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2006.08.07

凝固中

ニュースネタも、書きたいことも、このところ山ほどあるのだが、文を綴る頭(というか手)が固まってしまっているのと、日々襲ってくる強烈な睡魔に抗えず……という状況。書きかけの文章が貯まるばかり。

浜離宮朝日ホールで行われた『二重被爆』の上映会(&トークショウ)および『ハードキャンディ』@シネマライズに行く。

二重被爆』については、今朝たまたま読んだ朝日新聞の社説で紹介されていて気になり、『ハード・キャンディ』の前にちょうど時間がぴったりはまったこともあり、見に行ったに過ぎないのだが、およそ1時間の記録映画に、かなり幅広い層の大勢の人が見に来ていて驚いた。

二重被爆者とは、広島と長崎両方で被爆した人のこと。実はそんな、地獄を2度も見るような苛酷な運命を負わされた人が、人数にして3桁もいるのだという。広島に仕事で赴任していて被爆し、長崎の自宅に帰って被爆した人。広島で被爆し家族を失い、身寄りを頼って長崎に向かって被爆した人……。

その人々が60年もの間、どんな思いを抱えて生きてきたのか。近親者を喪失した悲しみと、大勢の人々が阿鼻叫喚の中で命を落とす様を目の当たりにした衝撃と、後遺症の苦しみの中で、PTSDなどという概念も言葉もなく、日本中が生き延びるだけで精一杯の戦後を、心と身体にどうしようもないハンデを負いながら、さらには、社会的偏見すらあったというのに、同じように生きぬかなければならなかった被爆者の人々。その被爆体験が2回もあるというのは、一個の人間にとって一体どんなことなのか。

映画は、その体験を語り続けて来た人、この映画をきっかけに語り始めた人、長崎の平和祈念館に集められた1000人の被爆者のインタビューテープの中から掘り起こされた「二重被爆」の体験を持つ人、広島の原爆資料館で公開された被爆者の手記の中から見つかった「二重被爆」した人々などのインタビュー映像と、米国、中国、フランスなどでそのインタビュー映像を見せた取材映像からなる。

米国では、「戦争を終わらせるために必要だった」という大義名分が今も主流である原爆投下だが、それならば、すでに抵抗もできないような状態だった日本に、どうして2回も新型爆弾を落とす必要があったのか。そのあたりがこの映画のミソだったりするのだが、そこいらへんは、もう1つ弱かったような気もする(というか、もう1時間ぐらいないと追及しきれないだろう)。

でも、そんなこと以上に、二重被爆を体験した山口さんの言葉、姿、そして彼が発刊した『人間筏』という歌集に収められた数々の短歌は極めて重く、見る側に訴えかけるものがある。 (※『二重被爆』はUPLINKXにて9月2日より公開)

見損ねた映画だが、エドワード・ノートンが主演したスパイク・リー監督の映画『25時』の原作者で脚本も書いたデイヴィッド・ベニオフの『99999(ナインズ)』という短編集(新潮文庫/田口俊樹訳)の中に、『幸福の排泄物』という短編があり、最近読んだ。2人ともにHIVに感染したゲイのカップルが登場する、いくつか非常に印象的なシーンのある、なかなか良くできた小説なのだが、その終盤、恋人を失った主人公アレクサンダーが、彼らの主治医キスリアニーの娘のことに考えを及ばせながら語る。

「今のぼくは彼の娘にも幸せな長い人生が待っていることを祈っている。それでも、彼女には知ってほしい。彼女が歩く草の下には美しい男たちの腐った体が何体も埋まっていることを。きみたち死体にはこう言いたい。きみたちはいい肥やしだと思う、と。排泄物から育ったものがぼくたちを育んでくれる。ぼくたちは墓の上で滋養を摂っているのだ。キスリアニーの娘にはそのことを知ってほしい。国じゅうの人間にも知ってほしい」

恋人の死の原因というのがこの短編の鍵であるわけで、上記の引用も、そのあたりがわからないと意味がない部分もあるのだが、広い意味で解釈すれば人の運命ということに収斂されていくと思い、取り合えず引用してみた。どうしてかと言えば、これが『二重被爆』と『ハードキャンディ』をつなぐのだと、(こじつけがましいけれど)思えたから。

人の生死を分かつ運命の残酷さ、紙一重で生き残った人間のある種の罪悪感、命のはかなさ、恐怖……広島や長崎でも、天安門でも、世界貿易センタービルでも、そこをくぐり抜けて生きてきた人々は、足元に、自分と同じ時を生き、同じ時の中で死んでいった人々の存在なき存在を、いつも感じて生きているに違いない。(ふと、失った近親者とともに生きていたボビー・モローのことが頭に浮かんだりもする)


そして『ハードキャンディ』。『ヒストリー・オブ・バイオレンス』には衝撃を受けたが、これも面白かった。非常に良く出来た作品で、好みは分かれると思うが、個人的には大好きな映画だ。見に行ったのは、何ともはや、たまたま見た予告編で、主演の1人、14歳の少女に縛り上げられて去勢されるという30男の役をやっていたのが、『エンジェルス・イン・アメリカ』でロイ・コーンの流れをくむリパブリカン&モルモン教徒(←ドラマ中、『ラター・デイズ』のモルモンの彼と同じようなアンダーウェアを身に着けていた。「第2の皮膚」と言う場面があったが、あれは一種の制服のようなものなのだろうか?)の悩めるゲイ男性(ジョー・ピット)を演じたパトリック・ウィルソンだったからだ。ちなみに彼は、ジョエル・シューマッカー監督の『オペラ座の怪人』にも出ていたという(大ヒット映画であることを考えれば、日本ではオペラ座……のメインキャストとして認知している人が多いのだろう)。

ハードキャンディ』は、ネットで知り合った14歳の少女ヘイリー(エレン・ペイジ)と、32歳のカメラマン・ジェフと、ほとんどは2人だけのセリフとアクションの応酬で綴られる密室劇で、その緊張感と2人の演技と映像のセンスが素晴らしく、最後まで全く飽きるところはない。彼女はフードのついた赤いパーカーで登場し、そのスタイルでスクリーンから消えていく。つまり「赤ずきん」、狼を切り裂いておばあさんを救い出し、狼に復讐した赤ずきんちゃんなのだ。

で、ジェフのパトリック・ウィルソンを見にいったつもりが、少女ヘイリーを演じたエレン・ペイジのボーイッシュでキュートな魅力に参った。ちょうど、キリアン・マーフィを若い女の子にしたような風貌で、イノセンスと知性の中に常軌を逸した部分を感じさせ、実は最後までつかみどころのないヘイリーのキャラクターを、リアルに生き生きと演じている。

パンフレット(←内容ペラペラなのに700円は高すぎ)内には、本来は悪いはずの大人の男の側にだんだん同情するほど少女が残酷であると書かれていたりする文章がいくつかあるのだが、ヘイリーの魅力にはまると、そんなことは全くなく、「行け行けどんどん」モードに入る。実際は監督も言うとおり、映画は「ほのめかす」だけで、決定的な真実を白日のもとにさらしたりはしないし、少女にも男にも加担しない。

それでも、男をペドフィリア(小児性愛者)と呼び、すべての「彼ら」の犠牲になったすべての「少女たち少年たち」
のために、「彼ら」の代表であるジェフに、スレンダーでショートヘアの少女にも少年にも見えるヘイリーが復讐していくさまは、そんな逆転劇はこれまで見たことがない故に驚愕しつつも心地よい。むしろ心につかえるものがあるとすれば、男への同情ではなく、復讐などという行為をローティーンの少女にさせてしまったことだろうか。

ネットで知り合い、リアルに知り合った中年男と少女の足元には、数多くの少年少女たちの屍が眠っている。実際に殺された子どもたちも、自ら命を絶った子どもたちもいるだろうし、深く心に傷を負った子どもたちもいるだろう。『エディンバラ……』のピーター・オハンロンも、ザックも、アフィアスも……。

とはいえ『ハードキャンディ』は、重いテーマをのぞかせながら、がっちり構築された見事なサスペンスであり、小づくりな寓話である。

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