« ドイツ映画祭はまり中 | トップページ | 梅雨ですが »

2005.06.12

『この世の果ての家』胡言乱語

以下は、小説『この世の果ての家』(マイケル・カニンガム著)について書いたもので、完全にネタバレです。小説を未読で、そういうことが気になる方は読まないでやってくださいませ。(しかし、ネタバレなんて概念、いつ生まれたんだろう)

「家(house)」と「家庭(home)」の違いについて、遠い昔、外国小説の中で読んだ記憶がある。「家(house)」という容れ物は、そこに暮らす人々とともに、新しい命の誕生と婚礼と葬儀を経験し、その記憶を刻むことで「家庭(home)」になるのだと……。

マイケル・カニンガムの『この世の果ての家』を読むときにはいつも、頭のどこかに「家庭」という言葉がひっかかっている。日本語では「荒涼とした地の果てにある、人も住んでいないような寂しい一軒屋」というイメージの浮かんできそうなこの小説のタイトルに込められた作者の思いは、むしろ、人が日々を営む基盤としての家庭にあるのではないかと、その原題の "a home" の部分を見ながら思う(とはいえ邦題は美しく、ほかの言葉が浮かぶわけではないのだが)。思えば、ボビーとジョナサンの店の名前も「ホーム・カフェ」だった。

文庫版に収められた柿沼瑛子氏の解説にもあるが、新しい形の家族・家庭というこの作品の主題は、アメリカの70年代から80年代にかけてのゲイを取り巻く社会状況の変化、解放運動によって「フリー」なものとなった性が、エイズという疾病の出現により、固定的な関係の間の「閉じた」ものに変わっていく中で、親密な関係の相手と家庭を築いていこうとするような、個々の生き方にまで影響するその変化を映したアメリカ文学の1つの流れの中心に位置するものだ。

小説は、第1部が主人公のジョナサンとボビーのクリーヴランドでの幼いころから少年時代までを、第2部は20代半ばとなったジョナサンと、ルームメイト兼なかば恋人のようなクレアが暮らす部屋に、ボビーが加わるニューヨークでの日々を、第3部はジョナサンとボビーとクレアと、クレアとボビーの間に生まれたレベッカと、呼び寄せられてやってくるニューヨーク時代のジョナサンの恋人エリックとの、「ウッドストックから5マイル」の古びた一軒屋での暮らしを描く。(※ウッドストックはニューヨーク州東南部、大都市ニューヨークの郊外にある町)

登場人物たちの属してきた血縁に基づく伝統的な家庭は、それぞれの事情によって、どこもみな壊れてしまったか壊れかかっている。クレアの両親はクレアが子どものときに不幸な別れ方で離婚した。ボビーの家庭は、彼の兄カールトンのドラッグを遠因とした事故死をきっかけに、そのショックで心に傷を負ったまま睡眠薬を飲みすぎた母が亡くなり、飲酒と火事により父も亡くなり、消え去った。ジョナサンの場合は、一見幸せそうな、料理上手な母と映画館を営む父と3人の「理想の家族」として、地元紙に掲載されてしまうような家庭だが(映画『エデンより彼方に』を思い出す)、母アリスが第2子を死産したころから、父ネッドとの夫婦の絆の空洞化が進んでいく。この物語が、モダンアートを思わせる詩情と諧謔を散りばめた美しい文章で書かれていなかったら、そして訳者あとがきにもあるように、章により語り手が変わり時間軸がずれることによる、物語の新局面の衝撃からの緩和がなかったら、何とリアルで辛い話だろう。何と荒れ果てた、寂しい世界なんだろう。

"the end of the world" という言葉には、「地の果て」という意味のほかに、「破滅」という意味もあるのだそうだ。 "home" が人生の基盤としての家庭なら、 "the end of the world" とは何を示すのか。ジョナサンとボビーとクレアとレベッカ(とエリック)という家族が暮らす家(の建つ世界)のことを、作者のカニンガムが「この世の果て」などと形容するわけはあるまいと考え、ずっと疑問に思ってきた。

ふと浮かび上がってきたのは、ニューヨークでのエリックとジョナサンの会話だった。フィジカルなつながりのみの恋人として関係を続けてきた2人の身辺に、HIV感染の危険性と病気への恐怖が迫ってきた夜、ベッドでジョナサンが言う。「恐ろしい世の中になったもんだ」。重ねてエリックか(あるいはジョナサンが)嘆く。「まったく。実に恐ろしい世の中になった」。

「この世の果て」とは、現代の世の中そのもののことだと考えたらおかしいだろうか。従来の価値観が崩れ去り、伝統的な家庭は内部崩壊、人々を不安に陥れる病が流行し、人が自分をとりまく最も小さなサークルの中に閉じこもり始めた、そんな「人の世」のなれの果て。人間の行き着いた先。まさしく今このとき。それが "the end of the world" なのではないか。

そこに建つ家では、この世で(誰もがそうであるように)傷ついた人々が、未来への希望と現実への絶望の狭間で静かに暮らす、新しい「家族」として。「この世の果ての家」とは、「終末の世界(The end of the world)」にひそやかに灯るある1つの光だと、暗い海から望む小さな灯台のようなものだとは言えないだろうか。

ホームパーティからはじき出された子どものボビーは、自分に味方してくれなかったカールトンを恨みに思った弾みで「カールトンに何か恐ろしいことが起こればいい」と願ったまま、兄を失うことになる。「母さんは赤ちゃんが欲しくないんだ。ぼくたちは赤ちゃんなんかいらないんだ」と言い続けたジョナサンの母は死産し、ジョナサンは生まれるはずだった妹を失う。子ども時代のボビーは、夜中に起き出した父に付き添って、父をベッドに寝かしつけたが、ジョナサンは、夫婦関係に悩む父が自分に関心を持ってくれている証しに、自分をベッドに入れてくれることを切望した。少年時代、氷が解けたか解けないかという早春の湖に飛び込むジョナサンを、引き上げ救い出すボビー。最終章では、生の実感を求めて春まだき湖の中に足を踏み入れる裸のエリックとジョナサンを、制止しつつ優しく見守るボビー。2人が出会う以前から巧妙に重ねられた対照的なエピソードや相似形のエピソードが、磁石の対極のように引き合い、双子のように重なり合って、ジョナサンとボビーの固い絆と運命を印象付ける。

だが「一心同体だ」というジョナサンとボビーだけでは話にはならない。この小説は、類稀な2人のつながりを描いてはいるが、もちろん2人だけの世界などを描こうとはしているわけではない。そこにクレアがいて初めて、家族の1つの新しい形を追うための可能性が生まれてくる。3人というのは、1対1の人間関係に第三者が介在しうる最少の人数だ。ことにパートナーシップ、人生における伴侶、2人であることが重要視される西欧社会において、夫婦を中心とした家族というものが限界に来ている現実がある以上、ユニットを分解し別の形に組み上げない限り、家族の、希望の持てる未来を描くことは難しいだろう。

かくしてクレアは登場する。彼女が女性であることの理由の1つは、新しい家族が未来への可能性の蜘蛛の糸を落としていくために、次世代の命を育みうることが必要だからということはあるだろう。作者はクレアが、性別の押し付けられた文化的役割からやや距離を置いたところに存在できるような設定をほどこしている。彼女が子産みの道具としての存在になってしまわないよう、かなり早い段階で「わたしは子どもが欲しかった」と能動的な動機を示しているし、男性2人に対する女性1人という家族構成において、彼女が彼らより年上であること、経済的に自立していることも、然るべき設定だろう。無論、そうしたプロパティの面からだけではなく、彼女のファッションからもわかる軽みと頑固さを合わせ持った人柄、ジョナサンとの姉妹のような恋人のような「理想的」な関係、生い立ちやそれまでの人生経験など、人間クレアの描写からも、例えばレベッカとともに出ていく結末などは、意表をつかれる反面、彼女らしい決断であると納得できるのである。

そして、この小説独特の決して軽くはないが柔らかな手触りを決定づけているのは、やはりボビー・モローの存在だろう。ボビーのまわりに跳梁するのは「新しい国」のイメージだ。兄カールトンが示すその未来の国では、ボビーはフリスコという名前を持っていて、「仕事や勉強から解放」された人々が「川のそばで木々に囲まれて暮らす」。そこは「光輝く完璧な単純さ」の国である。だがドラッグと音楽をよりどころとして、愛と平和を夢見た60年代の理想がついえたことの象徴のようにカールトンが亡くなると、「未来」は失われ、ボビーは可能性というものを持ち得ない「永遠に死んだままの人々」の世界を背負ったまま、この世の捕らわれ人となる。

できないことは何なのかとクレアに問われたボビーは、「ぼくはひとりになりたくない。ひとりきりになったことがないんだ」と答えている。だから、ボビーはいつも「そこ」にいる。ジョナサンと出会ったときのボビーも、そこに居合わせたのが偶然であるかのようにさりげなく、しかし確実に、ジョナサンのそばに立っていた。カニンガムの小説では、悩みを抱えた人はどうやらみな、現在の生活の外へ出て行くか、出て行こうとしている。でも、ボビーは出て行かない。「ぼくは兄のあとを追ってこの世界に入ってきて、一度もここを離れたことがない」。クレアがレベッカを連れて家を去ったあと、もしジョナサンも一緒に行ってしまっていたら……と考え始め、ボビーがパニックに陥りそうになるモノローグ、「ぼくはこの家がばらばらになるのを黙って見ていることはできない。時間がかかりすぎるから、もう二度とふたたび建て直しはできない」。波立つ心を静めたのは「僕には仕事がある。屋根を修理するのだ」という自覚だった。まるでスカーレット・オハラのあの呪文(「今、考えるのはよそう。頭がおかしくなりそうだわ。あした考えましょう」というあれ)のような……。そうやって彼はいつも、のぞき込んでしまった虚無の深淵に背を向け、眼前にある日常のなすべきことに向かうことで、危機を乗り越えてきたのだ。

辛い経験が人間を磨くとは限らない。心の傷が人間性や人生をぼろぼろにしてしまうこともある。ボビーは、壊れてしまっているとも言えるし、完璧であるとも言えるだろう。彼の真ん中には、スポンジのような、ブラックホールのような空(くう)がある。その虚無に対峙すれば、生きる気力を失ってしまうかもしれない。だからこそ彼は「ひとりにりなりたくない」のだろうが、またそれゆえ彼のそばにはいつも人が寄り添う。自分を持て余している現代人(特に小説の世界の80年代の人々)にとって、ボビーの静寂と平穏は、安らぎと神秘に満ちたマイナスの引力であるからだ。

レベッカという彼の娘(そしてボビーとクレアとジョナサンという新しい家族の娘)がこの世に生まれると、カールトンとボビーの描いた「新しい国」が、形を変えてふたたび姿を見せ始める。クレアは父親としてのボビーのことを、「彼は血のつながりというものを、さほど重視しない。レベッカを抱いているボビーを見ていると、ときにわたしは、彼にとって娘がどういう存在であるかがわかるような気がする――彼の世界の未来の市民だ」と評する。日常生活に満足し、泰然自若たるボビーに向かって、クレアはこうも言う。「結局、ジョナサンとわたしの方がはるかに保守的なんだわ。わたしたちは毎日鏡をのぞいて、そこになにが映るかを確かめずにいられないのよ。ところがあなたときたら、ただやりたいことをやるだけ。そうなんでしょう?」。

レベッカは、未来に向けた彼ら家族の希望である。それは血のつながりとは関係がない。彼らが一緒に家庭を営んでいた記憶が、茶色い古ぼけた家を媒介に彼女にリレーされる。ボビーがカールトンの未来をも生きてきたように、ボビーやジョナサンやクレアがこの世からいなくなっても、たとえボビーやジョナサンのことを直接知らなくても、レベッカには彼らが家族だったことが伝わるはずだ。

最初にこの話を読んだときに、柿沼瑛子氏の解説の締めくくりに置かれた詩を見るまでもなく、高校生のころ大好きだったアルチュール・ランボーが17歳のときに書いたという「見者の手紙」を思い出した。それは作品ではなく、新しい詩の意想を説いたという私信で、いかに詩人としての感覚(目)を研磨していくかということが、若者らしい熱気を帯びた調子で述べられているものだ。

「(前略)深い信念と超人的努力とをもって初めて耐えうるのみの言語に絶した苦痛を忍んで、初めて彼はあらゆる人間中の偉大な病人に、偉大な罪人に、偉大な呪われ人に、――そして絶大の知者になる!――なぜなら、彼は未知に到達するからだ!――すでにみずからの霊魂の練磨を完了したこととて、誰よりも豊富な存在になにっているからだ。すなわち彼は、未知に達したわけだ。だから、万一彼が狂うて、自分が見てきた幻影の認識を喪失するにいたるとしても、すくなくとも彼はすでに一度それを見たのだ! 彼が見たおびただしい前代未聞の事物のうちに没し去って、彼が一身を終ったとしても嘆くにはあたらない。なぜかというに、他の厭うべき努力者どもがつづいて現われるはずだから。彼らが先に彼が没し去ったその地平線のあたりから踏み出して、詩を進めるから!」
(新潮文庫『ランボー詩集』(堀口大学訳)の「ランボー略伝」中より引用)

引用した手紙の最後の部分は、詩とそのビジョンが、詩人の個体を越えて次の詩人に受け継がれていくことを示していると思われるが、レベッカとはまさにそういう、ジョナサンやボビーにとって、血のつながりや体験や面識を越えた未来への希望なのではないかと感じたのだ。

実は『この世の果ての家』の感想は、ランボーのこの「見者の手紙」で終わるはずだった。が、この小説のもう1つの側面、新しい家族を模索した物語であるとともに、とても大切なもう1つの側面に触れていないことに思い至った。それはジョナサンだ。

ジョナサンは、幼いころから何らかの役割を演じ続けてきた。その場に最も相応しい役柄を。子どものころの、化粧と髭剃りのシーンなどからもそのことがうかがえるし、母アリスとのやりとり、恋人エリックとのやりとり、そしてクレアとのやりとりの中でさえも、彼が何らかの仮面をつけているいることが描かれている。そして、未来のいつの日かその仮面を脱ぎたいと、彼はずっと願い続けてきたはずなのだ。

父ネッドとの最後の場面でも、ジョナサンはずっと、最愛の父に本当のことを言いたくて、でも結局言えずに終わってしまう。この小説の中で最も印象深かったのは、何ともはや、このネッドとジョナサンの、苦しいアリゾナの星月夜の場面だったりする(その次は、ネッドの葬儀の前に道端で取っ組み合いをするジョナサンとボビーの一節だ)。

「木星から送られてきた」ボビーに比べると、作者が自分をさらけ出し苦しんで描き出したジョナサンの方が、一般的に読者に近い存在だと思われる。少なくとも自分には、内容こそ違うものの、ジョナサンの苦しさには共感しやすかった。だから、頭を「いつか来るはずの輝かしい未来」に向けたまま悩み続けてきたジョナサンが、周囲の「家族」と過去の経験を含めた、広い意味での今の自分を認めて生きていくことに至る最終章を読むと、この小説が新しい家族を模索した物語であると同時に、ジョナサンという少年の自己克服の物語でもあると思えるのだ。

作中に何度も登場する「可能性」と「未来」という言葉がある。面白いことに、「可能性」は登場人物たちが自分たちの希望を少しずつ実現していくなかで、どんどん失われていく。「この世の中は可能性に満ちあふれている」といったのは9歳のボビーだが、人は、生きるほどに、あったはずの可能性を失っていくものなのだ。それは時間軸の上を生きている人間なら当然のことだ、残り時間が少なくなるのだから。

「それまでぼくは、未来を生きつづける期待を維持した状態で、その未来のために生きていた。だが、ボビーとエリックと一緒に凍るような湖の浅い砂底に裸で立ったとき、その状態がふいに立ち切られたのだ」

この最終章のジョナサンのモノローグは、病と死への覚悟という読み取り方もできるだろうが、作者が敢えて病名も出さずカテゴライズを嫌っている以上(文庫版解説より)、やはりここは、彼が自身とその人生を受容したのだと読みたい。それまでずっと、カニンガムの小説で死に惹かれていることの象徴である「水に入る人」の側であったジョナサンが、最後の最後、ホビーとともにエリックを陸に連れ帰る人となる。

モロー家父子3人のコンヴァーティブルの疾走で始まる物語は、静かな湖をそっと歩む3人の男の遠景で終わりを告げる。ある物語を定義するためにはハッピーエンドかそうでないかという視点も必要だろうが、このラストシーンは、生きていけば誰もが同じように可能性をすり減らしていく人生の、その時々の光景が、実はとても美しいものだと教えてくれているようだ。この物語の、さまざまな場面が美しかったのと同様に。


※文中の小説からの引用部分はすべて、角川文庫『この世の果ての家』(マイケル・カニンガム著、飛田野裕子訳)による。

« ドイツ映画祭はまり中 | トップページ | 梅雨ですが »

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/9120/3971840

この記事へのトラックバック一覧です: 『この世の果ての家』胡言乱語:

« ドイツ映画祭はまり中 | トップページ | 梅雨ですが »