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2006.06.30

地下鉄がくる

こんなDVD情報ばかりで何ですが……。

いつも読んでいる「アジア批評」の29日の記事で知った《地下鐵》の邦版DVD発売。公開はなし、で発売のもよう。でもこれ、公開して見にいくのは、梁朝偉のファン(&范植偉のファンしょぼしょぼ)ぐらいなもんじゃないのか? 自分的最も好きなシーンは、林雪の弾き語りシーン(だったっけ?)ぐらいなもので、范植偉も笑ってしまうぐらい似合わないし(天使役)、良いとは思えないのだけれど……。もし劇場で見られたなら、また多少は印象が違ったのか? DVDでも日本語字幕で見たら、印象は変わるのか?

Yahooムービー作品情報 (『サウンド・オブ・カラー 地下鉄の恋』 DVD9月21日発売)


2006.06.21

霧暗2

《RED EYE》は公開されてなかっただろうか? これはDVDスルー? →『パニック・フライト』。ちなみにプルート……は公開翌日に見たのだけれど、天気が悪かったということもあるかもしれないが、混雑覚悟で出かけたら、あにはからんや劇場は非常に空いていて不安になってしまった。今はもう大丈夫?

『ファザー、サン』は、「アレクサンドル・ソクーロフ DVD-BOX」として、『孤独な声』、『日陽はしづかに発酵し・・・』とともに8月26日発売。うーん、『マザー、サン』も入れてほしかった。かろうじて5月に劇場で見たのだけれど、『マザー、サン』を見ると、『ファザー、サン』の見え方が変わると思う。

この閑古鳥サイトのアクセス・ログ、検索ワードのナンバーワンが、もうここ1~2カ月ずっと『変態村』なんです。映画の方はまだ、ゆうるりと全国を回っているらしく、7月も8月も、公開される地域がまだまだあり、地鳴りのように不気味で地味な変態人気が全国に蔓延しているようだ(?)。検索している多くのみなさん、探している(待っている)のは、きっと自分も同じ、DVD発売情報ですよね?  (監督コメンタリー、ついたりすると非常に嬉しい)

2006.06.19

エディンバラもしくは狐の祝言

亡くなった人の魂が別の人に乗り移って何かの形でよみがえる話とか、難病や事故で記憶を失っていく話とか、映画でも小説でも、最近うんざりするほど見かけるそんなストーリーには、よほどのことがない限りまず興味は持たない。まあ、ブランドン・ラウスのようなスペシャルな美形俳優が出演するとか(←お前のスーパーマン新作への興味はそこだけなのか)、別次元のおまけがつけば話は別だが……(笑)。

Edinburgh2エディンバラ・埋められた魂』(アレグザンダー・チー著、村井智之訳/扶桑社刊)は、まさにそのあたりの理想をかなえた小説である。つまり、死んだ人がよみがえるような超常的なことは起きないし、主人公の苦悩と悲しみが全編を覆いつつも、唐突な交通事故にあったり病気になったりはしない。少年時代の失恋と、ある悲惨な事件で傷ついたゲイの若者の、迷える半生(10代前半から30代にかかろうという期間)を、淡々と一人称(一部二人称)で描いた青春小説で、登場するのはほとんど美形の男の子たちばかりだ。

しかし、「美形の男の子たちがぞろぞろ」というのは、どう考えても嘘臭い。「初見」の印象が、一時よく見かけたラッセンの絵のような商業アート的な、何か薄っぺらな美しさを伴うものだったのは、主人公を含めて出る人出る人きれいな若者ばかりであったことと、何よりもこの小説の核である前半の少年時代が、少年合唱団を舞台とし、ソプラノの少年が同じパートの少年に恋をするという、昔の少女漫画まがいの設定(と感じるのは、「24年組」以降の少女漫画を読んで育った日本人特有の病弊だが……)であることによる部分が大きいと思う。

主人公は、韓国移民の両親の元に生まれた父と、スコットランド系の母を持つ、アフィアス・ツェー(通称フィー/名字は、チェ・ミンシクやチェ・ジウと同じ「崔」だろうか?)という米国人少年で、平ったく言えば、彼の初恋から始まる男性遍歴を追った話に過ぎない。彼の「初恋」は実らず、その青春期は悲しみと死に彩られているのだが、そもそも本人も「コサック人のようにエキゾチックな黒髪の男前」だからして、本意はどうあれ、定番の「実らない初恋」以外は、だいたいのところ「思うとおり」のラブアフェアーが展開し、その登場人物たちの美少年ぶりハンサムぶりとあいまって、アニー・プルーの爪のあかでも煎じて飲ませたくなるぐらい、嘘臭い。そして甘い。

ところがこれが不思議な小説で、いやそれは自分の読み方がいい加減なだけのことなのだが、読めば読むほど、比喩の相似や対照を発見したり、書かれた言葉の裏にある意味の深さに気付いたり、表現の美しさと新鮮さに目を見張ったり、それはまるで『この世の果ての家』のように、何度も読み返しているのに、その都度初めて出会う部分に引きつけられ、本を手放せなくなってしまうのである。

時系列に並んだ出来事の羅列――そんな一見単純な世界の狭間や裏面に、本作が処女作である作者が力いっぱいに仕掛けた、重層的な小説世界を形づくるための様々な描写が息づいている。ストーリーだけを追いかけてしまえば、それっきりで気付かずに終わってしまうほどさり気なく自然に……。そして読めば読むほど、良質の小説を読んだときに必ず感じる、響き合い重なり合い反発し合う、いくつもの言葉のイメージの織物が頭の中に織り上がっていく、そんな感じが強くなる。

中国だったか、東南アジアだったか忘れたが、1枚の布の表と裏とに全く異なった図案を刺繍する高度な工芸技術がある。この小説の魅力は、傷ついた若者の青春の物語という表の図案の裏側に、いくつかの寓話的な挿話や、金色やブルーといった色彩、そして火、水、光といった自然界の物質のイメージによって主人公アフィアスの心象風景の抽象画が描かれており、悲しみのトーンに統べられながら、その表と裏とがはためき翻り、読者の前に交互に顕現するところにある。

小説のタイトル『エディンバラ・埋められた魂』は、高校生になったアフィアスがアルバイトで手伝っていた歴史研究家の所有していた14世紀の書簡から名づけられたもので、それは、欧州全土をペストが覆った時代に、それ以上の流行を防ぐために街ごと埋められたエディンバラの地下でまだ生きていた男が、残り少ないろうそくの火を頼りに当てどなくつづった手紙である。手紙を読んだアフィアスは、遠い時を越え彼の元に届いた魂の声に感応し、自らもまた自分の住む米国メイン州ケープ・エリザベスの街の丘に、埋められた地下の街とその中で命の叫びをあげた男を思いながら、穴を掘る。このエディンバラからの書簡は、主人公の内面を表す重要な挿話の1つである。

そしてもう1つ、この小説を支える重要なエピソードが、日本でも伝説や謡曲として有名な「玉藻の前(玉藻前)」の話である。玉藻の前は、九尾のキツネの妖怪が変化(へんげ)した美女で、日本では最後は殺生石になったことになっているが、韓国でも九尾狐(クミホ)の伝説として存在する。この九尾狐(きゅうびこ)は、元々中国(を発祥とし)、インドで広がり、韓国や日本にまで伝播したものだという。小説の中でこの伝説は、妖怪として人に対立する魔物であった玉藻の前が、韓国と日本の間にある島に渡り、そこで人間の男を愛し、人間の子どもを産み、夫の死とともに自らも生きたまま火の中で焼かれ、永遠の命を絶った話として紹介される。

人に姿を変えた玉藻の前が、唯一自分の中に残していた、妖怪(キツネ)としての名残りの赤い髪。アフィアスが父からこの物語を聞くのは、彼の黒髪の中に1本の赤毛が見つかったといった、誰にでもあるような、ちょっとしたきっかけからだった。「人間の男を愛した悲しい魔物」――だが彼は、セクシュアリティや自分の中に存在する2つの大きく異なる民族の遺伝子のために、外側から強制的に感じさせられてしまう自身の特異性によって、自分を「玉藻の前」に重ねていく。もちろんそれは、彼ら韓国人の血を引く男の子たちが皆、玉藻の前の忘れ形見の、妖術を教わらずに人間になってしまった子どもたちの末裔なのだという、父から聞いた話に基づいてもいる。

東洋のキツネの伝説でも、何百年も前の欧州の話でもなく、アフィアスの祖父の時代、太平洋戦争の時代の、日本人には辛いエピソードも、冒頭から登場する。後に米国へ渡り韓国系アメリカ人1世となった祖父の6人の姉たちは、戦時中、日本軍に略奪され戻ることはなかった。祖父自身も、日本語を国語として教育された世代である。古い家族写真にしか残っていない、美しい6人の姉たちに対する祖父の想いや、押し付けられた言語によって生じた自己表現への口ごもりは、アフィアスの、失った親友への想い、自分の中の半分のルーツへの不思議な懐かしさやもどかしさと重なり、物語の通奏低音の1つとなっている。

Edinburgh1これらの裏面から小説に厚みを与えるエピソードのほかに、表側のアフィアス自身の物語として最も重い出来事が、少年合唱団の時代の悲惨な事件(事実)である。その事件(事実)は、初恋の相手である親友を失う原因となっただけではなく、アフィアス自身被害者であったにもかかわらず、被害者としての心の傷の上に加害者側の罪悪感をももたらす、彼の苦悩の生の源でもある。

小説の中には、引用して紹介したいような表現が沢山あるのだが、どれもがほかの部分と繊細にからみあっているので、なかなか一部だけを切り離して取り上げることができない。合唱団で歌う少年アフィアスの音楽と声への思いをつづった部分は素晴らしい。「偉大な芸術なら、僕は音楽を通して充分に味わい尽くしていた」と後に回想するほどに、歌うことの何たるかが精魂込めて表現されている。それでも敢えて1つだけ、好きな1節を取り上げるなら、それはアフィアスが「一生の仕事」と出会ったときの1文になる。

声変わりとともに音楽から離れたアフィアスは、美術の道に進む。デッサンの提出課題として、彼と同じボート部のメンバー5人をモデルに、各々の裸体デッサンを描いた。彼にとってそれは、かつての歌のように「この心の中にあるものを表に出すこと」だったが、作品は「ポルノだ」と教授に切り捨てられてしまう。その提出課題を燃やしたのは、陶芸専攻の学生たちが、窯から取り出した作品を一時的に置く、熱さましのための紙くずを入れた缶の中だった。ふらりと訪れたその場所で、彼は陶芸と出会う。親友だった初恋の相手を火の中で失った喪失感と自責の念で、死にとりつかれ、夢遊病者のように生きる日々。成形した土を火に入れ、窯の前でひたすら待つだけの、陶芸専攻の学生たちを見つめながら、彼は思う。

「この世の中には、火の中から戻ってくるものもあるのだと」。(本より引用)


そして彼自身も、とりつかれ続けた死の「炎」の中から生還する。「水」の中からやってきた恋人とともに生きることを選ぶことで……。


【本筋に関係があるかもしれない、ないかもしれないポイント】

●アフィアスの育ったメイン州。メイン州といえば、レフコートの『ニ遊間の恋』で恋人たちが、「どこにあるかも知らないけれど、行ってみたい」からというだけで逃亡先に選んだ場所だったりするのが記憶に残る。米国の東海岸で、カナダと国境を接する最北部の州である。

●アフィアスは、1967年生まれの作者アレグザンダー・チーとほぼ同じ年齢設定。12歳の夏、合唱団の仲間と見にいくのが、オリビア・ニュートンジョンとジーン・ケリーの出演した『ザナドゥ』(1980年作品)。韓国系アメリカ人であるということも同じで、主人公はあくまでも創作されたキャラクターではあるだろうが、作者自身を投影した部分もあると想像する。映画の題名では、後に『アナザー・カントリー』(1984年作品)が登場する。

●ここまでの説明では、芸術至上主義か耽美主義の小説のように思えてしまうかもしれないが、人権運動(から主人公が遠ざかった理由)、エイズ、電話相談、新しい家族の形といったゲイ文学の柱であるテーマも、さりげなく、あるいはきっちりと押さえられている。アフィアスには、10代のころ、自分の性的指向をどうしたらいいかわからず、銃で頭を撃ち抜いて死んでいった友人がいた。その10数年後、アフィアスの教え子は、恋愛の対象が同性であることを、悩み相談のホットラインに打ち明ける。もちろん個人差が大きいだろう。現にアフィアスは生き残った。だが、80年代前半と90年代後半の状況の違いが、そのあたりからもうかがえる。

●合唱団の指揮者であり、小説のキーパーソンの1人であるビッグ・エリック(成人男性)に勧められ、アフィアスが読むのが、メアリ・ルノーの" Fire from Heaven (天からの火)"。アフィアスは、「どうしてビッグ・エリックがその本を読ませたかったのかすぐに理解した。それはアレキサンダー大王がまだ十代の頃の話で、年上で大人の教師と関係を持つという内容だった」。(本より引用) ビッグ・エリックは、次は『アレクサンドロスと少年バゴアス』(小説の中では原題の「ペルシャの少年」になっている)を読めと言う。青年期に入り混迷の中にいるアフィアスが、図書館で手に取り、読まずに戻すのもまた、『アレクサンドロスと少年バゴアス』だ。

●ずっと、主人公として語り続けてきた一人称のアフィアスが、語り手を交代する章がある。1つは、同じ一人称だが別の登場人物が語る章で、そこではアフィアスは登場人物の想いの対象となって描かれる。また、終盤のアフィアスの一人称語りの章の中に、3箇所ほど、二人称の語り手が、「君」としてのアフィアスの行動を、神の視点から物語る短章が挿入されている。この、アフィアスを「君」と呼ぶ語り手は誰なのか。3つの短章は、どちらも前章でアフィアスの初恋の親友(ピーター)の写真が取り出された後に挿入されているので、ピーターなのかとも思う。でも、ピーターはアフィアスを「お前」と呼んでいて、「君」などとは決して言わなかった。

その二人称語りの短章の内の2つに、全く同じように書かれているアフィアスの自問の言葉がある。「なあ、教えてくれよ、俺がしたことを。俺はどうやってここにたどり着いたんだろう」(本より引用)。それは、絶望と虚無に飲み込まれそうになりながら、おぼつかない足取りではあるものの、何とか自分の人生を歩もうともがく、主人公のはかなげな足音のように聞こえないだろうか。

●ラストで、登場人物たちが交わす挨拶の「よう」。原語では何と言っているのだろう。「よう」は既に、韓国語のキツネを表す言葉として説明されている。実はキツネというのは、日本では「ずる賢い」などといったマイナスのイメージで比喩に使われたりすることが多いが、韓国では「賢く美しい」プラスイメージの動物なのだそうだ。ラスト直前で触れられた玉藻の前についての一節が、結びの台詞である「よう」を、何だかキツネの挨拶のように思わせる。

「狐がべつの狐と結婚すると、そのわざわいは丸一日、影を潜めるという。日本人はそれを狐の嫁入りと呼び、その日は太陽が照るかたわらで雨が降ったりする。それが幸運のしるし」。(本より引用)

「よう」と挨拶を交わした登場人物たちが、朝の光の中に落とした影には、ふんわりと、ろうそくの炎のような形をしたしっぽがついていたかもしれない。


※原題は"EDINBURGH"。「埋められた魂」は邦訳版につけられたサブタイトル。上記の中で引用したすべての文章は、扶桑社発刊の『エディンバラ・埋められた魂』(アレグザンダー・チー著、村井智之訳)による。

2006.06.17

チョコ2題

この間、大槻ケンヂがどこかで書いていたが、映画って、タイトルも知らずに深夜なんかにテレビで途中から見ると、何でみんなすごく良い映画に思えたりするのか。

深夜じゃないんだけれども、たまたまつけたらやっていて見たのが、『チョコレート』と『ショコラ』。どちらも初めて見た。どちらも途中から。しかも『ショコラ』などは、途中から見て、終盤をとばし、ラストを見た。

『チョコレート』。テレビをつけたらヒース・レジャーが出ていて、ああこれが『チョコレート』かと思っている5分もたたないうちに、ヒース・レジャーは物語から姿を消してしまった。ところが姿を消してからの方が、どうやら物語は肝心な部分に入るようで、ビリー・ボブ・ソーントンの素晴らしさに引きずられて見入った。美しいハリー・ベリー(ハル・ベリー?)の、傷心と受容と決意を感じさせるラストの表情がすべてを物語る(→って、すべて見てないのに……)。厳しい、苦しい佳作だと思う。

で、『ショコラ』は、こちらもヒース・レジャーつながりの(『カサノバ』を監督した)ラッセ・ハルストレム監督のヒット作。

Anunfinishedlife余談ですが、ハルストレム監督といえば、16日のテレグラフのサイト(Telegraph.co.uk)に " In the shadow of Brokeback Mountain"というタイトルで、ラッセ・ハルストレム監督作品のBBMとの奇縁を取り上げた軽い記事が出ていた。曰く、監督の『シッピング・ニュース』はプルーの原作だし、近作『カサノバ』はヒース・レジャー主演である。さらに《An Unfinished Life》(2005年作品、左画像)では、ワイオミングの農場(牧場?)で互いを労わりあいながら暮らす2人の男(ロバート・レッドフォードとモーガン・フリーマンが演じる老人)を描いた(といっても話は、そこに息子の嫁が孫をつれてやってくるという部分が主)。

そうそうそれで『ショコラ』です。いや、この美しいファンタジー、あんなきれいなジュリエット・ビノシュじゃなくて、もっと生活感と職人の雰囲気のある女優さんがヒロインで、ジョニー・デップの役も、もうちょっとコワモテ系の俳優がやってくれると、きっと感動したりしたんじゃないかと……(←それはお前だけだ)。もちろんデイムはここでも言わずもがなに素晴らしいし、美術や衣装も、リアリティよりも幻想的な美しさを持っているのだから、俳優ももう少し、ヨーロッパの片田舎的地味さで統一したほうがよかったんじゃないかと……(←それではお客が入りません)。

2006.06.07

霧暗

プルートで朝食を』(ニール・ジョーダン監督)が今週公開の、キリアン・マーフィーが出演する2006年カンヌ国際映画祭のパルムドール受賞作『麦の穂を揺らす風(仮題)』(ケン・ローチ監督/原題:The Wind That Shakes the Barley)は、調べてみたらもう日本公開(今秋)が決まっていた。(関係ないけれど、『グエムル』(ポン・ジュノ監督)も好評のようだ。大傑作と言われる前作によって世間が注視する中で、期待どおり(あるいは期待以上?)のものをつくれるとしたら、これは本当にもう、凄い人なんだなと思う)

プルート……といえば、原作者であり、監督とともに脚本も書いているアイルランド人作家・パトリック・マッケーブの『ブッチャー・ボーイ』(同監督/1998年作品)もビデオになっているそうで、これもまたクオリティの高い作品だという評判だけれど、ついでに公開されないだろうか……。というか、パット・マッケーブの本自体、(どの作品でもいいけど)邦訳出版されないのか?

(華流なんとか……として)六本木でやっている『エンター・ザ・フェニックス』は、中国に行ったときにVCDを買ってきた映画だけれど(香港映画なのに、大陸で買うからいけないんだろうが)、観客の笑い声入りの代物だった。海賊版は多いと知っていて、気をつけて気をつけて買ったつもりでも、かなり大きなちゃんとした(と思われる)店で買ったつもりでも、大陸で買ったドラマVCD以外の映画VCDや音楽CDのほとんどは海賊版だったりしているわけで、例え旅行に行っても、もう大陸では絶対に媒体は買うまいと思う。通販なら、北京から直接購入しても、海賊版だったためしはないのに……。

さて日曜日に『ココシリ』と共に見たもう1本は、『13歳の夏に僕は生まれた』というイタリア映画。金持ちのボンボンの13歳イタリア少年が、社長である父親と出かけたマリン・クルーズの船上から誤って海に落ち、溺死寸前、アフリカ、東欧、中東といった様々な国から仕事を求めてやってきた人々を山のように乗せた密航船のルーマニアの若者によって助けられる。少年は、船上や難民収容所で苛酷な生活を体験し、全く異なる環境下で生きる人々と触れ合う中で、多くの矛盾や問題を抱えながら様々な人々が生きている「世界」というものを認識し始めるという、シンプルで力強い、ある意味ビルドゥングスロマン系の物語だ。まあ少年の成長というよりも、少年の目を通して、経済的な要因から引き起こされる民族の越境が生む社会の軋轢や矛盾、機会の不平等を描き出すことが主眼だと思うけれど……。

日本語のタイトルは、ちょっとひっかかるけれども悪くないとは思う。原題は、劇中でも素晴らしいエピソードとして使用されている「生まれたからには逃げも隠れもできない」という言葉(マリア・パーチェ・オッティエーリの原作『生まれたからには逃げも隠れもできない──埋もれた民族をめぐる旅』のタイトル)である。この言葉を、映画のかなり早い段階、主人公の少年が、公衆電話の受話器の向こうに必死で叫んでいる外国人の口から異国の言葉として聴きつけ、意味もわからないまま暗記して、後の出来事の中で何度か繰り返すことになる。

たまたまその場に居合わせた少年が言葉を丸暗記してしまった理由はもちろん、公衆電話に書かれた「故障中」というイタリア語がわからず、通じもしない電話に必死に叫ぶ外国人労働者のせっぱつまった様子がよほど強いインパクトを与えたからだろうが、外国人の窮状に反して、電話が壊れていることを知ることもできない「外国人」という存在それ自体の心もとなさが、恵まれた環境にある少年の心に何らかの影を落としたから……ということもあるのではないかと自分は思う。そしてそれが、その後のストーリーのきっかけとしての意味合いを持つ。

まるでイクラの軍艦巻きのように人であふれかえっている密航船は沿岸で保護されて、人々は難民収容所に向かう。収容所の責任者は神父(←名前失念)で、非常に人間性の豊かな人物だ。彼が居室の壁の巨大な落書き文字を指さして語るエピソードは面白い。曰く、収容所で暴動が発生したときに、あちこちを壊されたりしたので修理をしたが、壁の「神父のバカヤロウ」という落書きは消さなかった。なぜならばそれは「真実だからね」と……。

宗教と福祉が結びついて機能している国は少なくないだろうし、日本だって近世以前は寺が福祉の役割を担ってきた。この映画に特別に宗教的な描写があったりするわけではないし、この映画だけがそうだというわけではないのだが、現代っ子の主人公が折にふれ祈りを捧げる姿などには、自然な文化としての宗教が生活や人生観の基底となっていると感じられるし、特にラストシーンの、ルーマニアから密入国した少女アリーナ(←オルネッラ・ムーティを思わせる野性的でセクシーな瞳の少女)と主人公の少年が「パンを分け合う」姿には、どうしようもない現実の中で、せめてできる部分で助け合って共存していこうという結論的なものと同時に、宗教的なものをも思い起こさせられた。

ただ、自分には年齢的なものか、どうしても近いところに思いが及びやすく、少年の両親の立場が最も身近だった。もし、自分の子どもの命の恩人が国家的に正当に認められない難民の少年や少女だったら、そして自分の子どもが、自分に向かって「彼らと一緒に暮らしたい」といったらどうするのか。人道的に考えたら「かくまう」べきなのかもしれないが、国内の法律や少年たちの将来、また国家間の問題までを考えたとき、法を犯しても女性たちの人生を守ろうとしたヴェラ・ドレイクのような人でもない限り、悩みは深いと思う。

映画を見ていると、ある台詞や字幕の文字をきっかけに違うことを考え始めてしまい、映画の世界から全く離れて、気がついてみるとストーリーの重要な部分を見落としていたなどということがよくある自分にも、重い内容にもかかわらず一気に見せられてしまった見事な演出に、ジョルダーナ監督の(6時間という長さに見るのをひるんだ)前作『輝ける青春』のDVDを買おうかと思い始めている。

2006.06.05

祝 Best Kiss

"MTV Movie Awards"、Best Kiss&Best Performance 決まりました。→BBC NEWS / 受賞結果 (ついでにバットマンビギンズもおめでとう)

さて、いつも拝見している「歩行と思索」さん(←さん付けするの、変ですか?)の、「BRUTUS」6月15日号からの引用の記事は怖い。笑える。もう、ひきつり笑いだ。……「ゴールド品格」って、それは冗談にしても、そのうち辞書にみたいに、皮革装版とか、表紙金文字箔押しプレゼント用とか、出るんじゃないか。で、この本に反感を持っている人間は強制収容されて洗脳されるの……。

本日は、日比谷にて『ココシリ』を見る。東京国際映画祭の上映のときは見損ねたが、大して後悔はしていなかった。今回も「見たくて、見たくて」見たわけではない。舞台は青海省ココシリ(可可西里)。NHK『新シルクロード』で「天空をゆく」とサブタイトルをつけられたあの青海省である。チベットカモシカの密猟をパトロールするチベット族の自警団の1人が殺された事件を追って北京から取材に来た記者が、パトロール隊に同行する話で、実話をベースにしているという。

で、何せNHKシルクロードのハイビジョン映像になってしまうぐらいの場所だからして、素晴らしい自然の風景である。山、砂地、空、吹雪……。BBMのブロークバック山も、大王のヒンドゥークシュも、音楽とともにめいっぱい「もうひとつつの主役」として堂々と映画を彩っていたのに、『ココシリ』では、景色なんかただの「背景」に過ぎないとでもいうように、音楽もつかなきゃ、ことさら謳いあげられることもなく、惜しげなく、ただ男たちの背後に仁王像のように静かな迫力で存在するだけなのだ。「いつもの景色じゃん、何てことはないよ」とでも言われているかのように、普通に撮られている。これに比べたら、『チベットの女』なんか、ほとんど観光ガイドのようなものじゃないか(まあ映画だから、「見せる」のが目的なわけで仕方ないのだが、あの素晴らしく質実で香り高い原作小説が嘘のような、絢爛たる風景描写は……)。

そして、その普通だったら目いっぱい撮りたくなるような圧倒的な自然をうっちゃって、撮られたのは日に焼けたチベット族の男たちである。だがしかし、まったくナチュラルじゃない。何がって、俳優たちが……。「俳優」っぽすぎるのである(←別に良いとも悪いとも言っていない)。主役級の人たちが、プロのきっちり勉強した俳優さんであることは、(いくらメイクしていても)顔や雰囲気の垢抜けた感じで良くわかる。クレジットを見ると、半分ぐらいは、チベット族風の漢字の文字数の多い名前の人がいたようだったから(読めるほど大きな字ではなかったが)、現地の人たちももちろん沢山参加しているのだろうが……。

でも、それが陸川っぽい。北京電影学院出身の映画好きの若手監督が、シンプルで大きなテーマを、今っぽく作品にしてみました、という感じがする。内容? 見どころを一言で言うと、中国版『ジェリー』(ガス・ヴァン・サント監督)か?(笑) 「公道まで5キロ」だし……。雄大な自然と社会派なテーマを、けっこうマニアックにちんけ(←別にけなしていない)な話として小ぢんまりまとめているところが、「らしい」なあと……。

女性の扱いは今一歩だ。大量のカモシカの皮を数えるところは、BBMの羊同様にCGか?などと思いながら見ていた。『ジェリー』を地で行く密漁団の老マーさんも良い味だった。そういえば、チベット族の言葉は字幕では<>(かぎかっこ)つきで表されているのだが、相手を罵る言葉が、韓国語に似ていて面白かった。

密猟者の首領がどこから来ているかは知らない(何語をしゃべっているから見落とした)。だが手下は、パトロール隊と同じチベット族の、地元の人なのだ。その、密漁者の手先となってカモシカの皮をはぐ仕事をしている男が口にする、「以前は放牧をしていたが、草原が砂漠になってしまったためできなくなった」(だから、今のようなことをせざるを得ないのだ)という台詞は、映画中で最も印象に残る。

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