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2005.05.28

国内盤DVD詳細

えーー、監督コメンタリーねえのかよ~。う゛゛ーーー。

『アレキサンダー プレミアム・エディション』 タイトル詳細

この見事におざなりな特典内容(予想してたけど)。

各地で話題になっているイタリア盤とか……どうせカットされちゃったきったねー特典映像なんかどうでもいいすけど、コメンタリーないよね、これ? それとも記載もれ? 海外盤には収録されているんだし、コメンタリーに字幕つけるだけでいいのに、購買需要が大して見込めない大長編映画には、そんなに予算もとれないって?

英文字幕付きでコメンタリーが収録されている、海外のどこかのDVDを探して買うしかないのかなあ。

2005.05.26

Bitter Sweet Life

『甘い人生』初登場シーンでイ・ビョンホンが食っているのは、「ビタースイート」なコーヒーゼリーか?

キム・ジウン監督の映画は、良い意味でマンガ的だ。もう一歩足を踏み出しら、やりすぎになってしまうのではないかと思うようなデフォルメされた物語を、凝った美しさや心地よいスピード感を持った、しかも非常にセンスの良い映像で有無を言わさず見せてくれる。余韻や後味よりも、映画の時間の中で大いに酔わせ楽しませる、堂々たるエンタテイメントだ。クールだが、神のように裁かず放り出しもせず、登場人物たちに、仏のような慈しみの視線を遠くからそっと投げかける。キム・ジウン作品が、愛(恋愛)を主軸に据えないのも、好きな理由の1つである。

今回の『甘い人生』は、「(ヤクザな)ホテルマンが社長(親分)の愛人を横恋慕したことによって(親分の逆鱗に触れ)人生から転落する話」と紹介されているストーリーだが、「親分の愛人」への主人公の想いが、作品の中で重きを置かれているかというと、自分はそうは感じなかった。社長の若い愛人ヒス(シン・ミナ)への想いは「きっかけ」であり、作品をまとめあげるための鍵ではあるが、本質は「7年も仕えた、ボスの信頼あつかったこのオレ様が、なんでこんなことになっちまったんだよ~」という主人公の不条理感に満ちた絶叫、ただもうひたすらそれだけをアクションに乗せた、何も考えることなどないシンプルなストーリーである。

素晴らしいテンポの後半の復讐劇は、「次はこうなるに違いない」と思うとおりの動きを見せるにもかかわらず、決して飽きることなく、画面に釘付けとなる。復讐と言っても、『オールド・ボーイ』のような人間の負のパワーのすさまじさを見せるような深みはない。人間とは何かとか、人生とは何かとか、そんなものを描いているわけではないので、主人公の心理や状況への説得力など不要なのだ。理不尽さを抱えて怒るだけの薄っぺらい主人公の、心のままに暴れずにいられませんでした、という暴力劇。主人公は、あくまでもアクションそのものであって、イ・ビョンホンではない。血の色を散りばめたシャープで鮮やかなモノトーンの色彩。スマートに暴走する爽快な画面。映画の最初と終りに、師と弟子との風に揺れる木々と心についての禅問答のような対話が挿入されているが、別にそんな「様式」がなくも、映画自体は既に十分かっこいい。

韓国ドラマは見ないが、『バンジージャンプする』を見て以来、イ・ビョンホンは好きだ。だが、この映画の彼には、全く存在感がない。映画俳優としての素質を疑うほどに、何のオーラも感じなかった。脇を固めるキム・レハもファン・ジョンミンもシン・ミナも手堅く良い雰囲気を出しているし、カン社長(キム・ヨンチョル)など、仏像のごとき、むしゃぶりつきたくなるぐらい色っぽい悪オヤジっぷりを見せてくれているのに、イ・ビョンホンはマネキン人形のようだ。

ひねりの効いたストーリーでもなく、主人公の過去も敢えて全く描かれない。そんなとっかかりなき物語に命を吹き込むのは、古典的な方法なら、哀愁を帯びた背中とか、孤独の中で狂気をひらめかせる瞳だとか、唯一無二の主役の魅力のはずだ。『バンジージャンプする』の教師インウ(イヌ)が学校を去っていくロングショットからは、ひしひしとその悲哀が伝わってきたし、『JSA』で物思いにふける兵士の横顔はリアルに心に焼き付いている。『純愛中毒』のあのリアリティは、もしかしたらイ・オルさんの力によるところが大きかったのかも知れない、などと疑い出すほど、今回のイ・ビョンホンには醸し出すものがない。

では、この『甘い人生』が、イ・ビョンホンゆえに何だかこざっぱりとしてしまっているからといって、魅力がないかというと、そんなことは全くない。かえって、哀愁も苦悩も感じさせない主人公の存在感の薄さが、映画そのものの美しさを強調しているような気がして、妙な新しさを感じる。ほら、主人公は「アクション」だし……。自分の存在感すら消してみせたという意味では、新しい「捨て身のヒーロー」とでも言うべきなんだろうか。もしや、監督はそこを狙ったのか。

ただし、ラストのカン社長とのラブシーンもとい対決シーン、ここだけは「目を潤ませたら韓国男優一」の本領を発揮し、古い美意識を捨てきれぬ人間にもわかりやすい、ぐっと来る表情を見せてくれるビョンホンである。

香港映画『ダブルタップ』をキム・ジウン監督に撮ってもらったら、きっとすごく良いものができたんじゃないかと、ふと思ったりして……。

2005.05.24

本当のごちそうは

新しいテレビを買ってから、夕食のときにはいつも適当に合わせたチャンネルの映画をつけている。もちろん途中からだし、メシを食い終わるとチャンネルは回されてしまうので、内容的には何だかわからず終わることが多いのだが、最近はこれが一番楽しみだ。

自分の最も安上がりな好物のおかずに、「ネギしょうゆ」がある。ネギを、そばに乗せるときと同じように細かくきざみ、生のまま醤油をかけてしっとりさせたもので、ご飯に乗せて食うだけだ。要は、ネギをきざんだ冷奴の豆腐ぬき、のようなものだと思っていただければ。

ということで、本日も夕飯を食べながらチャンネルを合わせたら、あつらえたように(←こんな形容でいいのか)映ったのが『夜になる前に』の、ハヴィエル・バルディムのレイナルド・アレナスとジョニー・デップのヴィクトル中尉の尋問シーン。この作品は映画館でも見ているが、まさかこの場面を、ネギしょうゆ飯にあさりの味噌汁を飲みながら見ることになるとは思わなかった。いや~、BSデジタル放送ってすばらしい。 

いつかは、テレビでバビロンのバルコニーシーンでも見ながら、とろろ飯でも食べてみたいものである。

部屋の蛍光灯のスイッチが壊れたので、スタンドの明かりで本でも読みながら久々にまともな時間に寝るとします。

2005.05.22

並べてみる

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亮香さんの范植偉についてのコメントを受け、市川雷蔵(上)と范植偉(下)の画像を拾って並べてみた。(画像は市川雷蔵祭りのポスター画像&本の表紙&CDジャケットより。范植偉はニエズ公式サイトの壁紙&メディアのジャケットより)

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雷蔵が何者かは古い人間なのでもちろん知っているが、作品はほとんどまともに見ていないのでコメント不能(はまったら、この出演作の多さ、DVDの多さに地獄を見ることは必至。でも『オペレッタ狸御殿』の前に『初春狸御殿』ぐらいは見ておくべき?)。范植偉のイメージが非常にクラシックで、「昔の日本映画のスターっぽいよねえ」などとは思っていたが、並べてみちゃったら、大スターと若者では格違い、身分違いは明白っすね。一応、それなりのラインの相似は出ていなくもないか……。自分的には呉敏(張孝全)&ボビー(C・ファレル)の線がかなり気に入っているのだが←しつこい。

小さくて申し訳ないけれど、雷蔵左から2番目の写真集の表紙の画像の異様な艶っぽさ。すごい。

セレクトした范植偉がたまたますべてニエズ画像なのは、やはり曹瑞原マジックだろうか。李青以上の当たり役に出会えると良いが。せっかくこの、今どきの若者っぽくない稀有な個性を喜んでいる極東の年寄りファンがいるというのに、キミはこんなことしてちゃいかんですよ、こんなこと(=髪型)。面白いけど(笑)→銭衝さんの「あじえんざんまい」参照。

銭衝さんのこの「あじえんざんまい」では、とっくのとうに、しっかり白先勇原作、曹瑞原監督の映画&テレビドラマ《孤戀花》についてもご紹介くださっていて、銭衝さんのこの記事がアップされたときにすぐ取り上げたかったのだが、きっかけがつかめず今ごろになってしまった。記事によると台湾ではテレビドラマ版が既に放映中だそうだが、映画も5月13日から公開となった。テレビドラマが映画になるとか、その逆とか、そんなことはよくあるが、最初は1つの作品として制作されていた映像のテレビドラマ版と映画版が、ほぼ同時期に同時進行で世に出回るというのは、とても珍しい形ではないのか?(メディアミックス戦略として計画されたもの、というわけではないようだが) しかも面白いことに、どうやら映画はドラマのダイジェストなどではなく、ある程度別個の作品として楽しめるように仕上がっているとか。興行成績は、今のところ台北での"興業ベスト10"の10位~12位といったところで、台湾映画としてはまあまあ、なんじゃないかと。ポスターは、李心潔(アンジェリカ・リー)と袁詠儀(アニタ・ユン)の美しい抱擁シーンだ。

台湾國片の興行成績といえば、話題的には既に古いが、すご~いのは蔡明亮のあの《天邊一条雲》である。2004年の《17歳的天空》の実績、500万台湾ドルの倍の1000万台湾ドル以上を軽く稼ぎ出している。やっぱり、スイカでポルノでミュージカルと聞けば、何じゃそりゃ?と覗いてみたくなるのが人の子というものだろうか。

(おまけ)これ、スペイン映画だけれども、もうすぐ台湾で公開予定で、可愛くて気になっている(いえ、可愛いのはコドモではなくオトナの方(爆))→公式サイト。日本では、やらないだろうなあ。

2005.05.21

しばしのおあづけ←してない

5月8日に発送連絡のあった香港盤『アレキサンダー』DVDと、田原をメインボーカルに据えた大陸のバンドHopscotchのアルバム"A Wishful Way"が、昨日ようやっと届く。過去の実績では遅くても1週間で届く香港からの荷物が、2週間近くも届かないので、またもや東京税関で止められたかと気をもんだが(《十七歳的天空》のDVDと写真集は税関で開封されてから届き、何だか大変恥ずかしかった……)、結局12日かかって無事手元に。

このところエネルギーを仕事に吸い取られ、『この世の果ての家』の感想を書きかけては止まり、少しずつしか進まないでいるので、それが終わるまで大王はおあづけと思いつつ、やはり本編だけは我慢できず寝入りばなに見る。聞き取れなかった台詞でも、何と言っているのかがわかるという部分では、英語字幕は嬉しい。が、映画館とでは音が全く違うのに驚く。台詞の声のトーンが違うのだ。老プトレミーもオリンピアスもまるで別人が演じているかのように聞こえたりする。まあ、そりゃあノートPC付属の貧弱スピーカじゃ仕方なかろうが。ただし映像は、大スクリーンでは視野にとらえきれなかったディティールが、小さいゆえに見えることもあり、後でしっかり見れば、また別の面で発見があるかも。

DVDのパッケージは心配したほど馬鹿でかいものではなく、意外と品の良いのに胸をなでおろす。中身は、説明を見た範囲では、北欧盤2枚組の販売サイトの詳細仕様に書かれていたものと全く同じだ。VCDじゃないんだから、本編を2枚に分けるなよ、と。

最近のお気に入りは、インドでの(ああ、東征後半のバランスを欠いた迷妄の大王(のコリン・ファレル)、いいよねぇ)演説シーンで兵士たちの反論を聞き、自説を覆し部下たちの希望を容れたかと取れるような言葉を並べ始めた大王に、「こいつが、本心でこんなことを言っているわけはねーよな」と、いぶかしげ~な視線を投げるプトレマイオスである。大王、性格も信念も深~く理解してくれている、良い友人をお持ちで(笑)。

2005.05.15

一週間

ずっと『この世の果ての家』を読み直していた。ボビーの「本名」はロバート・モローだと今ごろ気付く。そりゃロバートなのは当たり前だけど。

テレビで『さまよえる人々』の一部を見る。肥桶に至るまでリアルで薄暗い中世のヨーロッパを描きながら、巨大な頭の像のおかげかシュールな画面を作り出している。途中から見て途中でチャンネル変更を余儀なくされたため何だかわからないが、オランダ人もスペイン人もイタリア人も登場する不思議な映画。本当にあの時代をのぞき見したような気がした。

木曜は珍しく当たった映画の試写に行くつもりが、仕事が長引き行けず。カンヌ映画祭の公式サイトでアトム・エゴヤンの新作(コンペ参加作品)の一部の動画を見る。何と、演じているのは自分にとっての「コリン」こと、コリン・ファースだ。今回も口ひげをはやして何やらとてもいやらしそうだ(素晴らしい!)。本編を見る日が楽しみだ。そして3月に発注した大王&アレキサンドリア関連本の一部がamazonから届く。この後に及んでもう1冊は後送だと……。自分的には大王関連本はこれで最後の「一山」のつもり。

土曜には韓流シネマフェスにて『ライターをつけろ』と『受取人不明』を見る。前者で爆笑し続け、後者で緊張し続け、どちらも大満足そして精神的に疲労困憊。評価の定まっているキム・ギドク(『受取人不明』)は言わずもがなだが、『ライターをつけろ』は(JR西日本の事故があった関係で時期的には辛いものがあるが)絶対に見て損はない爆笑映画。チャ・スンウォンを食う天然ボケ演技のキム・スンウ(←初めて見た)、うますぎ。会場ではファンタ上映時の『ボーン・トゥ・ファイト』並みに、痛快なシーンで拍手が起こっていた、ぱらぱらとだけれど……(もっと盛り上がってもいいぞ)。DVDは『TUBE』と合わせて「乗り物サスペンス(?)セット」ということで、抱き合わせ販売はどうだろう。こうなったらやはり、どこかで《黄山原》も見たいものだ。

2005.05.09

Be Reasonable…

「失敗作」とのアメリカのお墨付きを受けて公開された『アレキサンダー』の日本での感想は、腐ってもハリウッド大作なだけはあり、自分が普段見ている、市場の小さな映画とは違って、見ようと思わずとも何となく目に飛びこんでくることが多かったから、まあ、どんな感じかは知ってはいた。

今さらながら、改めて『アレキサンダー』評をウェブ上で拾って見ていたのだが、いやあ、映画の国アメリカ本国での大コケ、酷評という「錦の御旗」は強いねえ。プロからド素人様にいたるまで、大船に乗ったつもりで「失敗作」「駄作」と安心してお書きくださっている素晴らしい方の多いこと(!)。好き嫌いを言うならともかく、『アレキサンダー』レベルの作品に対して、本来なら、自分の鑑賞能力や、下手をすれば人間性まで裸にされてしまう価値判断をいとも簡単に出来てしまうのは、アメリカでの「実績」に後押しされてのことなのだろうと、つくづく感じた。

国内の『アレキサンダー』評を見ていたのは、しかしそれ自体が目的ではなく、アメリカでの大コケの原因の何かヒントになるものが、日本語で読めないかと思ったからだ。やたらとあちこちで言われている、「WASPの偶像・アレクサンドロス大王をバイセクシュアルとして描き出したこと」だけが大コケの原因ではなかろう、と思って。

真偽のほどは判断し得ないが、考察として面白いものを2つばかり見つけた。最新記事ではないので、関心を持っていれば、とっくにご存知の方も多いだろうが。

(1)映画”アレキサンダー”-なぜアメリカで不評だったか-
  (MBAキーワード広告社長日記) 2005年3月8日付

記事中では、理由の1つとして、オリバー・ストーン作品中のアレキサンダー像が、アメリカ人の理想像としてのアレキサンダー、つまり東洋の(野蛮な)国々を打ち破り滅ぼす英雄というよりは、現地人との融和を図るコスモポリタンという点に重点を置いて描かれている点が挙げられている。また、もう1点として、アレキサンダーのエゴイスティックなまでの未知の領域への前進への意欲が強調されたことで、民主的なギリシャ社会の影響下にあるマケドニアの王が独裁者のようなイメージを抱かせたということも挙げられている。つまりアレキサンダーが、今のアメリカ人にとって、アメリカの"敵"寄りの思想を持ち、"敵"の首領のような振る舞いをする人間に見えたのではないか、と。

(前略)”プラトーン”、”7月4日に生まれて”など過去にも反戦映画を発表してきたストーン監督が描いたとなると、この映画はオリエンタル世界とオクシデンタル世界との融合を示唆してると解釈できよう。ブッシュ政権の対オリエンタル(アフガニスタン、イラン、イラク)強攻策への明確な否定に他ならない。(記事中より引用)
書かれた方はこのようにまとめておられる。だが、個人的な映画としての評価では○をつけてくださっている♪
娯楽大作としても、現在のアメリカを知る上でも、そしてアレキサンダーという歴史上でも屈指のコスモポリタン(今から2300年も前のギリシャ人と野蛮人の二つしかないと本当に信じていたギリシャ人が黒人の女性を妻に娶ることなど、当時の常識を逸脱している)の人生をたどるという意味でも、間違いなくおススメの大作である。(記事中より引用)

"歴史上でも屈指のコスモポリタン"というのは、胸のすかっとする論評である。アレクサンドロス像に関してどうしても、"軍を率いて他国を侵略した"というイメージが先行する自分には、眩しく嬉しく有難い言葉だ(笑)。


(2)受け入れがたい?“ゲイのアレクサンダー”
  (西森マリーのUSA通信)
  地球人ネットワークを創る総合サイト「SPACE ALC スペースアルク」より

ここでは、批評家による評価が悪かったこと、選挙後というタイミングの悪さの2つが挙げられているが、特筆すべきは、右派層によるホモフォビックな評判の連鎖ということだけでなく、逆にリベラル層の批評家による酷評="アレクサンダーがゲイであることにしっかり言及しなかった"ことだと筆者が書いている点だ。

「アレクサンダーのホモセクシュアリティの描き方が中途半端」という批判が、リベラルなオーディエンスを遠ざけたのは当然のことで、ストーン監督のコアなファンたちまでもが「911以降急速に保守化したアメリカにオリバー・ストーンが媚びたのでは?」と監督のインテグリティを疑う始末。(記事中より引用)
とのこと。
つまり、この映画はターゲット・オーディエンスである歴史モノに興味のあるインテリ層とsword-and-sandal epic(『トロイ』『グラディエイター』などの古代の白人のヒーローを描いたアクション映画)が好きな層の両方を失ってしまった、というわけなのです。(記事中より引用)

タイトルは「受け入れがたい?“ゲイのアレクサンダー”」とされているが、"ゲイだか何だかはっきりしないアレクサンダー"も受け入れられなかったというわけだ。日本人なんかは、このあいまいさは好きな人が多いと思うが。詳細はリンクの原文を読まれたい。

あいまいなアレクサンドロス像ということでは、セクシュアリティではなく、母への思いのアンビバレンツさがアメリカでは受け入れられなかったのではないかとするこちらの解釈も、面白いと思う。

ここまでいろいろと考えさせちゃう作品ってのも、芸術性とはまた別の意味で、非常に作家性の高い映画であるってことなんだろう。で、作家性の高さ自体に価値があるかどうかは、これまた別の話(きちんと伝わってなきゃ、意味ないもんね)。

【おまけ】
オリバー・ストーン版『アレキサンダー』が「アメリカではこけたがヨーロッパでは理解されてるよ」という一般的見解(というか制作関係者とファンの祈り)を一気に覆す記事があった。確かにイタリアあたりではかなりなヒットだというし、ほかにもヨーロッパ諸国では初登場1位という国が大分あった気がする(←気がするだけか?)。南米はどうだ? だがとにかく、こちらの日本語サイトで訳して下さっているフランス、ル・モンド紙の『アレキサンダー』評(前編後編)(言語生活より"Le Mondeの映画評の仏語抄訳")は、もう面白いぐらいに"けちょんけちょん"である。批判の魔の手が、今だ生まれてもいないバズ・ラーマン版にまで及んでいるのを読むと、いっそ思わずほくそ笑んでみたりして……(爆)。まあ、映画評など、多少の地域性はあるにせよ、圧倒的に個人差の方が大きいのだろう。日本語訳、ありがとうございます! そうか~、映画ではフィリッポスも少年アレキサンダーもアイルランド訛りでしゃべってるのか~!

何でこんなことが気になったかといえば、このところたまに見かける『アレキサンダー』がらみの(映画・俳優・アレクサンドロス大王)ファンの盲信的態度に、「それはどうかな」と思う気持ちがじんわりと湧いてきたからで……。そりゃあ、映画『アレキサンダー』にも、アレクサンドロス大王にも、コリン・ファレルにも、今の自分はすっかり惚れまくっているが、この映画は至高の作品でない、しかし素晴らしさも欠点もある魅力的な映画であると思っているし、それは大王についても、俳優についても同様。

映画についても、ちゃんと外側からの見方を頭に入れておいた方が、ファンとしてスマートな態度なんじゃないかな、と偉そうに感じた次第デス(←大きなお世話だよ)。

ああ、それにしても、のっけから評判の良さそうな『キングダム・オブ・ヘブン』、うらやましすぎ(笑)。


2005.05.06

取り返しのつかないことをする

「バンコク国際映画祭 オリバー・ストーン」で検索をかけていた方がいらしたので、かつて調べたことはあったが、もう一度自分も調べてみた。

実はバンコク国際映画祭での『アレキサンダー』キャスト関係の画像は、海外ファンサイトが一番充実していて、夢のような大王&側近ぞろぞろの集合写真(しかも大変楽しそうな表情の(もちろん役柄の服装ではなく)フォーマル姿)などが見られるのだが、公式サイトの報道写真には、オリバー・ストーンロドリゴ・プリエト(撮影監督)の画像以外一切見当たらない。

2005年のバンコク国際映画祭で『アレキサンダー』が上映されたのは、撮影監督のロドリゴ・プリエトがCrystal Lens Awardを受賞したことによる作品上映(ほか『フリーダ』)の際だが、今年のバンコク国際映画祭ではオリバー・ストーンへのトリビュートということで特集上映もあり(『7月4日に生まれて』、『天と地』、『プラトーン』、『サルバドル~遥かなる日々』)、加えてコリン・ファレルをスターダムにのし上げたジョエル・シューマッカー監督もCarrier Archivement Awardを受賞し、『フォーン・ブース』(ほか『ロストボーイ』、『フォーリング・ダウン』、『評決のとき』)まで上映されているのに、どうしてコリン・ファレルの写真が見当たらないのか? なぜだ! と思っていたら、"Thai Movies!"という素晴らしい(!)サイトの2004年2月のニュース記事(バンコク国際映画祭関連)の中に、こ~んなことがきっちり書かれていた。

●バンコク国際映画祭閉会式には多くのアジア及びハリウッドのスターが参加。 『S.W.A.T.』のミシェル・ロドリゲス、『アレキサンダー』のヴァル・キルマー、ジャレッド・レトとロザリオ・ドーソン等。
●閉幕映画に選ばれたのは、ヴァル・キルマー主演の米国映画《Spartan》(ワールトプレミア)。
●映画祭の歓迎パーティにて8部門から成るキンナリトーン賞(Golden Kinnaree Awards)が発表された。会場にはミシェル・ロドリゲスが紫色のドレスで現われ、『Alexander』の主役コリン・ファレルはヒロイン役のロザリオ・ドーソンと腕を組み、ヴァル・キルマー、ジャレッド・レト(正しくはヒロイン役はロザリオではなくこの人←ウソ)、ジョナサン・リース=マイヤーズ及び同映画の監督オリバー・ストーンの息子ショーン・ストーンと共に入場した。(ちなみに海外ファンサイトにある画像では、クレイトスもクラテロスもネアルコスもいたぞ♪)
●オリバー・ストーン監督は、タイ映画《タウィポップ(The Renaissance)》の主演女優ワニダー・フェーウェー(フローレンス)と並んで入って来た。

一番下の"ワニダー・フェーウェー"については、彼女が主演する《タウィポップ(The Renaissance)》の撮影をオリバー・ストーンが見に来たという2004年1月のニュースの中にこんな発言が。
●ストーン監督が見学にみえるなんて、思ってもみなかったことでした。後日、監督と食事をご一緒する機会があり、監督の新作映画『アレキサンダー』に出演しないかと誘われました。しかしニューヨークでのモデルの仕事が詰まっており、決心に手間取っていたら、もう待てないとのことでした。

おわかりだろうか。キャストが参加したのは2004年のバンコク国際映画祭。『アレキサンダー』の上映&監督と撮影監督が参加したのは2005年のバンコク国際映画祭。大王&ヘタイロイ親衛隊の豪華ステージ写真は、タイでロケ中(あるいは直後?)だった2004年だから実現したことだったのだろう。ちなみに2004年はオリバー・ストーンが Career Achievement Award を受賞している(2004年2月3日の"Taipei Times"にも、オリバー・ストーンの受賞に際し、撮影中の俳優が映画祭に参加したことが書かれている。訓練された象が必要なためにタイで撮影している、とも。だかヴァル・キルマーが映画中でタイロケらしきシーンに登場するのは、ポロス王との戦い後に傷ついたアレクサンドロスが皆の前に姿を現すシーンでの"象徴"としてのワンカットのみだと思うが、あれしか撮っていないのだろうか? そのために長い日数現場にいるとも思えないが、もしかしたら、コリン・ファレルはバンコク国際映画祭で再会したヴァル・キルマーと飲んで骨折したとか?)。

おかげさまで"Thai Movies!"の情報には、すっかり楽しませていただいた。公のサイトでもWeblogでもないのでコンテンツページを直にリンクできないのが残念。

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これらは2004年のバンコク国際映画祭の公式サイトにあった画像。左は監督とコリン・ファレル。中央、ヴァル・キルマー。右はジャレッド・レト(実際のサイトの画像はもっと大きい)。


ということで、取り返しのつかない日々をふりかえってみた。


museum_alex_200308_sもう1つ、大王がらみの取り返しのつかないものがある。それは、ちょっと検索するとすぐ出てくるのだが、2003年に東京国立博物館(8月~)と兵庫県立美術館(10月~)で開催された「アレクサンドロス大王と東西文明の交流展」だ。→展覧会がらみの公式ページはほとんどがリンク切れしている中、まだ生き残っているのが日本通運ページ兵庫県立美術館のページ。そして最もわかりやすいのが、たいへんラブリーなサイト"古代遺跡な日々"の中にあるこの特集ページだろう。「異なる博物館のアレクサンドロス像が、いっぺんに見られる」という説明と館内の平面図には、『この世の果ての家』原書版朗読CDを発見したとき同様に悶絶した。当時、この展覧会があったことはかすかな記憶にはあるのだけれど……。ああ、あと2年遅くこの展覧会をやってくれたていたら、イシュタル門のライオンどころの騒ぎではなかったぞ。せめて図録を古書で探してみるか。

 


2005.05.04

疑問点2つ

いや~、直裁なタイトル。映画『アレキサンダー』について標記の件、以下。

1つは、ガウガメラで戦闘が始まる前の王の演説のラスト「この戦いは栄光と自由とギリシャのため……」って言っている、その「ギリシャ」。これが疑問。どうしてあそこで「ギリシャ」と言っているのか。関係ないがここで「自由」って言葉が入るあたりは、見る者にブッシュを思い起こさせた理由の1つだと思う。

あ、それは、元々ペルシャとの戦いの大義名分がギリシャ(ギリシャを含めた地域の盟主としてのマケドニアの、かつてペルシャがギリシャを侵攻したことへのリベンジ)だったからか。そういうことですか?

もう1つは、フィリッポス暗殺直前、一緒に行こうとするアレクサンドロスを拒んで1人で観衆の面前へ出ようとするフィリッポスへ向けられる諭すようなアレクサンドロスの言葉。「一歩一歩勇気を持って……進むのです」(だったか?)。このあたりの一連の台詞の真意((追記)アレクサンドロスの気持ちではなく、どうしてこの言葉がここで選ばれているかということ、つまり何か裏付けか背景がある台詞なのかどうか)を知りたい。アレクサンドロスは、何でこんなことを言ったのか。単なる「気をつけて」というようなものではなく、意味深いものを感じたから。まあ、パウサニウス逃亡用の馬を他の人が引いていくのを見て、何かおかしいとは気付いている様子のアレクサンドロスではあったけれど……。う~ん。

あくまでも映画の脚本についてではありますが、このへん、わかる方がいらしたらお教えください。

やればできるじゃん

美しい映画のエントリにこんな酷いタイトルをつけるのはどうかと思うが、映画が終わった後の感動と並行して、むくむくと頭に浮かんできたのが「キム・ギドク、作れば作れるんじゃん、"普通"の映画も」という思いだったのでつけてみた。

実際には、インタビューなどを見てみると、監督自身が「春夏秋冬そして春」あたりからは世の中に対する見方が変わってきたと言っているので、作品個別のバリエーションというよりは、全体の流れの中の変化の面が大きいのだろう。

実は自分、キム・ギドクの映画の作品としての完成度は素晴らしいと思うが、キム・ギドク個人(といったって会って話したわけではないので、単なる思い込みなのは重々承知である)は好きではない。2003年の東京フィルメックスで『春夏秋冬そして春』がオープニング上映されたときにあったティーチ・インで彼の話を聞いて、(まあ作品を見れば話を聞かなくてもわかるのだが)そのセックスへの過剰なこだわりに(「やっぱり」という思うとともに)嫌気がさした。

そんなわけで、父親役で主演のイ・オルさんゆえに前売り券を買っておいたものの、それ以外の部分では「いつものキム・ギドク作品」以上の期待は抱いていなかったのだが、おそらく私が見たキム・ギドク映画の中で最も後味が良く、個人的な理由で最も深く共感し、最も好きだと感じたのが『サマリア』である。

もうあちこちでレビューが書かれているので(&あらすじをまとめるのが下手な阿呆なので)何も書く必要はないと思うが、ストーリーは単純で、海外旅行のためのチケット代を貯めるべく援助交際をする女子高生とその親友との友情の話であり、娘と関係した男たちに復讐する父の話である。

タイトルにもした通り、いつものキム・ギドク作品に見られるような過剰さはあまりない。印象に残ったキム・ギドク「らしい」映像といえば、黄葉の落ち葉が父の車のフロントガラスに降り積もる場面と、後半の黄色い石での運転練習の俯瞰場面ぐらいだし、復讐する父が相手の男の家族の食卓にまで入っていく場面あたりは「らしい」といえば「らしい」が、過剰な感情の放出に面食らうなどということは一切なくて、「そうするしか自分でもどうしようもないだろう」と大いに納得した場面だ。少女たちの友情と愛情のないまぜになった交流も痛いほどよくわかるし、娘の行動を知ってしまった父のやり場のない怒りと悲しみには、その胸のふさがる思いに同調するあまり、「最後の男」の死(暴力シーンではなく、命を奪ったこと自体)に「達成感」を感じて胸のつかえがおりてしまったほどで、その後の、父親であり刑事である彼の行動も全てすっきりと腑に落ちた。

ということで『おばあちゃんの家』同様、全く個人的な理由と地味さによって非常に気に入った『サマリア』だが、それでも、この作品にもやはり自分の嫌いなキム・ギドクの視点を感じる。それは(セックスを踏まえた上で)女性の母性・聖性を賛美する部分だ。というか、それは部分ではなくキム・ギドク映画の核だったりするわけで、『サマリア』に限らずどの作品も、どんな近代的な解釈をほどこそうが、最終的には「昼は聖母、夜は娼婦(男性にとっての女性の理想像と言われるもの)」、「女は母で男は子ども」、「性=原罪。人間の業」というあたりに着地している感覚をおぼえ気持ちが悪いのだ。

たたき上げの肉体派芸術家、本当の芸術家であるキム・ギドクの作品は、(養老孟司先生には叱られるかもしれないけれど)オタクにはきつい。カルチャーからカルチャーを生み、メディアの海に生き、頭で快楽を夢想し、二次元(あるいはイメージ)に恋する人間にとって、モノホンの性と生はきつい。実体験を持ってしても、頭の中の世界を超えることがないのがオタクの業だし。

イ・オルの演じる父の姿は真に迫っている。その愛も真に迫っており、文句なしだ。だが、映画館を出たあとで、若い女性たちがはすっぱな言葉で語っていた「父親の怒りは実は自分が絶対に犯せないタブーを犯した男たちに対する怒りで、本当は娘に対して(無意識に)自分が制裁した男たちと同様の思いを抱いていたのだろう」という意味の作品評が、実は的を射ていたりするのではないかと、単に感じるだけだけど、感じる。

でもやっぱり『おばあちゃんの家』同様、単なる個人的思い入れのみでDVDを買ってしまいそうな自分だ。

2005.05.01

大王の帰還

『アレキサンダー』関東地区上映情報を発見。三軒茶屋シネマにて、5月14日より(1~2週間の上映と思われる)。しかも『五線譜のラブレター DE-LOVELY 』と2本立てだ。いや~三軒茶屋で映画見るのなんて、20年ぶりぐらいかも(爆)。←まだ行くのか?

本日は華々しくあちこちからいろいろなものが届き、心騒ぐ日だった。午後イチで、古書販売サイトで注文していた河出文庫の短編集『ファミリー・ダンシング』(デイヴィット・レーヴィット著)が届き、しばらくしてから月賦で購入した32型のテレビが届き(しかしDVDデッキを買う予定はないので、映画DVDは今までどおりPCで見るだけだ)、夕方ついに、例の『この世の果ての家』原書&オーディオCD11枚組が届く。

コリン・ファレルの朗読は凄い。凄いとしかいいようのないぐらい、凄い。最初にCDを再生し、彼の声を聴いたとたん、"heartthrob"(→(心臓の)動悸のことであり、心ときめく憧れの人というような意味も持つ)という言葉が頭に浮かんだ。心臓がいつもより強く速く鼓動し始めたから。だが、だか全く聴き取れない。ダラス・ロバーツの言葉は聴き取りやすいのだが、インタビューでもテレビ番組でもそうなのだが、コリン・ファレルの言葉はほとんど聴き取れない。しかも原書を追うのも間に合わないぐらい速いし……。最終的には、登るべき山のあまりの高さに、心臓の動悸よりも膝からくずれ落ちる思いの方が強くなった。いや~、こりは難関。

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