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2006.02.05

今週と先週と

だらだらと行きます……。

昨日は墓参。本日は、狭い部屋の「お荷物」である大陸ドラマVCD(20集×6セット、24集×3セット、25集×1セット、30集×1セット)を、コンパクトなケースに移し、最近、たまりにたまった映画DVDの置き場をつくる。でも結局入りきらず、まだ一部DVDは紙袋に詰められたままだ。

断背山の文庫本が発売になった夢を見る。で、夢の中で読むべきか読まざるべきかを迷う(←バカだ)。もし、文庫版がきちんとした"Close Range"の全訳の短編集として発行されるなら、断背山以外のほかの作品だけを読んでから、映画を見ようかなどと考えたりしている。海外のファンBBSなどでも、既にいろいろな映像がアップロードされていたりするが、極力、トレイラー以上のものは見ないようにしている。一度は素直に映画をそのものを楽しみたいと願って……。でも日本の公式サイトのプロダクション・ノートはとても面白かった。あの辺の話が日本語で明解に読めるのは有難い。しかしBBSは非常に怖い。思い入れは理解するが、字幕がどうの訳がどうのと、上映前から「何もそんなに必死にならなくても」と……。米国で断背山が、封切以来、作品の本質的な部分とは別に、いろいろな意味でブームを巻き起こしている理由の1つは、それがカウボーイの映画であるからではないかと思う。カウボーイの国でない他国においては、今の米国のような、異常とも思える「ブーム」は起きえないだろう。もちろん、興業ランキングで1位になった国も幾つもあるし、どこでも評判は良い。日本でだって、ロングランになる可能性はあるだろうし、もしかしたらアカデミー賞でもとって、大ヒットしたりするなんてことがあるかもしれない。でも、良い意味でも悪い意味でも、過剰な反応を示した米国と、カウボーイがアメリカ映画というフィクションの中の象徴的存在でしかない日本とでは、「ブーム」を形づくる話題性という点で、映画の持つ意味が全く違っていると思うのだ(←映画、見てから言えよ)。もちろん、作品が評価されるかとか、素晴らしい興業成績を上げるかなどとは別の話。

1月29日。東京国立博物館で行われている「書の至宝」展に行く。爆満。「至宝」というだけあり、右を向いても左を見ても、おなじみの「お宝」だらけなのだが、特に有名で人気のある作品の前では人が動かず大渋滞。その後、映画を見るつもりでいたので余り時間に余裕がなく「すっ飛ばし」状態だったが、真筆の墨色と筆勢にはとてつもない力があり、筆跡を目で追っていくだけで涙が出そうになった。大陸の天才たちの闊達な中にも揺るがない心棒の貫いた文字、道風のおおらかさ、行成のエキセントリック……ETC。そして終盤近く、菘翁のエッジの効いた複雑でセクシーな線にはっとさせられる。展示場の作品の数々は、ルーブルのような豪華さだった。そんな中、自分の後を歩いていた明らかにデートと思われる中年男と若い女性のカップルの男の方が、相手に向かって、滑らかにもっともらしく間違った解説をし続けるのが余りに面白く、思わず振り返って顔を確認してしまった(←失礼な)。中年男も若い女性も、浮ついたところのない、品の良い感じのペアだったのだが、自分のような者でも知っている有名な作品の前で、あれだけの当て推量を大声で話せるとはまことに天晴れな男である。女性は黙って相づちを打つばかりだっが、彼女、あんな男で本当にいいのか?

この「書の至宝」の後に見たのが『白バラの祈り ゾフィー・ショル、最期の日々』。見て損はない、素晴らしい作品だ。でも、苦しく怖かった。「白バラ」という反ナチの運動を行った学生グループのメンバーで、ビラまきの現場で兄とともに逮捕され5日後に処刑されたゾフィー・ショルという女性は、彼女を知らないドイツ人はいないというぐらい有名な人で、名前を冠した学校がドイツ国内にはたくさんあるのだという。彼女や白バラに関する映画は過去に2本つくられたそうだが、その、ある意味神格化された彼女を、一個の若者としてじっくり描いたのが本作である。特に監督にとって映画化のきっかけとなったのはゾフィーの尋問記録だそうで、信念を貫いて処刑(虐殺)された彼女が、逮捕直後は懸命に助かろうとしていたことが初めてその尋問記録から明らかになったのだという。(関係ないが、ゾフィー・ショルを演じるユリア・イェンチは、ちょうどかつての伊藤かずえを思わせる美しさだ) 映画前半の取調べでの演劇的な台詞の応酬(モーア尋問官を演じたアレクサンダー・ヘルトの自宅で、ゾフィーのユリア・イェンチと2人、このシーンを稽古したそうだ)、後半のゾフィーの人間としての精神的な美しさ、全編に漂う緊張感と、シンプルなストーリーにして見どころは尽きない。映画の冒頭では流行のポピュラーソングを歌い、留置所では窓から物を思うように空を見やり、最期の独房で婚約していた出兵中の恋人に手紙を綴る。瞳に強い光をたたえてゲシュタポの尋問官モーアとやりあい、法廷では狂信的な宗教者のような裁判官を相手に堂々と信ずるところを語った女性は、強いばかりではなく青春を謳歌していた若い1人の人間だった。が、自分が最も共感したのは、処刑が決まり、両親と面会した後の涙を、廊下に立っていたモーアに見られたゾフィーが、「泣いているのは(最後のお別れのために)両親と会ってきたから(で後悔や恐怖のためではない)」とモーアに言う場面と、やはりあの、独房で1人になったゾフィーが腹の底から叫び声を出す場面だ。どちらの場面も見る者には苦しいが、「聖女」と「若い一般女性」の間のイメージのギャップを埋めるような、ゾフィーらしい言動だと思う。そして恐ろしいラスト。結末がわかっているわけだから、映画を見ている間ずっと怖かったのだが、それでもラストを見た後は、ただただ処刑の恐ろしさの衝撃に、しばらく身体に力が入らなかった。「泣ける」映画なんて、甘いことを言ってはいけない。ナチスの時代に真実を言ってのけた強い精神に感動する? もちろんそれはそうだ。でもそんなこと以上に、理不尽に裁かれて、秒読みで殺されるその恐怖は、とてつもなく巨大だ。

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