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2005.07.30

ピクチャーディスク?

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『アレキサンダー』日本盤DVD発売おめでとう(?)。購入してきたのはいいが、1度見たのを幸いにその後2度と媒体がPCに認識されなくなってしまっている『ヴェロニカ・ゲリン』や『昭和残侠伝 死んで貰います』同様、ピクチャーディスクの色(赤系・黒系)のせいなのか何なのか、今のところ『アレキサンダー』の本編を読み込めず(特典ディスクは白いので読める)。これからちょっとドライブの掃除をしてみようと思うけれど、はたして見られるかどうか。いや~、PCで別の作業をしながら、"Hephaistion loves me as I am" という台詞を日本語吹き替えで聴いてみよう♪なんて考えたのがいけなかったか(笑)。コリン・ファレルの日本語吹き替えは、ロード・オブ・ザ・リングの主役の小さな人(名前知らず)の声をやっている人(でしたよね?)。

さて、GAGA USENの来年以降のラインナップ発表に、《 Ask the Dust 》が2006年ロードショー予定として出てきた。《 A Home at the End of the World 》は2005年公開予定としてComing Soon情報にあるけれど、こっちは一体いつなんだ~?(でも、公開は冬が似合うと思う)→Nifty Cinema Topics Onlineの紹介ページ。

今朝方ずっと起きていたので、また魔がさして、大王US盤を発注してしまった馬鹿である。もうこれ以上びた一文、大王には献上するまい。

2005.07.29

ベネチア国際映画祭

brokebackmt07298月31日から始まるベネチア国際映画祭では、『頭文字<イニシャル>D』や《七剣》、《如果愛》の上映(どれも "Out of Competition"部門)が話題になってますが、アン・リー監督《Brokeback Mountain》が、コンペティション部門で上映されるそうです→記事。コンペティションではスタンリー・クワン監督の《長恨歌》や、パク・チャヌク監督の『親切なクムジャさん』もかかるんですねぇ。行けるわけじゃないので関係ないですが、特集上映の "the secret history of chinese cinema"、まだ作品は発表になってないようですが、気になります。(日本映画とイタリア映画も同じ特集あり)

ちなみに"Out of Competition"部門では、『妖怪大戦争』も上映。日本の妖怪や加藤保憲(などというマニアックな局所的キャラ)が欧州でどう見られるのか、楽しみです。

2005.07.27

映画上映情報(ローカル)

東京の東側、超ローカルな情報(スミマセン)。

江戸川区営の映画館「船堀シネパル」にて、9月3日から23日まで韓国映画特集。別に変わった映画の上映はなし。でも、何だか嬉しいので書いてみる。

 ●9月3日(土)~5(月) 大統領の理髪師
 ●9月6日(火)~9日(金) スカーレット・レター
 ●9月10日(土)~12(月) 甘い人生
 ●9月13日(火)~16(金) ラスト・プレゼント
 ●9月17日(土)~19(月) マラソン
 ●9月20日(火)~23日(金) バンジージャンプする

『マラソン』(当日料金1800円)以外は1200円とのこと。おトクなので、近い方はどうぞ。この特集は、9月24日公開の『四月の雪』の前振りらしい。

韓国映画といえば、8月27日から公開になる『南極日誌』も楽しみだが、いよいよ『トンケの蒼い空』が公開されるそうだ。で、公開より一足早く「GTF2005 TOKYO CINEMA SHOW」(2005年8月12日~8月18日イイノホール)というイベントで、『トンケの蒼い空』と『私の頭の中の消しゴム』というチョン・ウソン主演2作品が上映される模様

そ・し・て……

まだまだ見られる『アレキサンダー』。

先日『ダブリン上等!』を上映してくれた浅草中映にて、8/16(火)~22(月)『アレキサンダー』&『ナショナル・トレジャー』の2本立て
(「魅惑の名画座」さんの「情報室」のページの上映情報より) (※)上映予定が変更される場合もあるので劇場にご確認ください、とのこと。

実は先日ダブリン…を見にこの映画館に行ったのだが、昔ながらの劇場らしく、高い天井、広い客席&スクリーン、そしてゴージャスな緞帳に感激した。まさに「劇場」という感じの、スペシャルな空間。最終上映だったので、映画が終わったら上映室から若いお兄さん(映写技師の方だろう)が出てきて、たまたまうろうろしていた客(自分)を見つけ「ありがとうございました」と声をかけてくれた。切符を切ってくれた方(年配の男性)も、浅草らしく庶民的で良い感じだ。情報のところでリンクした「魅惑の名画座」さんでも、浅草中映を写真入りで紹介されているので、興味のある方はご覧になってみてください。

ちなみに、浅草中映では、その後『清風明月』の上映も予定されている♪

2005.07.26

夏休み映画祭り(その2)

「その2」もすぐに書き始めたのに、ゴールに到達できないまま1週間も過ぎてしまった。が、取り直して書いてみる。う~ん、今週こそ『バッド・エデュケーション』@ギンレイホールに行くぞお。

18日は『ヒトラー~最期の12日間~』を見る。何だか知らないが、老若男女やたらお客さんが入っている。行列だった。

文字通り、ナチスドイツ終焉の12日間を、総統アドルフ・ヒトラーを中心に据えて描いた、ドイツ人監督、ドイツ人俳優、ドイツ語によるドイツ映画であり、本家本元で作られたということ自体が、まずは第1の意義でもある作品だ。

で、とにかく、この丁重極まりない死に方はずるいよ、というのが最初の感想。数百万の人々が、この男を頂点とするナチスドイツのために、長い間恐怖と苦しみを味わされ虫けらのように殺されていったというのに、当のヒトラーは、用意周到に、即死できるよう手を尽くし、人として一国の首領として最大の尊厳を保って死んでいく。「ずるい」などという言葉では済まないのだが、やっぱりずるいよ、と思う。

ゲッペルス夫人が子どもたちを眠らせてから1人ずつ毒を口に含ませて死なせていく様子もまた、凄い迫力で、映画中最も印象的な場面の1つである。その決然たる姿勢と、ことの済んだ後に見せる手の震えからは、抑えに抑えた母としての悲しみの激烈さがわかるが、あんなふうに自らの手で自分の子どもを死なせることができたことは、そんなふうにすら死なせることもできず、我が子を他人に殺された被迫害者の痛苦に比べたら、どんなにか幸せなことだろうと感じる。感情は個人それぞれに絶対的なものであり、苦しみの大きさを、ほかの人のそれと比較することはできないのだとわかってはいても……。

この映画にロマンチックな演出はない。だが、パンフレットの川本三郎氏の評にもあるように、ヒトラーという人間の最期の日々のみを、「密着取材」ばりに近い視点で描いたら、対象がどんな悪人だってそりゃあ「人間だもの」、どこか人間味のある男に見えてくるに決まっている。もちろん、それほどに主演のブルーノ・ガンツが素晴らしかったということでもある。ヒトラーという、アニメキャラなみに良く知られイメージの完成された人間を、イメージそのままに人間としての陰影まで加えて演じきったのだから。

映画としても、ナチスの地下要塞という主舞台だけでなく、外のベルリンの市民の様子や陥落後の連合軍兵士など着実に描写されており、映像も重厚で美しい。堂々たる出来栄えである。

それでも、脚本の元ネタの1つである『私はヒトラーの秘書だった』という本の著者の、ヒトラーの最期を目撃した若い女性秘書たち(トラウドゥル・ユンゲ&メリッサ・ミュラー)の、ナチスの所業を知らなかったゆえの「我らがボス」ヒトラーへの(当時の)想いが、彼とナチスの終末にどこかノスタルジックな彩りを与えているのは確かだ。

映画の最後に、2002年まで存命だったトラウドゥル・ユンゲ実物の晩年のインタビュー映像が挿入されている。彼女の言葉が本作ただ1つの表立ったナチスドイツに対する批判であり、そこまでは、党本部(室内)とベルリン市街(屋外)での出来事が、リアルに重厚に描写されていくだけだ。だが何の説明もなくヒトラーが登場しても、どんなに優しげな面を見せようとも、我々はヒトラー率いるナチスが何をしたのかを知っている。権勢を誇った1つの体制が崩壊していく緊迫の時間を、内側から描いているというだけでも十分ドラマチックだが、それがあのナチスとなれば、その名前だけで彼らの「背景」が見る者の頭の中に浮かび上がるわけで、物語本来の緊迫感に加え、歴史の目撃者であるかのような特別な感情が湧き上がるはずだ(本作の視点自体が、本当の歴史の目撃者のものなので、当然といえば当然なのだが)。このナチスドイツへの現時点での世界的な共通認識は、映画をより深みのあるもののように感じさせ、映画への評価を底上げしてはいないか。

ヒトラーも一個の人間だった。ナチス党員も一個の人間だった。悪魔ではなく人間が、禍々しいイデオロギーによって大量虐殺を行った。ナチスドイツを突き貫けて、もっと近くに視点を据えたことで、その罪をヒトラーやナチス固有のものとして歴史の中に位置づけてしまわず、同じ「人間」の行ったこととして広く引き受けていこう、というのはわかる。それが現時点でこのような作品を制作する意義の1つかもしれない。だが、それでも歴史的事実の描写が足りなくはないか。時を経て過去の記憶が薄れてもなお、この映画は今と同じ深みを持った作品として成立するだろうか。ラストに実際のヒトラーの秘書のインタビュー映像を加えるなら、映画の冒頭にも、ナチスが行ったことを示す映像を入れておくべきではなかったか。

この映画の語り部である女性秘書は、何も知らなかったからこそ、ヒトラーの秘書として最後まで側にいることができた。相手がヒトラーだとてパブリックな面を知らずに側にいるなら、個としての人間性に触れるだけである。側近や部下に対しては時にヒステリックな態度を見せるが、秘書や家族(愛人)やペットには寛容な上役など、誰のまわりにだっているはずだ。いとも簡単に、彼女たちはヒトラーを受け入れ得た。

この秘書と正反対の立場で苦しむ人間を描いた映画も、公開されている。

ThePianist

マイ・ファーザー』。アウシュビッツの強制収容所で、主に双子の子どもたちなどを対象に人体実験を行った、ナチスの医師ヨゼフ・メンゲレと息子へルマンを描いた作品である。実は18日はこれを最初に見て、その後、SKIPシティ国際Dシネマ映画祭に行くつもりだったのだが、見終えたらどうしても『ヒトラー~最後の12日間~』が気になって、結果的にナチスドイツ祭りになってしまったわけだ……。 

1945年1月にアウシュビッツから逃走しドイツ国内に潜伏したのち南米へ渡り、各国を転々とするヨゼフ・メンゲレ。その息子ヘルマンは4歳で父と隔てられたまま母に育てられ、父の記憶を持たない。父に対する個人的な感情がまったくないままに、学校ではナチスドイツの戦犯の息子としていじめられ教師からも無視され、ただナチスの医師であるった父の罪業を背負って生きてきたヘルマン。社会的な父の悪の業績のみがインプットされ、人間性に触れ得なかった息子が、血が繋がっているという理由だけで、父の(思想を含めた)人間性を理解しようと試み苦しむ話だ。

映画のメインとなるヘルマンと父ヨゼフ・メンゲレとの再会(ヘルマンにとって事実上父としては初対面)は、1985年現在からの回想シーンである。メンゲレの遺骨がブラジルで発見されたその年、遺骨が本物であることを証明するために息子へルマンがブラジル入りし、メンゲレの生体実験の被害者遺族による訴訟団の弁護士(F・マーレイ・エイブラハム)と会い、8年前にさかのぼってヘルマンが初めて父と会ったときのことを語っていく。

ヘルマンは、ナチスが何をしたのか、父がアウシュビッツで何をしたのかを知っている。メンゲレの実子として、幼いころから今に至るまで、いわば逃亡した父の代わりに多くの人々の指弾の矢面に立たされてきたヘルマンは、被害者や一般の人々の怒りの大きさ、悲しみの深さ、父の罪の重さを身をもって知っている。実の父でさえなければ、その人物像を理解しようなどとは思わないだろう。

婚約もし分別ある大人のヘルマンが、長い逃亡生活を送っているとはいえ、地元の子どもたちとも戯れる老境の父と対面する。一般的には、分かり合うことは難しくなさそうなシチュエーション。だが、静かなる老父は現役時代と何一つ変わらず、当たり前のようにその思想を披瀝する。密林で父子が向かい合うクライマックスで、父ヨゼフ・メンゲレを演じるチャールトン・ヘストンの、古木の枯れと不倒の巨悪を感じさせる存在感はすごい。モノリスのような巨大でなめらかな壁にぶち当たったときのように、ヘルマンはとっかかりなく、現代人の理解の枠外にある父に弾き返される。父は何もせず、そこにいるだけだというのに。ダース・ベイダーとルーク・スカイウォーカー親子の葛藤など、甘すぎることこの上ない。

『ヒトラー~最期の12日間~』に比べ小粒で地味だが、誰もが強く自身に引き付けて見ることのできる映画である。そこには人間が描かれている。チャールトン・ヘストンの、いささかフランケン・シュタインがかった身ごなしの、余分な動きを廃した円熟の演技も見物だ。キャストの問題で無理だったが、願わくば監督の望みどおり、ドイツ語の映画であってほしかった気がする。

主演のヘルマンを演じるのはトーマス・クレッチマン。中ほどのサムネイル画像は、『戦場のピアニスト』で最も印象的かつエロチックな、陥落後のベルリンの廃墟の中で迫害から逃げ延びたユダヤ系ポーランド人ピアニスト(エイドリアン・ブロディ)の演奏に耳を傾けるナチスの将校(トーマス・クレッチマン)、という場面である。クレッチマンはまた、『ヒトラー~最期の12日間~』にも出演している。

ちなみに『ヒトラー~最期の12日間~』でゲッペルスを演じたウルリッヒ・マテスは、ドイツ映画祭で上映された『9日目』で、ナチスの若き将校(『青い棘』のアウグスト・ディール(!))と対話するルクセンブルグの聖職者を演じた人。まったく違う2つの役柄を見ると、この人もまた素晴らしい俳優であることがよくわかる。

さて、『マイ・ファーザー』の再会の場面で、ヘルマンがメンゲレの古い知己から託されたいくつかの手土産を渡す。その1つが、ホメロスの『イーリアス』。そうだ、そうなんだよなあと……。人種的な偏見を根幹としたナチスの思想に、ギリシャの神々はイメージとして「はまる」わけで、アレクサンドロスなんかも当然、その系譜に連なって偶像とされるんだよなあ、などと映画のほんの一瞬にためいきをついたりした。

2005.07.20

さいごのひとはな

DVDclub200508MCプレス『DVDclub』8月号表紙。6ページにわたり『アレキサンダー』とオリバー・ストーンの有難~い特集がある上に、この表紙なので、(表紙になるのも最後と思い)思わず買ってしまったが、いや~記事が荒っぽい、荒っぽい。間違いも結構ある。まあ、映画秘宝的指向のソン・ガンホ特集もあり、まあいいか、と(笑)。そろそろ発売しはじめる海外のDVD情報誌にも、発売にからんで大王記事とか表紙になっているものがちょこちょこあるようだ。

C・ファレルの本番ビデオ流出ニュースは、きょうあたりは、ついに台湾大陸などの芸能ニュース欄をもにぎわしている。ビデオを見たいかどうかは別として、あの男がどんなことをしようが何があろうが、こと、そちら方面に関しては、今さら誰も驚かないんじゃないか?


SSs01SSs02さて、作品の出来は特に期待したりしていないのだが(←失礼)、お久しぶりの徐克監督『七剣』の美しい公式サイトの、エキサイティングな孫紅雷と、大変キュートな周群達(Duncanさん)の画像が嬉しい今日このごろです。ポスターも主要キャラ全部それぞれ別にちゃんとある。この孫紅雷は、完全に蕭遠山はいってますね。(画像はポスター、スチールともに公式サイトより)

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2005.07.19

夏休み映画祭り(その1)

17日は、東京国際レズビアン&ゲイ映画祭(TILGFF)と名画座をはしご。

日本公募短編集(TILGFF)。いちばん面白かったのは『ヘテロ薬』(”あほちゃうか”……だったか? うますぎ。面白すぎ)。意外にしっとりとした印象を心に残したのは『五色』。映像が最後まで頭に残っているのはさすがの白川監督『マチコのかたち』。『みかとせいじゅん』のみかちゃんは苦手なタイプなのに、最後の飛び蹴りで一気に好感度を増す。

『ドッド・ジ・アイ』&『ソウ』(早稲田松竹)。どちらも見ていなかったので、なぜこのラインナップの2本立て……と不思議だったのだが、見終えると、名画座ならではのうまい取り合わせだとにんまり。共に、どんでん返しが見どころのサスペンス。

『ドット・ジ・アイ』は、物語の流れの勢いの方が強く、めずらしくガエル・ガルシア・ベルナルが出張っていない(悪目立ちしていない、というべきか)。ヒロインのカルメンを演じたナタリア・ヴェルベケは非常に美しいが、美しさ以上に、カルメンの短気で喧嘩っ早い江戸っ子のような気の強いキャラクターが魅力的だった。前半はG・G・ベルナルお得意のせつなく情熱的なラブストーリーだが、後半のどんでん返しでストーリー自体が俄然面白くなるにつれて恋愛物としての求心力が消滅し、物語としては面白いが、結果的にはあまり余韻が残らないものになってしまっていると思う。

『ソウ』は……いやあ、ケアリー・エルウェズ、20数年前と変わらず可愛かった。そりゃ、おとっつぁんになったし、腹も出た。でも、(決して好みではないのだが)あのハーコートの美しさはしっかり残っている。素晴らしい演技をしているとも特に思えないが、まあ、よかった、よかった(笑)。せっかくなら浮気相手はアジア系の美人秘書とかじゃなくて、昔の同級生(男)とかじゃだめだったのか?(←バカ)。内容的には、切り口にそれなりの新鮮味はあったが、人間、わかりきっているものは、全然怖くないのだということがよーくわかった映画だった。まったく恐ろしさなし。気に入ったのは、主演の2人が、1つの死体とともに閉じ込められた、風呂場のようなトイレのような小汚い地下室だろうか。あんなところに這いつくばるのは絶対にいやだが、映画としては絵になっている気がする。ラストの不毛さ・脱力感、無意味さ、どうなったのかわからないところなんかも、結構なげやりに好かもしれぬ。

『プロテウス』(TILGFF)。18世紀南アが舞台の古めかしい色彩が美しい映画なのに、れっきとした2003年の作品。定評ある監督だけに、ダメ感など感じるすきはない。しかし何しろ、場所と時代とモチーフが遠すぎて、なかなか入り込むのが大変な上、主人公のクラース・ブランクは、オランダ東インド会社が植民地支配する南アフリカにおいて奴隷の身分の若者で、盗みの容疑をきせられて逮捕され受刑中に、同じ受刑者のオランダの水兵と愛し合うようになるという、かなり重い内容の話。スカスカ頭には、南アフリカの海岸の光と砂と潮風、クラースを演じた Rouxnet Brown のしなやかな身体、寄り添うだけでやけに色っぽい雰囲気のただよう恋人たちの姿ばかりが焼きついてしまっている。

『ベアー・パパ』(TILGFF)。無事入場。スタッフの方々も大変だったことだろう。とにかくスクリーンで見られて本当に嬉しかった。この映画も重いテーマを秘めているのだが、楽しく笑わせて最後まで引っ張り、終盤でほろりとさせる「良い話」に仕上げていると思う。『シュガー』妹といい、本作の主人公ベルナルドといい、子役の力は凄い。一般的に「教育的でない」といわれる環境だろうが何だろうが、信念と愛情を持って接すれば子どもはちゃんと育つんだよという話で、そこには、大人の社会(人間関係)においても、指針やヒントになる部分があるんじゃないかと感じた。もちろん、ベア兄貴たちも大挙して登場します。素敵です。瞬時にキャラの区別がつきにくいけど(笑)。

2005.07.16

売り切れくまさん

東京国際レズビアン&ゲイ映画祭で上映される《熊哥叔叔》こと『ベアー・パパ』は、前売り券、当日券共に完売とのこと。今のところ唯一の完売で、(必ず入場できるとは限らないという)立ち見整理券を配布中。すごいぞ~! かくいう自分も前売りなど買っておらず、昨晩、8番の立ち見整理券をもらってきた(昨晩は前の回に間に合わず、見られたのは『シュガー』のみ)。

『シュガー』。いわゆる青春破滅モノ。ただし主人公は、「破滅的な彼氏」を卒業し成長シマシタ、というさわやかな締めくくり。画面は暗いのだけれど、なかなか良い感じのショットもある。途中何度か「これもダメ映画か?」と疑念が浮かぶが、妹や母やお客の出腹のおっちゃんなど、脇役陣のキャラクターが面白くていねいに描かれていてスカスカ感がないので、トータルとして好印象だった。「破滅的な彼氏」ブッチを演じた Brendan Fehr は、毛髪を剃りあげた終盤が断然素晴らしい(&美しい)。びっくりしたのは、クリフという主人公を演じた Andre Noble (1979年生まれ)のプロフィールに、2004年のキャンプ中、トリカブトにより死亡とあったこと。ぼーっとした若者を好演していたのに残念だ。9月に渋谷シネ・ラ・セットで公開予定。

2005.07.15

盆つれづれ

東京はお盆(新暦)である。13日には迎え火をたいた。16日に送り火をたくまでは、仏壇飾りに仏様用の食事(小さな器にご飯・汁と三菜を盛ったもの)のほかに、(先祖の霊が)来る日はだんご、滞在中はそうめん、(あの世に)帰る日は塩むすびを供えるのだと祖母に教わった。その祖母も向こうの人となってしまい、現在はめでたく帰省中である(おかへり♪)。

祖母は確か、盆に帰ってくる先祖の魂のことを「おひょろさま」と呼んでいた。この言葉は、子どもには非常に怖かった。夜中のお雛様も怖いが、夜中に見る盆の祭壇も怖い。しかもそこにいるのは「おひょろさま」である。その言葉から、火の玉がひょろひょろと飛んでいる様子を頭に浮かべたものだ。だから夜中に目を覚ますことがないよう、盆は一生懸命目を閉じて眠った覚えがある。

「おひょろさま」のほかにもう1つ、「のんのさま」という言葉がある。祖母の言動からすると、それは(仏壇にいる)仏様のことらしい。盆に帰ってくるのは「おひょろさま」だが、普段、仏壇にいるのは「のんのさま(のんのさん)」で、よそから頂いた初物の果物などは、まずは「のんのさんにあげて」、しばらくして下げたものを家族で食べるのだ。

この「のんのさん」、子どものころは祖母のオリジナルだと思っていたのだが、もう何10年も前、テレビで放映された「のんのんばあとオレ」(水木しげる原作)を見たときに、「これは祖母の「のんのさん」と同じ言葉だ」と感じた。きちんと調べたわけではないが、元は同じ言葉だと思われる。いずれにしても「のんのさん」または「のんのさま」という言葉は、祖母の創作などではなく世の中に遍く存在する。

何でこんなことを書き連ねているのかというと、きょう外で『妖怪大戦争』(監督:三池崇史、プロデュースチーム「怪」(水木しげる、荒俣宏、京極夏彦、宮部みゆき)制作原案)のポスターを見たからである。

もちろん雑誌「怪」は知っているが、水木しげる先生や宮部さんや京極さんはさて置いて……いやあ、加藤保憲にスクリーンで再び相見える日が来ようとは! 嶋田久作から豊川悦司に交代したのがちょい残念だが、スチールを見るとなかなか似合っているので、それもまたよしだ。

何せ荒俣宏の小説は大好きで、『帝都物語』のころには夢中になって周囲に勧めまくった。単なる別世界のファンタジーではなく、現実とつながった異界の話で、実際に存在した歴史上の人物や出来事がフィクションの中にうまく織り込まれており、しかも学校教育が故意か時間の都合か知らぬが必ず避けて通る日本の近代という時代設定が気に入っていた。加藤と目方恵子の再会のダンスシーンなどには、本当にしびれた(→死語)ものだった。「帝都」ではないが、現在でも、過去に読んだ小説のうち好きなものを10冊を挙げろと言われたら、荒俣宏の『ゑびす殺し』(短編集)は絶対にその中に入る。

きょう見かけたポスターの加藤保憲の隣は、「目覚めよベイダー」のSWポスターだったのだが、この2人、どこか似通った匂いを放っていた。そういや、「帝都」のときの加藤も「目覚めよ(将門)」とか言ってなかったか?

2005.07.08

ラストランナー

いつも精力的な書きっぷりの「藍空」のフェイユイさんから、ついにまわってきたのが「映画のタスキ」とかいうやつです。映画関係のバトンは知ってる限りでも3種類ぐらいあり、フェイユイさんからいただいたのは通称「タスキ」で回っているものだと思います。今ごろになってしまいましたが、フェイユイさん、ありがとうございます。

ただし、自分は基本的にロムラー体質が抜けず、RSSリーダには200ぐらいブログが登録してあるにもかかわらず、ものぐさで交流しないため、このタスキは自分のところで終わりです。人生と同じ。遺伝子犬死状態(笑)。つまり、自分が気に入っていつも読んでいるブロガーさんたちは、読んでいることを知らせていないので、ここのことも石公自身も知らないはずで、タスキをつなぎようがないのです。ブロガーの風上にも置けぬ奴です。まあ、映画のタスキは、ほかの枝が伸びていくはずですから、よしとしてください。ごめんなさい。

1.過去1年間で一番笑った映画
 
  ライターをつけろ 

(次点は「先生、キム・ボンドゥ」と「オー! ブラザース」)


2.過去1年間で一番泣いた映画

  なし

(感受性が鈍いのでほとんど泣くことはない。泣くのは、三益愛子の母モノと名犬ラッシーぐらい)


3.心の中の5つの映画 

  タクシー・ドライバー (マーティン・スコセッシ監督)
  風と共に去りぬ (ビクター・フレミング監督)    
  ブラザー・サン、シスター・ムーン (フランコ・ゼフィレッリ監督)
  未来世紀ブラジル (テリー・ギリアム監督)
  奇跡 (カール・ドライヤー監督)

ブラジルを除き、ほかはみな1970年代に見た作品。メジャーばっか……。1980~2000年の20年間はたぶん劇場ではトータル20本ぐらいしか映画を見ていないはず。内容的には、孤独な人間が大勘違いなことをしでかす話というのは割合好きですね。並びは思い入れの強い順。

4.見たい映画

  Brokeback Mountain (アン・リー監督)
  Where The Truth Lies (アトム・エゴヤン監督)
  世界 (ジャ・ジャンクー監督) 
  明日に流れる川 (パク・ジェホ監督/1996年作品)
  [薛/子]子 (虞勘平監督←読めない/1986年作品)
    
そして、ポン・ジュノ監督とパン・ホーチョン監督の新作を見ることができる日を楽しみにしています。

鏡に映ったのは

日曜、大森まで香港映画を見にでかけたつもりが、途中の本屋でひっかかり、気付いたら渋谷で『おわらない物語-アビバの場合-』を見ていた。

もうすぐ公開も終わりのようだが、ちょっと書いてみる。

内容は、12歳の少女アビバ(Aviva)が家出をして再び家に戻るまでの冒険譚。童話かジュブナイルのような、メルヘンチックな外形ではある。しかし、かなり前に新聞で読んで以来気になっていたのだが、この映画のミソは、12歳のアビバ1役を、8人の俳優が演じている点。公式サイトによれば、アビバを演じているのは、「ジェニファー・ジェイソン・リーを含む2人の成人女性、13歳から14歳の4人の少女、そして12歳の少年と6歳の少女」とのことで、彼らは髪の色も髪型も背格好も肌の色も違っている。ただし少女の個性はきっちりしていて、純真で繊細で、「蚊のなくような声」で話すいじめらそうなタイプ。服装もしっかり合わせている。だから「アビバ」という1人の少女が、映画の中に確固として存在する。

その次の映画のミソは、「回文」。タイトルからして既に「おわらない物語」で、原題も "Palindrome" (=回文)。そのまんまである。登場人物たちの名前のいくつかも、頭から読んでも終りから読んでも同じ。もちろんアビバ(Aviva)はその代表選手である。物語の中でも、アビバは家を出ていって、最後には家に帰ってくる。それらが何を示しているかというと、「ぐるっと回って元に戻る」ということらしい。そしてそれは「時を経ようと、どんな経験をしようと、人の本質は変わらない」という主題につながっていく。「変わらない」からといってペシミスティックな諦念を帯びているわけではなく、だからこそ「今の、そのままの自分を認めてみよう、それが自分なんだから」というメッセージが込められているのだという。

そしてもう1つのミソが、性と生。12歳のはかなげな少女をヒロインにしたメルヘン仕立ての映画と、これほど距離のありそうなテーマはないが、外見や宣伝どおりの話など、どこに面白みがあるだろう。大人が見ても、うーんと考え込んでしまう、毒性の強いモチーフが、いともさりげなく次々と繰り出される。少女は当初から、「お母さんになりたい。赤ちゃんがたくさん欲しい(→いつも誰かを愛していられるから)」と言って登場し、確信犯的に妊娠。両親から中絶を強要され、処置後に家を飛び出す。トラックの運転手とのモーテルでの一夜。たどりついたキリスト教系の障碍児施設「サンシャイン・ホーム」での安らぎと恐怖(←『サラ いつわりの祈り』のヒロイン、サラの実家の場面を思い出す)。

愛と理解に満ちた両親の元で育てられたはずのアビバが妊娠すると、現実的な話は別として、「お母さんになって子どもに愛を注ぎたかった」という彼女の稚拙だが純粋な心を、理解しようともしない両親の姿が現出する。

中絶の手術の日、病院の前には中絶反対を訴える宗教団体が陣取る。身体を小さく丸めて、院内に逃げ込むアビバと母親の姿が映る。しかし、アビバのために行われたはずの手術は失敗。彼女は誕生するはずだった幼子の命どころか、若い自身の子宮までをも失ってしまう、子宮を摘出されたことを知らされずに。

たまたま見かけて乗り込んだ見ず知らずのトラック運転手は、モーテルでアビバと寝る。どう考えても、「少女愛好者とその魔の手に落ちた少女」という図式だが、皮肉にも初めて行為の喜びと相手への愛を覚えるアビバ。妊娠したときの相手は経験の浅い少年だったし、アビバも「お母さんになりたい」気持ちだけだったから。でも運転手は行方も告げずに姿を消す。

流れ着いたママ・サンシャインの運営する施設には、祈りと音楽が溢れ、心身の障碍や世間の偏見と戦う子どもたちが、のびのびと生活している。彼らは「サンシャイン・シンガーズ」というグループを作り、神の名のもとに生きる権利を主張する歌を歌い、踊る。それは、ストレートに心に響く「ゴスペル」だ。アビバもその仲間に迎え入れられ、居場所を見つけるかに思えるが、その異様なまでのなごやかさ、すがすがしさは、見る者に一抹の不安を投げかける。

そして不安は的中。度を越した明るさの裏に暗黒はつきもので、命を尊重するはずの強硬な"中絶廃止論者"であるサンシャイン・ホームの大人たちが、堕胎医を殺害する計画を進めていた。アビバが立ち聞きによって知るのは、彼女の処置をした医師がターゲットになっていること。さらにホームでアビバを診察した別の医師が、サンシャイン・ホームの大人たちに、アビバが少女売春をしていることを告げる。

こんな風に、すべての出来事は、決して見かけどおりではない。その場にいる人の数だけ「真実」があり、外野にとっては、見えやすい面(表)と見えにくい(裏)がある。映画はそれを、そっくりそのまま見せているだけだ。

しかし、表象としての現実が幾つ存在しようとも、「自分」は最初から1人。12歳のアビバの旅が一筆書きの道筋を描き、ふりだしに戻っていったように、人の一生も一筆書きの独り旅だ。生の始めに暗く、死の終わりに冥し。暗きより暗き道にぞ入りぬべき……。←って、道からそれてるよ。

「寓話」は、見るものの心を映し出す鏡である。自分には最後の章がとても怖く感じられた。ラストシーンでは、最も年若い子役のアビバが、今度こそ本当にお母さんになれる気がするの、とあどけなく微笑んでいる。その直前、延々と映るのが、妊娠したときの相手の少年と再会したアビバとの、納得ずくか成り行きかはもう1つはっきりしないセックス・シーン。上で動作を繰り返す少年を尻目に、とろんとした表情で横たわるアビバの顔は、彼女を演じた全ての俳優の顔に次々と切り替わっていく。まるで、8人のアビバのカーテンコールのように。

本作は、トッド・ソロンズ監督の旧作『ウェルカム・ドールハウス』で、いじめにあっていた主人公の少女ドーンの、自殺後の葬儀というショッキングな場面から始まる。レイプされて妊娠し自殺して、その辛い人生に終止符を打った少女ドーン。そして、もう1人の少女アビバは、生まれるはずのない赤ちゃんを抱くことを夢見て、男たちの欲望の前に自ら身を投げ出し続けていく……のだろうか?

ドーンの場合は、自殺で「終わった」物語。アビバの場合は、「終わらない」物語。「何」が終わったのか、終わらないのかって? それは「被虐の人生」。……な~んて解釈は怖すぎだ。監督はインタビューでは全然違うことを言っているので、このタイトルにそんな怖い意味はない……はず。

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