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2005.06.30

『この世の果ての家』胡言乱語 拾遺

▼小説の語り手である4人は、分量こそ違うものの、男女2名ずつジョナサンを中心に、彼の同性の親友(ボビー)、母(アリス)、彼の異性の親友(クレア)というふうに上手いことバランスがとられていて、セクシュアリティですら、4人全員が異なっている(厳密には、セクシュアリティは人間が100人いれば100種類あると考えるべきだろうから、当然のことなのだが)。英語にも「男性」的な言い回し、「女性」的な言い回しというものが存在するかもしれないが、よく考えてみると興味深いのは、もし翻訳していない状態であれば、章の語り手が誰であるかは、冒頭の個々の名前がなければ、すぐには区別がつかないだろうということだ。現代の日本語の文章では、ボビーやアリスといった個としての人格以前に、性別の匂いが漂ってしまうのは、一人称や直接話法が書かれる限り、言語特性としてどうしようもないことだ(もっとも、日本語の会話文の「性別」は、近代になって「作られた」ものだそうだが)。しかし英語の原文は、日本語よりもっとニュートラルに、登場人物そのものを描き出しているのではないか。3人の語り手全員が女性である、同じカニンガムの『めぐりあう時間たち』を、日本語の訳文で読んだときの印象に近いのではないかと想像する。

▼住む場所や出身地は人間の価値を決定するものなどではありえない。だが記号としての地域名は、登場人物の外見や言動とともに小説を修飾し、イメージを膨らませる1つの要素ではある。そういう意味で、アメリカの土地を日本に置き換えて読んでみると、彼らのキャラクターと物語の空気がより具体的でわかりやすく感じられて面白い。クリーヴランドは、首都に近い自然の残る工業都市という感じだろうか……静岡か茨城あたりの。アリスは南部の伝統ある街ニューオーリンズの人だから、京都とか金沢のような古都の出身で、今住んでいる町に埋もれてしまいたくないといつも心のどこかで思っている。クレアは都会生まれ。ニューヨークでの彼らのアパート(ダウンタウン、「東3丁目のA通りとB通りにはさまれた区域」)は、例えば東京のどのあたりにあたるのかはよくわからないが、第3章の家は、やはり三多摩エリアに建っていると考えようか。都市のイメージ、自信ナシ。

▼余談だが、「この世の果てまで」(原題:The End of the World)というポップスがあった。「どうして太陽はいつもと変わりなく輝いているの、どうして波は何もなかったかのように打ち寄せるの、全ては終わりだというのに(私の恋は終わってしまったのに)」という失恋の歌。どうして邦題は「この世の果て"まで"」なの、と、今にして思えば、そっちの方が不思議だが(笑)。

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