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2006.04.27

新しい台湾の文学「げっし」発刊

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ついに今月、国書刊行会から「新しい台湾の文学」シリーズとして、白先勇の『[薛/子]子(げっし)』の発行が決定した。amazonによれば発売予定日は4月28日→amzon.co.jp

リンクした国書刊行会(今月の新刊ページ)の本の紹介には「戒厳令下の台北新公園に集まる寄る辺なき若者達の群像に、父と子の葛藤と台湾の歴史とを描き込んだ傑作長篇。戦後中国語文学における最重要作家の代表作」と書かれている。

(もちろん、この本を心待ちにしてきた、読書家や研究者など「まっとう」な方々もたくさんいらっしゃるだろうが)、ヤオイおばさん系中華エンタテイメントファンを中心に、読みようもなく中国語発音を真似て「ニエズ」と呼ばれてきたこの、日本人にとっては非常に馴染みの薄い漢字がタイトルに使用されている小説の邦訳版の題名は、当初予定の「罪の子」でもなく、「げっし」という本来の日本語音読みの名前に決まり、これからはこの呼び名で世間に定着していくことだろうと思う。

表紙には、「在我[イ門]的王国裏、只有黒夜、没有白天。」というあのフレーズも添えられており、反射的に郭老こと金士傑さんのナレーションの声が浮かんでくる。

右サイドバーの本のところにも書いたが、BBMのことを考えるとき、ずっとニエズ、いや「げっし」の父子関係のことを考えずにはいられなかった。イニス・デルマーとジャック・ツイストのそれぞれの父子関係は、アメリカ的な厳格でゆるがぬ父親像というのがあるのだろう、相当厳しいものだった。それは、ワイオミングの風土にも似た厳しさである。

『[薛/子]子(げっし)』においては、ちょうど龍子(王夔龍)と父との関係は、イニスやジャックと父との関係に近いものがあると思う。しかし、呉敏のようなほろ苦い父子関係もあり、李青のような激しい葛藤の末に、いくらか光が見え始めるような関係もある。

プルーの『ブロークバック・マウンテン』は、集英社文庫の訳者あとがきにあったように、「「自分で解決する」というアメリカ的マッチョ主義を棄てることもできず、結局は自分の殻に閉じ込もっていくしかない」イニスの人生を描きながら、そんなイニスをつくりあげたものが何なのかを逆照射する。

一方『[薛/子]子(げっし)』の舞台である台北の風土は、ワイオミングとは全く違う。その湿度同様に、描かれる人々の情も濃い。父と子の葛藤という部分ばかりに目が行っていたが、考えればこの小説は台北の1つのゲイ・コミュニティを描いたもので、このコミュニティの中においても、いわば父子のような、血縁の父子の間で果たしえなかった細やかな情感を伴った関係が成立している。翻訳者である陳正醍氏の論文によれば、(李青と少年が「忠孝西路」を歩んでいくという)小説のラストシーンも非常に意図的で前向きなものだと言う。

『[薛/子]子(げっし)』は、プルーの小説とは異なるテーマを持つ。作風もストーリーも全く似たところはないし、長編小説であることも大きな差異である。だから、描かれる「父親と息子」も全く違うのか、それとも普遍(不変)なのか。そんなこんなも日本語でじっくり読める。嬉しい。

2006.04.20

韓国アート系映画の上映館

カンヌ国際映画祭の上映作品の発表は20日らしい。きょうの夜にはわかるだろうか。


中央日報(ウェブ)の19日の記事中によると、韓国の映画振興委員会が18日に発表した国際振興事業計画の1つとして

「今秋、いわゆる「単館系」韓国映画を日本に紹介する専用の映画館が、東京中心部に設けられる」

とのこと。

また、その国際振興事業計画に関連して

「東京・渋谷のアート系ミニ・シアター「シアター・イメージフォーラム」は今月初旬、同シアターで年に12週間、韓国映画を上映することで合意した。同シアターでは、双方の合意のもと選ばれたアート系・インディーズ映画を年間4~6編、上映する。最近、日本に公開された映画が韓流スターを掲げた映画だったのとは異なる方向だ」

とも。日本の市場原理にまかせておくと、韓流スター映画という観点からしか作品選びがされないもんなぁ。韓国インディペンデント2004とか2005で上映された作品には、(受けにくいかもしれないけれど)強烈なインパクトを持ったものがたくさんあったし、そういうものがこの計画がらみで見られるとしたら嬉しい。

2006.04.18

世俗的な欲望

ちょっぴり心躍る情報を1つ。

4月30日(日)~5月7日(日)まで新宿パークタワーホールで行われるイメージフォーラム・フェスティバル2006で上映される海外招待部門の作品の1つとして、タイのアピチャッポン・ウィーラセタクン監督の2004年の短編『ワールドリー・デザイアーズ』(42分のビデオ作品)の名が挙がっている。

韓国映画とハングルで発行されている「シネマコリアNEWS」(2006年4月14日発行のメールマガジン)中の記事によれば、この『ワールドリー・デザイアーズ』は、アジア映画ファンにはおなじみの、全州国際映画祭制作の『三人三色』2005年版の、3短編のうちの1つ。(イメージフォーラム・フェスティバルで上映されるわけではないが、残り2つは、先日公開されていた塚本晋也監督の『HAZE』と、2005年の東京フィルメックスで上映されたソン・イルゴン監督の『マジシャンズ』の40分のオリジナル・バージョン)

この2005年版『三人三色』が、昨年11月の台湾金馬影展(金馬奨映画祭)で上映されたときの作品紹介記事がこれ。今度もまたジャングル。

さらに『ワールドリー・デザイアーズ』としては、今年1月末から2月にかけて行われたロッテルダム国際映画祭でも単独で上映されていて、こちらがその作品紹介。説明読んでると、くらくらするほど魅惑的なんですが……。


次の《Intimacy and Turbulence》(どうやらモーツァルト生誕250年を記念して制作された、モーツァルトのトリビュート映画らしいのだが、蔡明亮をはじめとする6人のアジア監督のコラボレーションによる作品→ソース)や、新作《Utopia》が見られるのはいつのことなんだろう。


Tropicalmaladydvd【追記】……そして驚くなかれ、『トロピカル・マラディ』のDVD(北米版)が、2005年11月に発売されていた。amazon.comでも買える! BBM(US版)ですらついていなかった監督コメンタリーも、削除シーンも収録されている。あの、ジャングルの漆黒の闇は、テレビのちゃちな映像と音響ではとても再現できなかろうが、でも、これは欲しいだろう。もちろん英語字幕つき。(BBM予約時にわかっていれば1度で済んだものを……(涙))

文庫本とチョコレート

中高生のころは、辛いことがあると500円持って本屋に行き文庫本を選び、帰りに(コンビニなど存在しなかったので)お菓子屋でチョコレートを買った。好きなチョコレートを食べながら好きな本を読んで、嫌な出来事を忘れようとしたのである。10代のころには、薄手の文庫本には、まだ200円前後の価格のものが存在した。だから500円あると、下手をすると文庫本が2冊買えるようなこともあったのだ。そのときはチョコレートにまでは予算が届かなかったかもしれないが……。

そんな古の習慣を思い出す商品が発売された。

キットカット・クリスピーに短編小説が!? 文庫本パックが発売!

キットカット・クリスピーのサイト

「文庫本パック」の作品には、残念ながら文学の香気が漂ったりはしていないが、まあそんなことはどうでもいい。本とチョコレートというのは、どちらも実生活には直接的には無用のもので、「愉しみ」の極地である(この2点を携えて「テツ」(右サイドバー参照)に乗っていたら言うことなし)。さらに酒の類が加われば、それはもう天国なのだが、どうも自分はアルコールが入った状態で文字に向かうと白河夜船になってしまうため、残念ながら、酒と本という取り合わせは有り得ない。というわけで、チョコレートと文庫本というのは、自分にとって昔からとても特別な、別世界へ行くためのツールなのである。

このチョコレートの本体である「キットカット・クリスピー」については、大好きで楽しみに読んでいる甘い物系ブログ「男、甘道マッシグラァ」さんに、非常にツボな紹介エントリがあった。ここの書き手の方の「夢のキットカットCM」(七人の侍バージョン)というの、自分も見たいぞ。

2006.04.17

地獄の女とだめ男

Mythos
ギリシャのビールを飲む。「Mythos」という名前の(意味はもちろん「Myth」だろう)。ベルギーあたりの高アルコール度数&濃い口のそれの後には、水のよう(でも、アメリカあたりのビールよりはましか)。さっぱり系では、生姜味のビールは美味しかった。

苦手なBunkamuraル・シネマにて、めったに見ないフランス系映画を気まぐれに見る。『美しき運命の傷痕』。正確にはフランス・イタリア・ベルギー・日本合作映画。また例によって華麗なる邦題がついているが、原題は"L'ENFER"(地獄)というシンプルなものだ。亡くなったポーランドのクシシュトフ・キェシロフスキ監督が残した『神曲』を基にした地獄、煉獄、天国3部作の企画のうちの地獄篇を、ダニス・タノヴィッチが脚色、監督した。

日常全く接点を持たず別々の人生を歩んでいる3人姉妹のそれぞれの日々を描きながら、次女に訪れた1つの出会いをきっかけに、彼女たちの心に深く刻まれ人生に影響を与えながらも触れられずに来た、父親の「ある事件」に端を発する父母の愛憎の末の悲劇を、3人が老いた母の前で再確認するという物語。

サスペンスだ何だと言われているし、確かにそういうつくりではあるが、事件の真相や心の傷が彼女たちに与えた影響を見せるというよりも、もっと原初的な、感情(愛)にとらわれて生きざるを得ない人間というものの地獄、つまりは人間が生きることそのものを描いていると思う。3人姉妹の母を演じたキャロル・ブーケが公式サイトのインタビューで言っていたように、劇中、3女アンヌの恋人であるソルボンヌ大学の教授が行う運命と偶然に関する(「合理主義による「偶然」という概念は空しく、「運命」こそ人が人らしく在ることのできるもの」という)講義は面白く、その内容が映画の重要なテーマになっている。

エマニュエル・ベアール演じる長女ソフィの、浮気中の夫への執着の描写は、この映画の最大の見どころと言っていいと思う。彼女の結婚生活の成り行きは、彼女の両親のそれのコピーのようになっていく。次女セリーヌは、父と母とのいさかいの中で立ちすくみ動けなかった少女のときと同じように、今も不眠に苦しみ、自分の殻に閉じこもる日々を送る。三女のアンヌは大学生となってもなお、不在の父を恋うかのように、友人の父親であり自身の教授でもある年かさの男を恋し、拒まれても追い続ける。

今も3人姉妹の生き方に影響を及ぼしている父と母との不和(というよりも闘争)の、その原因となった出来事の真相が、ほんの「偶然」から生まれたものだったとしたら……。このあたりのことを直接的に書けないのが辛いが、これも実は偶然などではなく、「父」という人間の中にその「偶然」を引き寄せる何かがあったのかもしれない。そして、後から現れたキーパーソンによる「告白」ですら、それはあくまでもその人の側からの真実であり、「父」側の真実は「父」以外の誰にもわかり得ない。だから、ラストシーンの、瞳だけに昔どおりの信念(執念)をたたえている老いた母の「でも私は後悔していない」という強い言葉は、運命とも偶然とも言うような出来事に翻弄される人間の生きる術は、自分の中の真実を信じることなのだと告げている気がする。

うーん、ここでもまた「地獄」は自分の中にあるのか。イニスだな……(←って、自分の頭の中にそれしかないだけだろう)。

素晴らしいキャロル・ブーケや胸と腰にばかり目がいってしまうベアールなど、メインの女優陣4人の実力と美しさは言わずもがなだが、男優陣も、若手からじいさんに至るのまで皆なかなかにさり気なく色っぽく、心情的にはとてもきつい物語の中の華やぎとなっていた。


そして、見逃してくやしい『ARAHAN アラハン』のリベンジで、リュ・スンワン監督の韓国映画『クライング・フィスト』も見た。いわゆるボクシングものだが、面白いのは、普通なら1人のボクサーの側から様々な苦難を乗り越えて試合で戦う(または試合で勝つ)までを描いていくところを、この映画は、最後の試合で戦う2人(チェ・ミンシク、リュ・スンボム)がどちらもともに映画の中の主人公となっていて、それまでの経過も2人分並行して描かれていくことだ。

ボクシングだからもちろん、主役の2人は「どん底」から這い上がることは決まりである。チェ・ミンシク演じるカン・テシクは、元アジア大会の銀メダリストという実績を持つボクサーだが、家財を失い妻子に出ていかれ、日々の糧にすら困窮して、路上で「殴られ屋」をしている中年男。一方のリュ・スンボム演じるユ・サンファンは、貧乏な家庭に育った悪さばかりしている「不良」学生で、事件を起こして入れられた刑務所で、暴れたところをボクシング部に誘われる。

韓国映画だからもちろん、主役の2人のそれぞれの家族との関係が細やかに描かれる。中年男カン・テシクは、出ていった妻子と再び心を通わすことができるのか。チンピラ学生ユ・サンファンは、肉体労働を続けて彼を育ててきた父と祖母の愛に報いることができるのか。

主役を演じるチェ・ミンシクもリュ・スンボムも大好きだ。また、脇役陣もキ・ジュボン、ピョン・ヒボン、オ・ダルス、イム・ウォニといったおなじみの人たちばかりで、とても嬉しい。サンファンの祖母を演じたナ・ムニも強さと慈愛の同居した見事なばあちゃんっぷりで、やはり「韓国映画の「おばあちゃん」ってのは良いなあ」と思う。

リュ・スンボムは、鍛え上げられた身体を持つ二枚目という韓国男優のステレオタイプにはまらぬ、貴重な軽みをもった個性的な若手俳優で、この先きっと幅広い役柄を演じることができるタイプの人だと思う。『品行ゼロ』や『ムッチマ・ファミリー』など、出た作品ではどれでも必ず強い印象を残すが、とりわけ『20のアイデンティティー』の中の恋人の両親に試される若者の話は強烈だった。今風の若者を演じれば、何とも言えない「間」とセンスでその役柄を印象付けるリュ・スンボムの今回のサンファンの演技は、ダメな自分に対するやり場のない怒りを原動力として、不気味なエネルギーをたたえた若者の屈折した表情が、いつもの役柄とは別人で、彼の演技力を思い知らされた。

チェ・ミンシクは、「ダメ中年男」ここに極まった。『ハッピーエンド』も『パイラン』も『春が来れば』も『オールド・ボーイ』も、すべてうらぶれた中年男の役ではないか。そりゃあ素晴らしいことこの上ないし、見ていても飽きないが、たまにはうらぶれていない役も見てみたい気もする。ほら、『甘い人生』のビョンホンみたいな……(って、うらぶれてるか、あれも)。もちろん物語としては、うらぶれた男の話の方が深みがあって面白い場合が多いだろう。かわいいし(笑)。

こんな素晴らしいキャストで、涙をふり絞る設定もばっちりで、ボクシング競技というアクションシーンも満載なわけだが、もう1つこざっぱりしている感じがするのは、やはり主役が2人だからか? 設定の最も面白い(主役2人が闘うという)部分が、エンタテイメントを盛り上げる足かせになってしまったような気もするが、韓国映画の王道を踏まえながらも、最後の試合の音楽といい、何だか新しい、軽やかな韓国映画の息吹のような気もするのである(ってなようなことを、『甘い人生』のときにも言ったか)。


で、連休はやはり「イタリア映画祭2006」でありましょう。

2006.04.07

スティーヴ、スティーヴィー

Steviecat

スティーヴィー』はどんな映画か。

親族の幼女への性犯罪により有罪判決を受けた若者の生い立ちを描いた作品。

幼児期に母親から虐待とネグレクトを受け、貧困と孤独といじめの中で育った青年の人生を追った作品。

どちら側から紹介されるかによって、見る側の最初の意識は全く違うだろう。でも、これは加害者であり被害者でもある20代半ばの若者、スティーヴィー・フィールディングを映した1本のドキュメンタリーである。

そして監督みずから悩みながらスティーヴィーの側に寄り添い、人がどうやって人と関わっていくかを模索しつづける日々の記録でもある。スティーヴ・ジェームス監督は、傑作と言われるドキュメンタリー『フープ・ドリームス』(1994年)やジャレッド・レト主演の劇映画『プリフォンティーン』(1997年)を送り出した人で、この『スティーヴィー』(2002年)は、監督自身が1980年代の大学時代に、米イリノイ州で「ビッグ・ブラザー」(※)として出会った11歳の少年スティーヴィーとの、10年後の再会の場面から始まる、プライベートな人間関係を題材にした映画だ。

(※)虐待や貧困といった環境下にある少年少女の「友人」(ビッグ・ブラザー/ビッグ・シスター)として人間関係を結ぶことにより、子供たちを精神的に支えようとする米国のボランティア制度

というような書き出しでもう大分前に感想を書こうと思って、挫折した。上には、この『スティーヴィー』というドキュメンタリーの中でもっとも寂しく、もっとも印象に残った、スティーヴィーの子ども時代の画像を貼ってみた。

もう1回見にいこうと思っていたのに、終わってしまっていた。

と思ったら、大阪での上映の後、東京でも数日間の短い再上映(場所は前回のポレポレ東中野から変わって、渋谷アップリンクX)があるそうだ(スティーヴィー通信による)。

犯罪の加害者側の人間像を丁寧に追っているという点で画期的な作品、ということで上映が難しかったり、逆にその真価を認められて上映に至ったり、このドキュメンタリーもまた "controversial" な作品の1つである。

監督は、映画制作とは別の部分で、なりゆき上、性犯罪の加害者の側の人間関係の中に立っていた形なのだが、主人公スティーヴィーのガールフレンドの親友を訪ねる場面で、ガールフレンドの親友が語る切実な体験によって、被害者側の人生と心に刻み付けられる傷がどのようなものなのかということも、映画の中に収めることに成功した。

犯罪者となってしまったスティーヴィーを虐待した母親もまた、傷を負っている人間である。映画の終盤、収監されているスティーヴィーと母親の面会シーンがあるが、長い間ぎくしゃくした関係にあった母子が、しっかりというよりはどこかおずおずと抱きしめ合う映像は、不幸な境遇の中であえぐ人間に、細く弱いながらも何か希望の蜘蛛の糸のようなものを落としてくれている気がする。

この映画は親子や兄弟姉妹という家族関係についてだけではなく、何よりも、(血縁という意味に対しての)「他人」が人にどうかかわるかという、かかわり方の1つを、監督みずからが示してくれているように思う。とにかく寄り添うこと、とにかく側にいること、とにかく関心をもつこと、そしてそう告げること。簡単なようで難しい。でも、難しいようでいて、単純なことなのだ。

スティーヴィーにはほかにも、祖母や妹、彼を愛してくれた里親といった彼の人生の上での重要な存在がまだまだある。もう1度見たら、何か書けるだろうか。ぐうたらだから、なかなか感想をまとめられないのだが……。

2006.04.06

国家の品格なんて

叶恭子に踏みつけておもらい。

ということで、数学者の書いたあの忌々しいベストセラーが、やっとあちこちの書店やオンライン書店のランキングで、お姉さまの写真集の下になり始めた。ちょっと、すっきり。

(すみません、これは「近況」に書くべきことですかね)

本屋に始終出かけている人間なら、さおだけ屋の後から現れて、ずっと平積み台を占領してきた、この新潮新書のベストセラーをとっくのとうに知っているはずだが、ここ1カ月ぐらい、自分の職場のまわりでもやっとやっと、ベテラン役職社員たちが騒ぎ始めた。しかも、誰もが嬉しそうに語るのだ。何にも新鮮なことなんか書かれていないのに。「そんなこと、おまえに言われなくても考えてるよ」というようなことばかり、決め付けるように書いてあるのに……。ネット上を検索しても、「元気づけられました」って、素直に読んだ人が多いのにびっくりする。タイトルだけ見たって胡散臭いのに、なぜだ? (自分が、文庫で出たてのダビンチ・コードを読んでいる人を見かけてもがっかりするような、単なる流行物嫌いのヒネクレ者であるというだけだろうか)

自分はもちろん、立ち読みで十分と思い、本屋でパラパラとめっくっただけ(のくせに、書いていることが偉そうだ)。過去に何度も、ベストセラーになった新書を買って、その中身のなさに買ったことを後悔したりしていたので、その轍は踏むまいと……。

このあいだの『ルート66を行く』(これも新潮新書)もやはり、アメリカの(保守の)価値観が、制度とか経済などといったものから、精神的(道徳的)なもの中心となってきていることは書かれていたが、この本もそのあたり、似ていると思う。行き詰ったら、情緒か武士道か。武士の世界じゃ女はさらに周縁系だし……。

自分の上司も、素晴らしい技術を持ったクリエイティブなSEのくせに、武士道なんかが大好きなのである。この品格をといた数学者に影響されて、新渡戸を喜んで読んでいるその上司には、ぜひ、氏家幹人先生(!)の『武士道とエロス』をお勧めしたいものだと思う。

2006.04.02

断背山雑談2

数日前に、米国のサイト(ミニコミサイトだろうか?)に書かれた私的なコラムがかわいかった。

Understimating My Parents and Power of 'Brokeback Mountain'

遠くに住む老いた両親に、『ブロークバック・マウンテン』は見ないほうがいいと忠告した娘(たぶん)=書き手の心配をよそに、世間では何をそんなに騒いでいるのかとの好奇心で、映画を見にいってしまった80代(たぶん)の夫婦が娘に感想を語る、というちょっとした文章。

リンクした記事のタイトルは、「両親とBBMパワーを見くびってたよ~」というようなものだと……(違う?)。

実はこのタイトルの言葉は、娘が、かの映画を見るにあたり最も心配していた父親の鑑賞後の言葉でもある。母親に関してはさほど心配していなかったらしいが、父について書き手は、「80代の共和党支持者の心臓麻痺を誘発するきっかけになるようなことからは遠ざけておきたかった」とまで書いていたのだが……。

で、見にいってしまった母はといえば、"I love it" と軽く言ってのけ作品を絶賛。 "Those men were in love, no question about it" という言葉も素晴らしい。

彼女の、"the story-well it explained a lot of things for me" とは、この映画、人生経験が豊富だと、さらに受け取るものが多いということだろうか。

じっくりとして抑制された描き方も、ハイスピードの娯楽映画に慣れ生活ペースのめまぐるしい若者たちよりも、より上の年齢層に受け入れやすいのかもしれない。(もちろん、若い人たちには理解できないだろうなどと決め付けるつもりは毛頭ない)

そして真打、父の登場。

そりゃあ、ストレートに暮らしてきたリパブリカンであるからして、男同士が愛し合うというのを理解するのはきつい、見るに耐えない部分もある。でも、彼は言う。 

"but they really did care for one another, and that's what's important. It was about love and they couldn't express it, and it made their lives hell" 

しごくまっとうな感想。堂々たる理解力。さすが人生の熟達者である。また、これこそBBMという作品自体の力かもしれない。

続けて書き手の父は、記事のタイトルの言葉を言ったのである。「おまえは、おまえの父さんと母さんを過小評価しているよ」と。(オチもかわいくて笑えるので、読んでみてください)


日本では、そんな世間を騒がすようなことには全くなっておらず、このようなことはまず起きないのだろうと思う。オスカー(作品賞)をとっていれば……と、やはり思わざるを得ないのだ。自分が知る限り、日本で最も早くからBBMに注目し、BBMに最も深いこだわりを持ってきたあるサイト(←ブログではなく一般サイトなので、勝手にリンクできない)の書き手は、オスカーの授賞式直後に、アン・リーが監督賞をとったことの重みは「(同性愛を描いた)映画が作品賞を獲る重みにはかなわなかったはずだ」との言葉をサイトにアップした。


2週間ほど前だったか、親しかった高校時代の友人に通勤途中でばったり会い、たまたま持っていたプルー原作の文庫本を渡した。最も信頼する本の読み手でもあり、感服する随筆家の魂を持つ(普通の会社員の)友人なので上げてしまったのだが、すぐにメールが送られてきた。

メールは「久しぶりに力強く泥臭い、野性味のある文章。情景や匂いや登場人物が(女は除外して) 立ちのぼるような描写。短編でこれほどの圧倒的な存在感……(後略)」という書き出しの感想だった。

折り返しこちらも、スパムのような、原作と映画制作からアメリカでの騒ぎ、そしてオスカーの経緯までを書いた長文の迷惑メールを送りつける。もちろん、「(子育てで忙しいだろうが)時間を見つけて映画を見てほしい」と。

小説を気に入ってくれた様子の彼女は、映画を見てみると言ってくれた。でもメールの中には、こんな言葉があった。

「『ブロークバック・マウンテン』 と同時に、『クラッシュ』も観てみようと思います。どうして作品賞が取れなかったのか、『クラッシュ』にあって「ブロークバック」にないもの。「ブロークバック」にあり、多くの人々に支持され、「『ブロークバック・マウンテン』が作品賞を取らなかった年」と言わしめたもの。(オスカーの決定に政治的なものが絡んでいるのかどうかはわかりませんが)」

自分のメールには、『クラッシュ』については、「作品賞は『クラッシュ』がとった」と書いただけだ。特に映画ファンでもなく仕事と家庭に忙しい中、『クラッシュ』の内容はおろか、恐らくは作品名も知らなかっただろう彼女に、『クラッシュ』も見てみようと思わせてしまう、「作品賞をとったんだから、何か特別なものがあるんだろう」と思わせてしまう、そういうものがあの賞にはあるのだろう。何度も言っているけれど、本当の作品の価値とは全く別の部分で。

日本では、(「マスコミが取り上げないからね」という程度の意味で)話題性の部分が弱い以上、「オスカーをとった作品だから見にいこう」という層を失ったのは、やはり痛いよね(←しつこい?)。


(余談)
ちなみに、NHKで放映したアカデミー賞授賞式のダイジェストをテレビで一緒に見ていた自分の父親は、BBMの紹介シーンが来るとテレビの前から何気なく姿を消していた。まあ、男女のラブシーンでもチャンネルを変える男だからして、不思議はない。授賞式の流れと話題の振られ方で何か感じたのか、最後の作品賞の発表の前に「どうせアレだろう」と否定的な声音で小さくつぶやいたのだが、『クラッシュ』との発表を聞いて、まるで孫が生まれたかのように、「そうか『クラッシュ』か!」と明るい声を出した。『クラッシュ』なんか見ているわけでもないのに、おやぢ……。

(でも『クラッシュ』は好きだ。最も印象的だったのは後半の、若い警官が車中で同乗していたアフリカ系アメリカンを撃ってしまうくだり。そこで、なぜかイニスを思い出した。嫌悪や抑圧は外から来るのではなく、個々の心の中に植えつけられ、それが悲劇を生むのだと……(これは先に書いた、BBMに関して日本で最もこだわりを持っているところの1つであると自分が信じているサイトの書き手の方が言っていたことなのが)。あの映画の数々のエピソードのうちの1つを、1人の人生に焦点を当て、じっくり長い時間をかけて追っていったら、それはBBMのようになったかもしれないと漠然と感じた。そういう意味では逆に、『クラッシュ』は物量作戦(数多くの人々の数多くのエピソードの積み上げ)で来たな……という感慨もなきにしもあらずだった。でもそういう街なんだろうね、あそこは……)

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