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2005.06.30

『この世の果ての家』胡言乱語 拾遺

▼小説の語り手である4人は、分量こそ違うものの、男女2名ずつジョナサンを中心に、彼の同性の親友(ボビー)、母(アリス)、彼の異性の親友(クレア)というふうに上手いことバランスがとられていて、セクシュアリティですら、4人全員が異なっている(厳密には、セクシュアリティは人間が100人いれば100種類あると考えるべきだろうから、当然のことなのだが)。英語にも「男性」的な言い回し、「女性」的な言い回しというものが存在するかもしれないが、よく考えてみると興味深いのは、もし翻訳していない状態であれば、章の語り手が誰であるかは、冒頭の個々の名前がなければ、すぐには区別がつかないだろうということだ。現代の日本語の文章では、ボビーやアリスといった個としての人格以前に、性別の匂いが漂ってしまうのは、一人称や直接話法が書かれる限り、言語特性としてどうしようもないことだ(もっとも、日本語の会話文の「性別」は、近代になって「作られた」ものだそうだが)。しかし英語の原文は、日本語よりもっとニュートラルに、登場人物そのものを描き出しているのではないか。3人の語り手全員が女性である、同じカニンガムの『めぐりあう時間たち』を、日本語の訳文で読んだときの印象に近いのではないかと想像する。

▼住む場所や出身地は人間の価値を決定するものなどではありえない。だが記号としての地域名は、登場人物の外見や言動とともに小説を修飾し、イメージを膨らませる1つの要素ではある。そういう意味で、アメリカの土地を日本に置き換えて読んでみると、彼らのキャラクターと物語の空気がより具体的でわかりやすく感じられて面白い。クリーヴランドは、首都に近い自然の残る工業都市という感じだろうか……静岡か茨城あたりの。アリスは南部の伝統ある街ニューオーリンズの人だから、京都とか金沢のような古都の出身で、今住んでいる町に埋もれてしまいたくないといつも心のどこかで思っている。クレアは都会生まれ。ニューヨークでの彼らのアパート(ダウンタウン、「東3丁目のA通りとB通りにはさまれた区域」)は、例えば東京のどのあたりにあたるのかはよくわからないが、第3章の家は、やはり三多摩エリアに建っていると考えようか。都市のイメージ、自信ナシ。

▼余談だが、「この世の果てまで」(原題:The End of the World)というポップスがあった。「どうして太陽はいつもと変わりなく輝いているの、どうして波は何もなかったかのように打ち寄せるの、全ては終わりだというのに(私の恋は終わってしまったのに)」という失恋の歌。どうして邦題は「この世の果て"まで"」なの、と、今にして思えば、そっちの方が不思議だが(笑)。

2005.06.28

聖稜的星光など

チャン・ツォーチ(監督)の公式サイト(というかチャン・ツォーチの制作会社の公式サイトというべきなのか?)の中に、ずっと制作中だったテレビドラマ《聖稜的星光》のページができていた。祐祐、堂々の主演である。5月20日に更新されたらしいので、とっくにチェック済みの方もいるだろう。ラッシュ映像とでもいうのか"片段"の動画が、さすがの素晴らしさだ。まだまだページも制作途中のようで、さらなる動画もアップされそうだから、時々見てみよう。《孤戀花》みたいに、電影バージョンも作ってくれないかなあ。チャン・ツォーチ作品だったら、最悪でも映画祭には来るだろうし。

2755263-1119291そんなわけで、ドラマの《孤戀花》、人気みたいである→記事(公式サイトのBBSが50万アクセスを超えたというもの)。画像はアニタ・ユンとトゥオ・ゾンファ(聯合網より)。

2005.06.27

木星のボビー、火星のクラウス

nomi01ドイツ映画祭で毎回予告を見せられ、すっかり洗脳されてしまった『ノミ・ソング』を見た。

クラウス・ノミは、70~80年代ニューヨークのクラブ・カルチャーから世界的にブレイクしたニューウェーブ系のミュージック・パフォーマー(って言う?)で、元々はオペラ歌手になりたくてベルリンでクラシックの音楽修行を積んだドイツの人。地声のとぼけたテクノ・ポップ風の曲調とファルセットで歌い上げるオペラ(のアリア)風の曲調を合体した彼の音楽は、そのあたりの時代を通過した人なら、日本人でもどこかで聞き覚えがあるはず。活躍した当時は、日本のCMや雑誌にも登場した。上に貼ったアルバム・ジャケット写真でもわかる通り、その音楽とともに、独特のメイク&コスチューム、小柄な体型、そして振り付けから表現される宇宙人的キャラクターのインパクトによって観客を魅了した。

『ノミ・ソング』は、50年代の典型的SF映画を冒頭と締めくくりに用い、当時の彼のライブ映像と彼に縁の人々の現在のインタビュー映像を織り交ぜながら、謎に包まれたキャラクターはそのままに、「一番最初にエイズで死んだ男」の半生を真摯に描いたドキュメンタリー映画で、2004年のベルリン国際映画祭のテディ賞(ゲイ・ドキュメンタリー部門)を受賞している。

宇宙人的なキャラクターと「時代よりも早すぎた」と言われるパフォーマンスに引っ掛けて、古いモノクロSF映画のUFOの着陸シーンの後に登場し、ラストは同じSF映画の宇宙人がUFOに乗って帰っていくシーンで終わる。特に何ら特別なアイディアはないし、クリエイティブなナレーションが入るわけでもなく、彼の内面を深く掘り下げたりもしていないので、ドキュメンタリーとして物足りないという声もあるようだが、残存する本物のクラウス・ノミの映像と、非常に率直な関係者のインタビューのみによって、彼のパフォーマンスと彼をとりまく人々と時代の空気がコンパクトに伝えられていると思う。

ニューヨークのクラブ、音楽、80年代、エイズというキーワードが並ぶと、思い起こさないわけにはいかないのが、我らがジョナサンとボビー&クレアだ。正確にはノミの活躍した時代は少し早いかもしれないが、ジョナサンたちがニューヨークで過ごした時代とほぼかぶっている。ライブ映像を見ながら、ヘンダーソン一家も、こんな最先端の、ある意味キワモノ的なライブ・ショーを見にいっただろうか、と想像をめぐらせていた。

そう、ボビーは木星から送られてきたようだとクレアが言っていたが、クラウス・ノミという、やはり深い孤独とともに生きたこの主人公の方も、どうやら火星からやってきたらしい。

関係者の語るクラウス・ノミの思い出の中で印象的なものの1つが、ニューヨークのライブに妻と幼い娘を伴って出かけた記者の話である。ステージで喝采を受けたノミにはしかし、ステージを降りると声をかける者がいない。そこへ、記者が連れてきていた彼の娘、まだ6歳の無邪気な少女が話しかけた。「あなたは宇宙から来たの?」と。ノミは「そうだよ」と答えたそうだ。そして静かな対話が繰り広げられた。「火星はどう?」「お天気は?」と。記者はその様子を「老女2人の会話のようだった」と例えた。

語り手が、童女と不思議な歌い手の男の会話を、老女2人の……と例えたところで、ふたたびカニンガム作品の比喩を思い出した。

もう1人の印象的な証言者は、彼の最愛のおば(叔母だったか伯母だったか忘れた)。彼女に限ってはインタビュー映像ではなく声だけの出演で、音声とともに、彼女の写真を人型に切り抜いたものを、そこに居るがごとくに映しているというユーモラスな演出。彼女はいくつかのエピソードを語るのだが、中でもクラウス・ノミがニューヨークで成功して、ドイツのテレビ番組で歌ったのを見たときの感想が面白い。もちろん、そのテレビ番組の映像も登場する。番組中ではノミは堂々のスター扱いで、ちょっとした凱旋公演といったところだ。だが、知人と放送を見ていたおばにとって、クラウスは「子どものころから歌好きの古典を志していた青年」であるわけで、奇矯な衣装と振り付けで歌うオペラもどきのヘンな歌は、いくら有名になったとはいえ理解の外だったのか、こんなことをしているのはきっと「生活のため」なのだろう、と話し合ったという。

証言者たちは、クラウス・ノミのプライベートについても、正直に語っている。ゲイのハッテン場での話や、発病してから(当時まだエイズに関する知識がなかったため)怖くて触れられなかった話、彼の得意だったお菓子作りにまつわるエピソードなど……。

しかしこの映画の魅力は、こんなことを言ったら元も子もないが、ただただクラウス・ノミのライブ映像、心に染みる歌とユニークなビジュアルからなるパフォーマンスの魅力によるところが大きい。彼の歌をずっと聴いていたいし、彼のライブ(映像)をずっと見ていたい。監督には申し訳ないが、きっぱりその思いだけだ。

大して状態の良いわけでもない映像でも、これだけ見せてしまうのだから、その生のステージのバワーはいかほどのものだったろう。今聴いても、まったく古臭さなど感じない声。オペラ歌手の歌うポピュラーソングなど、大仰さが鼻についてたまらないものだが、彼の力強く、しかし押し付けがましさのまったくない歌声は、素直に聴衆の心を揺さぶる。そんな「基本」を押さえた上でやってくる、テクノ・ポップの当然のヘンテコさとの落差と、ビジュアルの摩訶不思議さは、たまらなく心地よい。レコード会社との軋轢もいろいろあったわけで、「早すぎた」という評価には、心から同意する。

ニューヨークで認められニューヨークで亡くなった彼の半生を描いた映画がドイツ映画だということが、ほっとするような悲しいような、複雑な気持ちにさせられた。

2005.06.26

ヨーロッパは難しい

以前、映画『アレキサンダー』のガウガメラの戦闘の前の演説で、大王はマケドニアの王なのにどうして、戦う目的を「(自由と)ギリシャのために」(for the freedom and the glory of Greece)と言っているのか、と書いた。それはペルシャへの遠征以前の、ギリシャとペルシャの関係や、ペルシャ遠征の大儀名分を踏まえてのことではないかと想像し、それなりに納得しつつあった。

しかし、"History of Macedonia.org "という民族独立色の濃いマケドニア人による英語サイト中に、オリバー・ストーン版『アレキサンダー』の「ギリシャ」と「マケドニア」の扱いについて強烈に異をとなえているページを発見し、かなり面白く読んだ。こちらのサイト、1ページをまるまる映画のために割いている(!)。冒頭から、取り上げられているのはやはり、ガウガメラの戦い前の演説の「ギリシャのために」のところ。そして「マケドニア軍は、マケドニアのために戦ったのであって、ギリシャのために戦ったのではない」と繰り返す。

古代史の解釈など、歴史家の数だけあるはずだし、たとえ地元マケドニア人であろうとも、後の世に生きる者には真実(なんていうものがあるとすれば、それ)を知るよしもない。マケドニアとギリシャが別のものなのは事実だが、アレクサンドロス軍が何のために戦ったか、その答えは、2300年前の当時であってすら、ただ1つの単純なものではないかもしれない。まして今さら、「正解」を得るすべがあろうか。

当該サイトでは、「オリバー・ストーンの『アレキサンダー』はミスしてるよ、映画じや、ギリシャもマケドニアもごちゃごちゃじゃん」と言っているのだが、やはりこれは、映画の台詞を表面的にとらえて怒っている感じはする。

ギリシャとマケドニアの関係を考えずに、アレキサンダーの生涯など語れるはずはない。映画の脚本は、思い入れの深い監督自身によって、10数年かけて練られたものだ。映画中で使われる「ギリシャ」という言葉の裏にも、それなりの歴史考証があるはずで、何の予備知識もない自分にもわかるほど単純な間違いがそうそうあるとは思えない。

だが映画は不親切で、1度や2度見たのでは「間違っているよ」と思えてしまうような唐突さで、何の事前説明もなく、鍵となる言葉やアイコンが表れる。

ご存知のとおり、マケドニア問題というのは東欧の民族紛争の巨大な火種の1つで、いまだに国名ですらギリシャとの間でガタガタしている。実は自分は恥ずかしいことに、今の今まで、このあたりの問題の中身を良く知らなかった。"History of Macedonia.org "に見られるマケドニアのギリシャへの敵愾心は、フィクション(映画)や過去の物事(歴史)に対するものではなく、今の現実に対するものなのだ。

alexander_poster vergina macedonia

ということで、上の画像は、左端が映画のポスターの図柄の1つ。ポスターにある大きな旗は、マケドニアのシンボルの太陽(「ヴェルギナの星」)である。真ん中は、大王の父フィリッポスⅡ世の墓からの出土品で、上部に、映画ポスターの旗に描かれている太陽(「ヴェルギナの星」)が刻印されている。右端は現在の国旗で、やはりこの太陽を元にデザインされたもの。

古代マケドニア王国の象徴である太陽を取り入れた新しいマケドニア共和国(マケドニア旧ユーゴスラビア共和国)の国旗は、古代マケドニア王国の後継を自認するギリシャからクレームをつけられた。現マケドニアのスラブ系の人々と古代マケドニア王国の人々は民族的には違うというが、いずれにしても、マケドニアとギリシャは今まさに対立関係にある。"History of Macedonia.org "というマケドニアのサイトの映画への異議は、そのような政治的、民族闘争的立場からの申し立てであるわけで、台詞の「言葉尻」すら、ことマケドニアとギリシャに関しては厳密に追及したい、というのはよく理解できる。

それでも、アレクサンドロス大王がマケドニアの誇りであることには変わりはなく、「映画間違ってるよ」ページ以外のところに、マケドニアの旗バージョンの映画のポスターが誇らしげにしっかり載せてくれてある(笑)。

やっぱりオリバー・ストーン監督の作風というのは、誤解されやすいのだなあと思う。パレスチナなどと同様、長い間デリケートな状況が続く地域の歴史を描くというのに、考え抜いてあってもその説明がされていないから、つまらないところで本家本元にの一見さんにダメ出しされちゃって、「社会派」形無しである。登場人物たちは、民族によって英語の訛りにまで変化がつけられているというのに……。ギリシャでは、さんざん同性愛描写が取り沙汰された上に最終的に「取るに足らないつまらない映画」として片付けられ(←ひどいよ)、マケドニアでは、ギリシャとマケドニアの区別もつかない「間違った映画」だと思われ(←これは映画の方にも落ち度がある)、甚だかわいそうな作品である。

それにしても、東欧の問題は難しい。(調べてもなかなか頭に入らない←単なるバカだ)

そういえば、随分と気に入ったドイツ映画祭のドイツ映画も、それぞれの映画の中に、旧東独側の出身か西独側の出身かがキャラクターや人生に影響を与えていることが表現されているとか、近隣諸国からの外国人の存在がドイツ人の個々の生活の中にまで様々なかたちで「流入」してきていることが描かれているとか、そういったことが、後からパンフレットの解説などを読んで初めてわかった。むろん社会背景を理解できていなくても、ドラマ自体、十分に見応えのある作品が多く、頭が空っぽな自分でも楽しめたのであるが……。ヨーロッパ圏外の人間には、映画の中で台詞として出てこない限り、登場人物がロシアから来ている人か、ポーランド人か、ユダヤ人か、旧東独の人かはわかりにくい。よしんばどこの国の人かがわかったとしても、その国の政情や民族についてを知らないと、エピソードや台詞の意味がわからない場合もある。ましてや歴史物など、きちんと理解するには、前知識として必要なものがもっと多いはずだ。

いや本当に、いくつもの国(民族)が地続きでひしめくヨーロッパってのは難しい。

少年ジョナサン

hajr01《A Home at the End of the World》でジョナサンの少年時代を演じたHarris AllanくんについてIMDBを見ていたら、彼はかのアメリカ版《Queer as Folk》に出演していたことを発見。右の画像はそちらからのものだ。この作品はUS版やらUK版やら複雑で、見ていない自分にはさっぱりよくわからないのだが、取り合えず "The Complete Fourth Season" のDVDセットには彼の名がクレジットされている。しかしこの画像、役柄の人格が伝わってくるような、なかなか見事なものだと思うなあ。くわしい方、彼がどんな役なのか、教えてください。

  ↓

7/7付のコメントをくださったゆうきさんのWeblog(Michael_Ben Ultimania)に、Harris Allanくんの役柄の詳しい記事がありました。か、かなり複雑な背景を持ったキャラクターだ。

2005.06.25

鉄西区 フランス版DVD

Alouestdesrails今年の1月に王兵監督の9時間ドキュメンタリー『鉄西区』(Tie Xi Qu/英題: West of the Tracks)のDVDがフランスで発売されていた。今日たまたま大陸サイトの記事(フランスで発売されたDVDの海賊版(!)を見た人の感想らしい……)を見たのでここ書いているわけだが、調べたら、当然 "amazon.fr" でもちゃんと売っている(正規版)→ "A l'ouest des rails "(『鉄西区』)。DVD4枚組。フランスだね~。

さて、先週の日曜日に《 A Home at the End of the World 》のDVDを見ていた。配給会社であるギャガのこの文章を見た当初、「……兄弟のようにして始まった二人の関係は、ジョナサンの恋人を巻き込んだ三角関係へと発展していく。愛と孤独を分かち合う、強い絆で結ばれた二人のほろにがい青春を描く……」という核心部分の説明を「違うじゃん」と思っていたのだが、今回その見方を改めた。確かに、原作ベースで考えると「違う」。だが、映画のみを落ち着いて見直してみると、意外にこの説明は正しい気がしてくるのだ。

映画は、明らかに話の中心が「ボビーとジョナサンの2人の運命的な結びつき」に絞られている。クレアはどう見ても、ジョナサンとボビーの間で恋愛テイストの三角関係を形づくっている。

ニューヨークの3人の部屋からジョナサンが急にいなくなった理由も、原作と映画では違う受け取り方ができそうだ。終盤のクレアの決意の理由も……。その「決意」の時点で、(映画の)彼女はジョナサンの病気の可能性すら知らないはず。最初は微笑ましげに、しまいには涙ぐみながら、ジョナサンとボビーのダンスを見つめるクレアをどう解釈するか。その後、眠っているジョナサンを起こし、語りかけるクレアの台詞をどう受け留めるか。彼女の決断の理由は、原作でのそれとは全く違うものだと感じられてくる。

映画HATEOTWは、小説の世界とはまた違う、ちょっと変わった、しかしどちらかというとよくありそうな「大人の三角関係話」を見せつつ、最終的にボビーとジョナサンの物語として筋を通す、というところを目指していると思われる。成功しているか否かは別として、だけど。

2005.06.20

デュカプリオ再び

基本的には、自分のWeblogのことはリアルの知り合いには教えないのだが、たまたま魔が差して知らせてしまった友人がいる。もちろん相手は、自分がここでどんな恥ずかしいことを書こうが後ろ指をさしたりはしないであろう、ちゃんとした大人である。先日、その友人と「スクリーン」(映画雑誌)の話をした。

「スクリーンってのは、昔から人名表記が独特でね、(今は知らないけれど)マーチン・スコルセーセとか、ジュリー・アンドルーズとか書いてたんだよ」と自分。すると彼女が、「じゃあ、「デュカプリオ」っていうのもそれなんだね~(笑)」と言う。

いや、それまで気付かなかったのだ。レオナルド・ディカプリオだって……(汗)。確かに綴りは "DiCaprio" だもんな~。ここでも、過去に何度もデュカプリオって書いてた気がする。う~ん、思い込みってこわい。阿呆の記念に、あのエントリのタイトルはそのままにしておくことにした(笑)。

まあ、ほかにもご指摘いただければ、そういう、思い込みでの恥ずかしい表記ミスは沢山あると思う。

だいたい、ホウ・シャオシェンのホウが「候」ではなく「侯」だと気付いた日も、本当に穴があったら入りたかったもんなあ。「西原理恵子」が「サイバラリエコ」だったとわかったときも。

大昔には「ホテイトラヤス」とか「ゼットガンダム」とか発音して、後輩に笑われた覚えが……。

そんなボンクラな自分も、他人のミスには厳しい。言わないけれど、厳しい(笑)。←最低じゃん。

よくある例だと、一般映画ファンならいざ知らず、中華系の電影迷が「非情城市」と書いていると、本当に悲しい。いや、いまだに多いのだ、この例は。

誤記ならまだしも、「この人がこの言葉を使うか」と思うとがっかりすることもある。

以前、個人の日記のWeblogで、非常にクールな文章を書く女性がいた。もちろん、本人を知っているわけではないが、ある日彼女が、その日記の中で「お洋服」という言葉を使った。まあ、「お洋服」という言葉自体は、好きではないが決定的に嫌うような言葉ではない。最初からそういう言葉を使いそうな人がそういう言葉を使うなら、別段驚くにはあたらない。だが、普段とても冷静で、ユニセックスな文体に好感を持って面白くて読んでいた彼女の文章の中でこの単語を見たとき、こちらの相手への勝手な(本当に勝手な)思い入れが覆されてしまった気がして、以来、徐々に幻想が薄らぎ、いつしかRSSリーダーから登録を外してしまった(いやあ、読み手なんて勝手なものだ)。

「お洋服」タイプの言葉では、「お給料」という言葉も、使われるとかなりがっかりするのだが。「デュカプリオが何を言うかね」と、笑ってやってください。

LINEUPに登場

ずっと何にも出てなかったが、やっと配給会社(アートポート)のラインナップに登場した(って、とっくに出てたのかな?)。同じラインナップ中の、タイ映画『ビューティフル・ボクサー』も必見か? ビューティフル…は2005年秋公開で劇場まで決まっているのに、17歳…は相変わらず2005年公開、というだけなのがちょっと寂しいところ。

2005.06.17

相変わらず

こりもせずにまた、大王関連書籍を読んでいる。なぜか頭の中では、大王の顔はC・ファレルではなく、ルーブル美術館所蔵のアレクサンドロスの胸像の顔なのだが、他の登場人物の顔は映画のキャストどおりである。何だかだんだんごっちゃになってきたが……。

少し前に、日本人女性の書いている日記のWeblogで興味深いものを読んだ。書き手は、海外で勉強する若いお嬢さんらしいのだが、何と彼氏がマケドニア人。彼に「尊敬する人は?」と尋ねると、瞬時に「アレキサンダー」という答えが返ってくるんだそうだ。そして、マケドニアの歴史を語れば、ノンストップ&オーバーヒート。故国を誇りに思う気持ちは、それは大きいらしい。微笑ましい恋愛話が、別の面でも非常に楽しめた。いやあ、アレクサンドロスだって、神々や理想について語ったら、傍迷惑なぐらいうるさそうだもんなあ。気質ってあるんだろうか。

C・ファレルの米国で年末公開予定の新作はテレンス・マリックの《The New World》。寡作だが評価の高い監督で、調べてみたらこの人、張芸謀(チャン・イーモウ)の『至福のとき』の制作にも関わっている。『至福のとき』(原題:幸福時光)自体は、タイトルとは裏腹なけっこう恐ろしい話だったりするのだが(実は結末はいくつかバージョンがあるという)、盲目のヒロインの父親役の趙本山さん初め、芸達者なオヤジぞろいで、その点は見るべきものもある。《The New World》のトレイラーを見ていると、古装だし、アリストテレスことクリストファー・プラマーが語ったりもしていて、大王ファンにはなかなか嬉しい。4月ごろだったか、14歳のヒロイン(ポカホンタス役)相手に演じたラブシーンが濃厚すぎて、撮影終了後にそこだけ撮り直しを命じられたC・ファレルのニュースを見たが、いよいよ予告も出来てひと安心?

2005.06.16

Who?

テレビで『ザッツ・エンタテイメント PART3』の後半1時間を見る。正しくは月曜から毎日必死で早く帰宅して、『ザッツ・エンタテイメント』の1作目の後半1時間と、PART2の後半1時間も見ている。後半1時間なのは、がんばってもそれ以上早く帰宅できないからである(もっと遅く放送してくれ)。1と2はかなり昔に既に見てはいるのだが、改めて今じっくり見ると、ジーン・ケリーの華やかな表情と柔軟な動きに圧倒される。体操選手かバレエダンサーのような肉体に、物凄い運動神経。ハリウッドでは異例のスタントなしだそうだ。その上に心に染みる満面の笑み。彼を見ていてふと、(インド映画は何本も見ていないので決して詳しくないが)まばゆいオーラを放ち、柔らかで力強いパフォーマンスを繰り広げるシャー・ルク・カーンを思った。

3作の中では、ジーン・ケリーが監督した2作目がとても良いような気がする。

さて本題はそんなことではない。今日初めて見たPART3の中に、1946年の日本未公開ミュージカル『雲流るるはてに』(Till The Clouds Roll By)の、ジュディ・ガーランドが歌うシーンがあった。カナリア・イエローの美しいドレスを着て彼女が歌うのは、「Who?」という曲である。この歌を聴いた途端、長年の疑問の1つに答えを得た。

この歌こそ、『アナザー・カントリー』の中でガイ・ベネット(ルパート・エベレット)が、ジェームズ・ハーコート(ケアリー・エルウェズ)との初デートの後、とっくに門限を過ぎてしまった自分の寮(の図書室?)に窓から忍び込み、たまたまそこで勉学に勤しんでいたトミー・ジャド(コリン・ファース)の横で床に寝転んだまま、ああでもないこうでもないと話しかけて邪魔し、勉強をあきらめたジャドが去り1人に残された部屋で、仰向けのまま幸せそうな表情で歌う歌なのだった!(もう20年も前の映画だというのに、この作品だけは何にも調べずに、湧き水のように言葉が出てくるってどうかね、俺……)

その夢見心地の歌につく字幕は「君に心を奪われて/僕は夜昼夢心地/かなわぬ夢と知りながら/幸せいっぱい躍る胸」(←さすがにここはDVD参照)。あとから調べてみたら、この歌の曲名をきっちり記述している海外サイトがちゃんとあった。英語の歌詞も載っていた。英語だと、同じ部分は「僕の心を奪ったのは誰?/僕を夜昼夢見心地にしているのは誰?……」というような言葉になり、つまりそれが曲のタイトルの「Who?」である。もちろん「誰(Who)」かといえば、それは「君(You)」なのだけれど。

『雲流るるはてに』(Till The Clouds Roll By)では、さすがに大人の女性になったガーランドが歌うだけあって、ベネットが酔っ払って歌った腑抜けた鼻歌ではなく、それはそれはかっこ良いものだった。

2005.06.15

チコ

千葉工業大学のマスコット、チコ。もちろん名前は、「ウギョウダイガク」からつけられたのだと思われるが、このキャラクターのかわいさの半分は名前にある。単に学校の名前の頭の音を並べただけなのに、イタリア人名のようなポップなかわいさを醸し出すネーミング・センスは本当に素晴らしい!

チコを知ったのは何年も前だが、どうやら毎年受験生向けの「オープン・キャンパス」の時期になると、沿線の電車内にポスターが貼られるらしく、そのポスターに毎年添えられるのがチコの画像。そんなこんなで、今年もチコの姿が目につき、存在を思い出した。「うわ~、かわいい!」というような決定打はないのだが、見かけると、頭の中が「チコ」「チコ」「チコ」「チコ」とその名でいっぱいになってしまう……。初めて見たときから、気になる奴だった。

CGだし、身体のフォルムは某世界的に有名なネズミ風だしで、基本的には明るいのだが、どことなく佐川急便の飛脚を思わせる顔の形、殊にニンマリとしたスマイルマーク型の口が顔のやや上についているため、下からあおったアングルの不気味さの陰が加味され、このキャラが深みを増しているような気がする。

サイトを見て気付いたが、チコと一緒にいる、スピード感の増した「ぴちょんくん」のようなキャラクターは何だろう?

2005.06.14

梅雨ですが

台湾では、もうすぐ第7回台北電影節(2005年6月25日~7月9日)。きょうの映画祭がらみの芸能ニュースは、どこも2004年と2005年のベルリン国際映画祭テディベア賞を受賞した2本の映画が上映されるという記事が。《狂野三人行》はフランス映画 "Wild Side"(フランス映画祭横浜2004で上映)。《日以作愛》はアルゼンチン映画"A Year Without Love"。小さいながらも画像が強烈で、本日やたらと目についた記事だ。

テディベア賞といえば、先週出かけたドイツ映画祭で必ず予告編上映にかかっていたのが『ノミ・ソング』。あまりに何度も見たので、すっかり洗脳されてすっかり見る気になってしまった……。80年代に青春(なんて言葉を使えるようなすがすがしい人柄ではないのだが)を送った者にとっては、このへんの音は、頭というより身体に自然に響くのだった。

白先勇原作、曹瑞原監督のテレビドラマの方の《孤戀花》は、もうDVDが発売になっている。8枚組2500台湾ドルということで、相変わらず高価な曹瑞原ドラマである。映画版DVDが出たら是非買おうと思ってはいるのだが、ドラマはどうするか……。"女同志"系といえば、『蝴蝶 羽化する官能』は東京国際レズビアン&ゲイ映画祭で上映されるというのに、何と大王DVD発売日と同じ日に国内盤DVDが発売されてしまう。東京国際映画祭のときには公開するという話だったのに、映画祭上映のみでDVDスルー? アルゼンチン映画『ある日、突然』のDVD発売情報もどこかで見た気がしたのだが、見つからなくなってしまった→見つかりました

そして、『アレキサンダー』DVDだが、発売元の松竹の情報。もう完全にコメンタリーはなし。近所のCD屋にチラシがあったのでもらってきたけれども、映画を見てない素人が書いたようなしょうもない紹介文で、しかも「世界制服」だった。う~。それで「男の生き様を見よ」HOLLYWOODキャンペーン(笑)と銘打って、『マイ・ボディガード』と『アビエイター』と一緒にカテゴライズされて売られようとしている……。どうせなら、プレゼントなんかいらないから、特大ポスターでもください、大王が馬に乗って脚が見えるヤツ。

うーん、実のない記事でスミマセン。

2005.06.12

『この世の果ての家』胡言乱語

以下は、小説『この世の果ての家』(マイケル・カニンガム著)について書いたもので、完全にネタバレです。小説を未読で、そういうことが気になる方は読まないでやってくださいませ。(しかし、ネタバレなんて概念、いつ生まれたんだろう)

「家(house)」と「家庭(home)」の違いについて、遠い昔、外国小説の中で読んだ記憶がある。「家(house)」という容れ物は、そこに暮らす人々とともに、新しい命の誕生と婚礼と葬儀を経験し、その記憶を刻むことで「家庭(home)」になるのだと……。

マイケル・カニンガムの『この世の果ての家』を読むときにはいつも、頭のどこかに「家庭」という言葉がひっかかっている。日本語では「荒涼とした地の果てにある、人も住んでいないような寂しい一軒屋」というイメージの浮かんできそうなこの小説のタイトルに込められた作者の思いは、むしろ、人が日々を営む基盤としての家庭にあるのではないかと、その原題の "a home" の部分を見ながら思う(とはいえ邦題は美しく、ほかの言葉が浮かぶわけではないのだが)。思えば、ボビーとジョナサンの店の名前も「ホーム・カフェ」だった。

文庫版に収められた柿沼瑛子氏の解説にもあるが、新しい形の家族・家庭というこの作品の主題は、アメリカの70年代から80年代にかけてのゲイを取り巻く社会状況の変化、解放運動によって「フリー」なものとなった性が、エイズという疾病の出現により、固定的な関係の間の「閉じた」ものに変わっていく中で、親密な関係の相手と家庭を築いていこうとするような、個々の生き方にまで影響するその変化を映したアメリカ文学の1つの流れの中心に位置するものだ。

小説は、第1部が主人公のジョナサンとボビーのクリーヴランドでの幼いころから少年時代までを、第2部は20代半ばとなったジョナサンと、ルームメイト兼なかば恋人のようなクレアが暮らす部屋に、ボビーが加わるニューヨークでの日々を、第3部はジョナサンとボビーとクレアと、クレアとボビーの間に生まれたレベッカと、呼び寄せられてやってくるニューヨーク時代のジョナサンの恋人エリックとの、「ウッドストックから5マイル」の古びた一軒屋での暮らしを描く。(※ウッドストックはニューヨーク州東南部、大都市ニューヨークの郊外にある町)

登場人物たちの属してきた血縁に基づく伝統的な家庭は、それぞれの事情によって、どこもみな壊れてしまったか壊れかかっている。クレアの両親はクレアが子どものときに不幸な別れ方で離婚した。ボビーの家庭は、彼の兄カールトンのドラッグを遠因とした事故死をきっかけに、そのショックで心に傷を負ったまま睡眠薬を飲みすぎた母が亡くなり、飲酒と火事により父も亡くなり、消え去った。ジョナサンの場合は、一見幸せそうな、料理上手な母と映画館を営む父と3人の「理想の家族」として、地元紙に掲載されてしまうような家庭だが(映画『エデンより彼方に』を思い出す)、母アリスが第2子を死産したころから、父ネッドとの夫婦の絆の空洞化が進んでいく。この物語が、モダンアートを思わせる詩情と諧謔を散りばめた美しい文章で書かれていなかったら、そして訳者あとがきにもあるように、章により語り手が変わり時間軸がずれることによる、物語の新局面の衝撃からの緩和がなかったら、何とリアルで辛い話だろう。何と荒れ果てた、寂しい世界なんだろう。

"the end of the world" という言葉には、「地の果て」という意味のほかに、「破滅」という意味もあるのだそうだ。 "home" が人生の基盤としての家庭なら、 "the end of the world" とは何を示すのか。ジョナサンとボビーとクレアとレベッカ(とエリック)という家族が暮らす家(の建つ世界)のことを、作者のカニンガムが「この世の果て」などと形容するわけはあるまいと考え、ずっと疑問に思ってきた。

ふと浮かび上がってきたのは、ニューヨークでのエリックとジョナサンの会話だった。フィジカルなつながりのみの恋人として関係を続けてきた2人の身辺に、HIV感染の危険性と病気への恐怖が迫ってきた夜、ベッドでジョナサンが言う。「恐ろしい世の中になったもんだ」。重ねてエリックか(あるいはジョナサンが)嘆く。「まったく。実に恐ろしい世の中になった」。

「この世の果て」とは、現代の世の中そのもののことだと考えたらおかしいだろうか。従来の価値観が崩れ去り、伝統的な家庭は内部崩壊、人々を不安に陥れる病が流行し、人が自分をとりまく最も小さなサークルの中に閉じこもり始めた、そんな「人の世」のなれの果て。人間の行き着いた先。まさしく今このとき。それが "the end of the world" なのではないか。

そこに建つ家では、この世で(誰もがそうであるように)傷ついた人々が、未来への希望と現実への絶望の狭間で静かに暮らす、新しい「家族」として。「この世の果ての家」とは、「終末の世界(The end of the world)」にひそやかに灯るある1つの光だと、暗い海から望む小さな灯台のようなものだとは言えないだろうか。

ホームパーティからはじき出された子どものボビーは、自分に味方してくれなかったカールトンを恨みに思った弾みで「カールトンに何か恐ろしいことが起こればいい」と願ったまま、兄を失うことになる。「母さんは赤ちゃんが欲しくないんだ。ぼくたちは赤ちゃんなんかいらないんだ」と言い続けたジョナサンの母は死産し、ジョナサンは生まれるはずだった妹を失う。子ども時代のボビーは、夜中に起き出した父に付き添って、父をベッドに寝かしつけたが、ジョナサンは、夫婦関係に悩む父が自分に関心を持ってくれている証しに、自分をベッドに入れてくれることを切望した。少年時代、氷が解けたか解けないかという早春の湖に飛び込むジョナサンを、引き上げ救い出すボビー。最終章では、生の実感を求めて春まだき湖の中に足を踏み入れる裸のエリックとジョナサンを、制止しつつ優しく見守るボビー。2人が出会う以前から巧妙に重ねられた対照的なエピソードや相似形のエピソードが、磁石の対極のように引き合い、双子のように重なり合って、ジョナサンとボビーの固い絆と運命を印象付ける。

だが「一心同体だ」というジョナサンとボビーだけでは話にはならない。この小説は、類稀な2人のつながりを描いてはいるが、もちろん2人だけの世界などを描こうとはしているわけではない。そこにクレアがいて初めて、家族の1つの新しい形を追うための可能性が生まれてくる。3人というのは、1対1の人間関係に第三者が介在しうる最少の人数だ。ことにパートナーシップ、人生における伴侶、2人であることが重要視される西欧社会において、夫婦を中心とした家族というものが限界に来ている現実がある以上、ユニットを分解し別の形に組み上げない限り、家族の、希望の持てる未来を描くことは難しいだろう。

かくしてクレアは登場する。彼女が女性であることの理由の1つは、新しい家族が未来への可能性の蜘蛛の糸を落としていくために、次世代の命を育みうることが必要だからということはあるだろう。作者はクレアが、性別の押し付けられた文化的役割からやや距離を置いたところに存在できるような設定をほどこしている。彼女が子産みの道具としての存在になってしまわないよう、かなり早い段階で「わたしは子どもが欲しかった」と能動的な動機を示しているし、男性2人に対する女性1人という家族構成において、彼女が彼らより年上であること、経済的に自立していることも、然るべき設定だろう。無論、そうしたプロパティの面からだけではなく、彼女のファッションからもわかる軽みと頑固さを合わせ持った人柄、ジョナサンとの姉妹のような恋人のような「理想的」な関係、生い立ちやそれまでの人生経験など、人間クレアの描写からも、例えばレベッカとともに出ていく結末などは、意表をつかれる反面、彼女らしい決断であると納得できるのである。

そして、この小説独特の決して軽くはないが柔らかな手触りを決定づけているのは、やはりボビー・モローの存在だろう。ボビーのまわりに跳梁するのは「新しい国」のイメージだ。兄カールトンが示すその未来の国では、ボビーはフリスコという名前を持っていて、「仕事や勉強から解放」された人々が「川のそばで木々に囲まれて暮らす」。そこは「光輝く完璧な単純さ」の国である。だがドラッグと音楽をよりどころとして、愛と平和を夢見た60年代の理想がついえたことの象徴のようにカールトンが亡くなると、「未来」は失われ、ボビーは可能性というものを持ち得ない「永遠に死んだままの人々」の世界を背負ったまま、この世の捕らわれ人となる。

できないことは何なのかとクレアに問われたボビーは、「ぼくはひとりになりたくない。ひとりきりになったことがないんだ」と答えている。だから、ボビーはいつも「そこ」にいる。ジョナサンと出会ったときのボビーも、そこに居合わせたのが偶然であるかのようにさりげなく、しかし確実に、ジョナサンのそばに立っていた。カニンガムの小説では、悩みを抱えた人はどうやらみな、現在の生活の外へ出て行くか、出て行こうとしている。でも、ボビーは出て行かない。「ぼくは兄のあとを追ってこの世界に入ってきて、一度もここを離れたことがない」。クレアがレベッカを連れて家を去ったあと、もしジョナサンも一緒に行ってしまっていたら……と考え始め、ボビーがパニックに陥りそうになるモノローグ、「ぼくはこの家がばらばらになるのを黙って見ていることはできない。時間がかかりすぎるから、もう二度とふたたび建て直しはできない」。波立つ心を静めたのは「僕には仕事がある。屋根を修理するのだ」という自覚だった。まるでスカーレット・オハラのあの呪文(「今、考えるのはよそう。頭がおかしくなりそうだわ。あした考えましょう」というあれ)のような……。そうやって彼はいつも、のぞき込んでしまった虚無の深淵に背を向け、眼前にある日常のなすべきことに向かうことで、危機を乗り越えてきたのだ。

辛い経験が人間を磨くとは限らない。心の傷が人間性や人生をぼろぼろにしてしまうこともある。ボビーは、壊れてしまっているとも言えるし、完璧であるとも言えるだろう。彼の真ん中には、スポンジのような、ブラックホールのような空(くう)がある。その虚無に対峙すれば、生きる気力を失ってしまうかもしれない。だからこそ彼は「ひとりにりなりたくない」のだろうが、またそれゆえ彼のそばにはいつも人が寄り添う。自分を持て余している現代人(特に小説の世界の80年代の人々)にとって、ボビーの静寂と平穏は、安らぎと神秘に満ちたマイナスの引力であるからだ。

レベッカという彼の娘(そしてボビーとクレアとジョナサンという新しい家族の娘)がこの世に生まれると、カールトンとボビーの描いた「新しい国」が、形を変えてふたたび姿を見せ始める。クレアは父親としてのボビーのことを、「彼は血のつながりというものを、さほど重視しない。レベッカを抱いているボビーを見ていると、ときにわたしは、彼にとって娘がどういう存在であるかがわかるような気がする――彼の世界の未来の市民だ」と評する。日常生活に満足し、泰然自若たるボビーに向かって、クレアはこうも言う。「結局、ジョナサンとわたしの方がはるかに保守的なんだわ。わたしたちは毎日鏡をのぞいて、そこになにが映るかを確かめずにいられないのよ。ところがあなたときたら、ただやりたいことをやるだけ。そうなんでしょう?」。

レベッカは、未来に向けた彼ら家族の希望である。それは血のつながりとは関係がない。彼らが一緒に家庭を営んでいた記憶が、茶色い古ぼけた家を媒介に彼女にリレーされる。ボビーがカールトンの未来をも生きてきたように、ボビーやジョナサンやクレアがこの世からいなくなっても、たとえボビーやジョナサンのことを直接知らなくても、レベッカには彼らが家族だったことが伝わるはずだ。

最初にこの話を読んだときに、柿沼瑛子氏の解説の締めくくりに置かれた詩を見るまでもなく、高校生のころ大好きだったアルチュール・ランボーが17歳のときに書いたという「見者の手紙」を思い出した。それは作品ではなく、新しい詩の意想を説いたという私信で、いかに詩人としての感覚(目)を研磨していくかということが、若者らしい熱気を帯びた調子で述べられているものだ。

「(前略)深い信念と超人的努力とをもって初めて耐えうるのみの言語に絶した苦痛を忍んで、初めて彼はあらゆる人間中の偉大な病人に、偉大な罪人に、偉大な呪われ人に、――そして絶大の知者になる!――なぜなら、彼は未知に到達するからだ!――すでにみずからの霊魂の練磨を完了したこととて、誰よりも豊富な存在になにっているからだ。すなわち彼は、未知に達したわけだ。だから、万一彼が狂うて、自分が見てきた幻影の認識を喪失するにいたるとしても、すくなくとも彼はすでに一度それを見たのだ! 彼が見たおびただしい前代未聞の事物のうちに没し去って、彼が一身を終ったとしても嘆くにはあたらない。なぜかというに、他の厭うべき努力者どもがつづいて現われるはずだから。彼らが先に彼が没し去ったその地平線のあたりから踏み出して、詩を進めるから!」
(新潮文庫『ランボー詩集』(堀口大学訳)の「ランボー略伝」中より引用)

引用した手紙の最後の部分は、詩とそのビジョンが、詩人の個体を越えて次の詩人に受け継がれていくことを示していると思われるが、レベッカとはまさにそういう、ジョナサンやボビーにとって、血のつながりや体験や面識を越えた未来への希望なのではないかと感じたのだ。

実は『この世の果ての家』の感想は、ランボーのこの「見者の手紙」で終わるはずだった。が、この小説のもう1つの側面、新しい家族を模索した物語であるとともに、とても大切なもう1つの側面に触れていないことに思い至った。それはジョナサンだ。

ジョナサンは、幼いころから何らかの役割を演じ続けてきた。その場に最も相応しい役柄を。子どものころの、化粧と髭剃りのシーンなどからもそのことがうかがえるし、母アリスとのやりとり、恋人エリックとのやりとり、そしてクレアとのやりとりの中でさえも、彼が何らかの仮面をつけているいることが描かれている。そして、未来のいつの日かその仮面を脱ぎたいと、彼はずっと願い続けてきたはずなのだ。

父ネッドとの最後の場面でも、ジョナサンはずっと、最愛の父に本当のことを言いたくて、でも結局言えずに終わってしまう。この小説の中で最も印象深かったのは、何ともはや、このネッドとジョナサンの、苦しいアリゾナの星月夜の場面だったりする(その次は、ネッドの葬儀の前に道端で取っ組み合いをするジョナサンとボビーの一節だ)。

「木星から送られてきた」ボビーに比べると、作者が自分をさらけ出し苦しんで描き出したジョナサンの方が、一般的に読者に近い存在だと思われる。少なくとも自分には、内容こそ違うものの、ジョナサンの苦しさには共感しやすかった。だから、頭を「いつか来るはずの輝かしい未来」に向けたまま悩み続けてきたジョナサンが、周囲の「家族」と過去の経験を含めた、広い意味での今の自分を認めて生きていくことに至る最終章を読むと、この小説が新しい家族を模索した物語であると同時に、ジョナサンという少年の自己克服の物語でもあると思えるのだ。

作中に何度も登場する「可能性」と「未来」という言葉がある。面白いことに、「可能性」は登場人物たちが自分たちの希望を少しずつ実現していくなかで、どんどん失われていく。「この世の中は可能性に満ちあふれている」といったのは9歳のボビーだが、人は、生きるほどに、あったはずの可能性を失っていくものなのだ。それは時間軸の上を生きている人間なら当然のことだ、残り時間が少なくなるのだから。

「それまでぼくは、未来を生きつづける期待を維持した状態で、その未来のために生きていた。だが、ボビーとエリックと一緒に凍るような湖の浅い砂底に裸で立ったとき、その状態がふいに立ち切られたのだ」

この最終章のジョナサンのモノローグは、病と死への覚悟という読み取り方もできるだろうが、作者が敢えて病名も出さずカテゴライズを嫌っている以上(文庫版解説より)、やはりここは、彼が自身とその人生を受容したのだと読みたい。それまでずっと、カニンガムの小説で死に惹かれていることの象徴である「水に入る人」の側であったジョナサンが、最後の最後、ホビーとともにエリックを陸に連れ帰る人となる。

モロー家父子3人のコンヴァーティブルの疾走で始まる物語は、静かな湖をそっと歩む3人の男の遠景で終わりを告げる。ある物語を定義するためにはハッピーエンドかそうでないかという視点も必要だろうが、このラストシーンは、生きていけば誰もが同じように可能性をすり減らしていく人生の、その時々の光景が、実はとても美しいものだと教えてくれているようだ。この物語の、さまざまな場面が美しかったのと同様に。


※文中の小説からの引用部分はすべて、角川文庫『この世の果ての家』(マイケル・カニンガム著、飛田野裕子訳)による。

2005.06.10

ドイツ映画祭はまり中

土曜から昨日にかけて、ぽちぽちと5本のドイツ映画を何とか見ることができた(@ドイツ映画祭2005)。気まぐれ&不確実な仕事なので前売りは2枚しか買っていなかったが、こんなに行けるなら5回券を買っておけばよかった。いずれにしても当日券で入れるイベントは大好きだ。

どの作品にも共通して言えるのは、人間関係を描く部分は、夫婦であれ恋人であれ友人であれ家族であれ、とことんまで言葉を戦わせてお互いの気持ちを伝えようとすることだ。あいまいな思いやりや、婉曲表現などに逃げることがない。よってどの作品も、見るのに大変疲れる。ほかの映画祭では1日に3本程度なら、(体力は別として)気力面でさほど堪えることはないが、ドイツ映画は強烈だ。2本見た5日の日曜日など、2本目が終わったらぐったりして、まだ外が明るいのにまっすぐ帰宅してしまった。1本はコメディだったにもかかわらず。

自分のセレクトか、映画祭のセレクトかわからないが、家族のあり方をテーマにしたものが多く(だから見るのはキツい)、しかも中年男が堂々主役を演じ、それでも面白いというびっくりな状況である(『何でもツッカー!』『ヴィレンブロック』『アグネスと彼の兄弟』)。青春物の『青い棘』と『夏の突風』は片や退廃美、片やリアリティ満点の全く違う作風でありながら、どちらも高い完成度で満足させてもらった(特に『夏の突風』、ぜひ公開を望む)。韓国映画とはまた違った、真正面がっぷり四つで重厚な見応えのドイツ映画は新鮮だ。あとは日曜日に気が向いたら『幻影』と『9日目』を見にいくつもりでいる。もちろん当日券(苦笑)。みなさんも、行ける方は見てみてください。すごいです。

2005.06.03

デュカプリオ

このあいだの日曜日に見にいった映画の前に、ショーン・ペン主演の『リチャード・ニクソン暗殺を企てた男』の予告編が上映されていた。この作品のプロデューサー陣に名を連ねているのはレオナルド・デュカプリオ。そういや、彼はバリバリの民主党支持者だったな。もちろん、海外じゃ支持政党を明らかにする芸能人など珍しくはないようだが。いや、演じ手として作品にかかわる場合は全く別だろうが、でも、ここまで意識を持って活動している人間が演じるアレクサンドロスなら、単なる("白人"のあこがれの)英雄として描かれてしまうことはないんじゃないかなあ……と薄ぼんやりと感じた次第。政治的な立場と、俳優であることは違うかもしれないが、信念を持って生きていたら、ポリシーと余りにもかけ離れた作品に出るのは、よほどの理由がないかぎり自分自身が許容できないと思うんだけど。日本なんかたまたま西側についてはいるけど、本質的にはバルバロイ(蛮族)に区分けされるはず。そういう立場からすると、やはりアレクサンドロスを多角的にとらえたものの方がしっくりくる。監督はさておき、ちょっと期待する←浅はか?

と、日曜日の夜にすぐ書いた感想だったのだが、下書きのまま放ってあった。う~ん、今、書き続けているものがこんなに時間がかかってしまうとは。てなわけで、「つなぎ」にアップロードしてみる。

あ、オーケンが、筋少のベーシスト、地蔵との異名のあった内田雄一郎と「仲直り」した話を読んだときには(「神菜、頭をよくしてあげよう」68回)、思わずうっちーがボビーに思えたよ。あのボンヤリ感は、ボビー的だよな。

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