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2006.03.22

受難

見る前は、邦題の『変態村』というタイトルの煽っている感じが決して嫌いではなかったのだが、映画を見たら、(これから見る人に)誤解されるだけだという気がしてきた……。ファンタでやって、これ、受けたのか? ファンタで受けるか?

ということで、記事のタイトルの「受難」は、原題《CALVAIRE》のことである。邦題『変態村』。2004年フランス・ベルギー・ルクセンブルグ合作のフランス語映画。2004年カンヌ映画祭の批評家週間で上映され、上映中には席を立つ人が続出だったという。監督は1972年ベルギー生まれの新鋭ファブリス・ドゥ・ヴェルツ。

で、その実は、立派なアートカルト系欧州映画。ホラーでは決してない。サスペンスでもない。そんなスリルや緊張感はほとんどない。退屈系アート映画が嫌いで、グロいのが嫌いな人には勧めない。監督自身もパンフレットで言っているが、詩――そう、最初から「詩」だと思ってみれば、違和感は少ないと思う。自分は後から、散文詩だと感じた。

歌手の青年(といっても中年に足をかけている男)が、ほとんど老人施設の慰問のような旅回りの巡業の途中で道に迷い、たどりついた村の宿屋で監禁される話だ。

オープニングは、主人公の男が鏡の前でステージ用のメイクをしている場面。ステージ用のメイクだが、「鏡の前での化粧」というのが、その後、くだんの村で自明のことのように、「あの女」呼ばわりされてしまったりする展開を暗示しているかのようだ。

話は十分B級で、何も満足のいく説明はされない。ギラギラした老人たちと、うつろな中年男たちしか出てこない中にあって、主人公の青年(しつこいようだが若く美しかったりするわけではない)は、最初から最後まで、キャラクター的にもビジュアル的にも、明らかに無垢な少女のような扱いで画面の中に収められている。

それでも、老人たちを演じている俳優の素晴らしい存在感と、その「想い」と、映画の至福(←大げさか?)をもたらす印象的な色彩を持つ美しい映像が、話の無茶苦茶さとグロさを吹き飛ばして、どこか説得力のある映画になっている。

当初、映画に対するスタンスの取り方がわからずやや戸惑っていたが、後半、クリスマスパーティの室内シーンでカメラがぐるぐる回り出すあたりから、俯瞰の暴力シーン、そしてパンフレットの中でタルコフスキーに例えられていた幻想的な森と沼の風景の中の終盤(じいさんと、血みどろ坊主頭でスカートをはかされた主人公との、せつない場面で、しかもその老人に関して映画では何の説明もなく、あるのは、ただ目の前の「女」(としての主人公の男)への「想い」ばかりだ)に至って、この映画がただの「変態村」なんかではなく、漆黒の夜空に見えるか見えないかの、密やかに輝く小さな星なのだと思い当たる(←大げさか?)。

ラストシーンはどうやら不吉な音がして終わるのだが、その、ラスト直前の森と沼のシーンの、映画における主人公最後の台詞には、「何でそんな言葉をかけるんだよ」と理性の方は叫ぶものの、感性が静かに納得する。いや、あれは『変態村』における"Jack,I swear"みたいなものだなと、もう、その場面と風景を見ただけで、「よかったよ」と言えるような……(←大げさか?)。

淡々と撮られた作品で、想いの重さと、人々の異様さの割りに、あまり主観的に入り込むような場面はないので、だから散文詩と言ったのだけれど、過度の期待をせずに、だまされたと思って見ていてください、見に行く人は。


【追記】
「話は十分B級」などと書いてみたものの、時を経るにつれ、説明をすっとばしているジャンル映画的な部分にこそ、かえって何か哲学的な、根源的な命題が含まれているような感じがしてきた。肉体と知覚が衰えた老人に残るのは、錯乱の形で発現する愛と、燃え残った欲望、そして嫉妬。それは歳月を重ねた人間の行き着く果てなのか。それとも人の本質なのか。煩悩の坩堝に投げ入れられた1人の男は、磔刑のキリストであり、いけにえの処女でもある。うーん、大げさか?

2006.03.16

断背山雑談

(近況に書きかけたが引越し)

もう、「その後」を日本語で報道してくれるところは Newsweek 日本版しかないのか。3月8日号に引き続き、3月22日号(15日発売)にBBMのオスカーの結果の記事

で、「YES」も発売に……。BBMの特集では、毎週火曜日の朝にTBSラジオで映画情報を語ってくれている今野雄二氏(BBM劇場販売パンフレットにも評を書かれていた映画評論家)が、いかにも「らしい」、優しい原作評を寄せられている。今野氏といえば、ラジオのBBMの回のときには、封切に合わせて、BBMとシリアナをガイドされたのだが、シリアナに比べてBBMを語る時間が余りに長く余りに熱く、司会の森本毅郎氏に揶揄されていたっけ……(笑)。

面白いのは、もう1人、同誌のBBM特集に映画について書かれているおなじみの北丸雄二氏も、文中で今野氏と同じ原作の一節を引用していること。例の最後のジャックの回想の「立ったまま眠る」あの場面だ。しかも北丸氏は、(映画評ということもあり)自身の言葉で原作のその箇所を訳されている。米塚氏の訳文と比べてみるのも一興。短いけれど、人によって訳す言葉はこんなに違うんだなぁと……。で、やはりあの場面は、あの小説の1つの核であるのだろう。

その「YES」に載っていたBBM雑学によると、ラストのシャツの重ね方は、ヒース・レジャーのアイディアだったそうなのだ。

でも自分は最近、それについてつまらぬ冗談を考えていた。それは……実は、イニスの生活は困窮していたため、トレイラーのクローゼットの中には、針金ハンガーが1本しかなかった、というもの。ジャックの形見のシャツを飾ってみたのは良いものの、自分のシャツをかけるところがなくなったので、仕方なく上に重ねてかけた、と。自分のを上にかけておけば、時折、着るのに簡単だし……(笑)。

(ああ、でも原作じゃあ、シャツは釘に引っ掛けていたという描写があったから、別に自分のシャツをかけるのにハンガーなんかいらないのか……)

プルーの、ワイオミングの風土のような厳しく荒涼たる小説の中の、さりげなく差し出された動かしがたい感情の断片を、よくぞあの映画はすくい上げ、あそこまでエモーショナルな作品に仕立て上げたなと、本を読んでいてつくづく思う。小説世界と映画の両方をどちらも享受できることは、何と幸せなことか。

多分、原作者のプルーだってそう思ったに違いない。(あの映画ができたことを)「幸せ」だと。だから、あの記事を書いたのだろう、またも世界中で物議をかもしているあの記事を……。

英文を普通に読める人なら何でもないことなのだろうが、辞書を引き引き読んでいる記憶力のおとろえつつある中年には、知らない言葉を1つ覚えるだけでも時間がかかる。でも、余りにあちこちのニュースやコラムでBBMの形容詞として見かけたため、最も早い段階で覚えた単語が、今やBBMの枕詞にようになってしまった "controversial " だった。静かな小説世界とは裏腹に、どこまでも controversial なBBM周辺である。

2006.03.15

年度末ということで

今さらながら、2005年に見た映画の中から、印象に残った作品、人などなどを挙げてみる。……ほんと、今さらです。

~2005年に見た映画から~

【文句なく今年の、思い入れマイベスト】
 リンダ リンダ リンダ (2005年日本)

【過去に戻れたら会いたいのは、弘法大師とこの人
            (でも一目見たら、石にされそうな……)】
 アレキサンダー (2004年アメリカ)……アレクサンドロス大王

【展開に驚愕した映画祭上映作品2本】
 月光の下、我思う (2004年台湾) 東京国際映画祭
 アヒルを背負った少年 (2005年中国) 東京フィルメックス

【フーテンの寅、新シリーズをつくるなら主役はこの人、となぜか確信】
 大統領の理髪師 (2004年韓国)……ソン・ガンホ

【「父」3態】
 サマリア (2004年韓国)
 ベアー・パパ (2004年スペイン) 東京国際レズビアン&ゲイ映画祭
 マイ・ファーザー (2003年イタリア・ブラジル・ハンガリー)

【全く異質な2本ながら、女性が印象に残る珍しい韓国映画】
 大韓民国憲法第1条 (2003年韓国) シネマコリア
 マジシャンズ (2005年韓国) 東京フィルメックス

【やっぱりこの監督も、「一生ついていく」1人】
 結果 (2005年中国)……章明(チャン・ミン) 東京フィルメックス

【カウボーイは辛かったが、ボート少年も苦しんだ】
 夏の突風 (2004年ドイツ) ドイツ映画祭

2006.03.12

断背山雑感3

(ただの雑感ですが、映画の内容に触れていますので、未見の方はパスした方がいいです。やはりあまり情報をいれずに、一度は自分の心で自分の感じ方で見る方が、映画は心に残るかと……。大きなお世話ですが)

実を言うとまだ、原作を駆け足で一度読んだきりだし、映画館で買ったパンフレットも、雑誌も読み終えていなし、スクリプトなど見てもいない。

もともと孤独な人間が孤独に生きる話が好きだ。1人でもいいのだと、安心するから。

だから自分には、『ブロークバック・マウンテン』も原作どおり、孤独な男の回想の物語に過ぎない。孤独で、そして彼の両親がたった1つしかない曲がり角を曲がりきれずに事故で亡くなったのと同じように、不運で不器用で臆病な男の胸の中の思い出話だ。

1人暮らしの中年男の主人公、イニス・デルマーが、ラストシーン直前、結婚を知らせにきた長女アルマ・ジュニアの忘れていったセーターをたたむ。彼のそれまでの粗野で朴訥な雰囲気と裏腹な几帳面さで、丁寧に……。そんな場面で何とはなしに浮かんでくるのは、若き日のブロークバック山での、黙々と料理をし、雨の日には木彫りの馬をつくる彼の姿であり、もう1人の主人公、ジャック・ツイストにすがるように身を寄せていた彼の姿である。イニスの本質はきっと、寡黙で強い西部の男などではなく、牧場で暮らす2人の男の一方が「処刑」されたのを見せられ恐怖した9歳のときそのままの、内気で細やかな神経を持った少年なのだろう。彼の人生は、周囲からの「男らしく」あることへの暗黙の期待と、自分を守るために進んで身につけたであろう「男らしさ」によって、鎖帷子のようにがんじがらめされ、ひたすら耐え続ける日々となった。

映画の始まりのイニスとジャックの出会いの舞台は、シグナルという町である。プルーの作品には、暗喩めいたおかしな固有名詞がよく登場するのだが、シグナルというのはのっけから象徴的だ。よくある「信号しか目印のないような」そんなところなのだろうか。それは、2人の運命の交差点であることを示したシグナル(信号)なのかもしれないし、その先の人生への警鐘(黄信号)だったかもしれない。いずれにせよ彼らは、シグナルで出会い、シグナルを越えて先へ進んだ。

映画の中盤は、むしろジャックのおおらかさが救いだろうか。ロデオ・クラウンや(これは後半になるだろうが)牧場経営者の男に、明らかに秋波を送っているあたりが面白い(でも、牧場経営者の男に「湖で釣りをしてウイスキーでも飲んで」と誘われる場面のジャックの瞳は、そのときに彼の心に去来したものを如実に映していた)。夫としての身勝手さばかりが連続するイニスの家庭の場面の苦しさとは対照的だ。実際のところ、イニスの夫としてのあり方は、「仕事人間」で家庭を顧みぬ夫という形で一般的におなじみの男性像である。しかも自身の精神的な無理が、不寛容という形で妻を圧迫する。デルマー家のシーンからは、DV、アルコール依存、幼児虐待、ネグレクトといった家庭の中で起こりうる様々な問題の根っこの一部が、うっすらと見えてくるような気がする。イニスの妻アルマを演じたミシェル・ウィリアムズの抑え目ながら感受性豊かな表情と演技は、とてもリアルで説得力があったと思う。

映画の後半は、特にイニスとジャックの会話の真意がいまだ自分にはすっきりと理解できない。きちんと原作を読み原書にあたり、スクリプトも読み、もう一度ぐらい映画を見にいったら、何か答えが得られるだろうか。中年にさしかかり、後悔と、いつも一緒にいられないことへの苛立ちで、イニスとジャックの間に少しずつ波風が立ちはじめる(自分にとっては難解な)あたりから、ラストに至るまで、ヒース・レジャーのイニスの演技は、痛いほどに見る者を引きつけて離さない。どんどん無口に、どんどん鈍い動きになり、その鈍重さが人生の重さすら感じさせる。米国の批評家が公開直後、マーロン・ブランドやショーン・ペンに匹敵すると評したことが心からうなずけるパフォーマンスだ。まさに、40代で老ビトー・コルレオーネを演じたブランドを思い起こさせる……。

映画のあと、同行の友人にラストシーンの台詞("Jack, I swear")について得意げに自分の解釈を語った記憶があるが、登場人物が話す言葉がそのまま日常感覚でわかる海外のファンの間でも、このラストの台詞をどう受けとめるかには様々な解釈があり、いまだに話題になっていることを知った。アニー・プルーの公式サイトのフォーラムでも、最後の台詞に対し「イニスが誓ったことは何なのか」というスレッドが立っている。原作と映画では、ラストの台詞の意味合いは違うようだが……。

自分の、初見での知ったかぶりな感想では、あの台詞は、イニスの娘の結婚報告に心理的な影響を受けた彼の、密やかな彼自身の結婚と同等の愛の誓いだというものだった。そう思ったのは、映画の流れと、日本語字幕の方向性と、単なる「単語の意味」的な語釈により、"I swear"が結婚の宣誓で使われる言葉なのではないかと推測したことによるものだった。後から調べて、(宣誓の言葉云々は)間違いだったとわかったが、それでも今でも、少なくとも映画では、イニスは自分の本当の心をあの言葉に乗せて初めて外に出したのだと、自分は信じている。

ジャックのシャツと絵葉書を飾り、愛を誓ったその場所はまた、恋人の死を悼む祭壇(日本で言うなら仏壇)めいても見える。ジャックの家から持ち帰った形見のシャツの上から自分のシャツを重ねたのは、もちろん彼の恋人に対する想いだろうが、ほかに誰もいないトレーラーハウスのクローゼットの中にあってまだ、自分の気持ちを隠そうとしたかのようにも思え、悲しかった。小さな絵葉書は、そこが彼の「リトル・ブロークバック」であることを示している。妻と子を失い、社会的に孤立し、2006年の現代でも「馬に乗っても誰にも会わない」ワイオミングの、おそらくは人里離れた場所に置いたトレーラーハウスの中でやっと、当の恋人すら失って初めて、彼は本当の自分と自分の恋を受け入れることができたのだ。

自分の中では「結婚」や「永遠の愛」などという概念が浮かぶことは余りないのだが、ちょうど少し前に『フロント・ランナー』(パトリシア・ネル・ウォーレン著)を読み返したばかりだった。そう、映画『ブロークバック・マウンテン』の成功で、お蔵入りしていたいくつかのゲイをテーマにしたベストセラー小説が再び映画の題材として脚光を浴びているという記事を読んでから……。

あの古典的な小説は(説明すべくもないのだが)、イニスとジャックの20年のちょうど折り返し点あたりの時代設定となる。ほぼ同時代と言っていいだろう、ワイオミングとは反対側、アメリカ大陸の東の端ニューヨークを中心としたゲイの人々の物語だ。その中で最も強烈に自分の頭に焼き付いていたのが、「人間としての尊厳と安定とを渇望するゲイの心情を、自分から理解できるストレートはほとんどいない」という一節(北丸雄二訳、第三書館発行の邦訳版より引用)――それは、主人公の結婚式の章の冒頭を飾るセンテンスだった。映画のラストの"Jack, I swear"を聞いたときに、そんないろいろな思いが湧き上がって、そして膝が震えたのだった。

社会的に祝福されない恋愛の純度が高まったとき、一般的な恋愛物語では、恋人たちの関係は外(社会)よりも内(相手)に向かい、世界は閉じて死の方向に歩み出すことが多い。文学の世界でも三文小説でも、比ぶべくもないが日本の演歌の不倫物の歌詞など、女が嘆いて泣き寝入りか、2人で死ぬか、そんなものばかりだ。

『ブロークバック・マウンテン』はもちろん、宗教的・文化的な背景と、原作者アニー・プルーの作風とがそうさせたのだろうが、主人公たちは、死などよりもずっと苦しい「生」を生きている。運命の風に吹かれればあっけなく飛ばされてなくなってしまうような、どうにもならない「生」を生きている。小説の読者も、映画の観客も、ヒロイックにならない主人公たちに深い共感を覚えるのに違いない。

恋人たちがヒロイックに愛をさけびながら、不可抗力に引き裂かれていく安っぽい純愛映画は、そりゃあ、お手軽に泣きたい人には素晴らしいアミューズメント・メディアだろう。でも、誰がどうしてこうなったという「ストーリー」ではなく、愛も欲望も猜疑心も喜びもいらだちも醜さも落胆も恐れもすべてさらし、失敗や敗北を通り過ぎながら、それでも生き想い続ける「人間の姿」を見せつけられるから、我々は共に映画の時間を生き、映画の外の自分の人生を歩き続ける勇気をもらうのだと思う。

2006.03.11

プルーのレポート

英ガーディアン紙のウェブサイトに、3月11日付けでアニー・プルーがオスカー授賞式についての文章を載せている。シニカルで痛烈。(彼女も当然あの場にいたわけだ……)

Blood on the red carpet

"And rumour has it that Lions Gate inundated the academy voters with DVD copies of Trash - excuse me - Crash a few weeks before the ballot deadline."

"If you are looking for smart judging based on merit, skip the Academy Awards next year and pay attention to the Independent Spirit choices."

2006.03.09

ワイオミング

(近況報告より引越し。ごめんなさい)

7日の晩、テレビ(NHKBS)の海外ニュースで、ワイオミングのどこにブロークバック山があるのかという海外テレビ局取材のニュースをやっていた。まあ、あれが架空の山であることは有名だが、あえて、おとぼけに取材をした番組で、実際、BROKEBACK山はないけれど、BROKENBACKという名前の牧場やら池やら山やらはあるらしい。

ワイオミングに映画館はほとんどなく、ワイオミングの人々のほとんどは劇場で当の映画を見ることはないだろうという。地元の人も、「映画が映画館でかかるまでに、テレビで3回ぐらい放映されるだろう」と話していた。

映画中の山岳風景はカナダで撮影されたものだが、ワイオミングに行けば、あの雄大な自然は確かに存在する。「馬に乗って歩いたって、人になど1人も出会わない」と地元の人が言う。そんなところだからこそ、唯一の彼らの「居場所」となりえたのだろう。行き場なきものの行き場とは、何と皮肉な場所なのだろう。

-Wyoming Stories-、ワイオミングの物語と名づけられた短編集のサブタイトルそのままに、物語の成り立ちの根拠がワイオミングの風土にある。

2006.03.08

スローエンタテイメント

ファザー、サン』の封切日は、4月29日に決まったそう。寝不足ででかけると、あまりの静けさとあまりの映像美に、爆睡必至の傑作が、それだけでも危険なレイトショー。よく寝てから行くべし。


米アカデミー賞の結果に、ブッシュ再選や小泉自民大勝のときの、砂をかむような思いを味わった向きも多かったと思う。自分が思い出したのは、オリバー・ストーン版『アレキサンダー』の米国での「公開失敗」に関する悔しい思いだった。『アレキサンダー』は、米国公開の前から知っていたわけではないのだが、でも、もう1度やり直せたら、もっと状況は違っていただろうか、もう1度、もっと別のやり方をしたら、あのとても公平とは思えない「酷評」はなかったんじゃないだろうか、と……。

そういう取り返しのつかない、何か「間違ったことが起きてしまった」感じが、今回のアカデミー賞についても感じられたのだ。もちろん、それまでの数々の受賞実績や、批評家による絶賛や、当のオスカーのほかの部門での評価(得賞)もわかっている。「賞なんかで作品の価値は左右されないよ」という意見ももっともだ。「ハリウッドなんてこんなもんだよ」というのもうなずける。それでも……。


さて、いつも読ませていただいている「映画館ブログ」という、映画の興行に関する話題を主なテーマとしたブログで2月に読んで以来、ずっと気になっている記事がある。

DVDの発売はなぜ早くなったのか?

この記事の筆者の方は次のように書いている。

「ウインドウの速さを歓迎する自称マニアな消費者さんを散見するが、別に歓迎するのはよいとして、外国映画の日本での公開が遅い!とか公開後のパッケージ発売が遅い!とプレッシャーをかける人は、それ本当に映画好きなの?早く見たり手に入れたりすることって本当に大事?」(原文より引用)

論旨は、映画公開→DVD発売というような商業展開サイクルが短いものになってきているのは、「別に消費者サービスでもなんでもなくて、単に投資回収を早めたいという製作サイドの需要にすぎませんよ」(原文より引用)ということで、そのサイクルの短さが、本来あるべき劇場売上や本来あるべきDVD売上を実は食いつぶし合ってしまっているのではないか、実は結果的に映画産業にとってマイナスなのではないか、という問いかけを行っているのだと思う。

まあ、売る側の勝手なんだから関係ないじゃん、と言ってしまえばそれまでなのだが、この文章が言っていることと別の部分で、「早く見たり手に入れたりすることって本当に大事?」という言葉がとっても引っかかったのだ。

自分自身は、気になるものについての情報を集めるのが好きで、この記事の冒頭でも、好きな作品の公開日決定のことを記したばかりなので、まったく「言っていることとやっていることが違う」ことになってしまうが、「早く見たり手に入れたりすることって本当に大事?」という言葉に照らすと、そんな「情報」すら、「物をすり減らす」という意味での「消費」に加担しているような気分にさせられる。

映画に関する制作情報を知る。完成した作品が海外の映画祭で公開されるという情報を得る。日本公開の日程をいち早く知ろうとする。海外発売のDVDを買う。公開された映画を劇場で見る。「次はDVDだね」。「発売はいつかな」。「こんな雑誌が出たよ」。――自分がいつもやっていることだ。

そんなふうに、ファンとして普通に行っていること、期待していることが、映画と出会い、味わい、心の中にしまわれるというシンプルで豊かな経験とまったく反対方向の、浅ましい行いに思えてくる。

『アレキサンダー』では図らずも抑えがたく夢中になったことをさらしてしまったが、「夢中になった」ことを表に出すのは恥ずかしいことだという、やせ我慢根性というか、ひねくれ根性が自分の中にはある。「江戸っ子」だからか?(←正確には自分の生まれ育ったところは江戸圏内ではない) 洋楽ファンの友人がかつて言っていたことには、好きなバンドの全国ツアーについてまわると、観客のノリに「地方色」があるのがわかるのだそうだ。東京公演はクールな反応。大阪公演は超ホットな反応。京都は「最初はクールだが、だんだん火がつく感じ」。だからアーチストは一般的に関西で行われる公演の方が嬉しそうだと……。

夢中になったものに対する熱烈な思い入れがあっても、その「もの」に対するマクロで相対的でクールな視点を、必ず同時に持っていたいと思うし、「思い入れた自分」を相対化する視点も持っていたいと思う。

ん? 何を言っているかわからない? 自分もわからない(笑)。(いちおう自分的には、筋は通っていないかもしれないけれども、めざす筋道はあるのです)

いや、BBMに対するアンビバレンツな想いを書きたかっただけで……。

つまり、ここまで見事で、ここまで本質的で、ここまでど真ん中で、ほとんどの映画ファンなら絶賛するだろう作品に、「ディープにはまる」のはかっこ悪いかなと思う。私ごときが思い入れずとも、応援しなくても、文句なしに素晴らしい作品であることはゆるぎない事実だ。見た人たちの中に、あの映画を愛する人たちがたくさん生まれるだろう。 (とはいえ、そういうことと一般に認識されているかどうかは別の話で、「県庁」や「ナルニア」は認知されていても、特定の映画ファン以外ではBBMのことを知っている人に会ったことなどない。アカデミー作品賞をとらなかったことで、日本で、「ミニシアター作品として以上に」ヒットする可能性は低くなったのではないかと思う)

でも、最初に見た5日の翌日の夜も、仕事をおっぽって映画館にいた自分もいるわけで……(でも、軽々しく何度もリピートできるような映画ではない)。

それでも今度ばかりは、「DVDの発売はいつだろう」とか「海外版のDVDの特典映像は」なんていう、餓鬼(←子どもではなく、飢えた亡者の方の意)のような振る舞いはやめようと思っている。コマーシャリズムや情報や自分の欲望に踊らされることなく、あの映画と、じっくり向き合っていたいと、醒めた頭で静かに蜜月を過ごしたいと思うのだ。(ってなことを、公開前にも書いたな)

「雑感3」はもうちょっとまともに、映画本体への感想を書きたいと思っている。

2006.03.07

断背山雑感2

このまま雑感ばかり3つも4つも続いて、終わったりして……。

アカデミー賞のノミネートの段階で、誰か映画評論家が言っていたのが、自分の記憶違いでなければ「編集賞にノミネートされなかった作品賞はない」ということだった(勘違いだったら申し訳ない。書き終えたら、ソースを探してみます←書く前に探せよ)。そのジンクスは当たったのか。

『クラッシュ』が編集賞を取った時点で、既にいやな予感はした。

BBMの訴えるものの強さは尋常ではない。出てくる人は、プルー作品の登場人物だから、ほとんどが不運な"loser"だ。それなのに作品は王者の風格を漂わせ、「ミニシアターで上映される小品」、「アート系映画」、「インディーズ」などの枠からはみだし、堂々とメインストリームで戦える幅広さを持っている。「(作品賞だったら)世界を変えたかもしれないのに」と、どこかで誰かの書いた言葉がオーバーだと切り捨てることのできないぐらいの、革新性と品質を持っているのに……。

ということで、みなさんご存知ですが、米アカデミー賞でBBMは、監督賞、脚色賞、作曲賞をとりました。

上記の文句は、『クラッシュ』を見てから言えって?

2006.03.06

断背山雑感

アカデミー賞の授賞式はNHKBSでも18日(土)にダイジェストが放映されるそう。よかった。

昨日、5日の夕方の回にBBMを見た。

緊張するままに劇場に入り、いつのまにか引き込まれ、ラストの台詞に膝が震えたが、映画館を出ると、イニスが乗り移って歩きが蟹股に……。

さまざまな角度からさまざまなテーマを読み取れる映画であり、普遍的であることはもちろんだが、やはり、本当に素晴らしい出来の"ゲイ映画"だと、自分は思った。これがアカデミー賞の作品賞にノミネートされるほどの取り上げられ方をしていることに、本当に何か革新的な、震撼するほどの衝撃を感じた。すごいことだね、これは。そして全くそれにふさわしい品格を持った映画であることも間違いない。

こんな見方は無意味かもしれないし、感受性の強い人たちには怒られるかもしれないが、物語や感情的な部分を脇に置いて、映画の映像的な部分、つくりの部分も、『ミュンヘン』と同じくらい、いやそれ以上に「渋くてかっこいい」。オープニングから、どの絵を見ても、どこを切り取っても、無口なイニスが全身で漂わせた想い同様に、映像が物語を物語るのだ。

いろいろなものを見聞きしすぎたこともあり、それ以上に多くのことを語っている映画なので、簡単に何かを書くのは難しい。ジャックとイニスの最後の逢瀬の場面、特に読み解きが難解だ。スクリプトを読んだら、「わかる」だろうか?

ということで、これから原作を読んでみよう。スクリプトも……。この筆不精状態で何か書き表せるような、まとまったものが胸の中に湧き上がるかどうか、全くわからないけれど……。

アニー・プルーの世界は、ブロークバック山のように峻厳で、イニスの姿勢のようにうつむき加減だが、この映画は、ブロークバック山のように堂々と、我々の前に、ただ「ある」。全てを投げ出して、全てを覚悟の上で。

2006.03.03

日本政界もブロークバッ……?

前原代表、永田議員が平謝り…小泉首相は余裕の“肩ポンッ”
(SANSPO.COMよりリンク)。

肩ぽんの構図って、この構図って、構図って……。
(ちっともうれしくはないが) 

それにしても民主党、本末転倒だよ。メールの真偽なんて瑣末な部分じゃなくて、疑惑自体をもっと真剣に追及すべきだろうよ。謝ってる場合か?

トム

ひさびさに、12時台に自宅PCの前に座れた。

帰ったらそうそう、ジャック・ワイルド逝去のニュースだ→BBC日本語

杉浦日向子が亡くなったのと同じぐらいショックだ。

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