からの復興のためのチャリティ上映でもある。プロデューサーと監督の舞台挨拶の後、インドネシア舞踊が披露され、会場にはゆったりとした空気が流れたが(ゆったりしすぎて意識を失うことしばし)、本編の上映が始まるやいなや、本物の津波のビデオ映像の迫力に目玉がぎっと開く。水害の怖さは、水の怖さというよりは、水の力の強さの怖さなのだなと、様々なモノが大量に押し寄せる映像を見て感じた。水が引いた後に残るのは、瓦礫の山と、流されて力尽きた沢山の人々(の遺体)。生存者は、悲しみ混乱し呆然としている。時折、行方不明の家族を探す人々の声が挿入される。

カメラが追うのは、妻子を失った中年男と、両親や姉妹を失った少女と、常にチェ・ゲバラのTシャツを身につけている学生。別々に登場し、それぞれの現状の中で心境を語るのだが、吐き出されるわずかな言葉が、特別なことを言っているわけではないのに、まるで詩のように「美しく」響く。青い空と青い海と浜辺と椰子の木を背景にして、いつも映像の中心を占めるのは、半壊の建物や瓦礫、屋根のない土台だけの住宅跡、避難所のテントといった殺伐たる無機物と、人々の押し殺したように静かな表情だ。

上映後のティーチ・インで、この作品が津波被害に関する作品というだけでなく、アチェ州の長い独立運動と無縁ではないことを知る。学生の着るチェ・ゲバラのTシャツは、独立への強い信念の表れで、彼は、ガールフレンドに携帯電話で撮りためた、アチェの歴史を写した写真を見せる。ティーチ・インで専門家が答えていたが、アチェの人々は長い間の独立抵抗運動で培われた強さを持っているのだそうだ。それは、土地の歴史であり現実なのだから無視できるはずはないのだが、津波被害についてのドキュメンタリーだという先入観を持っていた自分には、それが描かれていることが本当に驚きだった。その時点で、この映画の持つ意味が自分にとって全く違うものとなった。アチェの人々の頑固さ、強さ、穏やかさ、その裏にある歴史。チェのシャツを着ていた学生以外は、アチェの歴史なんてことは一言も口には出さないけれど、生き方にはすべてが表れているのだろう。あどけない少女ですら……。そして、それこそが作品の魂なのだ。

『セランビ』とは、アチェを例える有名な言葉で、向こうの建物の、玄関、前庭、ベランダ(1階)といった類のものを指す。津波の最前線(セランビ)で被害を受けたアチェの人々の、これもまた1つの、静かでガンとした「抵抗」の宣言である。

2006.10.23

さわやかな1日(笑)

日中、東京国際女性映画祭に行こうと思っていたけれど、とても見たかった作品は平日昼間だったり、平日夜のほかの予定とかぶっていたりで……(『ダブルシフト』とか『ショッキング・ファミリー』(韓国映画!)とか『ドバイの恋』(フィリピン映画 !! )とか、見たかった~。日曜から木曜なんてスケジュールじゃなくて、土日とやってほしかったなあ)。悩んだ挙句、ことしはあきらめ、前売りを買ったまま見損ねていた『サムサッカー』に行く。その後、オーチャードホールで『浜辺の女』、六本木で『エクソダス 魔法の王国』を見る。3本とも、全く違う話ではあるものの、後味はさわやか。楽しい1日となった。

『浜辺の女』。ホン・サンス監督の(たぶん)7作目の長編映画。どんどん「軽み」を帯びてきている。『豚が井戸に落ちた日』の「不快な感じ」が好きだったが、このところそれが感じられなくて、物足りなかった。ところが、今回は軽さが、物足りなさよりはむしろ滑稽さを生み、これまで監督の作品に期待してきたものと全く別のところで、肩すかし的な納得のさせられ方をしてしまった。いや、面白かった。これなら、普通に(笑)公開できそうだ。朝鮮半島の西側の景勝地の浜辺へ出かけて、シナリオを仕上げようという映画監督と、彼のスタッフとその彼女、そしてそこに遊びに来た女性観光客がからむ、いつもの、アーティスト系の駄目男とその友人と、複数の女性との恋愛沙汰。例によって、押したり引いたりぼっーとしたり、おかしな行動あり、どこか哲学的な言葉あり、というパターンなのだが、会話が多く、繰り返しが少ないあたりが、「見やすい」のかもしれない。ホン・サンスの描く女性像は、見ていてどこか気持ち良い。恋愛下にあっても、サクサク自分で行動するからか。恋愛ばかりをテーマにしている割には、女に対する一方的な思い込みがないからなのか。「わかんねぇよ」と、主人公の映画監督よろしく、理解しようなんていう幻想はとうに捨てて、そのまんま撮ってくれている感じが、さわやかなんだろうな。

『エクソダス 魔法の王国』。フィリピンのエリック・マッティ監督の、ロードオブザリング的悪と戦い国を守るファンタジー系フィリピン映画。ガガンボーイのときにも書いた気がするけれど、やはりマッティ監督は、東京国際ファンタスティク映画祭あたりの、会場大盛り上がりの拍手と爆笑と失笑の渦の中で見たい。クオリティも、笑える度も、キャラクター造形も、ガガンボーイよりパワーアップしている。主人公エクソダスが、四元素のメンバーたちと合体するクライマックスあたりは、本当に素晴らしかった(素晴らしいのか?)。ジェイ・マナロがいなくて寂しいと思っていたが、主演のラモン・レビリャ・Jr.は、ややモンゴロイド系の顔のジェイ・マナロといった感じ&立派なボディ(というか太めなだけか)で満足させてくれたし、おなじみオーブリー・マイルズも猫目のコンタクトでがんばった。キャラクターでは、ベンジー・パラス(この方、元バスケットボール・プレイヤー?)の演じた、見た目はアラジンのランプの精のディズニーキャラクターのような地の精霊(名前、忘れました)の、スペシャルにマッチョ&コワモテなのに妙に可愛いいという、安田大サーカス系の面白さと、「永遠の子供」シラブという神がかりな役なのに、演じたBJフォルベスが「どこをどう見ても、目付きの悪い普通のガキ」なところが、印象的だ。前半、まさにロードオブザリングみたいに、戦場となっている城と広野と、戦いに赴かんとする人々が映る。メジャーなハリウッド映画に比べれば、すっごい小規模(笑)で、ちゃちな遠景のカットだ。そして、俳優たちは、皆フィリピン(あるいは近隣のアジアの国の)人で、フィリピンの言葉を話し、その虚構の「全世界」が悪の手に落ちようするのを防ぐために戦おうとしていることが語られる。全員がアジア人の顔なのに……。そこで笑ってしまって初めて、ハリウッド映画だって同じく可笑しいんだということに気付く。オリバー・ストーンの『アレキサンダー』で、アレキサンダーの妻ロクサネをロザリオ・ドーソンが演じていたのをおかしいと言っていた人がいたが、そもそもがあの映画は全編が英語でできている。フランスの歴史物だって、イタリア物だって、ハリウッドがつくればみんな英語を話す。虚構の世界でも、その「世界」の中心は白人が演じていることが多い。それなら逆に、どんなにチープだって、B級だって、その国その国の、虚構世界を描いた映画があっていいし、あるべきだし、そこでは、その国の人ばかりの「世界」が描かれるべきなんじゃないか、その国の言葉だけで成り立つ世界があって良いんじゃないか。そういうものが、いろいろ見られたら、そりゃあ面白いんじゃないかと、超娯楽作の"エクソダス"を見ていて考えた。いやとにかく、物すごく進化してるんです、エリック・マッティの世界は!

2006.10.22

地味目の始まり。

夜から六本木へ。TOHOシネマズのトイレは、盛装(正装、じゃないよね?)のきらびやかな老若女々でいっぱい。だが、見たのは『クブラドール』と『Love Story』という、アジアの風部門でもかなり地味目な作品。

垂れ流しで感想を書いてみます。

フィリピン映画『クブラドール』は、ティーチインでの脚本家の弁では、ドキュメンタリードラマとして書いた作品なのだという。フィリピンの貧民街で夫と暮らす、クブラドール(フエテンという違法な賭けの賭け金を集めて歩く集金人のことらしい)の女性(息子を亡くし、娘には子供(つまり孫)もいる元横綱・曙のような風貌の年配の女性)の日々を、ドキュメンタリー風に描いた作品で、フィリピンの低所得者層の厳しい現実を映しながらも、その中で生きる人間の強さ、美しさを表現しようとしたものだという。ティーチインで語られていたが、やはりフィリピンでも商業映画が主流で、このようなテーマ性のある作品を商業ベースに持っていくことは難しいのだそう。先週フィリピン国内で封切られたが、確か上映は1週間で終わってしまったとの話があった。しかし、この作品の見事さについて言うなら、主演のジーナ・パレーニョの素晴らしさはもちろんのこと、理不尽な現実に翻弄される人間たちの日々という内容とはうらはらに、映像的には充分見ているだけで「楽しめる」仕上がりであるという点は大きいと思う。メインストリームの映画とはもちろん違うけれども、決して重いだけのドキュメンタリー風社会派映画でも、独りよがりのアート映画でもない。

ティーチインで複数の観客がほめていたが、ヒロインが日々集金して歩き回るフィリピンのスラム街の路地裏の風景がとても魅力的で、まるで『きらめきの季節~美麗時光』の少年たちの暮らす川べりの街のように美しかった。冒頭の「フエテン」のガサいれで警官が男を追い回す屋根上のシーンなどは、何だか『欲望の翼』が思い出された。カメラがごく近く、賭け金を集めるヒロインを追っていく。チェーンスモーカーの彼女は、肺の具合が悪いらしく、動きながら、常に苦しそうな息づかいをたてている。太めの体格のせいで喉が渇くのか、たばこの吸い過ぎのせいなのか、もしかしたら別の病気なのか、街角で立ち止まってはミネラルウォーターを買って猛烈な勢いで飲む。水を飲むと、すぐにまた、たばこに火を点ける。「おばさん」の日常を丹念に追っているだけなのに、彼女が雨の日にビニールコートを着込む様子や、履いている粗末なサンダルで何かを踏んづけてしまい底面から汚れを取ろうとしている様子など、ごくごく些細な動作が、彼女そのものを良く表していて、見ているだけで面白い。敬虔なキリスト教徒でもあり、亡くした息子のことが忘れられない母でもあり、近所で人が亡くなれば埋葬費用を募金して歩く良き隣人でもある。幸運も不運も訪れるが、総じて、彼女に訪れるのは圧倒的に不運の方。その彼女の不運の原因がフィリピンという国の体制にあることを軽く糾弾しつつも、描かれるのは、不運の中でたくましく生きている人間である。人生経験に裏打ちされた、ヒロインのキャラクターの深みが、魅力的な映像とともに、とても強い印象を残す映画。面白い作品なので、ぜひ機会があったら見てください。


どうして見ようと思ったのか、覚えていない『Love Story』。これは香港映画なのか、シンガポール映画なのか。とりあえず、メインは簡体字を使う中国語(マンダリン)を話す人たちの物語。恋愛小説がそこそこ売れている若い男性作家の、彼をめぐる女性たち(現実の恋人でもあり、作家の小説中の恋人でもある)についての告白という形をとっている。途中まで、これはもしかしたらメタ・ラブストーリー、あるいはメタ・メタ・ラブストーリーなのかと非常に新鮮な感触で見ていたが、結果的には孟京輝的で、しかも結局「恋愛」から抜け出せず、映画そのものが「恋愛」にとらわれてしまう結末には、ちょっとがっかりだった。表現はとても緊張感があって、特に中盤までは面白かった。母から禁書を遺言された女の子の話は良いと思う。いっそ「禁書」を最終テーマにしちゃった方が面白かったんじゃないだろうか。見どころは、セクシー婦警さん(←こういう言葉、使っても良いのか?)と、相手が誰であれ常に「受け」な主人公の作家。そんなあたりと、B級に足をかけているところは、軽く李志超風味……?(笑)。イ・ビョンホン似の、カントニーズ・スピーカーの編集者のお兄ちゃんが少し気になる。

2006.10.10

近況的3

『星々の生まれるところ』を土曜日(7日)にやっと入手。エルロイ(『獣どもの街』)と『エドワード・サイード OUT OF PLACE』と『みうらじゅんの映画批評大全』の四つ巴状態なので、どれが最初にゴールに到達するやら。(大部からやっつけたいものですが……)

最近もっとも印象的だったのは、仕事から帰って食後に見た深夜のテレビでの、吉田喜重監督の『鏡の女たち』。映画館で予告編は見ていたのだけれど、見ないまま終わってしまった作品。これは、好き嫌いは別として本当に凄い迫力の映画で、淡々と発される芝居がかった台詞と、ゆったりしたストーリー運びにもかかわらず、テレビの前で正座したまま成り行きに釘付けになった。失踪癖のある記憶喪失の女(尾上正子:田中好子)と、その母かもしれない女(川瀬愛:岡田茉莉子)、記憶喪失の女の娘かもしれない女(川瀬夏来:一色紗英)。彼女らが血の繋がった母・娘・孫娘なのか、という謎解きを中心としたサスペンスの基本構造の上に、母と娘、女の業といったものを描き出した映画で、そこに、家族の封印された過去としての、被爆地広島での出来事が深い影を落とす。内容的にももちろんだが、映像そのもののインパクトも、映画ならではのものだった。

で、連休は、『エドワード・サイード OUT OF PLACE』(7日、アテネ・フランセ文化センター)と『六ヶ所村ラプソティー』(ポレポレ東中野)&『キスキス、バンバン -LA的殺人事件』(浅草中映)を見た。

『OUT OF PLACE』は、このところ見るのを最も楽しみにしていた映画の1本なのだが、その「サイードの記憶」の部分よりもむしろ、パレスチナ難民キャンプの中の映像や、イスラエルに暮らすユダヤ系やアラブ系など様々な立場の人々の様子などの方が、ずっと興味深かった。「サイードの映画」であることを忘れてしまうぐらいに……(佐藤監督が上映会場で話されていたように、それはある程度、意図されたものでもあった)。9・11以降の「今」を考える中で生まれてきた作品の1つだそうだが、それでも、映画を見てさえも、自分のような日本人にとっては、まだどこか「遠い」感じも受けた。それは、サイードの(パレスチナ問題に対する)危機感・使命感よりも、哲学的な部分の方に「視点」としての重きが置かれていたからかもしれない。この11月にはまた、ポレポレ東中野でも上映予定。六ヶ所村の核燃料再処理工場を取り上げた『六ヶ所村ラプソディー』もまた、イスラエルとパレスチナのように、異なる立場の人々のそれぞれの生活、それぞれの言い分、それぞれの人生をとらえたドキュメンタリー。でも、イスラエルとパレスチナよりも、より利害が見えやすいので生臭い(しかし、六ヶ所村の人々だけでなく、その近隣の人々、原子力の問題に関わってきた学者、映画監督といった様々な立場の人々の、今はもちろん過去にまでさかのぼって取材した労作)。観客自身も、電力については、消費するだけの立場であるという「後ろめたい」思いがあるだけに、映画によって突きつけらるものは大きい。イギリスとアイルランドの間にあるマン島の漁師(彼らの漁場はイギリスの核燃料再処理工場の排水によって影響を受けている)が、「日本は世界一の漁貝の消費国なんだから、汚染される前に、あらゆる種類の魚介類(の現在の汚染度)を調査しておかなければだめだ」という意味の、映画中もっとも建設的な話をしていたのが印象的だ。ダム建設や、有明湾、有事関連法……etc、ずるずるずるっといつのまにか進行していく無力感が味わえる。そんなつもりでつくられたものではないことはわかっているけれど……。(そして憲法も改正されてしまうのか) 『キスキス、バンバン -LA的殺人事件』は、打って変わって、びっくりしたけれどコメディだった。本筋よりも、台詞や軽い雰囲気を楽しむ、意外とおしゃれ目な映画だ。そして、おしゃれじゃないのは、ヴァル・キルマーだけだ(笑)。

最後に、『変態村』DVD。特典の、短編『ワンダフル・ラヴ』の素晴らしさとメイキング映像(&制作に関する監督インタビュー)があまりにも素晴らしいので、北欧発売版にあった監督コメンタリーがなくても満足、というような気分になってきた。『A WONDERFUL LOVE』と『変態村』に関しては、基本的には「監禁物」で、愛というものが個人的な妄想・妄執に過ぎないことと、そんな人間の異常さ(←でも「異常な人間」として描いているわけではない)、悲しさ、愛しさを描いているところなど、ほとんど同じ。登場人物や背景は全く違うけれど、このあたりのテーマには弱い(←好きという意味)ので、このDVDは非常に嬉しい1枚である。それにしても、ヴェルツ監督の頭の形、誰かに似てるんですけれども……(誰なのか、思い出せずに苦しい)。

読みにくい文ですみません。

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