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2005.07.08

鏡に映ったのは

日曜、大森まで香港映画を見にでかけたつもりが、途中の本屋でひっかかり、気付いたら渋谷で『おわらない物語-アビバの場合-』を見ていた。

もうすぐ公開も終わりのようだが、ちょっと書いてみる。

内容は、12歳の少女アビバ(Aviva)が家出をして再び家に戻るまでの冒険譚。童話かジュブナイルのような、メルヘンチックな外形ではある。しかし、かなり前に新聞で読んで以来気になっていたのだが、この映画のミソは、12歳のアビバ1役を、8人の俳優が演じている点。公式サイトによれば、アビバを演じているのは、「ジェニファー・ジェイソン・リーを含む2人の成人女性、13歳から14歳の4人の少女、そして12歳の少年と6歳の少女」とのことで、彼らは髪の色も髪型も背格好も肌の色も違っている。ただし少女の個性はきっちりしていて、純真で繊細で、「蚊のなくような声」で話すいじめらそうなタイプ。服装もしっかり合わせている。だから「アビバ」という1人の少女が、映画の中に確固として存在する。

その次の映画のミソは、「回文」。タイトルからして既に「おわらない物語」で、原題も "Palindrome" (=回文)。そのまんまである。登場人物たちの名前のいくつかも、頭から読んでも終りから読んでも同じ。もちろんアビバ(Aviva)はその代表選手である。物語の中でも、アビバは家を出ていって、最後には家に帰ってくる。それらが何を示しているかというと、「ぐるっと回って元に戻る」ということらしい。そしてそれは「時を経ようと、どんな経験をしようと、人の本質は変わらない」という主題につながっていく。「変わらない」からといってペシミスティックな諦念を帯びているわけではなく、だからこそ「今の、そのままの自分を認めてみよう、それが自分なんだから」というメッセージが込められているのだという。

そしてもう1つのミソが、性と生。12歳のはかなげな少女をヒロインにしたメルヘン仕立ての映画と、これほど距離のありそうなテーマはないが、外見や宣伝どおりの話など、どこに面白みがあるだろう。大人が見ても、うーんと考え込んでしまう、毒性の強いモチーフが、いともさりげなく次々と繰り出される。少女は当初から、「お母さんになりたい。赤ちゃんがたくさん欲しい(→いつも誰かを愛していられるから)」と言って登場し、確信犯的に妊娠。両親から中絶を強要され、処置後に家を飛び出す。トラックの運転手とのモーテルでの一夜。たどりついたキリスト教系の障碍児施設「サンシャイン・ホーム」での安らぎと恐怖(←『サラ いつわりの祈り』のヒロイン、サラの実家の場面を思い出す)。

愛と理解に満ちた両親の元で育てられたはずのアビバが妊娠すると、現実的な話は別として、「お母さんになって子どもに愛を注ぎたかった」という彼女の稚拙だが純粋な心を、理解しようともしない両親の姿が現出する。

中絶の手術の日、病院の前には中絶反対を訴える宗教団体が陣取る。身体を小さく丸めて、院内に逃げ込むアビバと母親の姿が映る。しかし、アビバのために行われたはずの手術は失敗。彼女は誕生するはずだった幼子の命どころか、若い自身の子宮までをも失ってしまう、子宮を摘出されたことを知らされずに。

たまたま見かけて乗り込んだ見ず知らずのトラック運転手は、モーテルでアビバと寝る。どう考えても、「少女愛好者とその魔の手に落ちた少女」という図式だが、皮肉にも初めて行為の喜びと相手への愛を覚えるアビバ。妊娠したときの相手は経験の浅い少年だったし、アビバも「お母さんになりたい」気持ちだけだったから。でも運転手は行方も告げずに姿を消す。

流れ着いたママ・サンシャインの運営する施設には、祈りと音楽が溢れ、心身の障碍や世間の偏見と戦う子どもたちが、のびのびと生活している。彼らは「サンシャイン・シンガーズ」というグループを作り、神の名のもとに生きる権利を主張する歌を歌い、踊る。それは、ストレートに心に響く「ゴスペル」だ。アビバもその仲間に迎え入れられ、居場所を見つけるかに思えるが、その異様なまでのなごやかさ、すがすがしさは、見る者に一抹の不安を投げかける。

そして不安は的中。度を越した明るさの裏に暗黒はつきもので、命を尊重するはずの強硬な"中絶廃止論者"であるサンシャイン・ホームの大人たちが、堕胎医を殺害する計画を進めていた。アビバが立ち聞きによって知るのは、彼女の処置をした医師がターゲットになっていること。さらにホームでアビバを診察した別の医師が、サンシャイン・ホームの大人たちに、アビバが少女売春をしていることを告げる。

こんな風に、すべての出来事は、決して見かけどおりではない。その場にいる人の数だけ「真実」があり、外野にとっては、見えやすい面(表)と見えにくい(裏)がある。映画はそれを、そっくりそのまま見せているだけだ。

しかし、表象としての現実が幾つ存在しようとも、「自分」は最初から1人。12歳のアビバの旅が一筆書きの道筋を描き、ふりだしに戻っていったように、人の一生も一筆書きの独り旅だ。生の始めに暗く、死の終わりに冥し。暗きより暗き道にぞ入りぬべき……。←って、道からそれてるよ。

「寓話」は、見るものの心を映し出す鏡である。自分には最後の章がとても怖く感じられた。ラストシーンでは、最も年若い子役のアビバが、今度こそ本当にお母さんになれる気がするの、とあどけなく微笑んでいる。その直前、延々と映るのが、妊娠したときの相手の少年と再会したアビバとの、納得ずくか成り行きかはもう1つはっきりしないセックス・シーン。上で動作を繰り返す少年を尻目に、とろんとした表情で横たわるアビバの顔は、彼女を演じた全ての俳優の顔に次々と切り替わっていく。まるで、8人のアビバのカーテンコールのように。

本作は、トッド・ソロンズ監督の旧作『ウェルカム・ドールハウス』で、いじめにあっていた主人公の少女ドーンの、自殺後の葬儀というショッキングな場面から始まる。レイプされて妊娠し自殺して、その辛い人生に終止符を打った少女ドーン。そして、もう1人の少女アビバは、生まれるはずのない赤ちゃんを抱くことを夢見て、男たちの欲望の前に自ら身を投げ出し続けていく……のだろうか?

ドーンの場合は、自殺で「終わった」物語。アビバの場合は、「終わらない」物語。「何」が終わったのか、終わらないのかって? それは「被虐の人生」。……な~んて解釈は怖すぎだ。監督はインタビューでは全然違うことを言っているので、このタイトルにそんな怖い意味はない……はず。

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