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2006.03.12

断背山雑感3

(ただの雑感ですが、映画の内容に触れていますので、未見の方はパスした方がいいです。やはりあまり情報をいれずに、一度は自分の心で自分の感じ方で見る方が、映画は心に残るかと……。大きなお世話ですが)

実を言うとまだ、原作を駆け足で一度読んだきりだし、映画館で買ったパンフレットも、雑誌も読み終えていなし、スクリプトなど見てもいない。

もともと孤独な人間が孤独に生きる話が好きだ。1人でもいいのだと、安心するから。

だから自分には、『ブロークバック・マウンテン』も原作どおり、孤独な男の回想の物語に過ぎない。孤独で、そして彼の両親がたった1つしかない曲がり角を曲がりきれずに事故で亡くなったのと同じように、不運で不器用で臆病な男の胸の中の思い出話だ。

1人暮らしの中年男の主人公、イニス・デルマーが、ラストシーン直前、結婚を知らせにきた長女アルマ・ジュニアの忘れていったセーターをたたむ。彼のそれまでの粗野で朴訥な雰囲気と裏腹な几帳面さで、丁寧に……。そんな場面で何とはなしに浮かんでくるのは、若き日のブロークバック山での、黙々と料理をし、雨の日には木彫りの馬をつくる彼の姿であり、もう1人の主人公、ジャック・ツイストにすがるように身を寄せていた彼の姿である。イニスの本質はきっと、寡黙で強い西部の男などではなく、牧場で暮らす2人の男の一方が「処刑」されたのを見せられ恐怖した9歳のときそのままの、内気で細やかな神経を持った少年なのだろう。彼の人生は、周囲からの「男らしく」あることへの暗黙の期待と、自分を守るために進んで身につけたであろう「男らしさ」によって、鎖帷子のようにがんじがらめされ、ひたすら耐え続ける日々となった。

映画の始まりのイニスとジャックの出会いの舞台は、シグナルという町である。プルーの作品には、暗喩めいたおかしな固有名詞がよく登場するのだが、シグナルというのはのっけから象徴的だ。よくある「信号しか目印のないような」そんなところなのだろうか。それは、2人の運命の交差点であることを示したシグナル(信号)なのかもしれないし、その先の人生への警鐘(黄信号)だったかもしれない。いずれにせよ彼らは、シグナルで出会い、シグナルを越えて先へ進んだ。

映画の中盤は、むしろジャックのおおらかさが救いだろうか。ロデオ・クラウンや(これは後半になるだろうが)牧場経営者の男に、明らかに秋波を送っているあたりが面白い(でも、牧場経営者の男に「湖で釣りをしてウイスキーでも飲んで」と誘われる場面のジャックの瞳は、そのときに彼の心に去来したものを如実に映していた)。夫としての身勝手さばかりが連続するイニスの家庭の場面の苦しさとは対照的だ。実際のところ、イニスの夫としてのあり方は、「仕事人間」で家庭を顧みぬ夫という形で一般的におなじみの男性像である。しかも自身の精神的な無理が、不寛容という形で妻を圧迫する。デルマー家のシーンからは、DV、アルコール依存、幼児虐待、ネグレクトといった家庭の中で起こりうる様々な問題の根っこの一部が、うっすらと見えてくるような気がする。イニスの妻アルマを演じたミシェル・ウィリアムズの抑え目ながら感受性豊かな表情と演技は、とてもリアルで説得力があったと思う。

映画の後半は、特にイニスとジャックの会話の真意がいまだ自分にはすっきりと理解できない。きちんと原作を読み原書にあたり、スクリプトも読み、もう一度ぐらい映画を見にいったら、何か答えが得られるだろうか。中年にさしかかり、後悔と、いつも一緒にいられないことへの苛立ちで、イニスとジャックの間に少しずつ波風が立ちはじめる(自分にとっては難解な)あたりから、ラストに至るまで、ヒース・レジャーのイニスの演技は、痛いほどに見る者を引きつけて離さない。どんどん無口に、どんどん鈍い動きになり、その鈍重さが人生の重さすら感じさせる。米国の批評家が公開直後、マーロン・ブランドやショーン・ペンに匹敵すると評したことが心からうなずけるパフォーマンスだ。まさに、40代で老ビトー・コルレオーネを演じたブランドを思い起こさせる……。

映画のあと、同行の友人にラストシーンの台詞("Jack, I swear")について得意げに自分の解釈を語った記憶があるが、登場人物が話す言葉がそのまま日常感覚でわかる海外のファンの間でも、このラストの台詞をどう受けとめるかには様々な解釈があり、いまだに話題になっていることを知った。アニー・プルーの公式サイトのフォーラムでも、最後の台詞に対し「イニスが誓ったことは何なのか」というスレッドが立っている。原作と映画では、ラストの台詞の意味合いは違うようだが……。

自分の、初見での知ったかぶりな感想では、あの台詞は、イニスの娘の結婚報告に心理的な影響を受けた彼の、密やかな彼自身の結婚と同等の愛の誓いだというものだった。そう思ったのは、映画の流れと、日本語字幕の方向性と、単なる「単語の意味」的な語釈により、"I swear"が結婚の宣誓で使われる言葉なのではないかと推測したことによるものだった。後から調べて、(宣誓の言葉云々は)間違いだったとわかったが、それでも今でも、少なくとも映画では、イニスは自分の本当の心をあの言葉に乗せて初めて外に出したのだと、自分は信じている。

ジャックのシャツと絵葉書を飾り、愛を誓ったその場所はまた、恋人の死を悼む祭壇(日本で言うなら仏壇)めいても見える。ジャックの家から持ち帰った形見のシャツの上から自分のシャツを重ねたのは、もちろん彼の恋人に対する想いだろうが、ほかに誰もいないトレーラーハウスのクローゼットの中にあってまだ、自分の気持ちを隠そうとしたかのようにも思え、悲しかった。小さな絵葉書は、そこが彼の「リトル・ブロークバック」であることを示している。妻と子を失い、社会的に孤立し、2006年の現代でも「馬に乗っても誰にも会わない」ワイオミングの、おそらくは人里離れた場所に置いたトレーラーハウスの中でやっと、当の恋人すら失って初めて、彼は本当の自分と自分の恋を受け入れることができたのだ。

自分の中では「結婚」や「永遠の愛」などという概念が浮かぶことは余りないのだが、ちょうど少し前に『フロント・ランナー』(パトリシア・ネル・ウォーレン著)を読み返したばかりだった。そう、映画『ブロークバック・マウンテン』の成功で、お蔵入りしていたいくつかのゲイをテーマにしたベストセラー小説が再び映画の題材として脚光を浴びているという記事を読んでから……。

あの古典的な小説は(説明すべくもないのだが)、イニスとジャックの20年のちょうど折り返し点あたりの時代設定となる。ほぼ同時代と言っていいだろう、ワイオミングとは反対側、アメリカ大陸の東の端ニューヨークを中心としたゲイの人々の物語だ。その中で最も強烈に自分の頭に焼き付いていたのが、「人間としての尊厳と安定とを渇望するゲイの心情を、自分から理解できるストレートはほとんどいない」という一節(北丸雄二訳、第三書館発行の邦訳版より引用)――それは、主人公の結婚式の章の冒頭を飾るセンテンスだった。映画のラストの"Jack, I swear"を聞いたときに、そんないろいろな思いが湧き上がって、そして膝が震えたのだった。

社会的に祝福されない恋愛の純度が高まったとき、一般的な恋愛物語では、恋人たちの関係は外(社会)よりも内(相手)に向かい、世界は閉じて死の方向に歩み出すことが多い。文学の世界でも三文小説でも、比ぶべくもないが日本の演歌の不倫物の歌詞など、女が嘆いて泣き寝入りか、2人で死ぬか、そんなものばかりだ。

『ブロークバック・マウンテン』はもちろん、宗教的・文化的な背景と、原作者アニー・プルーの作風とがそうさせたのだろうが、主人公たちは、死などよりもずっと苦しい「生」を生きている。運命の風に吹かれればあっけなく飛ばされてなくなってしまうような、どうにもならない「生」を生きている。小説の読者も、映画の観客も、ヒロイックにならない主人公たちに深い共感を覚えるのに違いない。

恋人たちがヒロイックに愛をさけびながら、不可抗力に引き裂かれていく安っぽい純愛映画は、そりゃあ、お手軽に泣きたい人には素晴らしいアミューズメント・メディアだろう。でも、誰がどうしてこうなったという「ストーリー」ではなく、愛も欲望も猜疑心も喜びもいらだちも醜さも落胆も恐れもすべてさらし、失敗や敗北を通り過ぎながら、それでも生き想い続ける「人間の姿」を見せつけられるから、我々は共に映画の時間を生き、映画の外の自分の人生を歩き続ける勇気をもらうのだと思う。

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コメント

うーん、私なんかよりずっときちんとしたレビューを書いている方はたくさんいますよ~。私は、原書もスクリプトも読み終えていないですし、映画も2回しか見ていない。ファンとしちゃあ末席も末席の人間です。(もちろん映画を1度見ただけであっても、その本質に迫る素晴らしいレビューを書かれている方はいるわけで、映画に対する「中毒度」と、映画に対する感受性や理解力とは全く別のものでしょうけれど……)

何度も書いていますが、私自身、あるサイトの書き手の方の(特にBBMに関する)こだわりとその文章については、日本のどこのサイトより深いと感じており、それに対し私は(その書き手の方には、私のそんな勝手な思い込みは迷惑でしょうが)ほとんど「心酔」に近いような感覚を抱いています。特に交流はないですし、ウェブログじゃないのでコメントなどもできないようなところなのですが……。

>ただ、やはり「待っている」のだと思います。ここは「生きる」というのは
大前提の上での「待つ」です。彼らも私たちも。

それはそのとおりだと思います。

ジェフリー・ライト、そうでした、『楽園をください』。そうでしたね。調べたら、見逃した『シリアナ』にも、もうすぐ公開される『ブロークン・フラワーズ』にも出ているんでした。見なくちゃ(出ていなくてもブロークン……は見にいくつもりだったですが(笑))。

は~勝ち負けじゃないけど完敗です。
見事に論破されました!
恐らく「ブロークバック…」のことでこれだけ深く読み取り語るべき事が多い方って石公さん以外いらっしゃらないのでは?
思い入れという部分も含めて。
下手にコメントなんて書かなきゃよかったな~恥かいたよって気分ですよ(苦笑)
でも私の浅い読みによって、石公さんが出張したかったことがまた一つ記されて
ここを読んでいる方にはよかったかも、と思うことにしますよ。
本でも出されてはいかがですか?ブログだけに留めておくのは
もったいないような。なんなら編集者紹介しますよ(笑)

私はご指摘の通り「人間関係の末路」についてしか
語れません。「人生の末路」というテーマを語れるほど成熟していないので
(イエ、年齢的には十分なんですけど)
ただ、やはり「待っている」のだと思います。ここは「生きる」というのは
大前提の上での「待つ」です。彼らも私たちも。
それが受動的であったり能動的であったりという意味は無いと思います。
その日が来るまで「待つ」ということ自体が生きていくうえでの「苦行」なのではないかなと。
逆に「待てるだけ幸せだよ」という考えもあったりするんじゃないかな~と。

トニー・クシュナーは「ミュンヘン」の脚本も書いていたんですね。
ジェフリー・ライトはブロードウェイでも同じ役を演じていたそうで。
私が見た舞台では天宮良でしたけど…
ライトは李安の「楽園をください」で白人に「親友」とされている黒人役で初めてみました。
同じ人とは思えませんでしたけど、声でわかるものですね(笑)
エミー受賞でのスピーチはすごく良かったです。これはクシュナー始め全員すばらしかったですけど。

mikiさん、こんばんわ。もちろん「覚えて」おります。

昨年、戯曲『エンジェルス・イン・アメリカ』第一部の邦訳本とともに購入してあった、「アメリカ演劇」のトニー・クシュナー特集号を、今日ちょうど読み始めようとしていたところでした。

死が恋人たちを引き裂くという、同性愛の物語に「よくある」結末に対する「うんざり」感はわかります。

ただ、『ブロークバック・マウンテン』に関しては、男たちの恋愛の成り行き(つまり、死んで終わるとか、別れるとか、成就するとかそういったこと)に重きが置かれているわけではなく、むしろ最初から死というものが、地域性という形で(実はそれは、本質的にはワイオミングに限定されることではないのだけれど)「同性愛者であること」と直結して登場し、主人公の生に大きな影響を与えています。ジャックの死の原因は明言されてはいないけれども、話の流れの中では、韓国ドラマにおける交通事故のようなご都合主義的なものではなく、意外な知らせとしてぽんと告げられながらも深く重く納得させられ、テーマが見えてくる部分でもあります。

最初からイニスという主人公には彼の恋の成就は有り得なかったはずですし、ジャックにしてもより強く自分自身を「生かそう」と志向したにもかかわらず非業の死を遂げることになる、そういう、登場人物それぞれの、自分の本当の気持ちとそれに反する人生の結末の皮肉な図式が、既にワイオミングの大自然という背景の中にも存在します。「タフでなければ生きられない」ほど厳しい自然風土で、同性愛者に対するプレッシャー(嫌悪・憎悪)の厳しい土地柄のワイオミングの中に、同性のイニスとジャックの愛の象徴として、大切な思い出の場所として、ブロークバック山が横たわっているわけです。そんな、ただの起承転結の物語にはない、「読み取り」や「気付き」を生む深みがBBMにはあります。

そしてこの物語においては、死は結末ではなく、(隠れているかどうかにかかわらず)同性愛者の生の裏側に強烈な粘着力で張り付いている「現実」です。


>そういうオチはもういいかなという感じです。

気持ちはよくわかりますが、オチではなく、「現実」だと思います。自分として生きることが常に脅かされる、「異常な現実」です。それはBBMに限ったことではないかもしれません。

>一昨年にテレビで「エンジェルス・イン・アメリカ」を見て、打ちのめされたからです。これがやはり「彼ら」の現実の末路なんだろうと思ったわけです。突発的な「死」による永遠の別れという幻想はもういらないと。

「彼ら」だけのことではない。今度はこれは、(先ほどの「異常な現実」に対して)我々みんなの、常態の、現実の「末路」です。

>外見から朽ち果てていく恋人とその現実に恐れおののき逃げる恋人という

我々の「末路」は、事故死や急病などでない場合、ほとんどはこれに近い終わり方です。この芝居に登場するような病気でなくとも、老いて死にゆく場合、「外見から朽ち果てていく」わけですから。

あ、でも、mikiさんがおっしゃった「末路」というのは、私がここで書こうとした「人生の末路」ではなくて「人間関係の末路(行く末)」なのですね。私も、逃げ出すルイスの存在には、ある意味共感しました(逃げたことへ共感したのではなく、逃げた人間を描き出したことに共感したというか……)。きれいごとではなく、恋人が病に傷ついていくこと、恋人が失われていくことへの恐怖に負けて背走するルイスは、自分に背を向けた男であるイニス・デルマー同様の、非常にリアルな存在感です。

で、「人生の末路」の話に戻ります。

ガンなども、よくそのように言われますが、QOLと言うのか……最終的に病を克服するかしないかにかかわらず、闘病のタイムスパンの長い病気にかかったとき、その人の人生において、それは「どう死ぬか」ということよりも、「どう(病とともに)生きるか」という問題になってきます。

病気に苦しんでいる方には軽すぎる言い方になってしまうでしょうが、「どう生きるか」ということになれば、それは、まだ病を宣告されていない「健康」な人間とだって、方向性として違いがあるわけではありません。日常、直接的に病の苦しみや死の恐怖を味わっているかいないかという大きな違いはありますが、「健康」と言われている人間が普段気付かないだけで、本質的には誰もが、死という結末へ向かって旅をしているのだと思います。

>彼らはただただその日を待つだけなんですよね、1ヵ月後なのか3年後なのか。

待っているのではなく、生きているのだと思います。ロイ・コーンですら……。「その日」はプライアー始め、病と闘う人々だけに訪れるわけではなく、我々にも間違いなく訪れます。プライアーが待っているなら、我々も待っていることになる。エイズもまた、「どうなって死んでいくか」という病ではなく、「どう生きるか」という長い病であり、多くの人々の犠牲の上でやっと世の中がこの疾病に対しそのような考え方になっていったことを、ロイ・コーンの死とプライアーの生との対比の中で読み取ることができる気がします。


>実は舞台版も見ているのですが、ドラマと同じ様に同じ俳優が何役も演じていて訳わからなかった思い出があります。

ベリーズとミスター・ライズ(←ジェフリー・ライト。私はこの俳優さんが大好きになりました。ベリーズ役、素敵すぎです♪)が2役であること、プライアーの看護婦と天使とブロンクスの老女を同じ俳優が演じること、ジョーの母と冒頭のラビとエセル・ローゼンバーグと医者を同じ俳優が演じることなど、既に脚本段階で作者(脚本家)が指定しています。「意図」があるわけですね。難しいですが……。

天使なき国アメリカの天使とは何なのか。難し過ぎます。

おひさしぶりでございます。覚えていらっしゃるでしょうか?祐祐サイトもまだ開いてますが、この話題にはもう一つのサイトの方で取り上げているので。

「ブロークバック・マウンテン」に関する記述全て拝見しました。非常に思い入れの強さがわかる内容で、圧倒されました。私はここまで深く読み取れていません。というか、こういうオチは正直もうイイよという感じなのです。というのも、一昨年にテレビで「エンジェルス・イン・アメリカ」を見て、打ちのめされたからです。これがやはり「彼ら」の現実の末路なんだろうと思ったわけです。突発的な「死」による永遠の別れという幻想はもういらないと。外見から朽ち果てていく恋人とその現実に恐れおののき逃げる恋人という、ある意味わかりやすい部分が単純な私に響いただけのことかもしれませんが。彼らはただただその日を待つだけなんですよね、1ヵ月後なのか3年後なのか。
実は舞台版も見ているのですが、ドラマと同じ様に同じ俳優が何役も演じていて訳わからなかった思い出があります。
これはこれ、あれはあれと同じ括りで話すことではないかもしれませんが、「藍宇」も他のqueer物もそういうオチはもういいかなという感じです。

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