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2004.06.14

悪魔のしるし

昨日書店を5時間以上ぶっ続けで歩き回ったら、きょうは外に出る気力を失い出かけずじまい。家事にあけくれる。年齢は恐ろしい。行くつもりだったイラン映画祭も、『シルミド』も行き損ねてしまった。

6月27日までの「アジア映画-豊穣と多様-」(@国立近代美術館フィルムセンター)も、結局このままでいくと、1992年にベトナムで制作されたヴィエト・リンという有名な女性監督の『悪魔のしるし』(5/23)を見たのみになってしまいそうだ。同特集では54本のアジア映画が各2回ずつ上映されているが、これほどのレベルの作品ばかりなら、かなうものなら日々通いつめて見てみたかったものだが……。関係ないが、フィルムセンターは椅子の心地良さが印象的。

その『悪魔のしるし』、上映後は泣いている人もいたが、涙を誘う物語でありながら統制が効いている点、「この映画を見てよかった」と、ストーリーとは別次元の満足感をもたらす美しいショットが見られる点、少ない登場人物でシンプルな筋立てだが、教訓やら反省やら共感やら決意やら、心地良く、しかし複雑な想いを呼び起こす点で、特集上映の解説にもあるとおりまさに「寓話的」と言える一編だ。カラーのはずなのにモノクロのような印象も残る。

物語には、胸にアザがあるだけで村人から「悪魔」と恐れられ、人里はなれた自然の中で暮らす美しい少女と、彼女を赤ん坊のときからひっそり見守り育ててきたハンセン氏病を患う老人と、冤罪で護送される途中に逃げ出した"囚人"の若い男が登場する。ほかには、"顔の見えない"群衆としての村人たちと、唯一偏見のない少年、そして助産師の女性しか出てこない。主役の少女も、病の老人も、若い男も不当な差別を受けて生きているが、描かれているのは、恨みや怒りよりもむしろ「1人で生きていくのは寂しい」という深い悲しみだ。

以下は映画の内容(だらだらと、そのまんま)。

老人は粗末な小屋にひとりで住んでいる。頭まで隠れるボロ布を身にまとい、カラカラとぶつかり合う小さな木片の束を首からさげて、往来の少ないときに村の中を回る。木切れの音を聞いた村人たちは、迷信のために家の奥に身を隠すが、わずかな良心の痛みによるものか、家の外に食べ物を置いておく者もいる。老人はそれを集めて、生活の糧を得ているのだ。社会的には抹殺された形でありながら、生命だけは奪われない。人として不本意であるはずの、警笛である木切れをぶら下げて歩く。そんな歪んだ"システム"の中で、ハンセン氏病の老人はかろうじて命を永らえている。

少女も、ひとり海際の林の中で暮らしている。時折、人目を避けて食べ物を運んでくれる老人以外は、呼ぶと集まってくる野猿たちだけが友だちだ。彼女は人恋しさに、樹々の陰から村人の結婚式を覗き見たりもするが、孤独に耐え切れなくなると、悲痛な叫び声を上げながら砂の上を走り出す。遠くまで響きわたる寂しい悲鳴。その心を知るはずもない村人たちは、声を聞くたびに悪魔の雄叫びと恐れて家へ逃げ込むのである。

孤独な少女の住む野に飛び込んでくるのが、ぬれぎぬで捕らえられ護送される途中に逃げ出した若い男だ。絵描きである彼は、住んでいた村の役人の娘をモデルに裸婦像を描いたことで、役人の娘に手を出したという容疑で逮捕され、町へ運ばれる途中だった。囚人だとわかるよう頭を坊主に刈られ上半身裸の彼は、人目につく場所には出られない。少女は、「同居人」を得た喜びから男を失いたくないと思い、彼の服を作り世話を焼くうちに、彼を好きになった。男は髪が伸びたら逃げ出すつもりでいたようだが、いつしか彼女の心を理解し愛し合うようになる。

男が留まることによって少女の静かな生活が乱されることを恐れ、男に野から出ていくよう諭す老人に、「1人で寂しく生きるぐらいなら、死ぬほうがいい」と訴える少女。たった1人の庇護すべき「家族」である少女が自分の手から離れることに寂しさを感じながらも、老人は最後には2人を祝福し、ささやかな結婚式を挙げる。

そのころから男は絵を描き始める。波打ち際の砂の上に全裸で座る少女の後ろ姿を、老人が結婚のお祝いにくれた白い布に、傷つけた自分の指先の血液で少しずつ描いていく。それは、2人が初めて結ばれたあとの、彼の心に焼き付いた少女の美しい後ろ姿だった。そして彼女が身ごもると、男は海辺の岩に懐に子を抱く大きな母子像を刻んだ。

自然の景観の中で生まれる、画家の男の愛と安らぎに満ちた「作品」は、彼らの置かれた冷酷な現実との強烈なコントラストによって美しさを増幅し、「悪魔」と「罪人」として世間から恐れられ隔離された2人きりの生活が、夢のように美しい映像でつづられる。映画は俄然寓話性を帯びてくる。それとともに、この平穏な生活の「転」として、物語の展開上必ずや不幸が訪れるだろうという嫌な気分がちらつき出す。それぐらい美しい場面である。

男が来る前から、恐れずに遠くから少女を見ていた1人の少年がいた。彼は、老人が少女の世話をしていることも知っていた。老人が村へやってくるときには、門口にバナナの束を置く少年。ある日彼は、老人が出かけた隙にそのあばら屋に入り込み、老人のために粥を作る。帰ってきた老人は、自分のところに来てはいけないと少年を叱るが、その後も少年はやって来た。老人のひとりぼっちの寂しさを癒そうと、プレゼントの子犬を抱いて。

少女は、赤ん坊のときに小舟で村へ流れ着いた捨て子だった。捨て子の胸にアザがあるのを見た村人たちは「悪魔の子供」と忌み嫌ったため、引き取り手など出るはずはない。特に経緯は描かれていなかったと記憶するが、ひとりぼっちの老人が少女の面倒を見るようになった。悪魔の子供が生きていると知られれば何をされるかわからないと考えた老人は、少女を野に隠し、自らそこへ通う形で彼女を見守り育ててきたのだろう。

老人が2人の結婚に反対した理由の半分は、やはり自分の唯一の「家族」を失い孤独へ戻ってしまうことへの恐怖だったろうと思う。少年がプレゼントした子犬を大切そうに身辺に置いている老人の様子からは、かえってその「他に誰もいない」ことへの気の遠くなるような孤独が、ひしひしと感じられるのだ。

少年だけが、素直な心と迷信を恐れない勇気を持っていた。ローティーンの少年は、悪魔とは似ても似つかない髪の長い美しい娘を見つけ、少し憧れていたのかもしれない。老人は少年を、少女に引き合わせた。最初おびえていた少女も、いつしかうちとけ、2人はある日村の市場へ出かける。初めて村人たちの前へ出る若い娘を、弟のように案内する少年。

村人たちも少女を見たことがないので、最初は普通に声をかけてくる。椰子の実を売る女が、身重の娘を見て「椰子の実のジュースを飲むと、良い子が産れるよ」と売り込む。一度は通り過ぎる娘だが、一度も飲んだことのない椰子の実の汁を飲んでみたいと、取って返し椰子を受け取ろうとする。だが、彼女は金を持っていなかった。物を買うには金がいることも知らなかった。少年があわてて「お金がないからだめだ」と、椰子を買おうとする娘を制止する。「それなら、これではどうかしら?」。娘が肌身離さず子供のときから身につけてきた金属でできた腕輪を、椰子の実の代金として売り手に差し出す。腕輪は、村人たちにとっては忘れもしない、悪魔の捨て子が持っていたものだった。「悪魔だ!」。声を上げて一斉に市場から逃げ出す村人たち。

椰子の実のジュースのことが忘れられない妻を見て、ついに夫が村へ椰子を盗みに出かけるが、村人に見つかってしまう。もともと逃走中の囚人として何度も捜索されていた身だったため、囚人として捕捉された。ぬれぎぬだが死刑を宣告されていた男である。その後は殺されることになるのだろう。

そのころ、娘には陣痛が起こっていた。あとさきのことを言っていられない状況で、老人は村から引きずるように助産師(以降、敢えて「産婆」と書く)を連れてくる。人里離れたその場所ですら悪魔がいると恐怖した産婆を、陣痛にうなる娘の横たわる洞窟に引っ張っていき「見ろ、これが悪魔か?」と言い放つ老人。娘の様子はまぎれもなく、産婆の手助けを待って苦しんでいるただの産婦でしかない。

赤ん坊は無事に産まれ出る。産婆の仕事は、助産師としての職業意識からか、娘が陣痛に苦しむさまに人間を見たからか。実は、ここで自分は大切なことを見落とした。赤ん坊に「悪魔」のアザがあったかどうかということだ。赤ん坊が産まれた直後に、産婆は「何もありませんよ」と、アザがないことを老人に知らせ、その白い胸が映ったように思われた。

ところがその後、横たわる娘は横にいる赤ん坊の胸にアザがあるのを見て、燃え盛る木の枝を赤ん坊の胸に押し付けようとする。このときには赤ん坊の胸に一瞬アザがあるのが映った記憶がある。それが、本当のアザだったのか、産褥の娘の見た幻だったのか……。赤ん坊は娘の手から守られるが、娘は出産そのものと、アザを見たショックが原因でその短い生涯を閉じる。

たぶん、赤ん坊の胸にはアザなどなかったのだろうと思う。赤ん坊は産婆に引き取られた。泣きじゃくる少年と産婆を先頭に、ついに死して「悪魔」から「人間」になることができた娘の葬列が、静々とつづく。憧れた結婚式の花嫁のように、横たえられた彼女の屍の周囲を花々が彩る。だがそこに、まだ、老人はいない。

高い樹の上に小屋のようなものがある。そこにアップで振り返る老人の顔が映る。遥か遠くを見渡す、謹厳な表情。この映画の中で、非常に印象的なカットだ。あとはまた、高い樹とその上にある小屋の全体像が映され、樹に登っていく老人が見える。ほどなく樹上の小屋からは火が出て、いつしか燃え落ちる。

映画はそこで終わる。

ラストシーンの衝撃に、1人で生きるぐらいなら死ぬほうがいいという少女の言葉と、子犬を慈しんだ寂しい老人の姿が蘇り深く納得させられる。この映画からは、決して教訓的な臭いがするわけでもなく、不幸を積み重ねたお涙頂戴物語といった感じも受けない。村人から異端とされてしまった少女や老人や若い男を、決して美化して描いているわけでもない。人間とはこういうものだ、というリアリティを感じるわけでもない。

だが、辛く悲しい話なのに何かある意味、心が洗われる感じがするのだ。いや、心を洗わなきゃという感じか? 

寂しさや悲しさは誰にでも理解しやすい感情だから、ストレートに見る者の心に届くのだろう。……というか、ここまで丁寧に3人も殺してもらって、「ストレートに心に届く」もヘッタクレもない(→そこまで見せなくても、「想像しろよ」と、どこかから言われている気すらしてくるよ)。

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