« 2006年7月 | トップページ | 2006年9月 »

2006.08.29

星々の生まれるところ

以前、雑記事の中で書いたことのある、「酷評されていた」マイケル・カニンガムの新作 "Specimen Days"が、『星々の生まれるところ』というタイトルで集英社から10月に発行される。南條竹則訳。

日本語での内容紹介は、「本やタウン」の予約ページが最も詳しいようだ。3部構成でこんな感じっていうのは知っていたけれど、日本語で改めて紹介されると、こりゃまたほとんど『めぐりあう時間たち』と同じようなつくり。ホイットマンが3パートをつなぐ、「SF版めぐりあう時間たち(ゲイバージョン??)」という感じ?

Specimendays

画像は原書表紙→amazon

2006.08.27

一足お先に遭遇

23日(水)に試写会にて、『グエムル 漢江の怪物』を見る。

(公開前で、多くの人が期待を寄せている作品なので、ほとんど当たり障りなく書いてみる)

ポン・ジュノ映画の特徴は、『ほえる犬は噛まない』ならドタバタコ喜劇の、『殺人の追憶』なら刑事物サスペンスの、そして『グエムル 漢江の怪物』なら怪獣パニック映画のスタイルをきっちり踏んで、その形で楽しませながら、実はすべて、その実体は人間ドラマであると言われる。

今度の『グエムル』の中で驚かされるのは、そのスピード感ではないかと思う。何よりも「怪物」の速さたるや驚異であり脅威である上、撮影中の話などからもよく聞かれたように、出演者もほとんど走りっぱなし、動きっぱなしなのである。内容は、監督自身以前から語っていたように、ソウルという大都市を流れる川(漢江)に出現した怪物にふりまわされる人間の話であり、主演のソン・ガンホを中心としたパク一家の話。既に言われる「ポン・ジュノ節」といったスタイルは、語り口や映像だけではない。音楽も、いかにも彼らしい、『殺人の追憶』同様の感触を持つ、せつなさと美しさと悲しみのないまぜになった器楽曲だ。

パク一家の長男で、中学生の娘ヒョンソの父でもあるカンドゥを演じるソン・ガンホや、その父(ヒョンソの祖父)であるヒボン役のおなじみピョン・ヒボンの達者さ、見事さは言うまでもないが、今回も、強烈な人間的魅力(←「良い人」という意味での魅力ではなく、欠点を含めた人間臭さの魅力)で素晴らしいキャラクター造形を見せるのが、カンドゥの弟、ナミル役のパク・ヘイルである。今回もまたこれまでと全く違う印象を残す演技で、ソン・ガンホを頂点とする三角形の底辺の一角をピョン・ヒボンとともにがっちり支えて、劇の陰影を深めていると思う。ペ・ドゥナ(カンドゥの妹ナムジュ)は、パク一家の男性3人が形作るキャラクター大三角形からはじき出されてしまっている印象もあるが、この人の役はこの映画において大きな役割を背負っているので、それだけでもう十分だと言えるかもしれない。

中心になるのは怪物とパク一家との戦いなのだが、時には異様な可笑しさすら見せながら戦う、「丸腰」のパク一家の死にもの狂い、その異常な状況下の人としての正常さ(確固たる「個」としての意志)が、彼らを取り巻く世間(行政府だったり、マスコミだったり、国家だったり、病院だったり、「市民」だったり)の「ヘンさ」をじわじわっと感じさせる。あくまでも、「じわじわっ」となのがうまいところだと思う。

そして父と娘の物語だと思ってみていたら、気付いたら最初から最後まで、三代にわたる「父と子(息子)」の物語だったりもする。ラストまで超特急で引っ張っていかれながら、『殺人の追憶』よりも「ほっこり」と終わったりして……。

2006.08.15

赤像式ふくろう

Fukurou
2週間前に出かけて、余りの混雑に入場する気になれず、『ゲルマニウムの夜』でお茶を濁した「ルーヴル美術館展~古代ギリシア芸術・神々の遺産」。今回も大混雑だったが、もう公開日が残り少ないので覚悟を決めて芸大美術館まで行ってきた。ルーヴルなどという大メジャー美術館の名を冠した展覧会など、行くものではないことはよ~くわかっているのだが、最も有名なあの大王の像を、初めて間近かに見るチャンスを逃すわけにはいかないということで、とても芸術と対峙するような環境ではない夏休みの大混雑の館内を、とはいえ芸術がわかるのかお前に……と言われてしまえば返す言葉もないけれど、とにかく耳を塞ぎ目を瞑りながら、歩いてきた。

幸いなことに、芸大美術館であるのでさほど大規模ではなく、思ったほど疲れず飽きず、なかなか楽しく見られたのだった。しかもバリバリのギリシャである。大理石の、完璧な美しさを持った人型のオンパレード。美神たちや、神々しいばかりの肉体美の青年像、はるか昔の市井の人々の暮らしが見えてくる様々な年代の人々の墓碑、ユーモラスな演劇用の仮面、有名なあの哲学者、あの詩人、あの劇作家たちの頭部像(ソクラテス、プラトン、アリストテレスが並んでいるところは、その「顔」の違いに性格の違いを想像したりして妙に面白かったし)、最後には、ルーヴル美術館の宣伝を兼ねた、2つのヴィーナス像(今回は来なかったミロのヴィーナスと、展示されていたアルルのヴィーナス)の様式の違いを解説した短い3D映像も上映されていて、非常に面白かった。

中でも特に気に入ったのが、上に貼った画像の壺。「赤像式オイコノエ ふくろう」。

この赤像式の陶器は、「ベルリンの至宝」展でも登場していたが、日本人にはこの色彩は、どう見ても漆器である。手で触れてみないことには、陶器だとは信じがたいのだが、とにかく黒地の陶器に赤い彩色の図案を描いたものが赤像式というものらしい。逆に赤地の陶器に黒で図案を描いたものは黒像式で、こちらの方が赤像式よりも先に歴史に登場する。そんな、神話の場面や、人々の生活風景、芝居の1シーンなど様々な図柄の赤像式や黒像式の陶器が、いくつも展示されていた。

オイコノエとは、大きな酒器から小さな酒器へワインなどを注ぎ分ける容れ物のこと。容器は、用途と大きさによって皆、名前が異なっていて、それがいくつもいくつも展示されているものだから、しまいには、しばしば登場する容器の名前を覚えてしまった(←すぐ忘れました)。映画『アレキサンダー』で、大王が酒を飲むのに使っていたいくつかの器は、何と言う名前なのかなどと考えたりもした。道具つながりでは、陶器ではないけれど、スポーツのあとに汗と垢をこそげ落とす器具というのも、不思議に印象的だった。

さて問題はふくろう。ふくろうは、アテナ女神(ミネルヴァ)の象徴で、このオイノコエに描かれたふくろうは、甲冑を身につけ、縦と槍で武装している。両脇に見える細長いものは、オリーブの木で、これもアテナの聖木だそう。丸い目玉に小さなくちばしで、とぼけた表情をしているのに、足のつめは鋭く、槍を持つ腕は筋肉質である。そして、あんな丸い頭に、無理矢理のように兜をかぶっているのが、どうしようもなくかわいい。槍を持たせたためか、身体が少し前傾しているところも、図案としてかわいい。ほかに展示されていた赤像式の陶器は、壺のたぐいも、杯も、割合大きなものが多かったのだが、これは非常に小さく、その大きさも、武装したふくろうが、ぎりぎりの線で不気味ではなく、かわいいものになっている理由かと思われる。

図録に書かれた解説にも、「このオイノコエは、一見稚拙のように見えて実は意外に達者な、ある程度の技量を持った画工が余技に手がけたような運筆で、いかにも子供が喜びよそうなユーモラスな表現で、オリーヴの木と武装したふくろうが描かれている」とある。すみません、子供程度の脳のおばさんも喜びました……(汗)。

大王と対面した感想はというと、これはやはり凄い存在感だった。隣に、重厚なデモステネス像(←渋くて素敵な親父だ)などもあったのだが、彼らの人間的な表情に比べ、アレクサンドロス像はむしろ神像に近いような圧倒的なパワーを感じた。だが、あくまでもイデアの発現である神々たちの像よりは、元が本人をモデルにしているだけあって、完璧な顔立ちではないところに、また別の意味でリアルな力が加わっていると思う。この人の目がこちらを見つめたら、本当に怖そうだ。

ミュージアム・ショップではこんなものも発売されていた。このインフォメーションにあるような重厚感など、全然なかったけど……。海洋堂制作の食玩あたりで、ギリシャの神々シリーズでもやるほうが余程良いんじゃないか(って、全部大理石風じゃ、色味がなくてつまらないか……)。

→展覧会は8月20日まで(9:00~17:00)。

人生劇展&盛夏光年

(近況から引越し)

しばらくニュースを確認しないうちに、台湾公共電視の「人生劇展」(単発ドラマシリーズ)で、張孝全くんが出る出ると言われていた《拍賣世界的角落》の放映は、先月既に終わっていた。

《盛夏光年》の方は、10月の釜山国際映画祭のコンペにかかることが決定したそう→《盛夏光年》公式ページ(Weblog)

公式ページのトップ画像やポスター(多分)にもつかわれているこれらの画像は、やはりというか何と言うか、夏永康(ウィン・シャ)撮影のもの、とのこと。

2006.08.12

訃報

昨晩は仕事から帰ってヘロヘロで眠ってしまったので、ニュースに気付かず。

特に声優ファンだったりするわけではないが、唯一、何回か彼の出演する芝居まで見にいったことのある鈴置(洋孝)さんが亡くなったという昨日のニュースをたった今見つけ、ショックだ……。

訃報では、「証券新報」の記事が気になる。ほかの記事が、メジャーなトム・クルーズの吹き替えや、(ガンダムの)ブライトさん、(ドラゴン・ボールの)天津飯などを紹介しているだけなのに、ここの記事には『キャプテン翼』に「初代」がついているところとか、(パトレイバーの)内海課長を挙げているところとか、微妙にマニアック。

個人的には、メル・ギブソンの吹き替えと、NHKで昔やっていた米国のドラマ『ヤングライダーズ』のジョシュ・ブローリン(ジェームズ・ブローリンの息子)が演じていた役の吹き替えが思い出深い。もしかしたら、『ヤングライダーズ』は、ほこりをかぶった録画済VHSテープの山を掘り起こせば、見つかるかもしれないなぁ。

2006.08.09

こんなのも出てました

Cdjournal200607先月号ではありますが、音楽出版社から出ている「CDジャーナル 7月号」は『ハロー!ブロークバック・ワールド』と銘打った12ページほどの特集を組んでおりました。BBMはあくまでも導入であって、特集そのものはゲイをテーマにした映画や音楽、ミュージシャンを取り上げているに過ぎません。とはいえ、ふだん音楽情報誌を買うことがないので、こういう特集がよくあるのかどうかはわかりませんが、知らない分、映画よりは音楽の記事の方が面白く読めました。「キャンプ」についての記事なんかも柔らかく楽しく書かれていましたが、やはりここはひとつ、今は亡きソンタグに当たるべきでしょうかね。

2006.08.07

凝固中

ニュースネタも、書きたいことも、このところ山ほどあるのだが、文を綴る頭(というか手)が固まってしまっているのと、日々襲ってくる強烈な睡魔に抗えず……という状況。書きかけの文章が貯まるばかり。

浜離宮朝日ホールで行われた『二重被爆』の上映会(&トークショウ)および『ハードキャンディ』@シネマライズに行く。

二重被爆』については、今朝たまたま読んだ朝日新聞の社説で紹介されていて気になり、『ハード・キャンディ』の前にちょうど時間がぴったりはまったこともあり、見に行ったに過ぎないのだが、およそ1時間の記録映画に、かなり幅広い層の大勢の人が見に来ていて驚いた。

二重被爆者とは、広島と長崎両方で被爆した人のこと。実はそんな、地獄を2度も見るような苛酷な運命を負わされた人が、人数にして3桁もいるのだという。広島に仕事で赴任していて被爆し、長崎の自宅に帰って被爆した人。広島で被爆し家族を失い、身寄りを頼って長崎に向かって被爆した人……。

その人々が60年もの間、どんな思いを抱えて生きてきたのか。近親者を喪失した悲しみと、大勢の人々が阿鼻叫喚の中で命を落とす様を目の当たりにした衝撃と、後遺症の苦しみの中で、PTSDなどという概念も言葉もなく、日本中が生き延びるだけで精一杯の戦後を、心と身体にどうしようもないハンデを負いながら、さらには、社会的偏見すらあったというのに、同じように生きぬかなければならなかった被爆者の人々。その被爆体験が2回もあるというのは、一個の人間にとって一体どんなことなのか。

映画は、その体験を語り続けて来た人、この映画をきっかけに語り始めた人、長崎の平和祈念館に集められた1000人の被爆者のインタビューテープの中から掘り起こされた「二重被爆」の体験を持つ人、広島の原爆資料館で公開された被爆者の手記の中から見つかった「二重被爆」した人々などのインタビュー映像と、米国、中国、フランスなどでそのインタビュー映像を見せた取材映像からなる。

米国では、「戦争を終わらせるために必要だった」という大義名分が今も主流である原爆投下だが、それならば、すでに抵抗もできないような状態だった日本に、どうして2回も新型爆弾を落とす必要があったのか。そのあたりがこの映画のミソだったりするのだが、そこいらへんは、もう1つ弱かったような気もする(というか、もう1時間ぐらいないと追及しきれないだろう)。

でも、そんなこと以上に、二重被爆を体験した山口さんの言葉、姿、そして彼が発刊した『人間筏』という歌集に収められた数々の短歌は極めて重く、見る側に訴えかけるものがある。 (※『二重被爆』はUPLINKXにて9月2日より公開)

見損ねた映画だが、エドワード・ノートンが主演したスパイク・リー監督の映画『25時』の原作者で脚本も書いたデイヴィッド・ベニオフの『99999(ナインズ)』という短編集(新潮文庫/田口俊樹訳)の中に、『幸福の排泄物』という短編があり、最近読んだ。2人ともにHIVに感染したゲイのカップルが登場する、いくつか非常に印象的なシーンのある、なかなか良くできた小説なのだが、その終盤、恋人を失った主人公アレクサンダーが、彼らの主治医キスリアニーの娘のことに考えを及ばせながら語る。

「今のぼくは彼の娘にも幸せな長い人生が待っていることを祈っている。それでも、彼女には知ってほしい。彼女が歩く草の下には美しい男たちの腐った体が何体も埋まっていることを。きみたち死体にはこう言いたい。きみたちはいい肥やしだと思う、と。排泄物から育ったものがぼくたちを育んでくれる。ぼくたちは墓の上で滋養を摂っているのだ。キスリアニーの娘にはそのことを知ってほしい。国じゅうの人間にも知ってほしい」

恋人の死の原因というのがこの短編の鍵であるわけで、上記の引用も、そのあたりがわからないと意味がない部分もあるのだが、広い意味で解釈すれば人の運命ということに収斂されていくと思い、取り合えず引用してみた。どうしてかと言えば、これが『二重被爆』と『ハードキャンディ』をつなぐのだと、(こじつけがましいけれど)思えたから。

人の生死を分かつ運命の残酷さ、紙一重で生き残った人間のある種の罪悪感、命のはかなさ、恐怖……広島や長崎でも、天安門でも、世界貿易センタービルでも、そこをくぐり抜けて生きてきた人々は、足元に、自分と同じ時を生き、同じ時の中で死んでいった人々の存在なき存在を、いつも感じて生きているに違いない。(ふと、失った近親者とともに生きていたボビー・モローのことが頭に浮かんだりもする)


そして『ハードキャンディ』。『ヒストリー・オブ・バイオレンス』には衝撃を受けたが、これも面白かった。非常に良く出来た作品で、好みは分かれると思うが、個人的には大好きな映画だ。見に行ったのは、何ともはや、たまたま見た予告編で、主演の1人、14歳の少女に縛り上げられて去勢されるという30男の役をやっていたのが、『エンジェルス・イン・アメリカ』でロイ・コーンの流れをくむリパブリカン&モルモン教徒(←ドラマ中、『ラター・デイズ』のモルモンの彼と同じようなアンダーウェアを身に着けていた。「第2の皮膚」と言う場面があったが、あれは一種の制服のようなものなのだろうか?)の悩めるゲイ男性(ジョー・ピット)を演じたパトリック・ウィルソンだったからだ。ちなみに彼は、ジョエル・シューマッカー監督の『オペラ座の怪人』にも出ていたという(大ヒット映画であることを考えれば、日本ではオペラ座……のメインキャストとして認知している人が多いのだろう)。

ハードキャンディ』は、ネットで知り合った14歳の少女ヘイリー(エレン・ペイジ)と、32歳のカメラマン・ジェフと、ほとんどは2人だけのセリフとアクションの応酬で綴られる密室劇で、その緊張感と2人の演技と映像のセンスが素晴らしく、最後まで全く飽きるところはない。彼女はフードのついた赤いパーカーで登場し、そのスタイルでスクリーンから消えていく。つまり「赤ずきん」、狼を切り裂いておばあさんを救い出し、狼に復讐した赤ずきんちゃんなのだ。

で、ジェフのパトリック・ウィルソンを見にいったつもりが、少女ヘイリーを演じたエレン・ペイジのボーイッシュでキュートな魅力に参った。ちょうど、キリアン・マーフィを若い女の子にしたような風貌で、イノセンスと知性の中に常軌を逸した部分を感じさせ、実は最後までつかみどころのないヘイリーのキャラクターを、リアルに生き生きと演じている。

パンフレット(←内容ペラペラなのに700円は高すぎ)内には、本来は悪いはずの大人の男の側にだんだん同情するほど少女が残酷であると書かれていたりする文章がいくつかあるのだが、ヘイリーの魅力にはまると、そんなことは全くなく、「行け行けどんどん」モードに入る。実際は監督も言うとおり、映画は「ほのめかす」だけで、決定的な真実を白日のもとにさらしたりはしないし、少女にも男にも加担しない。

それでも、男をペドフィリア(小児性愛者)と呼び、すべての「彼ら」の犠牲になったすべての「少女たち少年たち」
のために、「彼ら」の代表であるジェフに、スレンダーでショートヘアの少女にも少年にも見えるヘイリーが復讐していくさまは、そんな逆転劇はこれまで見たことがない故に驚愕しつつも心地よい。むしろ心につかえるものがあるとすれば、男への同情ではなく、復讐などという行為をローティーンの少女にさせてしまったことだろうか。

ネットで知り合い、リアルに知り合った中年男と少女の足元には、数多くの少年少女たちの屍が眠っている。実際に殺された子どもたちも、自ら命を絶った子どもたちもいるだろうし、深く心に傷を負った子どもたちもいるだろう。『エディンバラ……』のピーター・オハンロンも、ザックも、アフィアスも……。

とはいえ『ハードキャンディ』は、重いテーマをのぞかせながら、がっちり構築された見事なサスペンスであり、小づくりな寓話である。

« 2006年7月 | トップページ | 2006年9月 »