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2006.06.19

エディンバラもしくは狐の祝言

亡くなった人の魂が別の人に乗り移って何かの形でよみがえる話とか、難病や事故で記憶を失っていく話とか、映画でも小説でも、最近うんざりするほど見かけるそんなストーリーには、よほどのことがない限りまず興味は持たない。まあ、ブランドン・ラウスのようなスペシャルな美形俳優が出演するとか(←お前のスーパーマン新作への興味はそこだけなのか)、別次元のおまけがつけば話は別だが……(笑)。

Edinburgh2エディンバラ・埋められた魂』(アレグザンダー・チー著、村井智之訳/扶桑社刊)は、まさにそのあたりの理想をかなえた小説である。つまり、死んだ人がよみがえるような超常的なことは起きないし、主人公の苦悩と悲しみが全編を覆いつつも、唐突な交通事故にあったり病気になったりはしない。少年時代の失恋と、ある悲惨な事件で傷ついたゲイの若者の、迷える半生(10代前半から30代にかかろうという期間)を、淡々と一人称(一部二人称)で描いた青春小説で、登場するのはほとんど美形の男の子たちばかりだ。

しかし、「美形の男の子たちがぞろぞろ」というのは、どう考えても嘘臭い。「初見」の印象が、一時よく見かけたラッセンの絵のような商業アート的な、何か薄っぺらな美しさを伴うものだったのは、主人公を含めて出る人出る人きれいな若者ばかりであったことと、何よりもこの小説の核である前半の少年時代が、少年合唱団を舞台とし、ソプラノの少年が同じパートの少年に恋をするという、昔の少女漫画まがいの設定(と感じるのは、「24年組」以降の少女漫画を読んで育った日本人特有の病弊だが……)であることによる部分が大きいと思う。

主人公は、韓国移民の両親の元に生まれた父と、スコットランド系の母を持つ、アフィアス・ツェー(通称フィー/名字は、チェ・ミンシクやチェ・ジウと同じ「崔」だろうか?)という米国人少年で、平ったく言えば、彼の初恋から始まる男性遍歴を追った話に過ぎない。彼の「初恋」は実らず、その青春期は悲しみと死に彩られているのだが、そもそも本人も「コサック人のようにエキゾチックな黒髪の男前」だからして、本意はどうあれ、定番の「実らない初恋」以外は、だいたいのところ「思うとおり」のラブアフェアーが展開し、その登場人物たちの美少年ぶりハンサムぶりとあいまって、アニー・プルーの爪のあかでも煎じて飲ませたくなるぐらい、嘘臭い。そして甘い。

ところがこれが不思議な小説で、いやそれは自分の読み方がいい加減なだけのことなのだが、読めば読むほど、比喩の相似や対照を発見したり、書かれた言葉の裏にある意味の深さに気付いたり、表現の美しさと新鮮さに目を見張ったり、それはまるで『この世の果ての家』のように、何度も読み返しているのに、その都度初めて出会う部分に引きつけられ、本を手放せなくなってしまうのである。

時系列に並んだ出来事の羅列――そんな一見単純な世界の狭間や裏面に、本作が処女作である作者が力いっぱいに仕掛けた、重層的な小説世界を形づくるための様々な描写が息づいている。ストーリーだけを追いかけてしまえば、それっきりで気付かずに終わってしまうほどさり気なく自然に……。そして読めば読むほど、良質の小説を読んだときに必ず感じる、響き合い重なり合い反発し合う、いくつもの言葉のイメージの織物が頭の中に織り上がっていく、そんな感じが強くなる。

中国だったか、東南アジアだったか忘れたが、1枚の布の表と裏とに全く異なった図案を刺繍する高度な工芸技術がある。この小説の魅力は、傷ついた若者の青春の物語という表の図案の裏側に、いくつかの寓話的な挿話や、金色やブルーといった色彩、そして火、水、光といった自然界の物質のイメージによって主人公アフィアスの心象風景の抽象画が描かれており、悲しみのトーンに統べられながら、その表と裏とがはためき翻り、読者の前に交互に顕現するところにある。

小説のタイトル『エディンバラ・埋められた魂』は、高校生になったアフィアスがアルバイトで手伝っていた歴史研究家の所有していた14世紀の書簡から名づけられたもので、それは、欧州全土をペストが覆った時代に、それ以上の流行を防ぐために街ごと埋められたエディンバラの地下でまだ生きていた男が、残り少ないろうそくの火を頼りに当てどなくつづった手紙である。手紙を読んだアフィアスは、遠い時を越え彼の元に届いた魂の声に感応し、自らもまた自分の住む米国メイン州ケープ・エリザベスの街の丘に、埋められた地下の街とその中で命の叫びをあげた男を思いながら、穴を掘る。このエディンバラからの書簡は、主人公の内面を表す重要な挿話の1つである。

そしてもう1つ、この小説を支える重要なエピソードが、日本でも伝説や謡曲として有名な「玉藻の前(玉藻前)」の話である。玉藻の前は、九尾のキツネの妖怪が変化(へんげ)した美女で、日本では最後は殺生石になったことになっているが、韓国でも九尾狐(クミホ)の伝説として存在する。この九尾狐(きゅうびこ)は、元々中国(を発祥とし)、インドで広がり、韓国や日本にまで伝播したものだという。小説の中でこの伝説は、妖怪として人に対立する魔物であった玉藻の前が、韓国と日本の間にある島に渡り、そこで人間の男を愛し、人間の子どもを産み、夫の死とともに自らも生きたまま火の中で焼かれ、永遠の命を絶った話として紹介される。

人に姿を変えた玉藻の前が、唯一自分の中に残していた、妖怪(キツネ)としての名残りの赤い髪。アフィアスが父からこの物語を聞くのは、彼の黒髪の中に1本の赤毛が見つかったといった、誰にでもあるような、ちょっとしたきっかけからだった。「人間の男を愛した悲しい魔物」――だが彼は、セクシュアリティや自分の中に存在する2つの大きく異なる民族の遺伝子のために、外側から強制的に感じさせられてしまう自身の特異性によって、自分を「玉藻の前」に重ねていく。もちろんそれは、彼ら韓国人の血を引く男の子たちが皆、玉藻の前の忘れ形見の、妖術を教わらずに人間になってしまった子どもたちの末裔なのだという、父から聞いた話に基づいてもいる。

東洋のキツネの伝説でも、何百年も前の欧州の話でもなく、アフィアスの祖父の時代、太平洋戦争の時代の、日本人には辛いエピソードも、冒頭から登場する。後に米国へ渡り韓国系アメリカ人1世となった祖父の6人の姉たちは、戦時中、日本軍に略奪され戻ることはなかった。祖父自身も、日本語を国語として教育された世代である。古い家族写真にしか残っていない、美しい6人の姉たちに対する祖父の想いや、押し付けられた言語によって生じた自己表現への口ごもりは、アフィアスの、失った親友への想い、自分の中の半分のルーツへの不思議な懐かしさやもどかしさと重なり、物語の通奏低音の1つとなっている。

Edinburgh1これらの裏面から小説に厚みを与えるエピソードのほかに、表側のアフィアス自身の物語として最も重い出来事が、少年合唱団の時代の悲惨な事件(事実)である。その事件(事実)は、初恋の相手である親友を失う原因となっただけではなく、アフィアス自身被害者であったにもかかわらず、被害者としての心の傷の上に加害者側の罪悪感をももたらす、彼の苦悩の生の源でもある。

小説の中には、引用して紹介したいような表現が沢山あるのだが、どれもがほかの部分と繊細にからみあっているので、なかなか一部だけを切り離して取り上げることができない。合唱団で歌う少年アフィアスの音楽と声への思いをつづった部分は素晴らしい。「偉大な芸術なら、僕は音楽を通して充分に味わい尽くしていた」と後に回想するほどに、歌うことの何たるかが精魂込めて表現されている。それでも敢えて1つだけ、好きな1節を取り上げるなら、それはアフィアスが「一生の仕事」と出会ったときの1文になる。

声変わりとともに音楽から離れたアフィアスは、美術の道に進む。デッサンの提出課題として、彼と同じボート部のメンバー5人をモデルに、各々の裸体デッサンを描いた。彼にとってそれは、かつての歌のように「この心の中にあるものを表に出すこと」だったが、作品は「ポルノだ」と教授に切り捨てられてしまう。その提出課題を燃やしたのは、陶芸専攻の学生たちが、窯から取り出した作品を一時的に置く、熱さましのための紙くずを入れた缶の中だった。ふらりと訪れたその場所で、彼は陶芸と出会う。親友だった初恋の相手を火の中で失った喪失感と自責の念で、死にとりつかれ、夢遊病者のように生きる日々。成形した土を火に入れ、窯の前でひたすら待つだけの、陶芸専攻の学生たちを見つめながら、彼は思う。

「この世の中には、火の中から戻ってくるものもあるのだと」。(本より引用)


そして彼自身も、とりつかれ続けた死の「炎」の中から生還する。「水」の中からやってきた恋人とともに生きることを選ぶことで……。


【本筋に関係があるかもしれない、ないかもしれないポイント】

●アフィアスの育ったメイン州。メイン州といえば、レフコートの『ニ遊間の恋』で恋人たちが、「どこにあるかも知らないけれど、行ってみたい」からというだけで逃亡先に選んだ場所だったりするのが記憶に残る。米国の東海岸で、カナダと国境を接する最北部の州である。

●アフィアスは、1967年生まれの作者アレグザンダー・チーとほぼ同じ年齢設定。12歳の夏、合唱団の仲間と見にいくのが、オリビア・ニュートンジョンとジーン・ケリーの出演した『ザナドゥ』(1980年作品)。韓国系アメリカ人であるということも同じで、主人公はあくまでも創作されたキャラクターではあるだろうが、作者自身を投影した部分もあると想像する。映画の題名では、後に『アナザー・カントリー』(1984年作品)が登場する。

●ここまでの説明では、芸術至上主義か耽美主義の小説のように思えてしまうかもしれないが、人権運動(から主人公が遠ざかった理由)、エイズ、電話相談、新しい家族の形といったゲイ文学の柱であるテーマも、さりげなく、あるいはきっちりと押さえられている。アフィアスには、10代のころ、自分の性的指向をどうしたらいいかわからず、銃で頭を撃ち抜いて死んでいった友人がいた。その10数年後、アフィアスの教え子は、恋愛の対象が同性であることを、悩み相談のホットラインに打ち明ける。もちろん個人差が大きいだろう。現にアフィアスは生き残った。だが、80年代前半と90年代後半の状況の違いが、そのあたりからもうかがえる。

●合唱団の指揮者であり、小説のキーパーソンの1人であるビッグ・エリック(成人男性)に勧められ、アフィアスが読むのが、メアリ・ルノーの" Fire from Heaven (天からの火)"。アフィアスは、「どうしてビッグ・エリックがその本を読ませたかったのかすぐに理解した。それはアレキサンダー大王がまだ十代の頃の話で、年上で大人の教師と関係を持つという内容だった」。(本より引用) ビッグ・エリックは、次は『アレクサンドロスと少年バゴアス』(小説の中では原題の「ペルシャの少年」になっている)を読めと言う。青年期に入り混迷の中にいるアフィアスが、図書館で手に取り、読まずに戻すのもまた、『アレクサンドロスと少年バゴアス』だ。

●ずっと、主人公として語り続けてきた一人称のアフィアスが、語り手を交代する章がある。1つは、同じ一人称だが別の登場人物が語る章で、そこではアフィアスは登場人物の想いの対象となって描かれる。また、終盤のアフィアスの一人称語りの章の中に、3箇所ほど、二人称の語り手が、「君」としてのアフィアスの行動を、神の視点から物語る短章が挿入されている。この、アフィアスを「君」と呼ぶ語り手は誰なのか。3つの短章は、どちらも前章でアフィアスの初恋の親友(ピーター)の写真が取り出された後に挿入されているので、ピーターなのかとも思う。でも、ピーターはアフィアスを「お前」と呼んでいて、「君」などとは決して言わなかった。

その二人称語りの短章の内の2つに、全く同じように書かれているアフィアスの自問の言葉がある。「なあ、教えてくれよ、俺がしたことを。俺はどうやってここにたどり着いたんだろう」(本より引用)。それは、絶望と虚無に飲み込まれそうになりながら、おぼつかない足取りではあるものの、何とか自分の人生を歩もうともがく、主人公のはかなげな足音のように聞こえないだろうか。

●ラストで、登場人物たちが交わす挨拶の「よう」。原語では何と言っているのだろう。「よう」は既に、韓国語のキツネを表す言葉として説明されている。実はキツネというのは、日本では「ずる賢い」などといったマイナスのイメージで比喩に使われたりすることが多いが、韓国では「賢く美しい」プラスイメージの動物なのだそうだ。ラスト直前で触れられた玉藻の前についての一節が、結びの台詞である「よう」を、何だかキツネの挨拶のように思わせる。

「狐がべつの狐と結婚すると、そのわざわいは丸一日、影を潜めるという。日本人はそれを狐の嫁入りと呼び、その日は太陽が照るかたわらで雨が降ったりする。それが幸運のしるし」。(本より引用)

「よう」と挨拶を交わした登場人物たちが、朝の光の中に落とした影には、ふんわりと、ろうそくの炎のような形をしたしっぽがついていたかもしれない。


※原題は"EDINBURGH"。「埋められた魂」は邦訳版につけられたサブタイトル。上記の中で引用したすべての文章は、扶桑社発刊の『エディンバラ・埋められた魂』(アレグザンダー・チー著、村井智之訳)による。

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